ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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全4話編成の第10章の2話目です。
10章は、萃夢想の前のお話になります。


少年のいる1日、少年のいない1日

 その日の始まりは、いつもの始まり方とは違っていた。意識がゆっくりと戻り、夢の世界から帰還する。重い瞼を開けて現実の世界を映し出す。

 見上げた先にはよく見知っている、昨日とは違う天井があった。

 

 

「おはよう。今日もまたいい日になるといいね」

 

 

 誰もいない自分の部屋で自分自身に挨拶をする。

 背伸びをして窓から降り注ぐ光を迎える。

 そして、お馴染みのふすまを開けて廊下を歩き、居間へと足をのばす。まるで導かれるように、誘われるように、考えることもなく足が進む。一歩一歩進むたびに見えてくる景色が移ろい、最終的に居間へと繋がるふすまの前で景色が止まった。

 居間と廊下を隔てる戸が静かに開けられる。境界線を失って廊下と居間が一つに繋がる。広がった世界の先には、やっぱり見知った後ろ姿があった。よく知っている背中が小気味いい音を立てて料理をしている。

 心の中が温かいモノで満たされる。僕の一日がここから始まる。この出会いから進んでいく。時計の針が動きを見せる。

 僕の今日は、この言葉から始まった。

 

 

「おはよう、藍」

 

「おはよう、和友。さ、早く顔を洗って来い。もうすぐ朝ごはんができるぞ。一緒に食べよう」

 

「うん」

 

 

 少しだけ張っている藍の声を聴き、顔を洗うために駆け足で外へと向かう。ちょうど戸を開けて居間を出ていく際に、くすくすと笑っている声が後方から聞こえてきた。

 僅かに漏れた声を聴くだけで分かる――決して振り返ることなく脳内で口元に手を当てて子供のような笑顔を浮かべる藍を想像しながら、外を流れる冷たい小川に向かった。

 いつも考えている――どうして小川まで顔を洗いに行くんだろうなんて考えることもなく、いつもと違うワクワク感を抱えて顔を洗う。顔を洗い終えて急ぎ足でマヨヒガへと帰る。数分ののちに戻ってきた場所――そこには想像通りの表情を浮かべた藍がいた。

 

 

「ほら、またタオルを忘れたのか。和友は全くしょうがない奴だな」

 

 

 下から持ち上げるようにタオルが差し出される。なんだか懐かしいやり取りに、僕と藍は共に笑顔を作った。

 できるだけ早く戻ってきたつもりだったけど、食卓にはすでに藍が作った料理が並んでいる。僕と藍はちょうど正面になるように椅子に座り、同時に手を合わせて視線を交わす。呼吸をそろえてタイミングを計る。

 僕たちの声は、綺麗に一つになって響き渡った。

 

 

「「いただきます!!」」

 

 

 藍が作ってくれた出来立てほやほやのご飯が口の中に放り込まれる。見慣れたはずの風景だった二人での朝食が始まりを迎える。

 口の中が旨味で満たされる。ご飯を食べているだけなのに、区別なんてできないはずなのに、味覚が博麗神社で食べている味とは違うと、いつもの味だと訴えていた。

 懐かしい味に頬が緩み、笑顔が自然と浮かぶ。

 

 

「やっぱり藍の作る料理はおいしいね。なんだか随分と食べていなかった気がするけど、食べた瞬間に藍が作ってくれたご飯だって分かる味だよ」

 

「そうか」

 

 

 藍からの返事は随分とそっけない返しだったが、僅かに赤く染まった頬とその頭から生えている耳がぴくぴくと動いているのが確認できた。それが何よりも藍の心に湧き上がる喜びを表しているように見えた。

 僕たちは、次々と作られた料理を運びながらいつもの日常を繰り返す。まるで昨日も同じことをしてきたかのように、同じ日々を繰り返してきたかのように談笑を始める。

 昨日あったこと。

 これまであったこと。

 藍と一緒にいなかった時のこと。

 博麗神社で過ごしている生活について話した。

 夢の中では話すことのできなかった―――僕の新しい日常を口にした。

 

 

「霊夢は、今まで見たことのないタイプでさ。ものすごく淡白で思ったことをズバズバ言うし、ぶしつけで相手の気持ちなんて全く汲んでいるように思えないけど、意外と相手のこと考えていて……」

 

 

 霊夢のこと。

 

 

「椛は、大分すれ違いがあって喧嘩をすることもいっぱいあったけど、苦労を重ねただけその分だけ強くなった。誰よりも優しくて、誰よりも強い心を持った。今では誰よりも頼もしい存在だよ」

 

 

 椛のこと。

 

 

「希は、赤い霧が出た異変の帰りに見つけた外来人だったんだけど、結構熱い子でさ。誰かが辛い思いをしているのを見て見ぬ振りができない子なんだ。外の世界で何があったのか僕は知らないけど、今の希を見ているとちょっと不安かな」

 

 

 希のこと。

 

 

「なごみは、希と一緒にいた子なんだけど、とても素直な子なんだ。純粋で子供みたいと言えばそうなるかな。あと耳が聞こえないらしくて手話ができるんだけど、これが凄いのなんのって、全く分からない暗号ゲームしているみたいでさ。まだ全く覚えられていないけど、いつかできるといいなって今練習中」

 

 

 なごみのこと。

 

 

「影狼さんは偶に博麗神社に来るんだけど、ちょうどお姉さんみたいな感じかな。気さくで軽い感じで話してくれるからなんか気兼ねしなくて楽しい人だよ」

 

 

 影狼さんのこと。

 

 

「みんな、いい人ばっかりで僕にはもったいないぐらい。本当に、もったいないぐらい……手放したくないって思うぐらい、大事な“みんな”になった。みんなのいる場所が、僕のいる場所になった」

 

 

 みんなこと。

 今、僕の周りに出来上がっている家族の形態。

 僕の今の家族のことを、今も家族である藍に告げた。

 

 藍は静かに頷いた。何かを噛みしめるように。何も言わずに。優しい表情のまま一度だけ頷き、笑った。

 喜ぶように。哀しむように。慈しむように。愛しむように。優しい笑顔を作った。 

 食事が終わり、再び手を合わせる。目を閉じて感謝の祈りを言葉にする。

 

 

「「ご馳走様でした」」

 

 

 僕たちは示し合わせたように一緒に食器を片つけた。隣り合っているけど、干渉することもなく、流れるように洗い物を済ませた。

 両手を同じタオルで拭いて、縁側へと向かう。すると、そそくさと居間を出ていく藍の足音が耳に入った。

 これから始まる1日の流れの懐かしさに表情が無意識に緩んでしまう。久々だという気持ちが心を温かく包んでいく。さらに、外から差し込む光が体の外からも温めてくれているような気がした。

 

 

「はぁ~~、ここからの太陽も、博麗神社から見える太陽も、同じ太陽から降り注いでくる光だけど、なんだかこっちの方が暖かく感じるんだよね」

 

 

 瞼を閉じ、両手を広げ、天を見上げる。

 瞼という蓋を閉めることで真っ暗になっていた世界を貫くように僅かな光が差し込んでくる。場所が変わっただけなのに、やっていることは同じなのに、差し込んでくる温度に違いを感じる。絶対に同じはずなのに、絶対に変わらないはずなのに、区別ができない僕なのに―――どうしてか心が違うと訴えていた。

 暫くすると、光合成をするように太陽光を浴びている僕の隣に不自然な影が入り込む。やっぱり来たんだねと思いながらゆっくりと蓋を開けてみると、そこには少しだけ恥ずかしそうに頬を染めている藍がいた。

 

 

「和友、毛づくろいをお願いしてもいいだろうか? 今日和友が帰ってくると聞いて一番楽しみにしていたことなのだが、迷惑でなければ付き合ってもらえないか?」

 

 

 あの時と違って、今度は素直に申し込んでくる真っすぐ伸びた両手にクスリと笑う。藍の伸ばされた両手には、いつも使っていた毛づくろい用のブラシが乗っていた。

 何も言わずにブラシを受け取り、正座で座る。横を見てみれば、藍はすでに尻尾を乗せる態勢に入っている。まっすぐで大きな背中がピンと張っている。その後姿は、何かを期待しているように見えた。

 なんだか――追い求めているものが、その背中にあった気がした。

 

 

「ふぅ……ああ、やはりこうでなくてはな」

 

「どうしたの?」

 

「いや、何でもない。私の日々はこうして始まっていたのだなと、そう思っただけだ」

 

 

 毛づくろいをしなくてもふさふさの、もふもふの尻尾が揺らめいている。踊るように、風に揺らめいているように、ゆらゆらとなびいている。

 時間もゆったりと流れていく。そっと空を見上げてみれば、太陽が元気よく光を放っている。明るい世界が僕たちを包んでいる。

 何でもないことで笑って。

 何でもないことが楽しくて。

 当たり前のような現実が嬉しくて。

 笑おうとして笑ったわけじゃなくて。

 嬉しくて嬉しがったわけじゃなくて。

 自然と口角が上がった顔がそこにはあった。

 

 

「「…………」」

 

 

 それ以上お互いに口を開くこともなかった。

 ただ、この静かな時間を愛しく思っていた。

 きっと、この時間を一度失ったから。大事なものを失った僕達だから。

 この時間を大切にできるんだって――僕たちは静かに流れる時の中で互いの温度を確かに感じていた。

 

 

 ―――ポンポン―――

 

 毛づくろいする前よりもふさふさになった尻尾を優しく2回叩く。僅かに弾力のある尻尾が僕の手を押し返してくる。

 藍は、合図を受け取るとさっと尻尾をどかして立ち上がった。僕も藍が立ち上がるのを確認してから両足を伸ばし、持っていたブラシを手渡した。

 藍は嬉しそうに両手でブラシを受け取ると胸の前に引き寄せる。その藍の仕草はとても綺麗で、可愛らしくて、思わず見とれてしまいそうだった。

 

 

「ありがとう。気持ちよかったぞ」

 

 

 感謝を述べる一言だけで心が温かくなる。

 少し遅れてどういたしましてと応えると、藍の笑みはさらに深まった。

 何だかちょっとだけ気恥ずかしくなってその場から立ち去ろうとしたが、藍に服の袖を掴まれた。

 

 

「ちょっと待ってくれ」

 

「どうしたの?」

 

「その、なんだ……今日はこちらからも何かできないかと思って準備してきたのだが、いいだろうか?」

 

 

 そう言って差し出されたのは、耳かきだった。

 まさかの展開に唖然とする。これまでなかった展開が顔を覗かせている。どう反応していいのか、どうすればいいのか、受けるにしても断るにしてもどう答えるべきなのか分からない。僕の足は完全に止まってしまっていた。

 

 

「ほら、ここだ」

 

 

 藍は、動けない僕を見かねて膝を折って正座をする。そして、膝の上に置いてあった右手をゆっくりと持ち上げると、折りたたまれた膝を二度叩いた。

 ――ポンポン――

 二度響いた音にハッとする。優しく微笑む藍の表情がどうすればいいのかを伝えてくれていた。

 

 

「ここが、和友の居場所だ」

 

 

 僕は、縁側で寝転がる体勢を作ると藍の膝に頭を下ろす。少し筋肉質で、でも女性ならではの柔らかさがあるしなやかな感触が後頭部から感じられる。

 下から見上げる藍の顔は、いつも見るものとは少し違って見えた。僕が少しだけ緊張しているからかもしれない。僕が色眼鏡で見ているだけかもしれない。だけど、僅かに潤んでいる藍の瞳は確かに何かを訴えているようだった。

 

 

「私の膝の居心地はどうだ?」

 

「うん、ちょうどいい感じだよ」

 

 

 そう告げると、藍の口から大きなため息が漏れた。

 

 

「はぁ、良かった。私の膝は和友に合っていたか。合わなかったらどうしようかと不安だったのだが、ひとまず安心したぞ」

 

「そんなこと気にしなくてもいいのに。膝が合うか合わないかって、そこまで気にするところでもなかったんじゃないの?」

 

「そういうわけにはいかないさ。毛づくろいをしてもらっている間は、和友の膝が私にとって居心地のいい居場所だったのだから」

 

 

 話しながら頭をゆっくり撫でられる。優しく包まれるように触れられる。

 

 

「この時だけでも、私の膝が和友にとって安らげる居場所に成れたらと、そう思っていたからな」

 

 

 そこまで言われると嬉しさに心が騒めき立つ。感謝の気持ちが心にすっと入り込んでくる。

 ああ、良かった。本当に良かった。

 心を込めて、精一杯の気持ちを込めて毛づくろいをしてきた想いは藍に伝わっていたのだと。毛づくろいの間だけでも心が落ち着ける、藍にとって優しい場所に成れていたのだと。そう思ったら、毛づくろいをやっていてよかったと素直に思った。

 

 

「それでは、顔を外に向けてもらえるか? 早速始めるからな」

 

「うん、これでいい?」

 

「ああ、十分だ」

 

 

 藍から外に視線が向く。もう藍の顔を見ることはできない。

 今、藍はどんな顔をしているだろうか。どんな表情を浮かべているだろうか。何を想っているだろうか。何を考えているだろうか。

 そんなことを考えながら、時が来るのを今か今かと待ち望んだ。

 

 

「ちなみに、こんなことをするのは和友が初めてだからな。上手くできるか保証はできないが、心を込めてやらせてもらうぞ」

 

 

 要らない心配である。そんな心配は杞憂である。保険を掛けなくても、僕には不安を感じるポイントは存在しないのだから。

 藍がやってくれる――それだけで心配を打ち消すには十分なのだから。

 

 

「僕は心配してなんていないよ――だってやってくれるのが他でもない藍なんだから」

 

「私の膝に和友がいるというだけで緊張するというのにそんなことを言うな。嬉しくて手が震えるだろう?」

 

「それでも上手くやってくれるでしょ? 藍は僕の期待をきっと裏切らないって信じしているから」

 

「ああ、勿論だ」

 

 

 耳かきが左耳の周りを擦り始める。

 耳かきをしてもらうのはいつぶりだろうか。両親にしてもらっていたのが最後のはずだけど、その記憶は残念ながらもう残っていない。

 そう考えたら、藍が初めて誰かに耳かきをするのと同じように、僕にとっても初めて誰かにしてもらう耳かきなんだと、そう思った。

 

 

「気持ちいいか? 痒いところがあったら言ってくれ」

 

「うん、藍の耳かき、気持ちいいよ。人にやってもらうとこんなに気持ちいいんだね」

 

「ふふっ、眠るんじゃないぞ。この後も予定がびっしりなんだからな」

 

 

 いつもの関係が逆転している。されていた側がする側に。する側がされる側に。まるで巡り巡っているように、行ったり来たりしている。

 余りに優しい時間に、温かな時の流れにうとうとしそうになる。瞼が閉じられ、夢の世界へといざなわれそうになる。すると、そうはさせまいと優しい世界へ引き戻すように一陣の風が吹いた。

 

 

「ひやぁ!」

 

「ふふっ、いいリアクションだ」

 

 

 左の耳元に直接届いた温かな風が背中をぞわぞわとさせた。

 未だに耳に残る感触が体中を巡っている。

 

 

「や、止めてよ……耳が、まだぞわぞわしてる」

 

「意外と癖になると思うぞ? 私の尻尾の根元の毛づくろいも同じようなものだ。毎日やっていたらいずれその感覚が忘れられなくなるさ」

 

 

 予想外の攻撃に耳元を擦る。ぞわぞわした背中がまだ戻らない。

 藍は、悪戯が成功した子供みたいな無邪気な笑顔を浮かべると余裕がない僕を急かすように次を要求した。

 

 

「ほらほら、次は反対だ。こちらを向いてくれ」

 

 

 こんなの慣れるはずない――そう思いながら顔を回転させて藍のお腹を向く。今度は光が全く入ってこない影側である。

 藍にちょうど包まれるような形になる。体温が直接伝わってくる側頭部と空気を間に挟んで間接的に伝わってくる正面からの温度に眠りにつく体勢に入る。柔らかな雰囲気に包まれるように再び闇を受け入れる。

 きっと僕はここで寝てしまっていたのだろう。目を覚ましたのは、次の一発が鼓膜を揺らした瞬間だった。

 

 

「うひゃあ!」

 

「ははは、さすがに二度目もここまでリアクションがいいと笑ってしまうな。私の方が癖になりそうだ。ほら、終わったぞ。起き上がってくれ」

 

 

 藍の笑い声を聞きながら若干重く感じる体を持ち上げて光の世界に戻る。少しだけ目をこすって、背伸びをする。

 僕は、藍へと体を向き直すとお礼を述べた。

 

 

「ありがとう、気持ちよかったよ」

 

「どういたしまして。こういうのもなんだか……いいものだな。私の方から和友に何かをしてあげることがほとんどなかったからだろうか、少し満たされたような気がする。また今度、耳かきをさせてくれ」

 

「あの耳に息をふぅってかけるのさえ止めてくれたら考えてもいいよ」

 

「それは私の楽しみだから和友には我慢してもらう他ないな。私のために我慢してくれ、和友は私の期待を裏切らないだろう?」

 

「その言葉――卑怯じゃないかな? そんなこと言われたら我慢するしかないじゃないか」

 

 

 言っていた側が言われる側に。求めていた側が求める側に。

 信頼の受け渡しをする。期待の交換をする。お互いがお互いに信じる相手が同じで、向かい合った表情は信頼を表していて、その瞳は確かにお互いの存在を見つめ合っていた。

 しばらく目を合わせていると、ちょっとだけ気恥ずかしくなって、頬をかきながら居間へと戻る。隣を寄り添うように歩いて、再び正面を見据えるように対面形式で椅子に座った。

 

 

「今日は仕事の方はいいのか?」

 

「今日は今のために休みをもらったんだよ。だから、今日の午前中は自由時間かな」

 

「それは僥倖だな。嬉しい限りだ」

 

 

 嬉しそうにほほ笑む藍に、今日の一日は藍のために使うつもりだなんてとてもじゃないけどクサ過ぎて言えなかった。

 

 

「昔から僕たちはずっとこうだったよね」

 

「そうだな。私たちはこうやって過ごしていた。毎日毎日くだらない話をして、どうでもいいことで笑って日々を送っていた」

 

 

 何でもないことを話して。

 どうでもいいことで笑って。

 そこにいるのが当たり前になって。

 傍にいるのが日常になって。

 始まるときも、終わるときも、共にいて。

 一人の生き物と、一人の生き物は、寄り添って。

 ただただ、生きてきた。

 

 

「ふふっ、なんだか笑っちゃう。ずっと続けてきたはずの生活だったのにね。そうなっているのが普通に思えるぐらいに平穏で。朝起きればいつだって料理を作って待ってくれている藍がいて。そんな当たり前の毎日を繰り返していた」

 

「ははっ、私もだ。朝、和友のために料理をして。起きてきた和友と朝の挨拶を交わして。優しく毛づくろいをしてもらう。そんな温かい生活を送ってきた」

 

 

 二人で息をしている。

 お互いの顔を見つめて。

 会話のキャッチボールをする。

 もう少しだけ、もうちょっとだけ。

 そんな名残惜しいような思いが胸の中に沸き立ってくるのを必死に抑える。

 

 

「ずっとは無理だと分かっていたけど、やっぱり名残惜しくて」

 

「永遠なんてないと分かっていたが、どうしても忘れられなくて」

 

「この生活を守りたかった」

 

「この温かい生活を守りたかった」

 

 

 時折悲しそうな藍の笑顔に負けないように。

 時折寂しくなる心に負けないように。

 もてる限りの精一杯の感謝の気持ちを伝えた。

 

 

「藍、ありがとう」

 

「どういたしまして。そして、こちらこそありがとう」

 

 

 お互いに抱えているものは何一つ降ろせていないけど、それで十分だった。何一つ変わっていない現状がそこにいて、大きな壁が目の前に立ちふさがっているけど、背負った荷物は他の誰でもない自分のものだから。背負っている重さが地に足を付けてくれるから。それを素でやってきた僕ら二人だから――それでいいと笑った。

 

 お昼が近づいてくるころ。マヨヒガがさらに騒がしくなる。

 二人だった世界が四人の世界に変わった。

 

 

「おはよう」

 

「おはよう~」

 

 

 二人の顔がちょっとだけ嬉しそうに見えるのはきっと気のせいではないだろう。紫と橙はそれぞれ挨拶のためだけに居間を訪れると顔を洗いに行き、僕たちは再び二人が帰ってくるのを待った。

 そして、顔を洗って戻ってくると、紫と橙は縁側でのんびりと日向ぼっこを始める。

 僕がのんびりと過ごしている二人に意識を取られていると、正面いる藍が僕に声をかけた。

 

 

「行っておいで。私はお昼ご飯の準備をするから」

 

 

 藍は、言った。自分はここにいるから。自分にはやることがあるから。自分はもう十分だから。だから、行きたいのなら行っておいでと言うばかりで動こうとしない。自らの想いを無視して、気持ちを置き去りにしてその場にいようとしている。

 ほんのり寂しさを匂わせる藍の表情が、僕に訴えていた。不慣れな想いを必死に表現していた。

 

 

「ほら、藍も行こう!」

 

「か、和友っ……」

 

 

 僕は、即座に藍の真横に移動し、藍の右手を掴む。

 ――藍も一緒に行こう。そう伝えるように強く握った手からは、驚き以上の感情の乗った力が返されていた。

 藍は僕の勢いに押されるように立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。藍の呟いたような声は、僕にだけ聞こえた。

 

 

「本当に、和友には敵わないな……」

 

 

 紫と橙がいる縁側へ。焦るような気持ちを抑えながらゆっくりと踏みしめるように歩いていく。僕たちは二人の優しい笑顔に迎え入れられ、その足を折った。

 

 

「相変わらずイチャイチャしているのね。恥ずかしげもなく見せつけちゃってさ」

 

 

 そう言ったのは紫で。

 

 

「でも、これでいいんだと思います。なんだか安心しました」

 

 

 そう言ったのは橙で。

 

 

「「「「違いない」」」」

 

 

 笑ったのは、みんなだった。

 4人で縁側に座って冗談のような本当の話を交わす。時折空を見上げて、あの時と何も変わっていない空を見つめて。やっぱりなんでもない、どうでもいい話をする。

 

 

「あの時、藍に真面目な顔で相談されたときは年甲斐もなく言葉を失ってしまったわ。何よ、子供を授かりたいのですが大丈夫でしょうかって、そんなこと私に聞かれても困るわ。聞く相手を間違っているんじゃないかしらって思ったのは今でも忘れられないもの」

 

「子供を授かる? 藍は子供が欲しかったの?」

 

「紫様っ!! そのことは黙っていてくれるという約束だったではないですか!?」

 

 

 藍は明らかな焦りの色を見せながら、口を塞ごうと紫を追いかける。紫はスキマを駆使して藍の追随を躱している。

 僕は子供みたいに駆け回る二人を見ながら疑問を頭の中でぐるぐる回していた。

 子供を授かるって――それってつまりそういうことだろうか。僕の両親から僕が生まれたように、そういうことなのだろうか。

 そんなことを疑問に思っていると、その答えを吐き出すように紫の口から藍との秘密だったであろうことがべらべらとこぼれ落ちた。

 

 

「もう言っちゃったものは仕方ないわ。そういう気持ちになるのは分からなくもないけど、和友はまだ15歳なのよ? いささか早いのではなくて?」

 

「もう15歳ですよ!」

 

「あら? そんなことを和友がいる前で言っちゃっていいのかしら?」

 

「だって仕方がないでしょう!? 和友が死んでしまうことを覚悟したら……いなくなることを想像したら、無性に寂しくなったのですから! 子供がいればこの手に残るものになる、和友が生きていた証になる、そう思って何が悪いのですか!?」

 

「いや、悪くはないけど……ねぇ、和友はどう思うのかしら?」

 

「僕が残せるもの、かぁ……」

 

 

 藍は、顔を真っ赤にしながら目の前で何も握られていない両手を広げた。何かを抱えるように、何も乗っていない手をじっと見つめていた。

 残せるもの、残るもの。僕がいなくなったときに残るもの。考えれば考えるほど難しい問題だ。

 もともとは何も残さないつもりだった。何も残してはいけないと思った。

 だけど、今は過去とは違う。根こそぎ何もかも連れていくつもりだった台風だったあの時とは違う想いを抱えている。台風には違いないけど、残せるものがあると思っている。

 何か残せるもの。みんなに残せるもの。考えてはみるが、具体的なものは何一つ出てこない。何があるだろうか。僕がみんなに残せるもの。僕がみんなに残してはいけないもの。僕がみんなに残したいもの。僕は思考の渦の中で回っていた。

 

 

「藍様、子供ってどう授かるんですか?」

 

 

 いきなりの橙からの質問に、紫を追いかけていた藍の足が止まった。

 

 

「そ、それはだな……結婚すると自然とできるものなのだ」

 

「何言っているのよ。藍はそんな認識で子供を授かろうなんて考えていたの? そんな方法では子供なんてできないわよ? 橙、よく聞きなさい。子供を授かるのに必要なのは、男と女が……」

 

 

 藍の顔がみるみる真剣なものに切り替わる。もうすぐ沸点に近づいているというような雰囲気を出して、目を見開いている。背後に沸き立つ威圧するような雰囲気は、確実に紫へと向けられていた。

 

 

「紫様、殴りますよ?」

 

「な、なによ……急に真剣な顔をして」

 

「分かっているでしょう? それ以上を言うのは野暮というものです」

 

 

 紫の若干震える声が藍から降り注ぐオーラの大きさを物語っている。

 ただ、その程度で抑え込める紫ではない。この程度で塞げるような口ならば、これまでも弄られることはなかったのだから。

 紫は、さらなる情報を盛り込んで藍を追い込み始めた。

 

 

「お風呂に一緒に入ったことのある藍が言ってもね……より密接な裸の付き合いがしたかったのかしら?」

 

「あーもう!! 最低です!! 紫様なんて嫌いです!!」

 

 

 藍は不機嫌な様子を隠すこともなく、大声をあげてその場を離れていく。誰もその背中を追う者はいない。僕と紫と橙が揺らめく藍の背中を見送る。

 藍の姿が完全に消えると、紫は口元抑えて笑った。

 

 

「ふふっ、からかい過ぎちゃったかしら? でも、久々で加減が分からなかったとはいえ、事実しか言っていない。そこら辺の感情を整理できていない藍が悪いわ。もう少し大人になれるといいのだけど、いつまでかかるかしら?」

 

 

 突拍子もない責任転嫁をしている紫。明らかに悪いのは約束を破った紫のような気がするが、紫の言うことも一理あるような気がする。どっちも悪くなくて、どっちも正しいような気がする。

 僕がどうでもいいことで悩みを増やしていると、そんな僕をしり目に、橙が頭の上にクエスチョンマークを出しながら先ほどの質問で抱えた疑問を紫へと投げかけた。

 

 

「紫様、紫様も子供を授かることができるのですか?」

 

 

 いきなり振られた話題に紫の視線が橙へと向く。少しだけ脳内で想像を膨らませながら、あり得たかもしれない未来を口にした。

 

 

「そうね、できるんじゃないかしら? やったことがないから分からないけど、きっとかわいい子が生まれるわよ。なんていったって私の子供ですもの」

 

「なら、私でも和友の子供を授かることはできますか?」

 

「「え?」」

 

 

 場は、橙の一言で一瞬にして凍り付いた。

 僕たちの時間が解凍されるまでに数秒の時間を要した。

 

 

 

 

 そのころ、博麗神社にいる者たち――希、なごみ、椛、霊夢はそれぞれ行動を開始していた。

 朝起きてみれば、少年がいないことに何となくの寂しさを感じながら。いつもそこにいるはずの存在がなくなっていることに少しだけ違和感を覚えながら。違う朝の訪れに違う日々が来ることを予感して。違う日を送ることを決意して。少年の家族は、少年のいない日々を動き出した。

 

 

「さ! 和友がいなくても夜は明ける! 朝は来る! 私たちができることをやりましょう!」

 

 

 右手を高く突き上げる希に合わせるように、なごみの右手も天高く上げられる。

 椛は、そんな息巻く二人の人間を微笑ましそうに見つめていた。

 希、なごみ、霊夢の3人でいつもなら少年が作っていた朝ごはんの調理が行われる。これまでずっと一人で生活してきた経験のある霊夢を主導として、希となごみが手伝いに回る。椛はそれを遠くから見ていた。

 調理を開始して数分、すぐさま希と霊夢の間に静かに煙が立ち始める。

 

 

「相変わらず不器用ね。希は座って待っていた方がいいんじゃない? その方が料理もおいしくなるし、希も楽でしょ? 和友がいないんだし、別に料理ができるわけでもないアンタが手伝うことなんて何もないわ」

 

 

 霊夢の言葉は決して真っすぐではないけれども、きっと希を気遣ってのことだったのだろう。霊夢はただ思ったことを素直に言っているだけで他意はない。初めて霊夢と相対する人ならともかく、霊夢を知っている人だったら相手を馬鹿にするための、挑発するための発言ではないと分かったはずだった。

 当然、希だって分かったはずなのだが――希は誰にでも分かるような怒りを瞳に宿した。

 

 

「嫌よ! 下手くそでも、役に立たなくても、邪魔でも手伝う! 私のことを邪魔だっていうのなら、霊夢がどっか行けばいいじゃない! 和友がいない分の穴は私が埋めるの! 別に霊夢に手伝ってもらわなくても私一人で十分よ!」

 

 

 希の怒りの矛先が霊夢へと突き刺さる。

 霊夢は、希の言葉を全て聞き取ると一瞬無表情になった。何も感じていないような、何も思っていないような、無機質な顔を作った。

 希の体が意図せず震える。僅かな時間に垣間見られた霊夢の表情に怖気づく。

 霊夢は親の仇を見るような眼で、希に向かって告げた。

 

 

「あんた、何言ってんの? 邪魔なのは希の方でしょ? 和友がいないからって代わりができると思っているのならおめでたいやつね。自覚がないのかしら? 希がいたところで和友の半分にも及ばないわよ」

 

「…………っ!!」

 

 

 希の口から悔しさに歯ぎしりする音が出る。霊夢の言葉が正論すぎて、反論の余地がなくて、何も言い返せないことに悔しさがこみ上げる。

 少年がいない今日が始まって、心の中にぽっかり穴が開いたような気がした。それを埋めようとするばかり、少年がやってきた分の働きをしようと思った。霊夢には、そんな思惑を全部見透かされているようだった。

 だけど、それが分かっても、邪魔になっていると分かっていても、こうして拒否の姿勢を示されても、退くことのできない感情が希の心の中を渦巻いている。

 やるんだ、私がやるんだ――そういう気持ちを抱えて、希は何も言わずに無言のまま調理に入った。

 慣れない手つきで食材を掴み、若干震える手で包丁を握る。

 その姿を見た霊夢は、すぐさま希から包丁を奪い取ると怒りを爆発させた。

 

 

「だから希は手伝うなって言ってんでしょ!? 自分の実力をまだ把握していないの? あんたはまだ手伝うだけの技量もないの、手伝ったら料理がマズくなんのよ!」

 

「把握しているわよ! 自分ができないからやろうとしてんじゃない! やらなきゃできるようにはならないのよ!」

 

「何、和友みたいなことを言ってんの!? あんなに面倒くさいのは一人で十分なのよ! 希までそんなこと言わないで!」

 

 

 霊夢と希との間で火花が散り始める。ムキになった二人はその怒りを止める術を知らないのか、言い争っている。

 椛が見る分には、いつ火柱が立ち上がってもおかしくなさそうな雰囲気だった。

 重苦しくなりつつある雰囲気に一度背中を伸ばす。小気味いい音が鳴る。椛は内に溜まる負の感情を吐き出すために大きなため息をつくと、二人に声をかけた。

 

 

「はぁ、また喧嘩ですか。相変わらず元気でいっぱいですね。もう少し仲良くできないのですか?」

 

「「できないわ!!」」

 

 

 余りに息の合った返事にげっそりしそうになる。今にも手を出しての喧嘩が起きそうな雰囲気に呆れる。このようなことは今までも散々あった。別に今日に限った話ではなく、霊夢と希の相性が悪いのか度々火花を散らせていた。

 ただ、今日はいつも喧嘩の仲介を務めていたはずの少年がいない。この家族の核となっていると言っても過言ではない少年がいないという条件が付与されている。

 椛は、不穏な感情を抱えながら止めるでもなく、仲裁に入るわけでもなく、ただただ二人の成り行きを見守っていた。

 そんな椛に対して一人で料理を作っていたなごみは、持っていたペンでスケッチノートに急いで文字を書き、椛に提示した。

 

 

(いがみ合っているように見えるけど、二人は仲がいいから。大丈夫だよ)

 

「そうでしょうか? 何だかいつもより激しい気がするのですが……」

 

 

 椛は半信半疑で状況を静観する。

 なごみは、よく分からないと言った顔をしている椛の表情からすぐさま次の言葉を書き連ねた。

 

 

(私、耳が聞こえないから。分かるの。分かるようになったの。大丈夫か、大丈夫じゃないかって見れば分かるの)

 

 

 なごみは、何一つ心配することなく料理を推し進めていく。椛は、耳が聞こえないにもかかわらず会話が成立しているような状況になごみの相手の表情や状況から察する能力の高さに少しばかり驚きながらも、なごみの言い分がいまいち理解できずにその場でしばらくの間静観していた。

 すると、徐々にのどかな空気が戻ってくる。上がった火が落ち着いて、細々とした明かりに変わる。雰囲気はほんのり暑い夏の日のような雰囲気に変化した。

 

 

「あー! 分かったから、分かったから! やらせてあげる代わりに傍を離れるんじゃないわよ! 私が指示を出して、やり方を教えてあげるから黙って従いなさい!」

 

「やった! また霊夢が折れてくれた! お願いね!」

 

 

 希は喜びのあまり、霊夢に対してハイタッチを求める。伸ばされた手は寂しそうに霊夢に訴えている。

 霊夢は心底嫌そうな顔で手を合わせた。

 乾いた音が空間にこだまする。希の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 

 

「霊夢、もうちょっと分かりやすい解説をお願い!」

 

「無理、これで十分でしょ。分かりなさい」

 

「ちょっと待ってよ。そんな小学生も分からないような説明じゃ無理だって!」

 

「じゃあ諦めるといいわ。私はもう知らないから」

 

「すみません、精一杯頑張りますから! だから、もう一回だけ教えて!」

 

「今度はしっかり聞くのよ!」

 

 

 なごみは、最初からこうなることが分かっていたかのように盛り上がる二人のやり取りをチラチラと見ながら嬉しそうに調理を続ける。

 椛は雰囲気が戻った光景になるほどと納得した。

 

 

「あの二人はあれで平常なのですね。喧嘩するほど仲がいい。程度は毎回違いますが、彼女たちはいがみ合っているわけではないということですか」

 

 

 目の前の3人を見ていると微笑ましく思う。

 いがみ合っているわけでもなく、釣り合っているわけでもない。だけど、寄り集まって不安定な中でも、沈まずに目的地に向かって舵を切れる。

 椛は、3人を見て微笑ましく思うと同時に――これなら大丈夫だと安心感を抱えた。

 

 

 

 朝食も終わり、日が元気よく光を降り注ぎ始めるころ。

 希となごみは、お互いに目配せするとここ最近にてらし合わせていた予定を敢行した。

 

 

「ちょっと紅魔館に行ってくるわ」

 

(紅魔館に行ってきます)

 

「え? 何を言っているのですか?」

 

 

 椛の口から唖然とした声が漏れた。

 紅魔館、そこは人の訪れるような場所ではない――悪魔の館である。

 

 




今回は、少年の存在がマヨヒガに移った1日を書かせていただきました。
少年のいるマヨヒガ
少年のいない博麗神社
そして、唐突に始まる耳かき。
当初こんな描写を入れる予定はありませんでした。
後から付け足したこのシーンが読者の目にどう映るのかは分かりませんが、微笑ましく見ていただけたらなと思います。

これからもこの作品をよろしくお願いいたします。

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