9章は、妖々夢のお話になります。
幾分か進んでいると永久に続いていると思われた階段にも終わりが見えた。最終段の先からは淡い光が見える。終わりが近づいているという期待感からか自然と飛ぶ速度が速くなった。
少しだけ早くなった景色の移り変わりに必死に追いつこうとするようにその先の景色が姿を現していく。僕はワクワク感を胸に抱え、空を飛行しながら階段の最上段に足をかけた。
久々の地上の感覚に足の指先に力が入る。
視線を持ち上げると、そこにはこの世のものとは思えない光景が広がっていた。
「ここが頂上かな?」
「和友! 凄いよ! あんなに大きな桜、初めて見た!」
「僕もあんなに大きいのは初めて見たよ。地上は冬で真っ盛りなのにここの桜は満開なんだね」
階段の下から見上げたときに見えていた淡い光の源泉になっていたのは、どうやら大きな桜の木だったようだ。
「すごいね! ね! 和友!」
僕の隣で橙が元気よくはしゃいでいる。
その気持ちが分かるぐらいに僕の気持ちもワクワクしていた。見たことがない景色に心がドキドキしていた。
圧巻である。これが、これこそが春だと言わんばかりだ。
外は真冬で、春なんて一生来ないんじゃないかって思えるような状態だっただけに、より一層輝いて見える。これがギャップによる相乗効果だろうか。“これが春なんだ”って思えるような景色は、僕の心の雪をゆっくりと溶かしていくようだった。
「本当にでっかいなぁ。ここまで育つのにどれくらいかかったんだろう?」
中でも正面に見える桜の木は、高さ20メートル、長さ30メートルはありそうな巨大なものである。学校に植えられている桜しか見たことない僕にとっては今までに見たことのない規模感だった。
そして、視線を巨大な桜の周囲に向けてみれば、桜色に染まった光が蝶と共に舞っている。幽霊も浮遊している。
「この煌びやかな蝶々は何だろう? 幽霊と同じように飛んでいるし、纏わりついてくるし」
案の定、幽霊と蝶のその両方が体に纏わりついてくる。幽霊はこれまでずっと見てきたのと変わらないようだが、光り輝く蝶は幽霊とは違った軌跡を描いていた。
目の前や後ろ側をぐるぐる回るように旋回している。僕の周りを回っている理由は分からない。巻き込まれているのだろうか。
そして、なんだろう――見たことも聞いたこともない形をしている。僕が見てきた他の蝶と同じだろうか。僕が見たことがあるものと同じものだろうか。モンシロチョウとか、アゲハチョウとか、いろいろ名前を持っている昆虫ではあるけれども、脳内は同じだろうと、どっちでも変わらないと言っている。
だけど、きっと違うものなのだろう。
肩に、頭に、次々と蝶々が不時着していく。
右肩に乗っているもの。
頭の上に乗っているもの。
きっとこれらは違うものだ。
蝶だって個別に別々に生きているはずなのだから。
同じものなんて何もないはずなのだから。
ゆっくりと手を桜へと伸ばしてみると、指先に別の蝶が舞い降りる。そう、今止まった蝶だってきっと違うもの。
「和友! あそこに誰かいるよ!」
「ん?」
蝶に気を取られていたところを橙の声に引き戻される。橙が向けた指の先には1人の女性が佇んでいるのが見えた。
桜の木の下で手を差し出し、その手の先では光り輝く蝶が羽を休めている。
身長は先ほど見た幽霊を連れた少女よりもはるかに高く、紫と同じぐらいはあるだろうか。淡い水色のフリルのついたロングのスカート。特徴的な桜と同じ桃色の髪。そして、何よりも異質に見えるクエスチョンマークのような文字が書いてある三角巾が帽子についている。表情は柔らかで懐が深そうな、おおらかな雰囲気が感じられる人だった。
もちろん僕にとって初対面の人で―――区別されていない人だった。
「あら、貴方は……?」
視線を送っていると、その視線に気づいたのか女性が向こうから近づいてくる。一つ一つの動作が丁寧で、歩く動作に上品さが感じられる。
僕は、できるだけ粗相のないように距離を詰めてきた相手に対してゆっくりと頭を下げて自己紹介をした。
「初めまして。私は笹原和友と言います。貴方が紫の友達ですか?」
「ええ、そうよ。紫は私の大事な友達」
「本当に紫様に友達なんていたんだ……」
大事な友達―――どうやら紫の言葉は本当だったようである。橙も驚いていることから、紫はほとんど誰にも友人関係を告げていなかったことが分かる。知っているのは付き合いの長い藍だけかもしれない。
疑っていたわけではなかったけど、平然と嘘を付ける紫のことだ。もしかしたらここに呼び寄せるための方便だった可能性もあった。
でも、こうして相手の方から大事な友達と言われると疑いようもない。紫の言葉は真実だったのである。
そんな気まぐれな紫の友達であるこの人は、どういう人なのだろうか。一応目の前にいる相手からご指名でお呼び出し貰ったということなので、何かしら僕に対して目的があったのだろうけど、僕にはそれを知る術もない。
何にせよ、まずは相手の名前を知るところからだろう。相手が誰なのか、コミュニケーションの始まりはそこからである。
だけど、その思惑を遮るように相手から先に会話が展開された。
「笹原と言ったかしら、貴方の周りには反魂蝶が纏わりついているのね」
「ハンゴンチョウ?」
「貴方の周りを飛んでいる蝶のことよ。死者の魂を蘇らせる、魂を呼び寄せる、その象徴のようなもの」
「魂を蘇らせる……?」
死者の魂を蘇らせる。魂を呼び寄せる。
事象の難しさに頭が混乱しそうになる。
魂という見えないものを相手にしているからだろうか。脳が上手く情報を処理しない。
魂とは何だろうか。思念や怨念のことだろうか。心のことだろうか。
よく言われている幽霊というのが魂の塊だと仮定すると、大半の者が肉体が死ぬと同時に魂も死んでしまっていることになる。なにせ幽霊となる者はかなり少ないのだ、肉体が滅びるのと同時に失われると考えるのが普通だろう。
ともすれば、肉体は器であり、魂はそれに収まっている液体と言えるだろうか。だとすると、幽霊として存在できているものは何かしら外殻を得ているとでもいうのだろうか。あの白い靄のような独特のフォルムは外を覆う膜で、それが破れると中身が出てしまうような構造になっているのだろうか。
それが事実ならば、魂を蘇らせるって何だろう。溶液である魂を容器なしに復活させてしまえば、魂はすぐにでも失われてしまうのではないだろうか。蘇った瞬間に成仏してしまうような気がする。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。きっといろんな理由があって、僕の想像の及びもしない事象があって、そうなっているのだから。そんなどっちでもいいことはこの場合僕にとって大事なポイントではなかった。
そう、ここで引っかかっているのはもっと別のところ。
魂を蘇らせることは、生きている者からの一方的な寄りかかりではないのかというところである。
そんなどうでもいいことを考えていると、その思考を寸断するように相手から声がかけられた。
「貴方はどうして死に抗おうとするの?」
相手から見た僕はそう見えたのだろうか。
死に前向きに向かっている僕を抗っていると表現されることに違和感を覚える。
僕の最終地点は死に直結していて、それを目指して頑張っている最中だというのに。綺麗なまっさらな―――台風が過ぎ去った後みたいな光景を残すために頑張っているところだというのに。死に抗っているように見えるのだろうか、僕には疑問だった。
「抗っているつもりはないのだけど」
「抗っているわ、生きようとしているもの。反魂蝶が生きたいと強く願う心の輝きに集まっているのがいい証拠」
「生きたいと強く願う、か」
僕の本心は、死にたがっている。これは紛れもない事実である。
ただし、生きようとしている。それもまた間違っていない。
死にたがることと、生きようとすることは、矛盾しているようで共存できる感情だ。
その日を迎えるために、死ぬための日を迎えるために、僕は今生きているのだから。死ぬ準備をするために生きようとしているのだから。
死ぬために、生きている。
生きようと心が活動している間は死ぬことはない。そこが終わりじゃないと叫んでいる間は生きていられる。
終わりを迎えるまでは、そう決めたのだから。
僕の運命を僕が決めたのだから。
「だったら、まだ終わりじゃないってことなんでしょうね。僕の命がまだ終わろうとしていないってこと。運命がそう言っているんじゃないですか?」
「生きろと運命が言っている――随分とロマンチックなことを言うのね」
女性は幽雅に振り返り、大きな桜の木の真下へと歩き出す。僕と橙はその後姿を追うように歩き出した。ちょうど女性の斜め後ろの位置である。
「申し訳ないわ。紫も間が悪いわよね……いえ、紫はいつもこんな感じだったわ。紫はいつだってどこにでもいる悪戯好きの妖怪だもの」
おおよそ間違っていない認識である。
紫に対する理解の深さがセリフから読み取れる。紫に対する思いやりが声色から聞き取れる。
余程心を開いて付き合っているのだろう。表面上の関わり合いだけではこうはいかない。紫の表面上だけを見るとうさん臭くて何を考えているのか分からないというのが通例なのだから。
「こんな時じゃなかったらゆっくりお話ししたいところだったけど、今は手が離せないの」
「ちなみに今、何をされているのですか?」
「私は、西行妖に封印されている者を解き放ちたいのよ。本来いるべきところへ、本来あるべき姿に戻すの。私はここにいる者に聞いてみたいのよ。貴方はどうしてそこにいるのかって」
「それはまたロマンチックな話ですね」
封印されている者を解き放ちたい。まるでファンタジーの世界の話のようである。それも、そうする理由が“どうしてそこにいるのか”を聞くためだなんてなんとも面白い理由だ。
そう、面白い冗談みたいな本当だ。
だってそこにはきっとその人の都合はないから。封印された、もしくは封印した人の意志がないから。
「でも、死者の気持ちも考えてあげてくださいね。いつだって死者と会いたいというのは生きている側の都合です。生きている人が欲しい答えを得るために、欲しいものを得るために死者に頼っている」
仮に僕が幻想郷のどこかで封印されたとして、あるいは僕自身を封印したとして、それであるべき形にするために蘇らせると言われたらどう思うだろうか。僕自身はそれを望まないだろう。誰かが「そうしたい」と望んだとしても、僕はそれを善しとはしないはずである。
死者は何も意思表示できない。できることは生きている間にしたことだけである。遺書なり、遺言なりを生きている間に残さなければ、自らの意思を示すことはできない。
何も明示していない死者に対して何かを求めることは雲を掴むようなもの。死者からは決して手が伸ばされておらず、生きている側から一方的に手を伸ばしているだけ。死者に手を伸ばして掴もうとする行為は、死んでしまって終わってしまった相手にさらに寄りかかる行為になる。
僕だったら、そんなことは絶対にしてほしくなかった。それをしてしまったらこれまでと同じになるから。寄りかかりを抑え、誰も引きずらないために準備をしている僕にとっては、これ以上ないほどの裏切りだから。
僕は、例えどんな死に方をしたとしても、例えどんな理不尽な死を迎えたとしても、どんな不条理な死が訪れたとしても飲み込める自信がある。
だけど、死者の死に方のそれが例えどれほど理不尽なものだとしても、いくら不通に訪れた死だとしても――その感情を読み解くのはあくまでも読み解く人の主観によるものになる。死者は本心を語れないからだ。それこそがここでの最も大きな問題である。
「死者の想いを読み解くのは勝手ですけど、それを正しいもののように押し付けるのはどうかと思いますよ?」
「それの何が悪いの? 何かを想い、それを押し付けるのはこうして思考する者の特権よ。死者の気持ちをすくってあげられるのは想いを巡らすことができる者だけなの」
言われてみれば、なるほどそういう考え方もある。
考え方は千差万別である。
不正解はなくて、正解だけが存在している。
死者を終わったものとする僕。
死者を続いているものとする女性。
両方、間違っていなくて正しい。
正反対のように思えるようなお互いの主張だが、唯一両者が死者を想っているということだけは一致していた。何かしらの想いがあって、そこに想いを馳せているという点だけは一致していた。
「引きずらせる死者の方が悪いのよ。それに、不条理で桜の木に埋められた者は生き返りたいと思っているはずだわ。本来のあるべき形になりたいって思っているはず。こんなところで縛られていたいなんて思っていないわよ」
死者の気持ちを想うのは、いつだって生きている人間だ。
生きている人間の気持ちを想うのと同じで、自分の物差しで感情を推し量る。
女性から見た桜の木に埋まっている者は違う。
僕から見た桜の木に埋まっている者は違う。
女性は、生き返りたいと、本来あるべき形に戻りたいと思っていると感じている。
だけど、僕にはそうは思えなかった。桜の木の下で封印されて死ぬなんて、不慮の事故ではありえないような死に方をしていることに。そこには絶対に何かしらの想いがあったはずだと思わずにはいられなかった。
「それはそうかもしれませんが。ただ、これだけは言えます。桜の木の下で死ぬようなことを経験したその人は、きっと誰かのためにそこにいる人のはずです。誰かのためのその人が背負っているものを勝手に取り上げないでくださいね」
そこまで言うと、唐突に女性がこちら側を振り向く。ちょうど3歩分離れた位置で女性の全身像が視界に入った。
僕と同じぐらいの背丈の目線が真っすぐに交わる。意見を曲げるつもりはない―――視線からはそんな意志が感じられた。
「あくまでも平行線ね。私はここで引くつもりはないわ」
女性は、ここは譲らないと言わんばかりに立ちはだかる。
だけど、僕からすればそれはどっちでもいいことの一つである。
僕はここに異変を解決にしに来たわけではないのだから。異変を解決するのはあくまでも霊夢の役目なのだから。
これは僕が起こした物語ではない。
これは僕が何かを成し遂げる物語ではない。
これはあくまでも――僕の思い出作りである。
「そうしたいのなら僕は全然構いませんよ。僕は説得しに来たわけではありません。やるかやらないか、線を引くのは貴方です。僕が決めることではないですから」
「……そういうこと」
女性はどこか納得したような朗らかな笑みを浮かべる。先ほどまで視線の中にあった鋭さはなくなり、優しげな瞳だけがそこにはあった。
「交わらないはずだわ。貴方は線を引いていない。線が引かれていない以上、平行線にすらなっていないってことね」
「僕は異変を解決しに来たわけではないので。異変を解決するのは、いつだって博麗の巫女の役目ですから」
「違いないわ」
女性は、大きな桜の木までたどり着くとそっと手を添える。目を閉じて触れているその所作は、まるで木と話をしているように見える。
さて、ここから僕はどうしたらいいものだろうか。
僕がここに来た目的は。
僕がここにいる理由は。
僕は、どうしたものだろうか。
「一応僕は紫から貴方に会えと言われてきたんですけど、どうすればいいでしょうか?」
「そうね、花見でもしていったらどうかしら? こんな機会―――多分永久にないわ。きっと何よりも美味しく食べ物が食べられる筈よ。手が空いたら、またお話をしましょう。その時は、お互いが交わる線が書けるような話をね」
「そうですね、そうさせてもらいましょうか」
まだ名前も聞いていないけど、手が空いたら話をするということだからその時に名前を伺おう。
そう考えながら後ろについてきているはずの橙の顔を見つめる。橙は、不思議そうな顔で僕に問いかけてきた。
「難しい話は終わった?」
「うん、後の時間はお言葉に甘えて花見でもしようか」
「やったー!」
橙と共に桜の木の下で静かに座り込む。
食べ物なんて持ってきていないけれど。
飲み物も持ってきていないけれど。
目の前にこれでもかと咲き誇る桜が一本あって。
そして、隣にそれと同じぐらいに咲き誇っている満面の笑みを浮かべる橙がいる。
それだけで十分だった。それだけで十全だった。
僕は橙の方を向いてそっと手を握り、器の形を作り出す。橙も何をしようとしているのか察したのか体の向きを変えて同様の形を作り出す。
そこに何もなくても、大事なものは全部詰め込まれている。想いがたっぷり詰まったお互いの器は、僕たちの正面で示された。
「僕たちのこれからに乾杯」
「うん! 乾杯!」
ぶつかった僕たちの器が音もなく酌み交わされる。
のんびり、ゆったり、そんな言葉が似合うような時間を過ごす。これまで話ができなかった分を埋めるように。出会った頃―――病室で出会ったあの頃からの思い出話をする。二股の黒猫だった橙と僕が出会った、あの頃からの思い出を口にした。
別れ際に猫又だった時の記憶を取り戻した橙との会話は、面白いぐらいに弾んだ。お互いが想っていたこと、お互いがお互いに対して感じていたこと、そのどれもが懐かしくて、涙が出てきそうだった。
そんなときである―――霊夢がやってきたのは。
「やっぱりここに居たのね。途中で椛とすれ違ったからまさかと思ったけど、和友はどうやってここまでたどり着いたのよ!? 私より早く着くなんて裏技でも使ったのでしょう!?」
霊夢が文句を垂れながら重力を感じていないのではないというほどに滑らかに飛行し、目の前で着地する。詰め寄ってくる彼女の顔には怒りの色が浮き出ていた。
先を越されて不満なのだろう。異変の中心に先に来られたことが悔しいのだろう。
だけど、あれは正規ルートを通っていないからできた芸当である。霊夢の言う通り裏技というものに違いなかった。
「まさしく裏技を使ったよ。あれは裏道を通ってきた形になるのかな」
「紫様に送ってもらったの」
橙が口を出すと霊夢の視線が一気に橙へと注がれる。凄まじく鋭い視線だった。怒っているような、呆れているような、不機嫌な色が色濃く出た瞳だった。
橙は、霊夢の視線に耐え切れなくなったのか僕の後ろに隠れて服を両手で掴んだ。
「そっちのはさっきぶっ飛ばした猫又じゃない! なんでそんなところにいるのよ!」
「霊夢、橙が怖がっているから止めてあげてくれないかな?」
「和友はどっちの味方よ!?」
「決まっているでしょ。両方の味方だよ」
そう言ったら霊夢の顔が苦虫を噛み潰したような表情になった。
だけど、そんな顔をされても僕の本心は変わらない。
どっちの味方なのと聞かれても――そんなもの両方の味方に決まっている。僕は霊夢の味方で、橙の味方だ。どっちの敵でもない。
霊夢だって分かっているはずである。僕はそういう奴なのだと。そういう言葉を出さずにじっと霊夢の目を見つめ続ける。
しばらく見つめていると根負けしたのか、霊夢は大きなため息を吐いた。
「はぁ、後で詳しい話を聞くから待っていなさい。まずはあっちの方のけりを付けてくるわ。和友、後で事情を聴くからね! 覚えてなさいよ! 絶対よ! 絶対!」
指を指しながらプンスカと怒った霊夢が先ほど話していた女性の元へと近づいていく。おそらく戦闘を行うつもりなのだろう。今から行われるのは、当然ながらスペルカードを用いた弾幕ごっこである。
またあの僕達とは次元の違う戦いが始まる。紅魔館で見たときのように遥か先に飛んでいる姿を見ることになる。
だけど、そこに焦りを感じることはなかった。霊夢に勝つ―――そう告げた言葉は嘘じゃない。自信をもって何度でも口にできる。
それはきっと、心がまだ生きているからに他ならなかった。
「貴方はお呼びではないのだけど?」
「今度、うちの神社で花見をするのよ。“みんな”で花見をするの。立派な桜だけど、集めた春を返してもらえるかしら?」
桜の木の下で少女と少女が相打つ。
真正面で背筋を伸ばして視線が交錯する。
「もう少しで西行妖が満開になる。そして同時に何者かが復活するらしいの。あなたが持っているなけなしの春があれば本当の桜が見られるわ。何者かのオマケつきでね」
「花見に誰かも分からない何者かはお呼びじゃないわ。花見には食べ物とお酒があって、そこに顔の知れた奴がいればそれで十分なのよ」
「死者は仲間はずれってことかしら?」
「生まれ変わって顔見知りになってから出直しなさい。幻想郷の春を返してもらうわよ。花の下に還るがいいわ、春の亡霊!」
「花の下で眠るがいいわ、紅白の蝶!」
口上が述べられると一気に弾幕が展開された。桜から発せられる光なんて比較にならないほどの弾幕の光が空間を埋め尽くす。
戦闘は開始された。時と場所を考えずに始まった戦闘に嫌な予感がビンビンする。その予感を的中させるように、女性が前面に張り出した通常弾幕は近くにいる僕達に降りかかってきた。
「和友! ちょっと離れよう!? ここにいると流れ弾に当たっちゃうよ!」
「異論ないよ!」
後方から追ってくる弾幕に対して滑り込むように登ってきた階段付近まで急いで遠ざかる。弾幕ごっこの様相はかなり早い展開を見せているようで1枚目のスペルカードがきられる宣言の声が空間に木霊した。
亡郷(ボウキョウ)「亡我郷(ボウガキョウ) -宿罪(シュクザイ)-」
スペルカードの発動と共に光量が増加する。階段側まで避難した僕たちは、その光に立ち向かうようにして二人の勝負を眺めていた。
縦横無尽に飛行しながらお札と針を飛ばしていく霊夢。
幽雅に舞いながら密度の濃い弾幕を張る女性。
前回見たレミリアとフランの二人を相手にした弾幕ごっこよりもスピード感は劣るものの、その密度は前回よりもはるかに濃いように見えた。
「今の僕では無理そうだ。戦いにすらならない」
やはり、現状では1段も2段も遠くにいる。後数年努力をすれば何とかなるレベルにはいない。どれだけ努力しても、どれだけ走っても、たどり着ける場所ではないような気がする。
飛行速度。旋回速度。予知にも似た弾幕予測。霊力の出力。そして、経験値。どれにも開きがある。
だけど、諦める気持ちは不思議と湧いてこなかった。ざわつく心は、常に前に進むことを訴えていた。
「でも、私たちならいけるよ」
「そうだね。僕たちならやれる」
それもこれも、苦難を共にした家族が隣にいるからだろう。台風の中を駆け抜けてきた二人だから前を向いていられる。絶壁に見えるような壁に背を向けずに、正面を向いていられる。
しばらく花火を見上げるように視線を送っていると後方から――階段の下から何者かが上ってくる気配を感じた。よく知った気配に振り返ると、そこには椛の姿があった。
「和友さん、ただいま戻りました」
「おかえり、椛」
「おかえりなさい~」
無事に帰ってきた椛をねぎらう。
約束通り自分の道を歩いてきたのだろう。障害となる壁を乗り越えて、大きな歩幅で前に進んできたのだろう。
その表情はとても清々しく、迷いの一切見えない目をしていた。
「うん、すっきりしている顔だね」
「そうでしょうか? 自分では分からないのですが」
「憑き物が取れたっていうか、凛々しくなったような気がする。うん――綺麗で、かっこよくなった」
「そ、そんなことないですよ!」
僕が感じた思いを伝えると、椛の表情が僅かに高揚し、笑顔に染まった。冗談でも何でもない―――今の椛は間違いなく誰よりも綺麗でかっこいい顔をしている。
自らの道を自分で決め、明日を生き抜く強い光の宿った瞳が未来を照らしている。
「和友、来てるよ」
「うん、分かっている」
今度は、僕たちの番だ。
やってくる――僕たちにとっての壁がやってくる。
遠くにいても感じ取れる。
誰よりも近くにいたから。
誰よりも強く想っていたから。
誰よりも傍で寄り添っていたから。
僕と橙は、同じところに視線を向けていた。
「え、何が来ているのですか?」
「ごめん、椛はここで見ていてくれないかな? さっきの戦いで疲れたでしょう? 今度は“僕たち”の番だから」
「ここで待ってて! 今度は“私たち”の番だから!」
椛が自分の物語を作ったのと同じように。
霊夢が自分の物語を進んでいるのと同じように。
これから起こることは、僕と橙――僕たちの物語。
「これは僕たちが乗り越えるべき壁だ。これからを生きるために、自分たちの中で踏ん切りをつけなきゃいけないこと。終わりへと向かうために僕たちが戦わなきゃいけない相手なんだ」
「そう、ここが私たちの正念場。きっちりと立ち向かわなきゃいけない。真正面からぶつからなきゃいけない相手なの」
「ですが……」
どうしても引き下がろうとしてくる椛にはっきりと告げる。
むしろここで椛に参加されると問題が起こる。
なにせ、椛は何も知っていないから。
彼の者がどれほどに傷つき、苦しんだか。
そして、その苦しみの中でどんな光を求めたか。
最後の最後まで希望に手を伸ばした彼女の姿を。
最後の輝きを、僕達―――八雲家だけが知っているから。
ここを乗り越えるのは、彼女を知っている僕達だけの役目だ。
「「大丈夫だから。必ず自分の道を切り開いて戻ってくる。その眼でしっかり見ていて!」」
僕と橙が力強く言い放つと、椛は押し黙った。
心配そうな瞳が閉じられ、再び開かれる。そこには真剣な眼差しがあった。
僕たち3人は時を同じくして一度だけ頷く。椛は僕たちの後ろ姿をじっと見つめ、見送ってくれた。
僕と橙は、背中に視線を感じながら階段をゆっくりと1段1段踏みしめるようにして降りる。
「ふぅ……」
近づいてくる。
勝負の時か、境界線を引く時が、どんどん近づいている。
緊張感で手が震える、肩に力が入る。
失敗してはいけない、間違えてはいけない。
上手くやらなければ――そういう気持ちが心の中に蔓延してくる。
「和友、緊張してる?」
唐突に飛来した橙の言葉にハッと我に返ると、隣に視線を向ける。
橙はちょっとだけこわばった表情でこちらを見ていた。
「ちょっとだけ。そういう橙は?」
「私も、ちょっとだけ」
「緊張で手が震えるよ。怖くなんてないのに、不安なんてないのに……」
「ほら、私が手を握ってあげる。これなら大丈夫だよ」
橙が小さな手で握ってくれる。橙の手も僅かに震えているようで小刻みに揺れていた。
橙と手を繋いだのはいつ以来だろうか。あの時よりも少しだけ小さく感じる。僕が成長したからだろうか。橙が変わったからだろうか。
だが、確かに変わらないものもある。記憶と少しも違っていないものがある。
ちょっとだけ小さく感じる橙の手に宿る熱は――昔と何ら変わっていなかった。
「いよいよだもんね。この8か月を見せる時だ。僕たちが進んできた道を示す時だ」
「うん。この8か月の間、勇気をもって歩いてきた。踏みしめて、噛みしめて、絆と約束と手を繋いで歩いてきた」
徐々に握る手に力が入っていく。恐怖を打ち消すように、不安を抑え込むように、お互いの想いを燃やしていく。
「僕たちにとって切っても切り離せない関係の、台風の中を共に歩いてきた家族だから」
「どんなに苦しい時も、どんなに辛い時も、楽しい時だってずっと隣を歩いてきた家族だから」
「「正面からぶつかろう。気持ちを真っすぐに伝えよう」」
橙も力強く手を握り返してくる。
もう逃げたいとは思わない。
もう怖いなんて思わない。
僕たちは、戦える。
僕たちだから戦える。
ここが始まりだ。
ここから全てが始まっていくんだ。
再び―――ぶれない台風と共に歩みを進める日々が始まるのだ。
「ここがはじまりだよ」
「そうだ、ここからはじまるんだ」
さぁ、物語を始めよう。
長い停滞期から抜けて、躍動の日々を迎えよう。
自然と顔に笑みが浮かぶ。橙も普段なら絶対にしない、笑っているような、挑発しているような顔を見せている。
僕は、不敵な笑みを浮かべて橙に問いかけた。
「橙、準備はできてる?」
「8か月前からできているよ。そういう和友は?」
「橙が手を握ってくれた時からできてる。もう心配事はない。今度は何もかも上手くいく」
ここにいるのは僕だけじゃない。
これまで支え合って生きてきた。
これまでの思い出を共有してきた。
僕の隣には他でもない家族である橙がいる。
そして、これから相手にする者が僕たちにとって最も近い存在だから。
ずっと隣を歩いてきた存在だから。
ずっと手を繋いできた存在だから。
そんな彼女とだから。
そんな彼女と僕たちだから――絶対に上手くいく。
「僕たちなら――上手くやれる!」
「私たちなら――上手くやれる!」
目の前に僕たちにとっての最大の難敵が現れる。
それは九本の尻尾を携えた妖怪。
それは誰よりもしっかり者の妖怪。
それは誰よりも優しかった妖怪。
そして、僕たち家族の一員。
「お前は和友か。夢で会った以来だな。こんなところで橙と何をしているのだ?」
そう―――八雲藍が立ちはだかるのだ。
今回は、幽々子と話をして、霊夢がやってきて、椛がやってきて、橙と会話して、最後に藍を迎えたという話ですね。
幽々子との会話からは、死者に対する考え方の違いを。
霊夢との会話からは、家族としての関係の結びつきが強くなっていることを。
椛との会話からは、一人一人別々の物語があることを。
橙との会話からは、これからの意気込みを。
それぞれ書かせていただきました。
そして、ようやく彼女が出てきました。待ちに待った登場ですね。
次回は、弾幕ごっこでの戦闘回になります。
また、話が長引いたことで全話6話構成になってしまいました。次回で妖々夢最終話です。
これからもよろしくお願いいたします。