8章は、妖々夢の前のお話になります。
あれから数か月が経って冬の季節が到来した。
雪が降り積もり、外は銀世界に様変わりしている。外の世界でも雪が積もる地域に住んでいたとはいえ、幻想郷ほど積もる場所に住んでいなかったからか雪かきの予想外の大変さに追い回されている今日この頃だ。
「狭い」
「そうだね」
「寒い」
「そうだね」
何気なく希から発せられた声に僕だけが反応した。他のみんなは横になって寝そべっている。椛から霊夢からなごみまで、横になっている。
雪が降れば雪かき―――そんな天気とのいたちごっこの毎日に嫌気がさして寝込んでいる状態である。
「こたつがあるとはいえ、電気が入ってないから仕方がないよ」
「それはそうだけどさ」
どこで寝込んでいるのか―――今いる場所は、こたつだった。もちろん電気が通っているわけじゃないから人と妖怪の体温でごまかしているような状態である。
全員が体を全部入れることができるわけでもないから足だけ入っている体勢で、上半身は服を着こんだり、毛布をかぶったりして過ごしているという状態だ。一応囲炉裏はあるけれども、どうしても隙間風が酷くて火元の傍にいないと寒さに耐えられない。
こたつに入っている者たちの活動範囲は、冬の寒さに完全にやられてしまって数十センチ程度とかなり狭くなっていた。
「ああ、暇。こんなに雪が降ったんじゃ空を飛ぶ練習なんてできないし、雪かきはもう飽きたし、動く気力が出てこないんだけど」
「そうだね。僕も永遠亭には来なくていいって言われてしまったし、雪かきは不毛な争いになるだけだし、仕事やっていないとここまで暇になるんだね」
僕も、雪が積もると永遠亭に訪れる患者がいなくなるからって、仕事をはく奪されてしまっている。本来仕事をやっていた時間は、自動的に能力の練習とコミュニケーションを図ることに回ることになった。少しずつだけど霊力の総量は増加している。それでも、まだまだ足りないというのが現状である。このままだと飛びながら戦うというのは厳しいままだ。
みんなとのコミュニケーションも十全に図れているとは言い難い。そもそも、十全という基準が分からないわけなんだけど、やっぱり話せないことは話さないし、言えないことは言えないままの状況だ。具体的にいえば、外の世界での希やなごみのことなんて、全くというほど聞くことができていなかった。
なんとかしなきゃいけない―――そうは思うけれど、どうしたらいいのかも分からない。焦る気持ちと迷う気持ちが僕の未来への歩みを遅くしていた。
「和友は少し休んだ方がいいよ。いつも一生懸命なのを見ていると心配。なんだか張り詰めた糸みたいで、いつかプッツンって切れてしまいそう」
僕って、外から見るとそんな風に見えているんだ。
毎日毎日必死にやっているのがそう見えたのかな。強くなろうとしているのがそう見えたのかな。
でも、その在り方で何も問題はない。それで最終的に希の言うように張り詰めたものが切れてしまっても、それが僕にとっては望むべき世界の在りかただ。
「心配してくれるんだ?」
「当然でしょ? 私たち、もう家族みたいなもんじゃん」
希の「家族」という言葉にハッとさせられる。
家族―――その言葉は、僕にとって大きな意味を持つ言葉だ。僕にとってとても特別な言葉。始まりを作り、終わりを作る言葉。物語をスタートさせたのは家族である。そして、きっと物語に幕を下ろすのも家族になる。
希がどういうつもりで家族という言葉を使ったのか分からないけど。希の言う家族という言葉にどんな意味があるのか僕には判断できないけど、僕の存在を家族として扱ってくれているのだと思うと、とても嬉しかった。
「……ありがとう。でも、大丈夫。それが僕の生き方だからさ」
「「「「……………」」」」
そう言ったら、希は複雑そうな顔をして下を向いて口を閉ざした。
いつの間にか、椛が体を起こして黙ったまま隣にいる。
なごみも同じように体を起こしてただただ僕を見つめている。
霊夢は、静寂の中で横になりながら天井を見つめていた。
「なんでこんなに雪が降るの!? このままじゃ凍死しちゃう! 寒い! 寒いわ! 寒いわー!」
静寂な空気をぶち壊すように、唐突に外から絶叫というべき声が響いてきた。
僕たちの視線が一斉に知った声が響いてくる方向に向けられる。
時間が経つにつれてどんどん声が大きくなってくる。
そして、しばらくすると障子に大きな影が差し、両者を隔てていた扉が開け放たれた。
「和友! 炬燵の中に入れさせて!」
「また来ましたよ……本当に博麗神社を都合のいい場所のように使う人ですね。ここは駆け込み寺ではありませんよ」
顔を赤くして、耳も真っ赤で現れた人物、椛が露骨に嫌そうな顔をして見つめる相手、その存在は―――今泉影狼である。
「同族のくせに意地悪しなくてもいいでしょう?」
「同族ではないです。何を言っているのですか。私とあなたは違う生き物です。一緒にしないでください。そして、帰ってください。ここは満員です」
「別にいいわ。別に貴方に許可をとる必要なんてないもの。私は、和友に聞いているの」
「むっ!」
そう言いきって、影狼さんが寒そうに体を震わせながら隣にやってくる。その様子は、とても寒いということを如実に表していて、指先の冷たさが視覚から読み取れた。
それを椛が理解できないわけもない―――椛も鬼ではない。納得いかなさそうな顔で、明らかに不満そうな顔をして大きなため息をつきながらも、それでも了承の言葉を口に出した。
「はぁ、好きにしてください」
「ね、和友。お姉さんがここに入ってもいいでしょう?」
「いいけど……」
影狼さんは、僕に対してなぜか年上扱いして欲しいというようにお姉さんという言葉を使ってくる。初めて僕と会ってからずっとそう言っている。あの時、一緒の布団で寝て起きてお互いにお互いの存在を認識した時からそう言っている。
なんでそんなことを言うのか理由を尋ねたら、こういっていたように記憶している。
「和友って、なんだか守ってあげたくなる。そんな顔をしているからかな? それとも雰囲気がそうなっているのかな? 群れを成して家族を作る私たちからしたら、和友は弟分扱いになるわ。人間の中の関係で言ってもやっぱり弟ってことじゃないの?」
人間の関係で言ったら弟にはならないよ。そう突っ込みを入れた僕だったが、結果は現状が如実に表しているとおりである。
にしても―――守ってあげたくなる顔をしていると言っていたけど、僕ってそんな顔をしているだろうか。もしかしたら、藍と離れたばかりで少しだけ寂しかったからかもしれない。それとも、影狼さんにあくまでも自分が上位でありたいという想いがあるからだろうか。
弟扱いしてくる理由は僕には分からないけど、ただ影狼さんは嘘をついていないんだろうなって直感的に思った。そう思わせる雰囲気と顔をしている―――それが影狼さんの僕に対する印象だった。
「外、寒くって! いつもだったら入れていた隠れ家は雪に埋もれちゃうし、どうしようもないのよ!」
そんな素直な影狼さんは、歯をがたがたと震わせて寒そうにしている。指先なんて真っ赤で凍傷を起こしそうになっていた。
僕はもう随分長い間暖まっているし、このままこたつにいたら何もやろうというやる気が起きなさそうだったので、影狼さんと入れ替わろうと行動を開始する。すると、それを見ていた希が声を響かせた。
「和友、やめときなって。そこを譲ったら和友の入る場所がなくなるよ? こたつの面積限られているんだしさ」
「ああ、それもそうね。私が入ったら和友が入れなくなるわ。それだと、和友がかわいそうよね」
「少しでも悪い気がするのならそのまま我慢することをお勧めするわ。現状、誰も出ようとしないでしょうし……霊夢は特に」
「あ? 私の神社なのになんで私が出る必要があるのよ。希が出ればいいでしょ?」
「ほらね、こうなる」
「でも、影狼さんも寒そうだしさ……僕は今まで暖まっていたから大丈夫だよ」
「そんなの嫌よ。私の気分が悪くなっちゃうわ。私が入ってそれで和友が押し出されるようなことになったらさすがに悪い気がするもの」
影狼さんは、寒そうに手を擦り合わせながらその場で佇む。寒そうな影狼さんを見ていると代わってあげたいという気持ちがどんどん大きくなってくる。
でも、周りからの視線―――特に椛や希、なごみから寄せられる視線が「動くな」と言っているようで、僕は板挟みの中で身動きが取れなかった。
影狼さんも僕を押し出してまでこたつに入りたいということではなさそうで堪えている。
影狼さんにとっては、我慢するのと自分が温まるのを天秤にかけた場合に、僕を追い出してまで温まるという選択肢を選べないということなのだろう。周りからの視線ももちろんあるだろうが、そこにははっきりとした優先順位が見て取れた。
椛は、自制の利く影狼さんを見てはっきりと言った。
「だったらそこに立っていてください。外よりはこの部屋も十分暖かいはずです。本来なら入れない場所に入れるというだけでも優遇されているのですから我慢してください」
「……そうしようかしら。外の洞穴より暖かいのは本当だもの」
影狼さんは、一瞬納得してこたつから少し離れた位置にある囲炉裏の方へと歩き出す。
しかし、あるところでその両足が杭に打たれたように停止した。
「……いいことを思い付いたわ。そんなことしなくてもこたつに入る方法はあるじゃない」
影狼さんは何かを思いついたようで僕の真後ろまで来る。そして、そっと座り込み、僕の脇に両手を差し込んだ。
嫌な予感がする―――この場合の予感というのは、ある意味予知に近いものがあった。
「こうすればいいのよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「いーや。待っていたら凍死しちゃうわ。和友の体温でぬくぬくするの」
そう言った瞬間、影狼さんの両手に力が入った。僕の体は妖怪の力に負けていとも簡単に浮遊する。
影狼さんは僕の体を包み込むように、僕の体が浮いた分の隙間部分に足を滑り込ませてくる。ちょうど影狼さんの正面に抱きしめられるような形になった。
なんだろう―――とても恥ずかしかった。
抱きしめられることはあっても、頭を撫でられることはあっても、こういう体勢になったことがなかったからなのか―――自分の顔が赤くなっていくのが見なくても分かった。
「ね、これでいいでしょう?」
「な、なっ……何をやっているんですか!」
椛が炬燵から身を乗り出して影狼さんに詰め寄る。今にも手が伸びて掴み上げようとするのではないかと想像してしまうような表情がすぐそばにまで迫っていた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。この方が暖かいし、和友の体温気持ちいいし……」
影狼さんの僕を抱きしめる力がさらに強くなる。
背中に押し当てられる柔らかさと温かさ。
伝わってくる体温。
まるで、赤ん坊になったみたいだ。
守られている。
包まれている。
抱きしめられているのとはまた違う感覚が僕の心の中に根付いてくる。
温かくて。
優しくて。
あまりにも一方的な想いが背中から温度と一緒に伝わってくる。
影狼さんの心臓の音が僕の心臓と同期する。
「和友さんも何やっているのですか! 早く振り払ってください!」
「うわ、こういう和友の反応初めて見た。なんだかんだで男の子なんだねー。顔真っ赤じゃん」
「……影狼さん、恥ずかしいんだけど」
「私は恥ずかしくないよ? 温かくて気持ちいいわ。和友も気持ちいいでしょう? 私の体温で温かくてぬくぬく、背中ポカポカでしょう?」
影狼さんの指先や足先の末端は冷たすぎて触れたら思わず離してしまいそうだけど、体の芯だけはしっかりと生きているということを示すように温度を放っている。命の炎を燃やしている。
両者の温度が平衡状態に移行する。
体が温まってくると、唐突に瞼が重くなり始めた。安心と疲労からくるだるさが、眠気となって襲ってくる。
眠気に襲われているのを知ってか知らずか、さらに影狼さんが後ろからゆらゆらとゆっくり揺さぶってくる。まるでゆりかごに乗ったみたいに心地よくて、重くなった瞼にあらがうこともできずに、視界が完全に閉ざされた。
僕の意識は、そのまままどろみの中に消えていった。
「あれ……」
ここはどこだろうか。
そっと空を仰いでみれば、色彩感覚のずれた空がうごめいている。
地上に目をやってみれば、見渡す限りの海が広がっている。
そして、その中には標識と立札が存在感を放ってそこにある。
いくつかの標識が錆びた部分からボロボロになっている。
ああ、ここは―――僕のよく知っている世界だ。
「僕の心の中か……こうして自分から入ったのはこれで三回目かな?」
1度目は、2年前に紫と一緒に藍を探しに入ったとき。
2度目は、紅魔館でフランに祈りを捧げていたとき。
ただ、無意識で入り込んだという意味ではこれが初めてと言えなくもない。そういう意味では、今回の心の中に入り込んだ現象は非常に特殊な状況だった。
「確か、影狼さんの腕の中で眠っちゃったんだっけ?」
影狼さんに包まれてこたつで一緒にいたところから記憶がぷっつりと消えている。それ以降のことを思い出そうと思っても、何一つ記憶が見つからなかった。
だとしたら、どうして今の状況が生れているのだろうか。どうして心の中に入っているのだろうか。
「なんで僕は、心の中に来たんだろう? 心の中に入ってやらないといけない事は今のところないはずだし、何より入ろうとも思っていないのにどうやって入り込んだんだろう?」
どうして自分の心の中になんていうと、なんとも冗談染みているように感じるけど、心の中に入るためにはある程度自分の深層に潜り込む必要がある。眠ってしまって心の中に入り込むなんてことは基本的にあり得ない。なにせ、眠ることで見ることができるのはあくまでも夢だからだ。心の中が別の形で具現化され、別の形になったものが見えるだけなのである。
今みたいに、本当に心の中に入ろうと思ったら、深層心理に潜るということをしなければならない。
それは、紫の境界を操る能力のように物理的に。
それは、深い精神集中のように精神的に。
「分からないな……」
自問自答をしてみても答えは出てこない。出てこないのも当然だ。僕個人には心の中に入る目的がないのだから。
だとしたらどうやって僕は、心の中に入ったのだろうか。
紫のような存在に連れられた。
無意識のうちに心に入ろうとしていた。
大きく二つの可能性が考えられるけど、どうなのだろうか。前者だと誰が呼び込んだのかということになる。後者だと何かしら潜在的に心の中でやらなければならないことがあると思っていることになる。
連れられてきた方法を、あるいは入った方法を判断できる要素はこの世界に何一つない。
連れられてきたにしても。
自分から入ったとしても。
そこがはっきりしたところで心の中に入れられた、あるいは入った目的は分からない。
ただ、目的も理由も分からない状況においてこれだけははっきりしていた。
このまま、現実の世界に戻るという案は無いということである。
「どっちにしても、理由が分からないと外には出られないかな。自分から潜り込んだのならともかく、無意識に入り込んだとすると、どう出ていいのか分からないし」
今の僕は、心の中から出る術を持ち合わせていない。どうすれば自分の心の中から出られるのか知らない。1回目だったら紫を見つけるという方法で。二回目だったら祈るのをやめるという方法で。そのどちらもが、入った方法と同じ方法で行き来している。
今回の場合は、入った理由や方法が分からないため、同時に出る方法が分からなくなっている。誰かに連れられてきたのなら―――その誰かを見つけて出してもらわなければならない。無意識のうちに入り込んだのであれば、その原因を取り除かなければならないのである。
だとすれば、やらなければならないことは一つである。
「さて、とりあえず動くか」
僕は、3度目となる心の中をさまよい始めた。
海抜3メートルのあたりで標識の合間を縫うように飛行する。
「こうしてみると、随分と標識の数が減ったね。ごめんね、覚えてあげられなかった。だけど、覚えてあげられなかったというその後悔は最後までもっていくよ。これまでと同じように、最後まで抱えていくから」
2年前のあの時から随分と標識の数は減った。
守るべき記憶のいくつかは失われた。
そして、もうすぐその全てが消失する時がやってくる。
努力と時間をかけて積み上げた僕の歴史に幕が下りる。
こうして標識が朽ちていくのをまざまざと見せつけられると、自分の立場がより明確化されているようだった。
だけど、焦りの感情はなかった。急がなければならないと思いながらも、どうなっても満足して終わりを迎える自信があったから。終わりの形は何であれ、後悔だけは残らないと分かっていたから。
「最後はみんなと一緒に。これまで積み重ねてきた僕の気持ちと、みんなの記憶と一緒に眠るんだ」
後悔を重ね、苦労をして、ここまで来たのだから。
後悔をしたから努力をした。
悔しかったから頑張った。
その全ての感情を抱えて飛んできた。
「抱えてきた積み荷を降ろす―――その最後に後悔が残るわけがない」
失った標識に、記憶に―――誓いを立てる。
進むべき道を示し、足を進める。
その歩む道に後悔があったとしても。
その歩む道の最後には何も残らないのだから。
標識の合間を縫うように飛行して約5分が経過した。
相変わらず何も変化は見当たらない。
このまま飛び続けてもおそらく何も見つからないことを薄々感じ始めたとき―――僕の頭の隅に何か違和感が通り抜けた。
「あっちに誰かいる?」
それはよく知っている感覚だった。
あの時覚えたものと同じ違和感。
名前と一緒に刻み込んだ、記憶の断片。
僕の頭の中は、一つの回答を導き出した。
「そっか、僕をここに呼んだのは……」
近づいてくる。
距離が詰められている。
違和感が大きくなってくる。
やっぱり―――そんな言葉が一番似合っている。
なにせ、ここで僕を見つけることができるのは―――君だけなんだから。
「おーい!!」
わざとらしく後ろを向いていた背中に声が届いた。
良く知った声色である。
幻想郷で最も多く聞いた声音である。
僕は、声が響いた方向に振り向き、頭の中でイメージできている飛んできた存在の姿を視界に収めた。
「笹原、和友といったか。こんなところで何をしている?」
ああ、やっぱりだった。
やっぱり藍だった。
「藍さん……あなたこそ、ここに何をしにきたのですか?」
「いつの間にかこのよく分からない世界に迷い込んでしまってな。橙とこたつで寝てしまったところまでは覚えているのだが、どうにも後の記憶がない」
「私もこたつで寝てしまって、起きたらこんな状況でした」
「そうか……どうしたものだろうか。帰る方法が分からないのだが……笹原は何か分かるか?」
「ごめんなさい、私も来たばかりで」
なんて嘘みたいな本当の話をする。
ここが僕の心の中の世界だとは言わない。あくまでも、何も知らない体で話を進める。分かっていなくても、知っていなくても、ここに藍がいるという事実だけで僕は嬉しかったのだから。そこに、理解の差は関係なかったのだから。
「色々考えてみたのだが、ここは夢の世界なのではないだろうか? 居心地は悪くない。むしろ心地よい場所だ。気持ち悪さを感じるかと思ったが、思った以上に拒否感はない。それはきっと、ここが心のどこかで望んでいる場所だからだと思うのだ」
藍は、少し嬉しそうな顔で話をする。
僕は、藍がこの世界にいると分かった瞬間に、心の中に入ってしまった理由が分かった。
「それに、ちょうど笹原のことを考えていたときに眠ってしまったからな。人里で会ってからずっと考えていた。どこかで会った気がする笹原のことをな」
僕をこの世界に呼んだのは、藍の方だ。
藍が僕を呼んだんだ。
記憶を失っても心の距離は変わらないと言わんばかりに、見せつけるような藍の笑顔が目の前にある。
「お、おい。急に泣き出してどうした? 鬼にでも追いかけられたか?」
知らず知らずのうちに涙が流れていた。
慌てて瞳から流れた涙を袖でふき取る。
そんな僕にそっと藍の手が伸びる。
藍の手は頭の上に乗り、ぐりぐりと力強く撫でられた。
「安心しろ。私が守ってやるからな」
その言葉は、何よりも力強く輝きを放っていた。
あの時のように抱きしめられることはなかったけど。
あの時のように抱きしめることもなかったけど。
そこには、確かな温かさがあった。
「最近橙の奴がな、随分と甘えん坊になって常に隣のいようとするのだ。どうしたものか私には判断がつかなくて紫様に相談したが……任せるの一点張りでどうしたものだろうか?」
「藍さんも、甘えられるのはまんざらでもないんでしょう?」
「それはそうだが……なんだか私自身も堕落しているようで、頭の片隅から声がするのだ―――依存するなと。戻れなくなるぞと」
「程度の問題なのかな。橙さんの方にも甘える要因があるんじゃないかな。理由というか、話を直接してみると何か分かるかも?」
どれほど会話を続けただろうか。
どれほどの時間を埋められただろうか。
藍の記憶を消したあの夜から今までの穴をどれほど塞げただろうか。
紫はあれからも情報をちょくちょく届けてくれる。
こちらの情報もちょくちょく渡している。
だけど、藍から見た世界もまた新鮮で、そこにいる藍が笑っているのが想像できて、僕まで楽しくなりそうだった。
紫の話、藍の話、橙の話、そして僕の話。
もともと家族だった一団はちょっとだけバラバラになってしまったけど、こうして繋がっている。紫とはスキマで。藍とは心で。橙とは約束で。みんなと繋がっている。
藍が僕を呼べたのは、心が繋がったままだったからだろう。そして、僕の世界に迷い込んできたから、あるいは僕の心の中に入ってきたから。だから―――僕はこうして心の中に入ったのだろう。あるいは、無意識のうちに藍を呼んでしまったのかもしれない。なんにせよ、まるで―――夢を見ているようだった。
「橙と真面目な話……できるだろうか」
「できるよ。橙さんだってもう大人だよ。約束も守れる、大事なものを持っている。ちゃんとした妖怪なんだから」
橙は、僕との約束を守ってくれている。
今の藍の様子を見ていれば―――いいや、そんなもの見なくても橙が僕との約束を守ってくれることを疑う必要性なんてなかった。
橙は、誰よりも家族全体が見えているのだから。1人の辛さを知っているのだから。家族の大切さを分かっているのだから。僕にとっての約束の意味を理解しているのだから。
「会ったこともないだろうに、どうしてそこまで信頼できるのだ?」
会ったことがなかったら信頼なんてできないよ。そう答えたくなる気持ちを必死に堪える。
会えていなかったら。出会うことができていなかったら。そんなことが想像できないぐらいに僕たちは繋がっている。
藍はどうだろうか。
僕たちが出会えていなかったら、どうなっていたと思う?
橙がいなかったらどうなっていたと思う?
みんなが出会えていなかったらどうなっていたと思う?
僕たちが家族になっていなかったらどうなっていたと思う?
いつか―――そんな話ができたらいいね。
僕たちがまた同じ景色を見られるようになったら、その時全員で、縁側で空を見上げながら―――あの時のように話ができるといいね。
僕たちが家族になったあの時と同じように。
「ごめんね、そろそろ出ようと思うんだけどいいかな?」
「何、出られるのか? 和友は出られる方法を見つけたのか?」
ここから出る方法は、考えてみればすぐに思いついた。
どうして心の中に入ったのかを理解していれば、すぐに答えが出る問題だった。
「簡単だよ。お別れすればいいんだ」
「どういうことだ?」
「僕と藍さんがお別れをすればいい。ここは、藍さんが僕に会いたいと思って作り出した空間なのだから。お別れすればきっと戻れるよ」
僕の言葉に藍の表情が若干曇る。
そんな顔をしないで。
僕たちはもう出会ったのだから。
お別れは―――また会うための挨拶だから。
「私はもう少し話をしていたいのだが……」
「わがまま言わないで。何も今回限りじゃないよ。また会えるから、だから今はお別れだ。今度は現実の世界で。次に会うときには、この夢が現実になっているはずだから。また今度――またね、のお別れだよ」
そうだ、僕たちが会うべきは僕の心の世界ではない。
少し寂しそうにする藍に向けて手を振り、笑みを浮かべる。
「またね、藍」
「また、な、和友」
そういって手を振る。
すると世界が闇に包まれて真っ暗になった。
ああ、なんて夢みたいな時だっただろうか。
「願わくば―――これが正夢になりますように」
今まで願ったことのない想いを言葉にする。
少しだけ名残惜しく思いながら、きっと繋がっている真っ暗な空を見上げた。
しばらくすると暗闇に光が差してきた。
うっすらとぼやける視界に瞬きを繰り返す。
そこはもう無秩序な世界ではない。
秩序ある、境界線の区切られた世界。
今の家族がいる―――僕の世界。
「やっと起きたわね。このお寝坊さんめ。お姉さんにあまり迷惑かけちゃいけないわよ」
「さっきまで一緒になって寝ていたあなたがそれを言いますか?」
「椛はいつも私に対して辛辣よね。同族なのに」
「だから同族ではありません!」
「犬が二人して煩いわね。今からでも妖怪退治を始めてもいいのよ? 痛めつけられたくなかったら黙っていなさい」
「ほらほら、和友! もう晩御飯ができるわよ。今日は私の自信作だから」
(ほとんど作ったのは私です)
目の前には、湯気の上がっている鍋があった。
周りには、いつも通りのやり取りがあった。いつも通りの景色があった。いつも通りの情景があった。
これが―――今の僕にとっての家族。
「ねぇ、もちろん僕の分もあるんだよね?」
「「「「「当たり前でしょ?」」」」」
そんな当たり前のように返される言葉に―――また目頭が熱くなった。
家族っていいですね。
形は変わっても、離れても、何かを共有して繋がっている。
書いていて少し優しい気持ちになれました。
次回から妖々夢に入っていきます。
妖々夢で登場するキャラを考えてみると
アリスや妖夢、そして幽々子が今まで一度も名前すら出したことのない事実にちょっと驚いてしまいます。
いずれも好きなキャラクターではあるのですが、違和感なく作品に登場させるのが難しいというのと、話が長くなるので省いたというのが、大きな原因ですね。
妖々夢では
椛が活躍する予定です。
希となごみは、もうちょっと後で活躍の場があります。
感想については、いつでもお待ちしております。