ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

12 / 138
迷子を見つけた、二人になった

「違和感まで一番近い所の標識まで来たけど、目的地はさらに先だな」

 

 

 少年は、すでに違和感に一番近い場所まで標識を使って移動していた。具体的な距離としては、数千キロは進んでいるだろう。

 しかし、最初来た時と比べて大きく距離が離れているにも関わらず、景色は変化する様子を一切見せていない。少年の世界は、時間変化のみで距離による依存性を持ち合わせていないようだった。

 

 

「ん~誰がいるんだろう」

 

 

 少年は、変わらない心の中の景色を見つめながら違和感の中心地へと視線を送る。

 目的地となる誰かがいるところまでは、一番近くの標識からさらに400メートルほどの距離があった。

 

 

「いるのは分かるけど、誰かまでは分からないな」

 

 

 まだ少しばかり距離があるため、誰がいるのかまでは確認することができない。少年の視力では、もう少し近づかなければそこにいるのが紫なのか藍なのか確認することはできなかった。

 

 

「もう少し目がよかったら誰か分かったのに」

 

 

 少年は、愚痴をこぼしながら目的地に向かって真っすぐ歩いていく。

 この世界での交通手段は、この標識を使った移動以外を除外した場合、歩行という手段しか残らない。以前にも説明した通り、飛んだり瞬間移動したりすることはできない。

 

 ここでもう一度言っておくが、実際のところ普通の人間の心の中であれば飛ぶことが可能である。

 心の中とは精神の世界、それは―――夢の中の世界によく似ている。願えば叶う、呪えば朽ちる、想い一つでなんでも成し遂げることができるのが精神世界である。

 しかし、少年の心の世界では飛ぶことは叶わない。

 よくよく少年の言っていたことを思い出してほしい、病室での話を思い出してほしい。少年は夢の中で飛ぶことができていなかった。飛べるものならば、少年は何度も夢の中で転落死を体験してなどいない。同じ精神世界である夢の中ですら飛ぶことのできなかった少年は、心の中でも飛ぶことができないのである。

 それは、少年の世界に存在するもの全てに適用される。何も少年だけが飛べないわけではない、現在心の中に入っている藍も紫も、空を飛ぶことはできないだろう。

 そうなっているのは、少年の心の中があくまで現実に接近していることが原因であり、物理現象に逆らうようなことはできないからである。

 そういった意味では、標識が非常に特別な役割を成しているということが分かる。標識は、明確に物理現象を超越しているのだ、夢の中でできなかった瞬間移動という物理法則を無視した現象を引き起こしているのである。

 少年の心の中で行きたいところがあるのであれば、標識で一番近い場所まで移動した後に、歩いていくのがいいだろう。現代でいえば、交通手段がバスだけの状態で移動するような感覚で、バスで最寄りのバス停まで移動した後に歩いて目的地に移動するのが適切である。

 

 

「うん、僕が感じていた違和感は間違っていなかったみたいだね」

 

 

 少年は、目的地に近づいて行くと違和感がどんどん大きくなっているのが感じ取れた。距離が近づくにつれて遠目に何かがあるのが確認できるようになってくる。

 少年は、半分ほど距離を詰めたところで、目に見え始めた目標物に向かって足を一歩一歩進ませていった。

 

 

「誰だろう?」

 

 

 目標地点には、膝を抱えてうずくまった人が一人だけいるのが見えた。

 その人物は、顔をまっすぐ下に向け、膝に埋めるようにしてくっ付けている。一度たりとも顔を上に上げることもなく、呼吸をしているのかどうかですら分からないほどに微動だにしていない。

 少年は、対象の人物の顔が確認できず、それが紫なのか藍なのか判別がつかなかった。

 

 

「やっと見つけた」

 

 

 少年は、さらに半分ほど距離を詰めたところで遠目にはっきりとした人の姿を確認することができた。うずくまっている人物が誰なのか識別した。

 

 

「こっちがこいつの方か」

 

 

 少年が最初に向かったところにいたのは―――藍だった。まだしっかりと確認するまでは断定できないが、少年はその人物が藍であると判断した。

 藍の衣服や帽子はボロボロになっており、雰囲気が廃れ、随分と疲れている様子だった。

 

 

「じゃああっちは、あいつの方だな」

 

 

 少年は、ボロボロの藍を気に留めることなく、悠長に次のことに思考を巡らせる。

 少年は、別に‘藍を’探しに来たわけではない。少年の目的は、‘紫と藍’を探し出すことである。

 少年は、違和感を探してここまで辿り着いただけで、ここにいるのが紫なのか藍なのかは分からなかった。さらに言えば、違和感の原因が二人によるものではなかった場合、見つかっていたのは別のものだっただろう。

 少年は、感じていた違和感が入ってきた二人の存在であることに少しながらの安堵を覚えながら次の目的地である紫のことに気持ちを向け始めていた。

 

 

「こいつを連れてあいつの所にいけばそれで終わりか。これで一件落着だね。先にこいつが見つかってよかった、二度手間にならなくて済む」

 

 

 少年は、藍を見つけたことで少しだけ機嫌を良くした。

 もし最初に少年が探し当てたのが紫であったならば、紫を見つけた後で再び藍を探しに行き、紫のもとに戻らなければならなくなる。

 どうしてそんな面倒なことになるかというと、前提条件として不安要素を排除するために紫を動かさないという制約の下で活動しており、連絡を取る手段がない以上紫を動かすことは叶わないからである。

 そうなれば、紫のところに行く手間が1度分だけ増えて時間がより必要になる。そういった意味では、藍が先に見つかって時間の節約になった。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、藍の目の前に辿り着く。藍は少年が接近しても気づいた様子もなく、うずくまったままだった。

 少年は、藍の正面で足を止めて立ち止まり、声をかけることもせず、藍に向かって手を伸ばした。

 少年の手は、うずくまった藍の頭にポンとのせられた。優しくそっと触れるように置かれた。少年の手が乗ったことによって藍の被っているボロボロになった帽子が潰れて中に入っている空気が抜けていく。

 藍は、少年の手が触れた瞬間にビクッと反応した。

 

 

「やっと見つけた」

 

「っ……」

 

「ほら、帰るよ。あいつも待っている」

 

 

 少年がなかなか動き出そうとしない藍に再び声をかけると、藍は少年の声に反応するように僅かに声帯を震わせた。

 藍は、再度にわたる少年の声掛けの後、頭の上に少年の手を置いた状態のまま泣き腫らした顔を上げ、酷くゆがんだ表情を惜しげもなく少年に晒した。

 

 

「ささはらぁ……」

 

「よしよし、もう大丈夫だからな。もう、迷子じゃない、僕がここにいるから一人じゃないよ」

 

 

 少年は、泣き腫らした藍の頭をなでながら優しい言葉をかけた。

 

 

「笹原、笹原あっ!」

 

「ほら、もう大丈夫だから」

 

「ううっ、ささはらぁ……私は、私は……」

 

「ここにいるよ。大丈夫、ここにいるから」

 

 

 藍は、唇をかみしめ流れ出る涙を堪えながら少年の名前を呼ぶ、頭に残っている少年の名を呼ぶ。

 藍は、少年から向けられる優しい言葉に湧き上がる思いを堪え切れず、勢いよく涙を流す。酷くなった顔をさらにぐしゃぐしゃにして泣きだしながら叫び出した。

 少年は、子供のように泣きじゃくる藍をただただ優しい表情で見つめていた。

 

 

「ささはらぁ!」

 

「あ、危ない!」

 

 

 藍は、声をあげながら少年に抱きつく。少年は、いきなり抱き付いてきた藍の勢いに押されて体勢を崩しそうになったものの、必死に藍を支えた。

 藍は少年に力強く縋りつき、迷子の子供が親に出会った時のように泣きじゃくる。少年と藍の身長差は10cm以上あるが、少年は立った状態で藍は膝を折っているために、藍は少年の胸に抱きつく形になっていた。

 

 

「ほら、もう大丈夫だから。何も心配しなくていい、何処にもいったりしないから」

 

 

 少年は、藍から抱きしめられた衝撃に耐えつつ、変わらぬ笑顔を藍へと向ける。

 

 

「ちゃんと帰れるから、ちゃんと連れて行ってやるから」

 

 

 少年は、優しく声をかけながら藍の頭を両手で抱きしめる。全体を包み込むようにして、できるだけ腕を伸ばして藍の頭全体を覆う。

 藍の頭は、すっぽりと少年の胸のなかに収まった。

 少年は、泣きながら抱き付いている藍の様子に過去の自分に想いをはせ、子供のころの自分を懐古する。

 少年は、今でも思い出せる記憶を懐かしみながら藍を抱きしめ返したままの状態で、優しい顔をして優しい声で藍に語りかけ始めた。

 

 

「寂しかったよな。一人でずっと我慢してきたんだもんな。何もない場所で、誰もいない場所で、たった一人で頑張ってきたんだもんな」

 

「ああ、ああっ!」

 

 

 藍は、少年から優しく諭すように言葉を投げかけられて感情を爆発させる。声を張り上げ、泣き叫び、涙を隠すように、孤独を癒すようにより強く少年に抱き付いた。

 少年は、少しだけ藍を抱きしめる手に力を入れる。しっかりと離さないというように泣きじゃくる藍を抱きしめた。

 

 

「俺が見つけてやったよ。お前はちゃんとここにいる。一人じゃない。もう、一人じゃない。大丈夫だから、大丈夫だからな。もう大丈夫だから」

 

 

 少年は、子供のように大声で泣く藍を抱きしめたまま藍の涙にもらい泣きするように涙を瞳に浮かべていた。

 

 

「大丈夫、大丈夫、大丈夫」

 

 

 少年は、藍が泣き止むまで大丈夫という言葉をかけ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

「ぐずっ……ううっ……」

 

 

 少年の胸で泣き続けた藍は、全ての涙を流しきったのか、少年に抱き着いていた腕を緩めてゆっくりと離れた。

 

 

「ありがとう……もう、大丈夫だ」

 

「そっか、それなら良かった」

 

 

 少年は、藍の力が抜けるのを感じて抱きしめている腕の力を抜いた。

 藍は、どこか名残惜しそうにゆっくりと少年と距離をとると、下げていた顔を上げて折っていた足を伸ばす。泣きはらした藍の目元は赤くなっていた。

 少年は藍の顔を見上げる。少年の身長は150cmほどしかなく、藍の身長は少年に比べれば高いため、藍の顔を見るのに軽く見上げる形になった。

 

 

「見苦しいところを見せたな。柄にもなく泣いてしまった……それも、笹原みたいな子供相手に泣いてしまっては面目丸つぶれだな」

 

 

 藍は、先程までの出来事を払しょくするように無理矢理に笑顔を作り、必死の強がりを見せる。しかし、本心としては子供のように泣きじゃくり少年に抱き付いてしまったことが恥ずかしく、穴に入れるなら入りたい気持ちだった。

 藍の恥ずかしさに押しつぶされそうになっている気持ちは、極自然なものである。長年生きた妖怪が若干12歳の少年に抱きしめられながら泣きじゃくるなど、恥ずかし過ぎて死んでしまうほどのことであろう。

 しかし、言いかえればそれだけ辛かったということである。恥ずかしさや体裁を気にしていられないほど、苦しかったということなのである。

 だが、少年の心の中に隠れる場所など存在しない。少年の世界は真っ平らで、逃げる場所などなかった。

 そのうえ藍は、どの道少年から離れることができないのだ。この世界から外に出るためには、少年についてかなければならないのだから。

 藍は、恥ずかしさに暴れ出す感情を必死に抑えながら少年に話しかける。

 

 

「笹原は、こんな私を軽蔑するか?」

 

「気にしなくていいよ。誰にだって弱い時があるからね。特に一人でずっといると心が寒くて弱っちゃうから」

 

「笹原、私は……」

 

「無理に何かを言おうとしなくていいよ。大体分かっているから、ちゃんと分かっているからね」

 

 

 藍から見た少年は、優しそうな雰囲気を保ったままだった。

 藍は、思わず沸き立つ思いを押さえつけ平常心を装う。

 少年の印象は、以前見た少年の印象と全く違った雰囲気で、全てを包み込むような柔らかな雰囲気を持っていた。

 

 

「それに、面目とか気にしている状態じゃなかっただろうし、こんな不気味で何もない場所で独りぼっちになるのは、大分辛いものがあるからね」

 

 

 少年は、あくまで藍に優しく、文句も不平も不満も何一つ言わなかった。

 

 

「むしろ出せるときに出した方がいいよ。無理をし過ぎるといつか壊れてしまうから」

 

「経験があるのか?」

 

「経験があるのかと言われるとどう答えればいいのか分からないけど……」

 

 

 少年はまだ12歳である。にもかかわらず、無理をし過ぎて壊れるようなことを体験しているのだろうか。藍は、すでに経験を持っているような少年の言葉に疑問を持った。

 

 

「なんとなく分かるってだけだよ。心が軋んでいるのに、それに堪えなきゃいけない辛さを知っているだけ」

 

「そうか。笹原も、いろいろあったのだな」

 

 

 少年は、少し答え辛そうにしながらも藍の質問に回答した。

 藍は、泣き腫らした目で少年の目を見つめる。少年は、相変わらず優しい笑顔を作っているだけで、特に雰囲気を変える様子もなかった。

 藍は、少年の優しい表情を見て先程までの出来事を思い返し、少年の胸の中で涙を流した時間を振り返った。

 少年との触れ合いは、壊れた心の隙間を埋めていくような、満たされるような不思議な感覚だった。そして同時に、先程のことを思い出すと少年の顔を直視できず、頬を少しだけ赤く染めて視線を逸らす。

 

 

「っ……」

 

「どうしたの?」

 

「なっ、なんでもないっ……」

 

 

 藍は、恥ずかしそうに慌てて少年の顔から目線を外す。

 少年は、視線をそらした藍を不思議そうに見つめる。藍は、視界の端に表情の変わらない少年の顔を捉えていた。

 

 

「なんで私ばかり、こんな気持ちにならなければならないのだ……」

 

 

 藍は、ドギマギする感覚に戸惑う。同時に、自分がこんな思いをしているのに少年の様子が一切変わらないことに不公平を感じていた。

 先程のような出来事があって、どうしてこうも少年が平常心でいられるのか分からなかった。

 少年は、自身が抱きついても表情を変えず平然としている、自分がこれほどに恥ずかしい思いをしているのに、少年だけが何も思っていないような雰囲気をしている。

 藍は、一方的な想いに留まっている状況が歯がゆくて仕方がなかった。

 

 

「それにしても、その、笹原は……こういうことに慣れているのか?」

 

「?」

 

 

 藍は、頬をわずかに染めたまま少年に視線を向けて恥ずかしそうに口を開いたが、少年はよく分からないといった顔をしていた。

 少年は、藍に抱きしめられたことも慰めたことも何一つ気にしてはいない様子である。

 藍は、察しの悪い少年に顔を赤くしながら説明する。

 

 

「笹原は、私が抱きついても恥ずかしがったりしなかったし、泣いている私に対する対応がすごく慣れているように感じたのだが……」

 

「ああ、そういうことか。何のことはないよ、藍の様子を見ていたら昔の自分を思い出したんだ」

 

「昔の笹原……?」

 

「さっきのは、母親の受け売りなんだよ」

 

 

 少年は、過去を思い返す。小さかった頃に抱きしめられた記憶を、懐かしい暖かさを思い出す。誰よりも優しかった母親のことを想起した。

 少年の表情は、先程の優しい表情と異なり物憂げな表情に変わっている。藍は、初めて表情を変えた少年の顔を見つめた。

 

 

「そう、母さんはいつだって探しに来てくれた」

 

 

 言葉に表すことで苦しんでいた少年を包み込んだ母親の優しさが蘇ってきた。はっきりとした感覚ではないが、確かなものがそこにある。苦しかった時、辛かった時に、包み込んでくれた優しさがそこにはあった。

 少年が藍に対して優しくできたのは、他でもない少年がこれまでに受けた母親の優しさの影響だった。受けた優しさが、少年を優しくさせた。

 

 

「俺が迷子になった時に母親が俺を探してくれて、さっきみたいに抱きしめてくれたんだ」

 

 

 少年は、噛みしめるようにゆっくりと声を発する。何度も何度も感じた温かさを思い返しながら口を開く。

 

 

「あなたはここにいるんだって。どこにもいったりしない。あなたは、ここにいるんだって。教えてくれたんだ。俺を見つけてくれたんだ」

 

 

 少年は、そこまで話すとどこか寂しそうな表情を一転させて子供っぽい表情を作った。

 

 

「俺は、それの真似をしただけだよ。効いただろ?」

 

「思い返してみるとすごく恥ずかしいが、とんでもない効き目だったよ」

 

 

 少年は、少し笑いながら言った。藍は、少年の笑顔につられるように笑う。

 

 

「母親は優しかったのだな。笹原はよい親に恵まれたな」

 

「俺の親だぞ、当たり前だろ。それに'母親は'じゃなくて父親もだよ」

 

 

 藍は、少年の母親について称賛の言葉を贈る。

 昨日の出来事を紫から聞いていない藍は、少年のことを何も知っていない藍は、少年の事情をくみ取ることもせずに、少年の親のことを褒めたたえた。藍の言葉は、少年の両親がすでに死んでいることを知らない、知らないからこそ出た言葉であった。

 少年は、嬉しそうに藍の言葉を真っ直ぐに受け取る、本心から嬉しそうに藍の両親を褒める言葉に反応した。

 少年も両親がすでに死んでいることを伝えることなく、両親について自慢した。それは、単純に伝えても何も変わらないから、話しても雰囲気がよくなるわけでも、誰かが得するわけでもないから。

 勿論、両親が死んでしまったことについて何とも思ってないわけではない。だけど、藍に対して両親が死んでいることを伝えるのは、何かおかしいような気がしたのだ。

 

 

「こんなところで足を止めたまま話をしているのもなんだし、行くよ。道中歩きながらでも話はできるからね」

 

 

 少年は、藍の言葉に訂正をいれたところで周りを見渡し、人差し指で藍を指さす。

 

 

「それにお前は、お前の家に帰らないといけないからな」

 

 

 藍は、指さす少年の指を右手でつかみ、人に向けて指をさすなと言わんばかりに物理的に下ろした。

 

 

「ご、ごめんなさい」

 

「よろしい。だが、私が気になったのはそこだけではないぞ」

 

 

 少年は、藍に対して失礼なことをしたと感づき、申し訳なさそうにする。通常の状態の藍であれば、ここで人に指をさすなと叱るだろう、礼儀知らずだと罵るかもしれない。

 だが、今の藍には、湧き上がってくる怒りなど微塵もなかった。

 

 

「私だけでなく、笹原も一緒に帰るんだからな。私たちの帰る場所は同じなのだから」

 

「あ、そっか。俺も出るんだった」

 

 

 藍は、少年の言葉に微笑みながら話を進める。

 少年は、藍に言われるまで自分が外に出なければならいことを完全に忘れていた。忘れてしまうほどに順応していた。

 普通の人間ならば、こんなあやふやな世界の中で長い時間過ごしたいなど微塵も思わないため、出たいという気持ち一色に染まっているのが普通である。

 少なくとも、ここに留まろうとはしないだろう。一刻も早くこの気持ちの悪い世界から出たいと願い、出たいという気持ちを途切れさせることはないはずである。

 しかし、それは少年には当てはまらない。

 少年は誰よりもこの世界に順応している。少年が外に出ることを忘れるほどにこの世界に適応しているのは、ここが少年自身の心の中の世界であるためだろう。

 少年はこの過酷な状況の中でも、自分の部屋にいるような感覚であり、過ごしやすい環境にいるのである。

 

 

 

「ふふっ。自分のことを忘れていたのか?」

 

「はははっ、完全に忘れていたよ。ずっと探して連れて行くことばかり考えていたから、自分のことを忘れていた」

 

 

 藍は、どこか抜けている少年を笑う。

 藍の心は早くも笑えるぐらいには気持ちが落ち着き始めていた。少年は、笑えるようになった藍を見て思ったよりも精神的に酷くないようだと少しだけ安堵した。

 

 

「そっか、俺も帰るんだな」

 

「そうだ、一緒に帰るのだぞ」

 

 

 少年が自分自身に確認をとるように僅かに呟くと、藍は少年の独り言を拾い上げた。少年は、拾われると思ってなかった言葉に反応してくれた藍に対して嬉しそうに頬を持ち上げる。

 

 

「それじゃあ、行こうか。俺がちゃんと外へ連れていくから」

 

「頼む」

 

 

 藍は、揺らがないしっかりとした表情で少年に答えた。

 少年がやらなければならないことは、単に藍を見つけることだけではない。藍を発見することができたからといってこれで終わりというわけではないのである。藍を心の中から出してやるまでは、終わりではないのだ。

 

 遠足は帰るまでが遠足、そういうことである。

 

 ここは心の中の世界―――現実には体だけが取り残されることだろう。現実に置いてきている3人の体は、動くことなく固まっているはずである。夢を見るように、皆が体を硬直させて固まっているはずである。

 まさかこのまま、少年の心の中の世界でずっと過ごしていくわけにもいかない。精神的に苦しいということもそうであるが、現実の体が壊れてしまえば心も無くなってしまう。

 ここにずっととどまっていれば、現実の肉体が死ぬことによって世界が崩壊し、中にいる3人も死んでしまうことになりかねないのだから。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。