ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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心の中は人それぞれ、形、色、中身が違っている。
心の中はA=Bは決して成り立たず、A≠Bが成り立っている世界である。


心の中に入った、無秩序な世界があった

 少年の左前には、瞳から涙を流して固まっている藍の姿がある。そして正面には、動かない藍を見つめて同様に固まっている紫の姿があった。

 紫は、藍の姿を見たまま呆然としている。どうやら紫にとっても少年の心の中に入った藍がここまでの状況になってしまうことは予想外だったらしい。

 ただ、紫とは対照的に少年は目の前に広がっている異質な光景を前にしても、当然のように正座をしたまま炬燵の側に座っていた。瞳から涙を流す藍の姿を見ても、動かずに瞬きだけを繰り返し、座っている。

 そんな、時間の止まった空間の中で、数十秒の時間が経過した。

 

 

「さて、探しに行かないとね」

 

 

 止まった時間の中で―――少年が動き出す。

 唯一動きだした少年は、無表情のまま右手を前に出し、炬燵の上に力なく項垂れている藍の右手に触れようと伸ばす。狙いを定めたように一直線に目標地点に手を伸ばす。そして、藍の右手の下に潜るように右手を入れ込み、藍の右手を伸ばした右手ですくうように持ちあげていった。

 

 

「重い……」

 

 

 少年は藍の手が予想以上の重さを感じていた。

 完全に力の抜けた手は、無意識に落ちないように支えようとする藍の力を一切受けず、本来の重力に従って地球に引っ張られている。

 少年は、本来の重さになっている藍の右手を持ちあげようと力を入れた。

 

 

「うわっ!」

 

 

 少年が藍の手を重力に逆らって上に持ち上げようとすると、藍の手がするりと少年の手を離れ、こぼれ落ちそうになった。

 少年は、逃げて行くようにすり抜ける藍の手を慌ててがっしりと掴む。

 

 

「はぁ……落とすとこだったよ……」

 

 

 少年は、藍の手が落ちなかったことにほっと一息ついた。現在炬燵の中心には、藍の右手を掴んだ少年の手が浮いている状態である。

 少年は藍の手を持ち上げたままの状態で、紫に目線を向けて口を開いた。

 

 

「じゃあ、はい」

 

「……?」

 

 

 紫は、少年から言葉をかけられたことで止まっていた意識を動かし、体をピクリと動かした。

 紫の視界の中に、右手を差し出した不自然な状態で静止している少年が映り込む。

 

 

「なにこれ?」

 

「なにこれって……」

 

 

 紫は、少年の差し出された右手にチラッと視線を送るが、気持ちが動揺しているのもあり、少年が藍の手を掴みあげている意味が全く分からなかった。

 

 

「こうやって手を出したら、手を重ねる。あんたがそう言ったんじゃないか」

 

 

 少年は、紫の反応に目を丸くして不思議そうに告げた。

 思い返してみれば、3人は先程も似たようなやりとりをしている。先程は、藍が紫の伸ばされた手に対して質問したが、今は質問をした藍が固まってしまっている。

 さらには、先程これはなんですかと尋ねた藍の質問に対して答えを返した少年は、これは手ですよと紫に返答することはなかった。

 状況は少しの間にまるで別物になったかのように、大きく変化していた。

 

 

「なんか、間違えたかな……」

 

「……いいえ、何も間違っていないわ」

 

 

 紫は、少年の反応で少し前までのことを思い出す。手を差し出すという行動は、つい先程までやっていた行為である。

 だが、ついさっきのことであっても紫が思い出せないのは仕方がない。手を出したら手を重ねるなんていうルールは、つい先程紫がその場で作ったルールであって、不変的に存在していたルールではないのだから。普段から紫と一緒にいる藍が反応できなかったのを思い返せば、平常からあるルールでないことは容易に想像できる。

 紫は、自分が手を出したときに藍が反応できなかったのと同じように、唐突に少年の手が出てきても何のことかさっぱり分からなかった。先程行ったやり取りが頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

 紫は、暫く少年の手と少年の顔を交互に見ると、動揺を悟られないように声を整える。

 

 

「あなたも私のルールが分かってきたみたいね」

 

「随分と沈黙が長かったな。まぁいいや。こいつを探すために心の中に入るのなら、俺も連れていってくれ。俺の心の中に俺が入るっていうのも変な感じがするけどさ」

 

「貴方、私が心の中に入ろうとしていることを分かっていたの?」

 

「そこまでは、誰だって想像できるよ」

 

「ふうん」

 

 

 紫は、考えを読まれたことに少しだけ驚き、目を僅かに大きくする。

 少年は、紫が藍を探すために自分の心の中に入ると見抜いていた。そして、紫の思考を先読みして、自身の心の中に入ることに賛同し、自身も入ろうと試みていた。この状況下での選択肢など一つしかないのだ、少年が結論にたどり着くのは何も難しいことではなかった。

 しかしながら、紫の思っていた以上に少年の思考能力は高いように思われた。

 思考能力というより、相手の動きを読み取る能力だろうか。相手の感情や気持ち、動きを把握し、先読みする能力に長けているように思った。

 

 

「確かに私は、貴方の心の中に入ろうと考えていたわ。でも、どうして貴方まで入る必要があるの?」

 

 

 確かに紫は、少年の心の中に入り、藍を見つけ出そうとしている。

 けれども、紫には少年自らが自分の心の中に入って藍を探しに行く必要性が理解できなかった。はっきり言って藍を探す場合に、少年の存在は不要なのである。紫は、わざわざ少年が探しに行かなくても、自分ひとりだけで藍を見つけられると思っていた。

 それどころか、少年の存在は藍を探す時に足手まといになるとまで思っていた。自分一人で見つけることができるのに、飛ぶことも転移することもできない少年が来ても足手まといになるだけだと、そう思っていた。

 

 

「私の能力で、‘私だけ’が貴方の心の中に入って藍を連れ出してくればいいだけの話でしょう?」

 

「あんたは、病院で俺の心の中を見たんだよな。なら分かるはずだ。あんたじゃ俺の中でこいつを見つけられない」

 

 

 少年は、藍の発見に自信を持つ紫にはっきりと藍を見つけられないと断言した。少年が紫にそう言ったのは、自分の心の中で紫が藍を見つけるイメージが全く湧かなかったためである。

 少年は、何となしに自分の心の中がどんなものなのか理解している。心の中に入った記憶はないが、自分の心の中は自分が一番よく知っていた。自分の心の中で紫がいくら藍を探したところで、きっと探し出すことはできないと分かっていた。

 少年は、一人で行こうとしている紫を説得する。

 

 

「何も言わず、俺の言うことをひとまず聞いてくれ。俺の中は、俺が一番よく知っているから」

 

「…………」

 

 

 紫は、複雑な表情で少年の言葉を受け取った。少年の言う通り、少年の心の中は少年の箱庭であろう。

 だが、紫が見つけられないという証拠があるわけではない。見つけられないかどうかは、やってみないと分からないはずである。

 けれども、それでも少年は、紫では藍を見つけられないとはっきり断言している、迷うことなく告げている。

 やらなくても分かる。紫には、少年の言葉にそういう意味が含まれているように聞こえた。少年の言葉は、取りようによってはというか、普通に受け取ると力不足で役に立たないと侮辱ともとれるような言葉に聞こえる。

 だが、紫は少年の言葉に黙りこみ、少年の言葉に異論や訂正を求めるような、口をはさむようなことはしなかった。

 それは、成功するイメージが成り立たなかったからである。

 

 

「俺がなんとかしてこいつを見つけるから。心の中に他人が入っているっていうのも気持ち悪いからな」

 

 

 少年は、押し黙る紫に向けて藍を見つけてみせると宣言する。

 

 

「それに、問題は他にもある……あんたは、黙って覗いていてくれ。俺は、見つけることはできても、さすがに心の中から追い出すことまではできない。あんたも覗いている場所から動いてくれるなよ」

 

「分かったわ」

 

 

 心の中に入った経験を持たない少年は、心の中に入って藍を探すことにある懸念を抱いていた。

 少なくとも、人を心の中から追い出す術を持たない少年は、見つけることができても心の中から出してやる方法を持ち合わせていない。最低でも、心の中から脱出する方法が必要である。

 正直にいえば、できる限り万全の状態で心の中に入る形が望ましい。少年は、不安要素も、不確定要素も、できる限り排除しておきたかった。

 紫は、必ず見つけるという少年の言葉を信じて一度だけ頷く。少年の心の中の状況を知っている紫には、藍を見つけられるイメージが全くなかったため、もはや少年を信じることしかできなかった。

 

 

「あなたを信じましょう。私は覗いているだけにしておくわ」

 

「じゃあ、はい」

 

 

 少年は、再び藍の手を握り前に差し出すと、ゆっくりと目を閉じた。目の前が真っ暗になり、何も見えない暗い瞼の裏が映し出される。

 紫は、何もできない自分を隠すように声を強めて言った。

 

 

「これは命令よ。必ず藍を見つけてきなさい」

 

「了解したよ、必ず見つけてくる」

 

 

 少年は、強がっている紫を安心させるように言葉を返した。

 紫は、少年の言葉に満足したのか、差し出された少年の手に自分の手を重ねる。先程3人で手を重ねた時のように、先程3人で手を重ねた時とは全く違う状況で、3人は手を重ねた。

 紫は、藍を探すために少年を連れて少年の心の中に入っていく。深く、深く、少年の心の中へと入り込んでいった。

 

 

「ようこそ、俺の中へ」

 

 

 

 

  ―――少年の心の世界―――

 

 少年は、閉じていた瞳をゆっくりと開ける。

 

 

「ここが僕の心の中か」

 

 

 少年の視界には、一つの世界が広がっていた。

 少年は、どこか見慣れたような、よく知っているような景色を茫然と見つめる。

 少年の心の中には、広大な世界が広がっている、良く知っている世界が無秩序に広がっている。砂漠、荒野、高原、平原、雪原、草原、山、海、湖、川、沼、市街地、住宅地、竹林、ありとあらゆる空間が無秩序に伸びて広がっている。

 少年の心の中には大きな建物や障害物は無く、遠くを見渡すことができるため、余計に景色に隔たりがあるのが目立って見えた。

 仮に、遠くを見ることができる能力があれば、1キロ先を見るのも難しくないだろう。

 

 

「地上は……」

 

 

 少年は、自分の足が向いている方向―――前方? に意識を向ける。

 視線の先は終わりがあるようには見えず、地平線だけが見えた。

 少年の心の中の世界は、境界を曖昧にして際限無く広がりを見せており、何処で途切れているのかは分からなかった。

 

 

「空は……」

 

 

 少年は、無秩序な世界で空を見上げる。

 地上だけではなく空もまた、同様にぐちゃぐちゃだった。地上と同じで、空においても色彩がバラバラで気持ちが悪く、おおよそ空の色ではなかった。

 

 

「虹が混ざっているのか」

 

 

 少年は、様々な色彩を持っている空の景色に酷く身に覚えがあった。ぐしゃぐしゃに混ぜ込まれた色は、虹という概念が根付いた瞬間にできたもの―――虹によって色彩豊かな空になったことを思い出した。

 少年は、虹を見た時に空の色が3色ではないことを知った。空というのは、夕焼けの色、晴れ渡った青、光を失った黒、それだけではないと知った。

 虹は、別に空の一部になっているわけではないのだけれども、少年にとっては空の一部に見えた。きっかけはそんなものだ、そんなものが少年の世界を変えている。

 

 

「ぐちゃぐちゃだな」

 

 

 少年は、無秩序の心の世界で自身の足を一歩踏み出す。

 足元は、一歩踏み出せば世界が変わるように、一歩踏み出せば砂漠が湖になるほどに、様変わりするような切り替わりを見せている。

 区別が一切なされておらず、区切りが一切なされていない。そこには、一切の差別がなされていなかった。

 しかも、ただ区切りがされていないだけではなく、境目が揺らいでいる、常にゆらゆらと動き続けている。常に誰かが少年の心の中をかき混ぜているのではないかと錯覚するような光景だった。

 ここで、誰がかき混ぜているのか、なんていう疑問を持つことは大きな間違いである。誰かなんてことは、はっきりしているのだ。ここは少年の心の中なのだから、かき混ぜているのは紛れもなく少年自身に違いなかった。

 

 

「気持ち悪いな」

 

 

 少年は、自分の心の中を初めて見て率直な気持ちを述べ、自分の心の中を蔑みながら目的地が最初から分かっているかのように迷いなく足を進める。

 きょろきょろと周りを見ながらところどころに生えるようにして存在する物体に触れるように手を伸ばし、触れながら前進した。

 

 

 少年の心の中の世界には、多くの物質が存在している。

 手始めにいえば、少年の目の前には人のようなものが立っている。ここでいっている人のようなものというのは、顔が無く、配色がバラバラで人の形だけをとっているものである。マネキンのようなものだと考えてくれれば想像しやすいだろう。大きさ以外に区別できる要素は何一つなく、辛うじて男性か女性かが分かる程度である。

 少年の心の中には、人型の人形以外にもたくさん物が存在している。建物から、植物から、動物のようなものから、何でもあった。

 

 その中には、立て札と標識が不自然に多く、植物のように地面から生えているのが確認できた。

 

 標識と立て札は、うごめく境界の影響を受けることがないようで、動くことはなく、揺らがない空間の中でずっと立っている。標識の周りの空間、大体標識を中心に半径3メートルほどだけが秩序を保って境界線が揺らいでいなかった。

 立て札に関して言えば、1辺の長さが2メートルほどの真っ白な正方形に囲まれている。

 逆に、標識と立て札以外のものは、世界が移り変わるのに合わせて動き続けていた。

 先程まで目の前にあった人のようなものは、すでにどこかに行ってしまっていて、少年の目の前には存在しない。

 立て札や標識は、他のものや曖昧な世界とは違って秩序を持ってそこに立っており、はっきりとした境界線を保持して明確に存在するようである。

 

 

「それにしても……やっぱりこうなったか」

 

 

 少年は現在―――秩序を失った世界の中に‘一人で’立っていた。

 一緒に心の中へと入りこんだ紫は、少年の側にはいなかった。

 少年は、一緒に心の中に入った紫がいないことに特に驚きも動揺する事も無く、ゆったりと足を前に進める。

 

 

「手を重ねていただけで、繋いでいたわけでもないもんね。離れ離れになるのも、当然といえば当然なのかな?」

 

 

 少年は、何となしに紫と離れ離れになることが予測できていた。

 自身の心の中が曖昧というものに支配されていることは、幼稚園のときから分かっていることである。手を繋いでいたわけでもないのだ、離れ離れになることは仕方のないことだと思っていた。

 

 

「さぁて、探すか」

 

 

 少年は一言呟き、立て札と標識に近づいて行く。目的を見失わず、平常心で目標に向かって行動する。

 少年は、無秩序な自分の心の中を見ても別に驚いたり動揺したりしない。少年の心にあったのは、初めて心の中に入ったにも関わらず、どこか懐かしいような気持ちだけだった。

 まるで久々に故郷に戻ってきたみたいな感覚だった。

 

 

「なんでこんな気分になるんだろう……いや、そんなことはどうでもいいや。今やるべきことは別だ。あいつ、どこらへんにいるのかなぁ……」

 

 

 少年は、自分がやらなくてはならない、藍を見つけるということに意識を集中させていく。心の中を広く見渡し、先の見えない世界で未来を作り出す。

 

 

「俺の中に俺が入れた覚えのない、知らないものがある所に行けばいいんだよな。ははっ、まさか、心の中で生きている人を探すことになるとは思わなかった」

 

 

 少年は、藍を探そうと意識を集中させたところで思わず笑ってしまった。自身の心の中に両足を地につけて人を探すことになっている状況に、こんなことをする予定は全くなかったと、どうしてこんなことをしているのかと、笑わずにはいられなかった。

 

 

「ははっ、笑っている場合じゃないや。あいつは……多分あっちの方かな」

 

 

 少年は、足を前に進めながら標識に書かれている内容を覗き込むように見ると、内容を注視し、書かれた内容を把握して次の標識へと足を向ける。

 

 

「それに、あいつも何処にいるんだよ。ああ、広いと本当に面倒だな」

 

 

 少年は、膨大に広がる世界に文句を言いながら初めに違和感を覚えた場所に目的地を指定し、進むことを決めた。

 勘違いしてはならないのは、少年が心の中で探し出さなければならないのは、藍だけではないということである。少年は藍だけでなく、紫も探さなければならないのだ。

 

 

「一番早くここから出る方法は……分かっているところから行くのが一番早いよな」

 

 

 少年は、標識や立て札を一つ一つ確認しながら歩き、最初に感じた違和感の中心点へと向かうことをとりあえずの目的とした。

 

 

「これがここにあるってことは……ここは、あそこらへんなわけね」

 

 

 標識と立て札を確認する、これこそが少年の心の中を進んでいく唯一の手段である。移りゆく景色の中で、迷わずに思った方向に進むのは酷く難しい。適当に歩いてしまえば、方向感覚を無くして世界の中で迷ってしまい、閉じ込められてしまうのがおちである。

 少年自身はこの世界を作り出している本人であるため、このままここにいても何とも思うことはないし、影響も特にないだろう。

 しかし、紫と藍は違う。迷い続ければ、いずれ死んでしまう。精神的に疲弊して死んでしまう。

 それに―――少年が迷うことを考えることは無駄なことである。少年がここで迷うことは絶対にありえない。少年の心は―――少年の所有物であるのだから。

 

 

「うーん。ここの全体像はこんな感じか」

 

 

 少年は、標識の中身を見て現在位置を確認すると、頭の中に自分の心の中の地図を詳細に描く。方角、座標、位置を正確に描き出す。そして、頭の中に明確な地図ができあがると、一つの標識に向かって歩みを進めた。

 少年は、心の中の標識が立っている場所を全て知っていた。標識が少年の進む道を指し示している。

 少年は、標識へと辿り着くと導かれるように軸の部分に手を添えて目を閉じた。

 

 

「んー、ここ1キロ真っすぐ行って」

 

 

 言葉をつぶやいた瞬間に少年の姿が消えた。少年の姿は、ちょうど直線距離にある1キロ先の標識に現れる。

 少年は、移動したことに何一つ気にする様子もなく、続いて呟く。

 

 

「右に34キロ向かって、そこからまた3キロ右」

 

 

 少年は、標識に手を添えながらぶつぶつと呟く。その度に少年は消え、呟いた座標へと移動していく。

 

 

「真っすぐ250キロ行った後に、左に52キロ進んで、再び左に28キロ行き、右向いて79キロで真っすぐ44キロ……」

 

 

 少年は、標識を伝って移動を行う。標識を使って心の中を移動していた。

 標識は、心の中を移動するためのワープポイントといえる場所だった。

 

 少年の心の中においての移動方法は、標識を辿るという方法以外には存在しない。

 

 心の中の世界というのは、精神世界である。

 精神世界とは、簡単に言えば夢の中のようなもので、現実の世界と違い、想像で何とでもできるというのが精神世界の道理である。空を飛ぶことができると本人が自覚していれば、飛べるような世界なのである。

 つまり、移動手段としては少年のように空間を転移しようが、空を飛んでいこうが、なんでもできるはずだった。

 けれども、少年の心の中はそう単純なものではなかった。

 少年が今行っている空間転移をするためには、現在の座標と飛ぶ先の座標が分かっている必要がある。

 少年の心の中は、その広大な大きさもそうであるが、境界線が無秩序に変化をしているため他の人間では自分の位置を把握することさえもできず、自分の居場所も標識の場所も分からない状態に陥る。

 もちろんであるが、少年の心の中の世界には地図なんて存在しない。そのため、座標が分からなければ移動することができない標識を使った移動方法は少年以外には使用できない移動方法であった。

 少年の行っている標識を使った移動ができないのならば、空を飛んで探せばいいのではないかという話になるかもしれない。高速で空を飛ぶことができれば、人を見つけるのは比較的容易くなる。

 しかし、少年の心の中で空を飛ぶことはできなかった。

 おそらく理由として考えられるのは、少年の心の中には、明確なルールが存在するからであろう。心の中にある決まったルールを破ることは決してできない。

 仮に少年が空を飛ぶことができたのならば、飛ぶことは可能だったかもしれないが、現実には空を飛んだことのない少年が空を飛ぶことを許容することは無く、空を飛ぶことはできなかった。

 他には、歩いて行くという方法があるわけなのだが、目的地まで歩いて行くという手段をとった場合には、永遠ともいうべき時間がかかってしまう。それこそ少年の心は宇宙のように広がりを見せているため、歩いて行くというのは無理があるのである。

 結論として、少年の心の中において少年以外に素早い移動ができる人間は存在せず、少年の紫を動かさないという判断は非常に功を奏した形となっていた。

 

 

「いつもやっているように探せばいいみたいだね」

 

 

 少年は、初めての場所でいつもやっているような自然な動作で場所を転々と移動していった。

 

 

 

 

 

「どうしてあの子は同じスキマを通ってきたはずなのにここにいないのかしら……」

 

 

 少年が標識を使って移動をしている最中、紫は一人きりで佇んでいた。少年が目的地まで道筋を定めて進んでいた時、一人で戸惑っていた。

 そうである、紫と少年は少年の心の世界に飛びこんだ時に同じスキマをくぐって心の中に入ったはずだった。それにもかかわらず、周りを探しても少年の姿は確認できず、紫と少年は散り散りになってしまっている。

 

 

「もしかして……」

 

 

 紫は、少年の心の中の世界に入り込んだ時に自分と少年が違う場所に出てしまった理由を考え始めた。

 思考に時間などかからなかった。考えた直後にすぐに答えを見つかった。

 答えは、目の前に広がる少年の心の中に映し出されていた。

 

 

「ここの境界が揺らいでいるせいで、あの子だけ他の場所に出てしまったということなのかしら?」

 

 

 紫と少年は、完全に同時に心の中に入っているわけではない。タイムラグとしては、一秒もないだろうが、体格に違いのある紫と少年とで、ミリ秒単位の誤差が全くないとは言えなかった。

 

 

「同時にスキマに入ったわけではないから、そのタイミングの違いでずれが生じていると考えるのが適当かしらね」

 

 

 紫は、少年の心の中に入った時の時間のずれが、境界線が揺らいでいる少年の心の中において場所というずれに反映され、影響が現れたのだと解釈した。

 

 

「それにしても……2度目だというのに慣れないわ」

 

 

 紫は、少年の心の世界のどこかからどこかを覗きながら呟いた。どこかという曖昧な表現にとどまっているのは、紫がいる場所が少年の心の中のどの部分で、心のどの位置を見ているのかが分からないからである。

 

 

「いえ、こんなところに慣れる奴なんていないでしょうね。なんとも凄まじい……」

 

 

 紫は、一度病室で少年の心の中を覗いている。

 ここが少年の心の世界である、こここそが少年の心の中である。病室で少年の心を覗いた時は、少年に話しかけられるまで硬直から抜けだせなかった。あまりの光景に固まってしまった。

 

 

「一体どこまで続いているのかしら……先が見渡せないわね」

 

 

 紫の目には、移り変わりを見せている少年の心の世界が映っている。

 

 

「まるで地球だわ。地平線が広がっているだけ、空と地上が唯一境界線を作っている」

 

 

 紫は、あくまで大きなくくりで見た場合だが、少年の心の世界が現実と似通っているように見えた。無秩序なのは変わらないが、本当に大事な一線だけは引かれている。

 その姿は、まるで地球とよく似ていると思った。

 少年は、空と大地のように大事な一線を引いてこれまで過ごしてきたようである。または、引きやすいものだけ引いてあるのかもしれない。

 

 

「この子の世界は、本当に異常だわ……」

 

 

 紫には、少年の心の中が普通じゃないと‘断定ができた’。

 なぜならば紫は、別の心の中に入った経験があったからである。普通の一般人、普通の妖怪、妖怪が普通といっていいのかは分からないが、少なくとも両者の心の中は似通った構造をしていた。

 心の中は、決して少年のような世界を成しているわけではない。

 

 

「心の中は、その人1人分の世界」

 

 

 当たり前であるが心の中というのは、その本人一人だけが住んでいる世界であり、その人のためだけの世界である。それ以外の人は基本的に入れないし、入っていない。それこそ、紫のような能力を持っていなければ入ることは叶わない場所である。

 

 

「1人分の世界がこんなにバカでかいわけがない」

 

 

 1人分の世界が、少年のような大きさなわけがない。

 紫が見てきた心の中の大きさは、個人差はあるけれどもみな一人部屋の一室といったレベルの大きさしかなかった。少年のように、そんな大きなものを持つ必要もないし、持てる理由もない。

 紫は、まじまじと少年の心の中を観察することで、少年の異常性について再認識していた。

 

 

「あれは、何かしら?」

 

 

 紫は、少年の心の中の世界を眺めていると、揺らめいている世界の中に標識と立て札が動かず立っていることに気付いた。

 標識と立札は、全く動かず、確かな存在を示している。

 

 

「目印? 何か書いてあるようだけど、ここからじゃ見えないわね」

 

 

 紫は、一人きりで藍と少年の二人が戻ってくるのをひたすら待つ。少年の言われた通りにその場を動かず、静かに待ち続ける。少年と最初に話した時のように上半身だけを出して待っている。

 ただ、やって来るはずのものを待ち続けていた、待ち続けるしかできなかった。

 

 

「早く来なさい。あんまり遅いと私の方から探しに行くわよ」

 

 

 紫は、その場から動くことができないと知りながらも愚痴るように呟く。

 紫の声は、虚しく空間に散った。

 


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