6章は、紅魔郷に入る前のお話になります。
予定では、全4話の予定です。
新しい生活、それぞれの始まり
新しい生活が始まった。
文字通り、新しい生活である。これまでの原型なんて一つたりともなく、これまでの形跡なんて何もなく、新しい生き方の始まりである。
今、目をつむっている。視界は黒く染まっている。真っ暗な中にふわふわと浮かんでいるような気分だった。
畳に敷いた布団に寝転がって朝がやって来るのを待つ。もうすぐ日が昇る時間になる。もうすぐ体が勝手に起きてしまう時間がやってくる。
僕は紫に連れられて博麗神社にやってきた。
紫は、博麗の巫女である博麗霊夢と話をつけて僕のことを紹介してくれた。だけど、時間も時間だったし、訪れたのが深夜ということもあって博麗霊夢の対応は非常にずさんだった。
「あー、そういうのいいから。暗いし、明日っていうことで。奥の部屋を使って。私、眠いの。分かる? 分からなくても寝るけどね」
取り付く島もなかった。
酷く不機嫌な顔で奥の方を指さすと即座に布団へと戻り寝息をたてはじめた。
噂には良く聞いていた人だったけど、随分とさばさばしている性格みたいだ。
「それじゃあ後は和友がしっかり説明しなさい」
「分かったよ」
紫は博麗霊夢の対応に異議を唱えるでもなく、それじゃあねと言ってマヨヒガへとスキマを通って帰って行く。
手を振って見送る。いずれまた、そういう意味を込めて笑顔で送り出す。紫も笑顔を浮かべて帰っていった。
「僕の部屋はここでいいのかな」
おそらくここだろう。例え間違えていたとしても明日また移動すればいいだけだ。今日一日ぐらい問題ないはずである。
紫と別れた後、マヨヒガから持ってきた荷物を指定の部屋へと運ぶ。まっさらで何もない畳の部屋に見知った道具たちが取り揃えられた。
「ここから新しい生活が始まるんだ。新しい……僕の未来が、夢が繋がっていく」
これから始まる生活はどんなものになるだろうか。きっと、僕の知らない新しい世界が広がることだろう。全く予想もできない未来が顔を覗かせてくるだろう。
「楽しみだなぁ。明日もきっといいことがある。おやすみ、また明日ね」
楽しみだなぁ。これまでも十分楽しかったけど、また知らないことがいっぱい起こる。そう思うと期待せずにはいられなかった。
久々に何も心配することなく眠れる。
大丈夫かなと不安に思うことももうない。
心は晴れやかで、これから始まる新しい生活にワクワクしながら眠りについた。
Next Day
「眩しい……」
朝起きた僕を迎えたのは、外から差し込んで来る光の暴力だった。夏も近づき、光の量が一段と増えたような気がする。
昨日は夜遅くにここに来たから睡眠時間としては全然足りていない。全く持って足りなくて体がだるいと訴えている。
だけど起きなきゃ。もう6時だもんね。
時間は確認しなくても何となく分かる。体が覚えている。
博麗神社は、大きな部屋が3つあるだけの建物である。どれもが畳の部屋であり、和の雰囲気が感じられる。
3部屋しかないということもあり、部屋の大きさ自体はとても広い。3人程度までならば一緒に暮らしていても不自由のない生活ができる程度には面積がある。
宴会が開かれる際には、部屋同士を隔てているふすまを開放することで広々とした空間を作り出している。
はなれには倉庫があり、食料や普段使わない物が収められている。厠=トイレは神社に寄り添うように存在している。
少年の住んでいる部屋は、霊夢の部屋から一番遠い場所にあった。
少年は、出していた布団を片付けると縁側へと出た。
「んー」
今日もいい天気になりそう。もうちょっとで夏が来るからかな。昨日も天気が崩れると思っていたのに意外と夜は晴れていたし、天気は安定しそう。
目を閉じる。日の光が温かい。精いっぱい手を広げて全身で太陽の光を浴びる。
この瞬間は結構好きだ。一日の始まりが来たっていう感じがする。体から眠気が飛んでいく。もう少しで暑くなるという判断に切り替わるぐらいまで目の裏に焼き付ける。
「何をしているの?」
そんな至福の時を過ごしている時―――唐突に声がかかった。声の出どころは後方からだ。僕は振り返ることなく、日の光を浴びながら答えを告げた。
「光を浴びているんだよ」
「何のために?」
「何のため……特に理由はないよ。ただ、そうしたいからかな」
「あっそう。まぁ、いいわ。それが済んだら後で私の部屋に来なさい」
私の部屋ってどこだろうか。場所の説明は特には受けていない。
だけど、予測することはできる。きっと昨日紫と一緒に入った部屋だろう。彼女の部屋で行う事は昨日の話の続きかな。
分かったという返事を返そうと思って閉じていた目を開き、後ろを振り返る。
「誰もいない……」
するとそこにはもう誰もいなかった。
「ふー、今日も一日頑張るぞー」
数十分だろうか。日の光を十分に浴びて体も少しポカポカするぐらいに温まった。目覚めの時である。
「さて―――」
ふと、少し前になってしまった先程の会話を思い出してみる。
彼女は、光を浴びたら部屋に来いと言っていた。
「話さなきゃいけないこと、決めなきゃいけないことがいっぱいあるもんね」
彼女とは話さなければならないことが色々ある。これから共同生活を始めることになるのだ。彼女自身の暮らしの中でのルールもあるだろうし、これから生活していくためにお互いのルールを決めるのだろう。
これから向かうべき彼女の部屋は、参拝客が訪れる鳥居がある方向の部屋である。ちなみに僕の部屋はそこから一部屋挟んで一番奥である。
少しばかり歩いて彼女の部屋の入口まで移動する。
「ここかな」
目の前にふすまが閉められた部屋がある。
ノックをしようと無意識に手を上げたところで、そっと手を下した。
「違うな、こういう場合はノックじゃないよね」
さて、どうしようか。こういうときが一番どうしていいのか困る。
外の世界では普通にノックできるのだけど、出入り口がふすまに限って言えば入る前にどうすればいいのか分からない。
ノックするのは間違っている。こういう時の作法が別にあるとしたら僕の知らない方法だろう。マヨヒガでもそこらの作法は習わなかった。
でも、作法を知らないとしてもノックをする意味は知っている。それを考えればなにをしてもいいはずだ。その意味が成せればなんでもいいはずだ。
僕は、そっと息を吸いこんで中に聞こえるように声を飛ばした。
「すみません、笹原和友です。入っても大丈夫ですか?」
「あっ! 待ちなさい!」
「はい?」
「ぜ、絶対に入るんじゃないわよ!」
「……? はい」
部屋の中からガサゴソと布がこすれる音がする。どうやら着替え中のようだった。随分と間が悪い時に声をかけてしまった。
マヨヒガにいたころだったら顔を洗っていたから時間的にはちょうどいい時間になったかもしれない。
そういえば、ここの水回りってどうなっているのだろう。これも聞いておこう。顔を洗えないと、なんだかまだ一日が始まっていない気がする。
気がするだけ。そうかもしれないけど、そういうのが大事だと思う。こうして途切れそうになると毎回そういうふうに感じる。
「もう入っていいわよ」
考え事をしている間に、着替えが終わったみたいだ。
「失礼します」
そう言ってふすまを開ける。中を覗くと、彼女が部屋の中心に凛とした雰囲気を纏って正座で待ち構えていた。
彼女の視線が正面へと突き刺さっている。
そこに行けってことか。
視線が向けられているポイントへと足を運び、静かに足を畳んで正座する。
彼女の正面に立ってみると余計に視線が強く突き刺さっているような感じが強くなる。彼女の雰囲気がそう思わせているのだろうか。どうにも悪いことをしてしまっているような気がしてしまうのは気のせいだろうか。
「で……あんたは何しにここに来たの」
「居候になりにかな?」
「なんで疑問形なのよ。目的もなくここに来たってこと?」
目的―――果たして彼女にそれを告げていいのだろうか。
頭をかしげて少しばかり考えてみる。
これからの僕の目的は、しっかりと頭の中にある。何をしたいのか、何をやりたいのか、何を成し遂げたいのか。その全てが頭の中に入っている。
だけど、それを彼女に言ってしまったらダメな気がする。あくまで気がするだけなのだけど。僕の行動が止められてしまうような、邪魔されてしまうような、そんな気がした。
僕のこれからの目的は誰かに邪魔をされても別にいい。だけど、ちゃんと最後の舞台までは整えないと、僕の夢が叶わなくなってしまう。
最後の最後で邪魔をしてくる分にはむしろ大歓迎なのだけど、夢半ばで終わってしまう人生なんて―――それも悪くないかもしれないけど、やっぱり夢は見るだけじゃなくて叶えたいから。自分の力だけで、自分の能力抜きで叶えたいから。
そんなことを考えて異様に黙っている僕を見かねてか、彼女の方からさらに言葉を投げかけてきた。
「黙っているということは、言いたくないってこと?」
「……ここに来た理由はマヨヒガにいられなくなったからです。人里に住むっていう話もあったのですが、紫がここにするといいって言ったので」
結局ここに来た目的を話すことはなかった。あくまでもここに来ることになった理由だけを告げた。隠すように、理由だけを告げた。
理由を告げた瞬間、分かりやすいぐらい彼女の顔が酷く歪んだ。
「あー、またあいつが面倒事を持ってきたのね。生粋の外来人にここの神社の紹介するのならまだしも、幻想郷に居づいてしまっているアンタをよこすなんて何を考えているのかしら」
「紫とは仲が良いのですか?」
「仲が良い!? 冗談言わないで。あいつはただの迷惑な妖怪よ」
彼女は頭を抱えて言葉を口にする。
彼女と紫との関係は今の一言でおおよそ理解できた。
紫は相変わらず一方的な関係を作っているみたいだ。主体性の塊というか、自分本位な性格は変わっていないようで誰に対しても同じような態度をとっているみたい。
それでも、僕だけが知っている紫の顔がある。マヨヒガにいるものだけが知っている紫の顔がある。
対外的なものは何も変わっていないようだけど―――内的なものは様変わりしている。マヨヒガでの様子を見たら皆が驚くだろう。もしかしたら隠しているのかもしれない。紫は相手になめられたり、からかわれたりするのを酷く嫌っているから。
「あんたは、外の世界に帰りたいってわけじゃないのよね?」
「そうです。私はここにいたいです。ここでしかできないことがあるので」
「だったら、私はただ単にあんたの住む場所を提供すればいいということね」
「はい。住む場所だけ、お願いします」
昔だったら喉から手が出るほどに帰りたかったけれど、今となっては外の世界に帰りたい気持ちはほとんどない。全くないということは無いのだけど、いまさら外の世界に帰っても何もできることがない。
そう―――できることがない。
誰かに期待できることもない。
誰かが何かできることもない。
外の世界に帰っても帰る場所がない。
住んでいた家は跡形もなく燃えてしまった。違うものになってしまった。友達の名前の多くが失われてしまった。両親も死んでしまっている。
僕の未来は、外の世界から完全に外れてしまった。
「あなたには、私が見えているの?」
あの出会いが―――全てを断ち切って、架けていた橋を違えた。まるで境界線をずらしたみたいに別の所に架かってしまった。もう、僕の未来は外の世界には繋がっていない。
僕にはここ―――幻想郷でやりたいことがある。幻想郷でしかできないことがあるから。幻想郷にしかないものがあるから。だから、外の世界に帰るつもりなんて微塵もなかった。
「対価は? まさか、ただで泊めてもらおうなんて思っているわけじゃないわよね? 数日ならともかく、生きるためには食べる必要がある。私には、あんたを養えるほどの余裕はないわよ」
「自分が生きていくための術は持っています。宿賃も払いますので、お願いいたします」
「そ、そう。宿賃を払うのなら泊めてあげるわ」
何だか彼女の反応がおかしい。表情が酷く落ち着かない様子だ。お金について、契約について予想していなかったことでもあるのだろうか。
僕は、一応マヨヒガでも働きながらお金を収めていたし、住んでいる場所に納めるぐらいは全く問題ない。これから先というものが目の前にまで来ている僕からすれば、貯蓄しておくだけのお金は必要ないのだから。
「お金の勘定は今月終わりでもいいですか?」
「ええ、それでいいわ」
彼女は、崩れた表情を元に戻して僕に向かって言った。
「ここでのルールは一つ。やらなければならないことをやれ。それだけよ」
「よく分かりませんが……」
「しばらくすれば慣れるわ」
やらなければならないことをやれ。それがここのルールだそうだ。
抽象的過ぎてよく分からない。つまり、生きていくために必要なことは自分でやればいいということなのだろうか。
どちらにしても、慣れれば何とかなるというのはその通りだと思う。問題があればまた言ってくるだろうし、なんとかなるはず。何ともならないことなんて何もできないことだけなのだから。
「それじゃあもういいわよ。後は好きにしなさい」
後は我関せずという様子だった。放置しようというのがまるわかりだった。大事なことは全部やったという顔をしている。
だけど、僕には彼女に聞いておかなければならないことが二つあった。それは、今後生活していく上で聞いておかなければならないことである。
「それでは、名前を教えていただけますか」
「はぁ? 私の名前を知らない? 知らずにここに来たっていうの?」
「知りません。覚えたことないので。なので、どこかに名前を書いて欲しいのです」
彼女は、名前を知らないという言葉に酷く驚いた様子だった。
僕が名前を教えて欲しいというと、幻想郷のみんなは大体同じ反応をする。特に有名な人であればあるほど同じ反応を示す。
どうして知らないの。どうして名前を覚えていないの。どうして書かなきゃいけないの。そういう反応が返ってくる。変な人ねと書いてくれる人が大半だが、奇異の目で見られることがほとんどだった。
僕からすれば、会ってもいない人のことを覚えることができる能力の方がおかしいと思う。自分ができないからそう思っているのかもしれないけど、やっぱりおかしいと思うんだ。
外の世界のようにテレビなんかで顔を見て、名前を見て覚えるのはまだ分からなくもない。でも、会っていない人のこと、顔も知らない人のことを覚えられるかといったら無理だと思う。
だって、それには覚える努力が必要なはずだから。歴史で人物の名前を覚える時のような、覚えるための作業が必要になるはずなのだ。
そんなものを―――知らない人のためにやるほど僕は優しくないし、暇じゃない。
僕はそっと頭を下げてお願いした。
「よくわからない奴ね。まぁ、いいけど」
彼女は、僕のお願いに対して了承してくれたようだった。
正座していた足を伸ばして、棚にいれていた札を取り出し、見せつけるように前に持ってくる。何も書いていない札が一枚目の前に提示された。
「お札でもいいかしら?」
「読めれば何でもいいです」
僕の言葉を聞いた彼女はこれまた筆を棚から取り出し、墨をつけるとササッと自分の名前をお札に書いた。
「…………」
自分の名前を書いた札を見て、怪訝そうな表情を浮かべている。やっぱり、なんでこんなことをしているのか分からず、不思議に思っているようだった。
彼女の視線がしばらく札を見つめると、思考を放棄するように視線も向けずに札が差し出された。
「ほら、これでいいでしょ」
「はい」
受け取った札に書かれた漢字を見つめる。
博麗霊夢。
それが彼女の名前だ。読み方は何度も聞いていたから覚えているけど、字まではっきりと視認したのはこれが初めてだった。
見たことあるような気もするが、漢字で覚えたことは一切ない。覚えていないのだからきっとそのはずだ。病気の症状が酷かった時に友達の名前と一緒に飲み込まれていなければという前提条件付きではあるが。
札を受け取った僕は、彼女―――博麗霊夢に向かって抱えていたもう一つの疑問を投げかけた。
「あともう一つ聞きたいことがあるのですが、水ってどこにありますか?」
「外の井戸からくみ上げなさい」
「分かりました」
井戸か。
人里だとよく見かける。外を探せば見つかるだろう。
僕は、再び頭を下げて外へと向かった。
「周りは木々ばっかりだね。石段は長いし、道は獣道みたいに歩きにくそう」
博麗神社の周りは、木々に囲まれている。まるで博麗神社を森の中に作ったという印象を受けるほどに木ばっかりが目立っている。飛ばなければ周りに何があるのかは分からないし、唯一見ることのできる鳥居からの景色には未開拓の道が伸び、遠くにこれまた取り残されているように湖が見えるだけだった。
「ふーん、こんな感じか……前に境界線を引きに来た時とあんまり変わりないかな」
変わり映えしない博麗神社の周りをぐるっと回る。
歩いていると、すぐに井戸を見つけることができた。
井戸なんて外の世界じゃめったにお目にできない代物である。少なくとも僕は外の世界で見たことがない。こういった忘れられてしまったものが辿り着くのが、幻想郷という場所―――そういうふうに紫からは習った。
「博麗神社は桶ですくうタイプか。人里だと手押しポンプも多いんだけど……ここに誰が作りに来るかって問題もあるもんね。少しぐらい遅れていても仕方ないのかな」
マヨヒガでは水路が通っていて、そこからくみ上げていた。
人里では大きな手押しポンプの井戸がいくつかある。
博麗神社では桶でくみ上げるタイプの井戸。
桶を中にいれて少しばかりの水をくみ上げる。顔を洗うだけの量さえあればいい。そんなにたくさんはいらない。
顔に冷たい水が付着し、頬を流れていく。
「ふぅ。今日も一日頑張るぞ」
表情がすっきりする。
こうして僕の今日は、ようやく始まりを迎えた。
―――マヨヒガ―――
朝を迎えた私を襲ったのは外からの日差しではなく、とても大きな喪失感だった。
何が足りないのか分からない。だけど、絶対に何かが足りていなかった。
大事なものを無くしている。心が寂しがっている。理由が分からないことがさらに心を孤独にしているようだった。
今日は何日だろうか。そんなことも忘れてしまっている。思い出せない頭は何も浮かびあげてこない。
記憶は深い霧の中で。
見渡せる景色は真っ白に染まっていた。
「……考えても仕方がない。思い出せないものは思い出せないのだ。いずれ分かることだろう」
体を起こす。体に凄まじい倦怠感が襲ってくる。体が動くことを嫌がっている。
昨日―――何かしたのだろうか。昨日の記憶もない。思い出すことができない。何をして。誰といて。どうやって一日が終わったのか。何も思い出せなかった。
体の節々が痛い。不調を訴えている。もっと眠っていたい。朝日から逃げるように眠っていたい。主である紫様もどうせ起きてこないのだから眠っていてもいいじゃないか―――そんな甘えが頭の中をぐるぐると巡っていく。
頭を振る。甘えを振り落とさなければ。そういったことが普段の習慣を打ち砕くのだ。
「ダメだ。そうやって惰眠をむさぼると後が続かない。気怠い程度がなんだ。気の迷いだろう。起きなければ……」
自分の部屋を出て居間へと向かう。廊下を歩き、開け放たれたふすまを越える。
視界が広がった居間にはまだ誰もいなかった。
「まだ誰もって……何を考えているのだ、誰かがいるわけがないだろう」
まだって、そもそも起きてくるかも怪しいところだ。
紫様はいつも眠っているだけじゃないか。一日起きてこないことなんてよくあること。
橙ならば―――橙は、どうだっただろうか。いつもどのぐらいの時間に起きていたことだろうか。
「分からないな……疲れているのだろうか。こんなことも思い出せないとは……」
おかしい。絶対に何かがおかしいと頭の中で訴えている声が聞こえる。
だが、思い出せないのも事実だった。
疑問を抱えた頭のまま、なんだか広く感じる居間の中で調理を開始する。材料を出して今日の朝食を作るのだ。
朝ごはんはエネルギーの源。これを食べて今日もいつも通りの日々を送る。
「ふん、ふん、ふん、ふん」
調理台の前で何も考えずとも体が勝手に動いていく。慣れた手つきで体が毎日行っている作業を繰り返す。決まったプログラムを与えられた機械のように、流れるように食事が作られていく。
「よしっ!」
料理は、数十分の時間で終わりを迎えた。会心の出来だ。いつの間にか料理をするのが上手くなっている。なんだか違和感を覚えるが、上手くなっていることに問題があるわけでもない。
出来上がった料理を盛り付ける。お皿に盛りつけていく。ご飯をよそう。料理を食卓へと運ぶ。そして椅子に座り、手を合わせる。
「いただきます」
箸を持ち、料理に手を伸ばす。
そして、皿にまで箸が向かおうとしたところで不意に手が止まった。目の前に広がる光景が行動を制止させた。
―――おかしい。
なんでこうなっているのか。
理由が分からなかった。
「……私はなぜ2人分料理を作ったのだ?」
目の前にあったのは、一人分とは言い難い量の料理。丁寧なことにお茶碗も二杯ある。しかも食卓の対角線上に配置されている。一番置きにくい場所に丁寧に並べてある。
何かおかしい。そう思うが何も出てこなかった。靄がかかったように思い出すことができなかった。
「あーもう! なんだというのだ!」
朝からなんだというのだ。起きたときの倦怠感もそうだし、橙が起きてくる時間が分からないというのもそうだし、目の前の料理もそうだ。
イライラする。心の中のもやもやがどんどん酷くなっていく。
どうしてこんなに不安になるのだ。なんでこんなに気持ちが悪いのだ。
「こんなものがあるからイライラするのだ!」
それもこれも、そこにもう一膳のご飯があるからだ。見えるから考えてしまうのだ。
食べてしまおう。今日は疲れているのだろう。ご飯を食べたら少し休憩しよう。そうすれば、いつも通りの日常に戻るはずだ。
最も遠い場所に配置されているご飯をとろうと手を伸ばす。そして、もうすぐ届くというところまで伸ばしたところで、またしても手が止まった。
「どうして……」
どうしてだろうか。食べてはいけない気がする。
これは私のものではない。私以外の誰かが食べるものだ。そう感じる。嘘でも偽りでもなくそう感じる。
こんな時間に起きてくる者など誰もいないというのに。こんな時間に私と朝食を取る者など誰もいないというのに。
「…………」
結局―――私は置かれた料理に手を付けらなかった。
食卓の上には、未だに手つかずの朝食が残っている。
自分の分だけ後片つけも済んでしまった。取り残されたご飯が寂しそうに誰かを待っていた。その誰かを私も待っている気がした。
「気を取り直そう。いつも通りの行動をしていれば、きっと調子も戻ってくるはずだ」
そうだ、日課の毛づくろいをしよう。そうすれば気持ちも落ち着いていつもの私に戻るはずだ。いつもの流れに乗れば、いつも通りの日常が遅れるはずだ。
部屋に戻り、ブラシをとって縁側に向かおう。いつも通りの流れに乗ろう。料理をした時のように身体が無意識に覚えている動きを再現する。
―――おかしい。
「縁側? 私はいつも縁側で毛づくろいをしていたか?」
体が無意識に縁側に向かう。疑問を抱えながらも、こちらが正解だと言わんばかりに体が勝手に進んでいく。
何故なのかは分からないが、そんなことをした記憶は全くないのだが、いつも毛づくろいをしているのは縁側な気がするのだ。自分の部屋ではなく、縁側である気がするのだ。
縁側にそっと座る。太陽の光が眩しい。温かい光が肌に突き刺さってくる。
尻尾を前に出して膝の上に乗せる。ブラシを置いて優しく擦る。
擦る。擦る。位置を変える。滑らす。均す。擦る。繰り返す。
違う。違う。これも違う。なんだ何が違う? 何が違うというのだ。
「……足りない。何か足りないのだ」
動いていた腕が自動的に止まる。力を失ってだらんと落ちる。
何があった。昨日何があったのだ。
なぜ、思い出せないのだ。
頭の中が弾けそうだった。何も出てこないことに頭の中が沸騰しそうだった。
探せ。探し出せ。
違和感の原因を見つけろ。
失ったものの存在を見つけろ。
真っ白な世界を走る。
ゴールはどこにあるのか分からない。
何を探しているのかも分からない。
どんな形をしているのかも分からない。
だけど、何かが足りないのだ。
何かが足りないと、心が叫んでいる。
素直じゃないと思っていた心が、素直に寂しいと言っているのだ。
「藍、おはよう」
「えっ……」
考え事をしている最中、誰も来ないと思っていた居間に声が通った。余りにも自然で、余りにも違和感がなかったのに驚いてしまって、勢いよく声の出どころに向かって視線を向けてしまった。
「紫様……」
視線の先にいたのは―――紫様だった。
どうしてこんなに早くに起きてこられたのか。
どうして居間に来られたのか。
何の用事か。
それに、いつもの紫様と雰囲気が違っているような気がして、疑問が次々と頭の中を埋め尽くしていく。
紫様の表情には酷く優しい笑顔が浮かんでいる。今まで見たことがない顔だった。いや、見たことはあるのだが、いつ見たのかは思い出せなかった。
「大丈夫よ」
大丈夫よ。その言葉を聞いた瞬間―――何かが頬を伝っていった。
紫様は、優しい顔をしたまま同じ言葉を何度も繰り返す。
「大丈夫」
「ですが……私、何か大事なことを忘れて」
口が勝手に言葉を話す。心が思っていることを口に出してしまう。
こんなことを紫様に言っても仕方がないのに。心配をかけるべきではないのに。迷惑になるようなことを言うべきではないのに。
私の口が私のものではなくなってしまったように、自制を失った心が叫んでいる。
「今朝から何だかおかしいのです。こうしている今だって、頭の中に靄がかかったみたいに何も思い出せない。私の大事にしているもの、どこかに忘れてきたみたいで。酷く不安で……」
「大丈夫。泣いてもいいわ。今は辛いかもしれないけど、きっと乗り越えられるから。私も藍を支えてあげる。藍は一人じゃないわ」
心が泣いている。大声で叫んでいる。寂しいと、孤独を叫んでいる。
紫様はゆっくりと近づいてきて、私の体を包んでくれた。温かさが体を包み込む。心の叫びは止まらない。包んでくれた優しさが寂しさをより顕著にした。
沸き立つような寂しさはついに視界をも歪ませた。
「私の大事なものは、どこにあるのでしょうか……」
何も始まった気がしなかった。
失ったものが分からなくて。
いつもの日常と違っていて。
いつもの日常が分からなくなって。
それでも―――私の今日は始まりを迎えた。
今回のお話は、主人公側と藍側の一日の始まり方の対比ですね。
ここから藍は、暫く出てきません。
少なくとも、紅魔郷が終わるまでは出てこないと思います。
妖々夢の前ぐらいで少し出る程度でしょうか。
また、書き方が少し1人称寄りになりました。
これまで読んでくださった読者の方が読みやすいかは不明ですが
できるだけこの書き方で統一いたします。
感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。
現在風邪をひいているため、次回更新が遅れるかもしれませんが
次回作ができて精査でき次第投稿いたします。