藍は、余りに予想外の行動に慌てて少年へと手を伸ばした。
紫の放った妖力弾がスキマを通ってショートカットしながら少年に接近する。
藍は勢いよく振り返り、少年の下へと駆けた。
「間に合え! 間に合ってくれ!」
藍は、必死に少年の下へと急ぐ。
しかし、明らかに紫の妖力弾の方が先に少年に辿り着く。このままでは間に合わない。紫の放った妖力弾が少年に衝突する。
紫の放った妖力弾は、人間である少年に当たれば即死すると分かるほどの力が込められている。そして、祈りの体勢に入っている少年が避けられる道理はない。確実に攻撃を受けることになる。
力を使えば間に合っただろうか。
神力を用いて結界を張れば、少年を守れただろうか。
それは無理だっただろう。結界を張るとしても神力を少年の近くまで張り巡らせる準備に時間がかかってしまう。最も早いのが急いで少年の下へと向かうというもので、少年に向けて最速で移動していて間に合わないというのならば、間に合う方法は何一つなかった。
―――終わってしまう。
こんな未来になるなんて想像していなかった。
紫様は、和友を攻撃しないと無意識のうちに信じていたからかもしれない。
思えば、和友との記憶を曖昧にする案も紫様が考えていたものだ。
紫様は、和友と自分の依存性を薄めるために記憶を曖昧にするという極論を貫こうとしているお方だというのに―――和友に対して容赦するはずもなかったのだ。
どうして気付かなかったのだろうか。
そんな後悔が心の中を荒らしていく。
「届いてくれ!」
必死に手を少年へと伸ばし、未来を守ろうとする。
決して届かない手を伸ばし、未来へと突き進む。
藍には少年を失う後悔を背負う覚悟が足りていなかった。
紫と藍が空中戦を繰り広げている中―――激しい戦闘が空中で行われているのを見つめている者達がいた。
空を見上げて視線を奪われているのは、レミリア、フラン、パチュリー、咲夜の4名である。皆の視線は、紫と藍の二人の戦いに注がれていた。
「速い、それに……綺麗。流れ星が空中に軌跡を描いているよう……」
「実際に自分の目で見ているというのに信じられないわね。まるで夢を見ているみたいだわ」
レミリアとパチュリーからそれぞれに感嘆とした想いが打ち明けられる。
いつまでも見ていられる気がする。それほどに何かを感じる景色だった。
なんというのだろうか―――今見えている景色がまるで一枚の絵のように見えるのだ。黄金色に輝く九尾とそれに対峙する妖怪という構図が輝く月に映えている。
そして、目の前の光景に視線を奪われている二人とは違った感想を持つ者がいた。
「あの戦いが終わったら、次は……」
咲夜は、心に襲い掛かってくる恐怖に耐えていた。九尾の矛先が変わる可能性に怯えていた。
これが終わったら―――次は自分の番だ。八雲藍が八雲紫を打倒してしまったら次は自分の番だという恐怖が体を震えさせる。
殺してやると言っていた言葉が頭の中で何度も反芻される。そう思えるだけの藍との因縁が出来上がってしまっている。先程少年を殺そうとしたときに敵視されてしまっている事実関係がある。
「…………」
両手を腕に回して震えを何とか抑えようとする。心が恐怖で凍えているのを止めようとする。
だが、理性では抑えきれなかった。目の前で繰り広げられている光景が死を連想させた。圧倒的な力の差が殺される未来を想起させた。
(咲夜……?)
恐怖に囚われた瞳をしている。その瞳はよく知っている目だった。何度も見た目だった。何度も鏡で見た目だった。何よりも知っている色をしていた。
あれは、自分を見失ったときに見せる瞳だ。
フランは、恐怖に染まっている咲夜にいち早く気付き、声をかけた。
「咲夜、大丈夫よ。私が咲夜を殺させやしないから」
「妹様……」
相変わらず恐怖で染まった瞳がフランへと向けられる。
これは、ダメである。
人から受けた言葉では何も変わらない。大丈夫なんて何の保証もない言葉では恐怖は取り除けない。恐怖を打ち払うには約束された安全を得るしかない。もう襲われないという確約を貰うしかない。
安全という保障を貰うためには何をすればいいだろうか。
これは誰もが知っていること。社会で生きている者ならば、万人が知っていることをする必要がある。
「咲夜、謝りに行きましょう?」
傷つけた人に謝りに行くのだ。悪いことをしたら謝罪する。
そんな当然のことをやらなければならなかった。
「悪いことをしたら謝る。当然のことよ。咲夜は瀟洒なメイドなのだから当たり前のルールぐらい守れるでしょう? 和友ならきっと今からでも謝れば許してくれるはずよ」
「は、はい……」
「ほら手を出して。行くわよ」
そっと咲夜の手を引っ張り、謁見の部屋から連れ出す。
このまま恐怖を引きずってしまったら外に出ることを怖がるようになるかもしれない。外に出たら九尾が襲ってくる、命を狙われるかもしれない、そういう恐怖が外に出ることを躊躇させるかもしれない。そうなったら自分と同じで外に出る機会を失ってしまう可能性がある。
そんなのは、余りに可哀想だ。余りに辛すぎる。
フランは、そんな気持ちもあって咲夜を目的地へと先導していた。行先は、祈りを捧げているはずの少年のところである。
迷わずに廊下を歩いていく。図書館を抜けて自分の部屋へと向かう。
咲夜は、フランに手を引かれながら不安な気持ちを打ち明けた。
「果たして謝ったところで私のことを許してくれるでしょうか。私は、笹原の命を狙って、殺そうとまでしたのですよ」
「許されるのかどうか―――そんなものどっちでもいいわ」
謝ったところで許してもらえるのか。
フランは、咲夜が謝るということの意味を履き違えていることに気付いた。
「許してくれるかどうかが大事ではないのよ。許してもらうために謝るんじゃないの」
謝るということは―――許してもらうことではないのだ。
フランは、別にレミリアがこれまで自分にしてきた仕打ちを許した覚えなど微塵もない。レミリアの行為は謝って許されることではないのだ。押し付けてきた重さは無くなることはないのだから。謝ったところでなくなるものでは無いのだから。その罪を許すつもりなんて全くなかった。
だとしたら、謝罪する意味とは何なのか。
それは―――自分がしたことに対して反省していることを示すためである。二度と同じことをしないと、自分が悪いことをしたのだと、相手に示すことに意味があるのだ。
「悪いことをしたのだから、謝るということはしなければならない。だから謝りに行くの」
「…………」
「悪いことをしたら謝る、子供だって分かっていることだわ。許してもらうために謝るわけじゃないの。自分が悪いことをしたと―――反省していることを示すことが大事なのよ」
フランの言葉を聞いて咲夜の口が塞がれた。別に許してくれなくてもいいなんて、咲夜の口からは口が裂けても言えなかった。
死の恐怖が心を蝕んでいく。
直ぐにでも救われたいという気持ちが先行する。
かといって―――それを口にすることもできなかった。
目の前のフランを見ていると、許してほしいという本心が醜く見えてひた隠しにしたかった。
「やっぱり祈っていたわね」
結局咲夜の口は閉ざされたまま少年の下へと行き着いた。
視界に入る少年は相変わらず祈りの体勢をとっており、跪いて願いを空へと送っている。
フランと咲夜は、少年が祈っている場所の3メートル手前で停止した。
「今話しても仕方がないわ。今話しかけても何も聞こえていないでしょうし……和友が祈るのを止めたら謝罪しましょう」
「…………」
そっと咲夜の手からフランの手が離される。フランの瞳は歪んだ咲夜の顔を映した。
咲夜の顔は、緊張しているのか怖がっているのか強張っているのが見て取れる。これでは上手く謝罪できそうになかった。
そう考えたフランは咲夜を気遣い、ある提案を持ち掛ける。
「もしも上手く謝罪できる気がしないのなら練習でもする? 今だったら練習し放題だと思うわよ」
「……そうします」
咲夜は、1メートルほど少年の傍へと近づくと膝を地面について頭を下げる。俗に言われる、土下座という体勢である。
誰も土下座を強要などしていない。誰もそこまでやれとは言っていない。それなのにそうなるということは、咲夜が自ら感じている心の形がそのまま姿勢に現れているのだと思った。
土下座なんて知らなかったけれども。
それがどれほどの意味を持つのか分からなかったけど。
咲夜の少年に対して謝る姿勢はとても綺麗に見えた。
さすがは瀟洒なメイドと呼ばれるだけのことはある。
反省していることは、きっと歪まずに伝わるはずだ。心から許されたがっていることは伝わるはずだ。
「笹原さん……先程は、殺そうとして申し訳ありませんでした……」
「うんうん、後は和友が祈るのを止めてからね。和友のことだから謝れば許してくれるわよ。今度からは気を付けてくださいとでも言われる程度でしょ、どうせそんなものよ」
咲夜の謝罪の形を見てフランの首が二度縦に振られた。
フランの言葉を聞いて咲夜の頭が上がる。リハーサルを一度行ったおかげか、少しだけ表情に緊張が無くなり、雰囲気が軽くなった。
「妹様は、笹原のことをよく知っていらっしゃるようですね。私たちが笹原を待たせてしまって謝罪した時も妹様が口にされた言葉と同じようなこと言っていましたよ」
「へぇ、そうなんだ……っ!」
唐突に力の波動を感じた。急いで力を感じる方向へと視線の向きを変える。
視線の先には、妖力が込められた弾が少年に向けて飛来しているのが見えた。
「まずいわ!」
フランは、すぐさま力を行使する準備に入る。自身の能力である「ありとあらゆるものを破壊する程度の能力」を実行する。
視線を妖力弾に向け、物質の核を見るために集中する。ものの中核である目を探すのである。
最速で―――自分ができる最高の速度で核を探し出す。妖力弾はすぐそこまできている。ミスは許されない。ミス=少年の死が結果として導き出される。
フランは極度の緊張感を感じる中で能力を行使する。
「見えた!」
目に力を集中すると妖力弾の目が見えた。一直線に少年に向かっている目が見える。後は、これを掌まで移動して潰すだけである。
フランは、いつもやっている通りにいつもの台詞を心の中で呟いた。
(きゅっとしてドカーン)
掌を握ったことによって妖力弾の目が潰される。手のひらに乗っていた目は跡形もなくボロボロと掌から落ちていった。
握り潰したと同時に妖力弾が掻き消える。まるで、最初からなかったかのように空間から消えてなくなった。
「和友を殺そうっていうのなら、そうはさせないわよ。和友を殺すのは、‘私の役目’だから」
フランは、妖力弾を放ったどこかの誰かに向けて言った。
その直後、藍が少年の下へとやってきた。
「…………あ、あの」
咲夜の足が目の前に現れた恐怖の根源によって動かせなくなる。
さっきまで謝罪の練習をしたというのに、やはり本番になるとものが変わるように雰囲気が一転してしまった。動けなくなって、口から言葉が出てこなくなった。
「和友、無事でよかった……」
藍の視界に咲夜とフランの姿は入っていなかった。
一本の未来しか見えていない藍の視野は酷く狭くなっている。視野狭窄に陥っている藍の視界に入るのは、少年が無事だったという事実だけだった。
「っ……そこまでするのか! 和友を殺してまで望むものを手に入れようとするのか!!」
少年の無事に安堵した後―――藍の心の中に沸々と怒りが湧き上がってきた。
怒りを込めた視線を危険を作り出した主である紫へと向ける。
紫の表情には、自分がやったことに対して後悔している様子や罪悪感を覚えている様子は見受けられない。何の未練もない雰囲気だった。
ふざけるな。
何も感じていないのか。
和友を攻撃しておいて何も想わないのか。
辛いとも思わず、何も感じずに和友を殺せるのか。
少年が来たことであれほど生活が幸せで溢れたというのに。
家族として生きてきたはずなのに。
それなのに、命を奪うことに抵抗を感じていない。
そんな紫の態度に苛立ちが募る。これまで積み立ててきたものを簡単に突き崩すことのできる紫の選択に怒りが湧いてきた。
藍は、少年を守るように少年の目の前で仁王立ちすると敵意を向けた視線を紫へと送った。
「今、和友を殺そうとしましたか? 本気で殺そうとしましたか?」
確認のために質問を一つ放り投げた。
答えなど最初から分かっている問いを投げかけた。
それでも、その問いは藍にとって必要な問いかけだった。
―――自らの壁を一つ壊すために。
―――主である紫に対しての躊躇という障害を消し去るために。
「……そうよ、言い訳はしないわ。私は本気で和友を殺そうとした」
「例え紫様でも許しませんよ。和友を傷つける奴は誰だって許しません」
紫からの回答を聞くや否や―――尻尾の中に少年を取り込む。大きな尻尾が祈りを捧げている少年を包み込むようにして球体を作り出す。
少年の姿が尻尾にくるまれて見えなくなった。その様子は、まるで花という殻に閉じこもった実のようである。
藍は、鋭くなった視線を紫へと向けながらゆったりと近づき、問答を繰り返す。
「紫様は、どうして和友を殺そうとするのですか?」
「和友がそうすることを望んでいるからよ」
藍に対して迷いのない答えが述べられる。
紫が少年を攻撃することを迷わなかったのは、少年自身がそれを望んでいるから。
少年が紫の選択に対して背中を押してくれたから。
だから、躊躇なんて何もなかった。
だから、悩むことなんて何もなかった。
支えてくれる、認めてくれる少年の存在があれば何も怖くなかった。
藍の口から歯ぎしりする音が聞こえてくる。
紫は、緩やかに距離を詰めてくる藍の歩みを止めようと妖力による結界を藍の四方に張り巡らせた。
「―――四重結界」
「無駄ですよ。結界の類もこの力には通じない。境界線を張ったものを根こそぎ打ち消す力です」
紫の四重結界が蜘蛛の巣でも取り払うように引き剥がされていく。あってもなくても一緒と言わんばかりに、結界は意味をなさなかった。
紫の表情が近づいていくたびに徐々に悲しそうな表情に変化する。
どうしてそんな顔をしているのか。
どうしてそんな顔を見せるのか。
藍は、紫の表情を見て心の内に溜まり込む怒りに我慢できなくなった。
「どうして紫様は和友を殺すようなことを、そんなことをそんな顔でできるのですか!?」
「和友から伝えられているでしょう? あの子は殺されたがっているの。心から殺されることを望んでいるのよ」
なぜ、和友を殺すことができるのか。
聞いたのはさっきと同じ言葉だった。
聞こえてきたのはさっきと同じで納得できなかった言葉だった。
聞きたいのはそういうことじゃない。
違う―――そうじゃないのだ。
藍は、頭の中でぐるぐると勢いよく回って複雑になっている感情から必死に疑問を探す。そして、自分が最も聞きたいことを紫へと尋ねた。
「……和友がそう思っていたとしても、それでも、助ける方法を探そうとは思わないのですか!? 助けようとは思わないのですか!?」
「助けようと思わない?」
藍の質問を聞いた紫の表情が怒りに染まる。
紫が少年を助けることを諦めたのは、助けたくなかったからではない。少年のことをどうでもいいと思っていて助けたくなかったからではない。少年が助けて欲しいと言わなかったから助けたくなかったわけではない。
助けようと思わないのは―――助けられないからだ。
助けられないから―――助けようと思うことを止めたのだ。
「助けようとは思ったわよ。助ける方法がなくて、助けられる可能性がないことを知って、だったら―――和友の願いを叶えてあげようと思っただけ」
どうして見えないものに縋ることができるのか。
どうして手をかけるところのない壁を登れる道理があるのか。
助ける方法がないのならば、少年が望む形を作った方がよっぽど意味があることのように思える。
この問答は、次の問いに似ている。
貴方は、明日死んでしまいます。
貴方は、今からどうしますか。
助かる方法がないか探す―――これが藍の意見だ。
生きている間にやりたいことをやっておく―――これが紫の意見だ。
極端な例ではあるが、今両者に問われている選択と大きな違いはない。
こう考えると藍の意見がいかに異質か分かってもらえるはずである。藍の考えは、助かる方法を探すというもの。病気の人間が助かるために手術するという具体的なものではない。助かるために何をすればいいのかを探すというものだ。
紫には、そんな曖昧なものに頼ろうとしている藍の考えが全く理解できなかった。
「藍、貴方は和友を助ける方法を見つけることができたのかしら?」
「…………」
「そう、‘貴方も’見つけられていない。なのに、まだあの子に期待を背負わせようとしている。重たいものをまた背負わせようとしている」
生きていて欲しいという期待がどれほど和友に重荷を背負わせたことだろうか。
これまでどれほどの荷物を抱えさせてきたのだろうか。
「もうこれ以上、和友を傷つけるのは止めなさい。抱えきれなくなっているあの子にさらに荷物を与えるのは止めなさい」
和友は、もう抱えきれないところまできている。抱えきれなくなって死んでしまうところまで来ている。
少年の代わりに背負うことができればいいのだが、それは少年だけが持てる荷物であり、誰かが代わりに持ってあげるということはできないものである。
その荷物は、「少年だから」背負わなければならなくなったもの。生まれたときから体に不自由を抱えている人間が、最初から荷物を抱えていて他の者が代わることができないのと同じ類のものである。
「和友は、ずっと歩き続けている。死というゴールしかない道を歩き続けている」
少年は、大きな荷物を背負って階段を登っている。
少年が登っているのは富士山でもないし、エベレストでもない。宇宙空間の遥か果てにまで続いているように先が全く見えない場所である。
そんな場所に進んでいる―――死ぬまで終わりが見えない耐久レースをしている。
「諦めることも許されず、投げ出すことも許されず、その重い足をひたすらに前に進めているのよ。それしかできないから―――和友は前に進んでいるの。だったらそれを止めてあげられるのは私達しかいないでしょう? 家族である私たちが止めてあげないと誰が止めてあげられるっていうの!?」
普通の人間ならば、とっくに放り投げてしまっていることだろう。
辛かったら逃げてもいい。
立ち止まってもいい。
別にそれは悪いことでもないし、異常なことではない。
だが、そんな普通のことが少年には許されていない。普通に生きるという目的のために、死んではいけないという決まり事のために、歩みを止めることを許されていない。止めれば、心が拒否の姿勢を示す。自分自身の存在を嫌うことになる。
逃げることを遮った両親のために、和友の背負っているものはどんどん重くなっている。そこに終わりを与えることは和友が望んでいること。そして、その方が良いと―――それが良いのだと紫も選択したこと。
藍を失う選択肢を選びたくなくて―――選択したこと。
紫は、例え少年が一撃で死ななくとも、何度でも何度でも殺すつもりだった。
少年の心が生きたいと叫んだとしても。
決まり事が死ぬことを許さなかったとしても。
何度だって息の根を止めてあげるつもりだった。
それだけの覚悟をしてきた。
「貴方は、そんなあの子にまた頑張れと無責任な言葉を言うつもりなのかしら? そうやって和友に重荷を背負わせるの? 冗談も大概にしなさいよ」
「……それでも、それでもです。諦めたくないのです!」
「私だって諦めたくないわよ!!」
藍は、現実を見つめている紫とは違う。少年が苦しんでも可能性に賭けたいという「攻め」に見える「逃げ」を選んでいる。前に進んでいるように見えて後回しにしているだけの選択をしている。
―――それではダメなのだ。
時間が解決してくれる話ではない。時間はむしろ選択の幅を小さくしていく。時間が少年を追い詰めていく。最終的に袋小路に追い詰められるだけだ。
時間の制約にがんじがらめになる前に。
出血多量で死んでしまう前に。
今この時に選択を選ぶことが家族を守ることに繋がると―――紫は、自分の意見を信じて疑わなかった。
「だけど、どちらを選ぶかといわれたら私は藍を選ぶわ。藍が生き残ってくれる方を選ぶ! それが例え誰であっても―――藍を選ぶわ!!」
藍の身体が紫の言葉に思わず硬直した。
紫は言っている、少年と藍を天秤にかけたときに―――藍を選ぶと。
「だからこうして戦っているの。私は和友よりも藍が大事なのよ!! なんで分からないの!? どうして分かってくれないの!? 私は、藍にだって生きていて欲しいのよ!!」
「私は……」
「藍、貴方の望む未来って何? 貴方にはどんな未来が見えているの? 私に教えてよ。私を納得させて。私にそれを選ばせるだけの何かを与えてよ」
紫の言葉にそっと頭の中で望む未来を想起する。
自分が望む未来はどんなものだろうか。具体的に見える世界はどのような素晴らしい世界だろうか。
自分が望む未来―――少年が生きている世界だろう。
それで間違っていない。
でも―――何だろうか。
心の中にしこりが残っている。何か足りないものがあるような気がして、それだけで満足できない自分がいるようで、口が「少年の生きている世界」だという言葉を吐き出そうとしなかった。
そんな足が止まっている時、思考を遮るように声が聞こえてきた。
「迷っているね」
「和友!?」
藍の背中にそっと少年の両手が添えられる。
両手から伝わってくる温かさが藍の心を落ち着かせる。それに合わせるように藍が纏っていた神力の鎧がほどけていった。
(神力の衣が消えた!? 今しかないわ!)
少年が祈るのを止めたからだろうか。
紫は、一瞬で状況を察して力を溜める体勢を作る。藍の意識を確実に飛ばすことのできる一撃を用意するには時間が必要になる。
それは、神力の衣があろうがなかろうが関係ない。藍は、それ本来だけ見ても九尾の妖怪である。全力で攻撃しなければ撃ち落とすことは不可能だ。
妖力が紫の突き出した両手に勢いよく集中していく。紫色の光を帯びて色が濃くなっていく。
準備している紫のことを知ってか知らずか、少年から藍に向けて次々と疑問が投げかけられる。
「悩んでいるみたいだから紫の代わりにもう一度聞くよ。藍は―――どんな未来を求めているの?」
「私は、和友が生きていける未来を……」
「それだけでいいの? 藍は、僕が生きていければそれでいいの?」
藍の望む未来は、その口から出た言葉とは違っている。
確かに藍は少年が生きていける世界を望んでいるだろう。一緒にいる未来を欲しているだろう。間違っているのかと問われれば別に間違ってはいないのだが、足りないものがそこにはある。
少年は、それだけではないと知っていた。
いつも藍と一緒にいた少年は知っていた。
いつもマヨヒガでみんなと一緒にいた少年は、藍の本当の望みを知っていた。
「違うでしょう? 藍が求めているものは、そんな程度のものじゃないでしょう?」
藍が望むのは少年の生存ではない。
藍が望む場所はもっともっと高いところにある。
今ある少年を助けるという障害のさらに奥―――さらに高いところにある。
「藍の望んでいる未来は、ここで紫を倒して、紫の意志を踏みにじって、紫の想いを見捨てて、それで叶えられるものなの? 藍の心はそれでいいと言っているの?」
迷いを持っていることは祈りを捧げているときに分かった。
そして、迷いの原因も分かっている。
答えは目の前にある。
「目の前の紫をしっかりと見てあげて。紫は、藍を守ろうとしている。これから続くマヨヒガの生活を守ろうとしている―――家族を守ろうとしている」
紫の想いは真っ直ぐに伝えられている。藍が大事なのだと真っ直ぐに伝えられている。紫から少年よりも藍が大事なのだという選択の想いを受け取っている。家族というものを崩壊させたくないのだという気持ちを伝えられている。
紫の想いは分かった。
それを抑え込んでまで、無視してまで、藍が目指すべきが少年と一緒にいる未来なのだろうか。藍が守りたいのは少年だけなのだろうか。
―――違うはずだ。
少年は、知っている。
藍にとって大事なのは、自分の存在だけじゃないということを。
「藍が守りたいものは、何なのかな?」
探せば見つかるはずだ。
心はいつだって嘘をつきたがる。
本心はいつだって迷子になる。
探してあげて。
嘘つきな心の、本当の気持ちを見つけてあげて。
僕を見つけた藍なら―――絶対に見つけられるはずだから。
「答えは、いつだって心の中にあるんだ。本当の自分の気持ちを見つけてあげて」
「私の、本当の気持ち……」
心の中にあるはずの答えを探す。
今までの暮らしを思い返す。
これまで自分が何を感じて。
今まで何を想って。
どうしてこうなっているのか。
藍は、過去を振り返る。
紫の妖力が密度を上げていく。
一撃で落とす。動きの止まった今がチャンスであると言わんばかりに、上限を突破してさらに妖力を込められる。
「私は、私の望む未来は……」
私は、何を守りたかったのだろうか。
私の生活は、2年前と何が変わったのだろうか。
何が愛しくて、何を大事にしてきたのか。
和友が来て、皆が変わった。
今の生活が、楽しかった。
今の家族としての形が幸せを与えてくれた。
―――私は、何を守りたかったのか。
―――私は、何を望んでいる?
そう心に問いかけたとき―――迷子(本心)が見つかった。
「そうだ……和友が笑っていて、私も笑っていて、橙も笑っていて、紫様も笑っていなければならないのだ。それが―――私の望む未来。それが、私の望む家族の形だ……」
本心を見つけ出した藍の顔に優しい表情が浮かぶ。
もうすでに発射する体勢を整えて力を蓄えた紫に向けて優しい表情を浮かべる。
今から攻撃されるなど口ほどにも思っていない様子で。
全てを受け入れるような顔で。
背中に確かな重みを持って。
両手を広げて紫に近づいた。
「紫様、紫様も一緒に笑っていられる未来が―――今の家族の形が私の願う明日の形です」
「藍、ありがとう。心からのお礼をあなたに告げるわ。安心しなさい、未来はいつだって私たちの手の中にある。誰かが握っているわけじゃない、私たちが未来を作っていくのだから」
紫は、一切の躊躇をしなかった。
構えた両手から放たれる妖力の波は、全てのものを押し流した。
紫の攻撃から少年が助かる方法は、これしか思い浮かびませんでした。
予測できた人も多いのではないでしょうか。
次の話で第5章は、完結する予定です。