ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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紫と藍は、意見相違から衝突する。
藍は、少年を助ける未来を勝ち取るために。
紫は、藍を確実に守るために。


気持ちの伝え方、勝負の決着

「さぁ、貴方の望む未来を掴み取ってみなさい。私は私が望む未来を手に入れてみせるわ。それが例え、貴方の望む未来を摘み取る結果になったとしてもね。私は容赦なんてしないから」

 

 

 紫は一旦藍との距離を広げると、持てる速度の限りを尽くして空を縦横無尽に飛び回り始める。

 紫の飛行速度はこれまで少年と弾幕ごっこをやっていたときと桁が違う。風を切る音が全てを支配するような勢いで飛行している。空気を引き裂いて行くように、紫の軌道が空間に一線を引いていく。

 

 

「貴方の未来は私が握っている。欲しかったら捕まえてみなさい。それとも諦めるかしら? 諦めるのなら早いに越したことはないわ」

 

 

 満月の夜ということもあって、紫の妖力は最大値を計測している。

 燃料は最大だ。エンジンの調子も悪くない。アクセルを精いっぱい踏み切る。ペダルが壊れるぐらいにきっちりと踏み切る。ここが正面場である。限界いっぱいまでこの身が砕けるほどに振り切った世界で、未来を掴みとる。

 紫は、持ち合わせている最大限の力で空中を疾走していた。

 

 

「明日に繋がる尻尾がそこに見えているのです。掴まない道理などありません」

 

 

 そして、最大速度で動き回る紫に対して―――藍はぴったりと付いていっていた。

 ちょうど二本の線が湾曲しながら動いているのが見える。若干の赤みの混じった紫色の妖力を纏っている紫と、真っ白な光を纏っている藍で、二つの線が被るように空中に軌跡を描いている。

 だが、若干藍の方の速度が速いようで二人の少しずつ距離が縮まっていく。5メートル、4メートル、3メートルと徐々に近づいていく。

 そのたびに紫は旋回し、距離を離した。直線速度では藍の方が早いが、先行している紫が唐突に旋回行動をして藍の追随を許さない。

 その動きはまるで藍の気持ちを煽っているように見えた。追いつきそうで追いつかない。届きそうで届かない。余裕そうな紫の表情がさらに藍の心を焦らせる。

 

 

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」

 

 

 鬼さんこちら、手の鳴る方へ。

 遊びの一つである―――目隠し鬼と呼ばれる遊びで使われる言葉である。目隠しをした鬼が止まっている相手を見つけ、それが誰かを当てるという遊び。

 その遊びで鬼に自らの場所を伝える方法が、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」という言葉だ。

 

 

「貴方が掴みたい未来はここにいるわ。目隠ししている貴方に見えているかしら?」

 

 

 現時点でこの目隠し鬼という遊びと大きく違っている点が二か所ある。

 1か所目は動いてはいけない紫が空を縦横無尽に駆けていること。

 2か所目は藍が目隠しをしていないことである。

 藍は、煽ってくる紫に向けて言った。

 

 

「私の視界は良好です!」

 

「貴方は何も見えていないわ。遊びと同じで目隠しをしている。見たくないものを見ていない。見ようとしていないから見えないのよ。目の前にある断崖絶壁の壁をね」

 

 

 最終目標は確かに見えているだろう。望むべき未来の形は明確に出来上がっている。立ちはだかる壁を乗り越えた先にある景色―――少年の病気を治して家族として過ごす景色ははっきりと見えている。

 しかし、それまでの段取りが全く見えていないのだ。そこに辿り着くための階段が作られていない。そして、理想に辿り着けなかった時に迎えることになる喪失感に対する覚悟が足りない。

 

 

「そして、和友を失った瞬間にその壁も失ってしまうのよ。目指すべきものを見失って何も見えなくなるの。希望も、未来も、何もかもから目をつむることになる」

 

 

 少年を失ってしまったら同時に見えていた未来が失われる。

 目標だった壁ごと消し去られて方向性を失う。

 目的が無くなり無気力になる。

 大事なものを無くしたことによる心の穴は埋められない。

 

 

「貴方のそれは現実から目を背けた、まがいものの理想論よ」

 

 

 藍の望む形は理想論だ。

 それも、とびっきりの理想論だ。

 何の手段も講じられていない―――希望調査のようなものだ。

 どうしたいですかという問いに対して、こうしたいというような願望だけしか描けていない。

 最善は確かにそこになるだろう。みんなが幸せに過ごせる未来がそこにはあるだろう。そこに異論を挟むつもりはない。

 だが、その未来にたどり着くためには大きな壁がある。それを乗り越えなければ、望む未来を掴みとることはできない。

 

 

「しっかりと前を見なさい。ちゃんと現実を見なさい。その塞いでいる目を開けて自分の望む未来を見てみなさい」

 

 

 藍は、大きな障害に対してジャンプをして乗り越えようとしている。道具も使わず、手段も講じず、ただ手を伸ばしているだけだ。

 そこには未来にたどり着くためのプロセスの存在がない。だから、言っていることが理想論に感じてしまう。つたない希望に見えてしまう。

 どんなに難しい壁だとしても、1段ずつ登ることのできる階段を提示できるのであれば現実論になるというのに。リスクを全く侵さずに、危険を全く感じることのない階段を作り出す―――それこそが現実論になるための材料になるというのに。藍の理想には肝心の材料が―――階段の存在が足りていない。

 マラソンの大会で優勝したい。

 だったらどうするのか。

 練習をするのだ。

 優勝候補の人間は日に10時間の練習をしている。

 だったら、こちらは12時間の練習をするのだ。

 相手はこんな練習を取り入れている。 

 だったら、より効率的な練習を考えて取り入れるのだ。

 優勝という理想を叶えるために階段を作る。

 1段1段踏みしめて登る。

 そうすれば、優勝するという理想は現実に変わる。

 紫を巻き込むためには、理想論を現実論に変えるプロセスの明示が必要だった。

 

 

「そんなことありません! 私は、自分が望むものがきちんと見えています!」

 

「見えているというのなら捕まえられるわよね。証明して見せなさい。私が持っている貴方の未来を掴んで見せなさい」

 

「言われなくとも追いついて見せます!」

 

 

 藍は、紫の煽りを受けるように少しだけ速度を上げた。

 

 

(まだ速くなるのね。一体どこまで速くなるのかしら? 私も一応全力で飛んでいるのだけど……昔から腕力と速度だけは、藍の方が優れていたものね)

 

 

 紫は、すでに全力に近い速度で飛行している。

 これ以上速度を上げるのは、自らの体の状態を考えれば危険である。体が持たない。速度に引っ張られた遠心力で体が悲鳴を上げ始める。

 藍が自分よりも速く飛べているからといって、ここで無理をする必要があるのだろうか。まだ何もやっていないのに最初からトップギアにいれてエンジンに負担をかけるのはナンセンスだ。勝機はいくらでも見つけられるはず。これは、気持ちが折れなければいいだけの戦いなのだから。

 だったら―――どうするか。目的を達成するために必要な手段は何なのか。

 紫は、追いかけてくる藍に対して階段を積み上げ、手段を講じた。

 

 

「これならどうかしら?」

 

 

 紫は、真後ろをついてくる藍に向けてまき散らすように弾幕を張った。ノータイム、ノーモーションで魔方陣が次々と展開され、後続を断ち切るように妖力弾が放たれる。

 藍の正面から弾幕の嵐がやってくる。

 

 

「紫様がどれだけ行く手を遮っても、私のやることは変わりません。目標に向けて飛ぶだけです」

 

 

 藍は、積乱雲に飛び込むように妖力弾であふれた豪雨の中に飛び込んだ。

 弾幕の間を縫うように曲線を描き、全ての弾幕を躱していく。速度が落ちている様子は全くない。しかし、距離が徐々に縮まっていた関係は、躱した分飛行距離が増加することによって紫との距離は保たれている形になった。

 

 

「神力の衣―――あれを突破する方法を考えなければいけないわね」

 

 

 藍は、妖力弾と神力の衣が掠るぐらいぎりぎりのところを飛んでいる。

 神力の衣に触れた妖力弾は丸みを失って少しばかり抉られていた。どうやら神力の衣に接触したことによって妖力弾に込められた妖力が失われたようである。

 神力の衣についても対策を練らなければならない。あれ程の密度で纏っている神力を貫通するのは骨が折れる。

 そして、それ以上に弾幕をものともせずに後ろにぴったりとくっついて飛行する藍を何とかしなければならなかった。

 

 

「それにしても、全部避けていくなんて体に負荷がかからないのかしら? あの速度を維持しながら弾幕を躱していくなんて、とてもじゃないけど体がもたないはずなのに……」

 

 

 慣性の力が藍の体に負担をかけているはずなのだが、そんな様子は一切見られない。

 表情にも動きにも負荷がかかっている様子は見受けられない。

 ただひたすらに紫のもとへと飛行している。

 状態が変化するときには力が働く。

 運動の場合は、慣性と呼ばれる力が働く。

 車に乗っていて、一定の速度で走っていると何も感じないが、急ブレーキがかかると前のめりになる。ある状態であるものが形を変える時、力が働くのである。それが慣性の力である。

 藍の速度は音速に近い。それほどの速度で進んでいる進行方向を曲げ、力の方向を変える際にかかる力は想像を絶するもののはずだ。力の方向が変わることによる慣性の力―――遠心力は凄まじいもののはずだ。

 しかし、藍の様子を見ていると力がかかっている様子は一切見受けられなかった。

 

 

「慣性の力をちゃんと受けているのか疑わしくなるわ」

 

 

 予想以上に藍が強くなっているということか。紫は、次の策を考え始めた。

 考え込む紫に対して、藍は不思議な感覚に囚われていた。

 

 

(不思議な感覚だ。まだ速くなる。もっと速くなる。状態は無重力に近い。心は歓喜に打ち震えている。苦しむ余裕もなく、辛さを感じる余裕もなく、ひたすらに前だけを向いている)

 

 

 慣性による遠心力の力がかかって辛いはずなのに何一つ苦痛を感じない。辛さなど微塵も感じない。ただ、進みたい方向に進めているという実感だけが心の中を支配していた。

 ―――もう少しで追いつく。もう少しで捕まえられる。視界に入る紫の後ろ姿はどんどん大きくなっている。

 視野が狭くなっているわけじゃない。弾幕が張られていることを知らせてくる視界からの情報はどんどん膨らんでいく。

 それでも、迫ってくる弾幕の躱し方が分かる。体が前に進むための最適解が次々と導き出される。最も近く、最も早く駆け抜けることができる道、ただ一つの道が提示されていく。

 だとすれば、脳内が叩き出す答えを体現するだけだ。

 この体にはそれを達成できるだけのポテンシャルがある。

 藍は、着実に紫との距離を縮めていった。

 そんな時―――紫から次なる弾幕ではなく、言葉が放出された。

 

 

「ちなみにどうやって式神の契約を振りほどいたのかしら? あれがある限り、私には逆らえないはずなのだけど」

 

「和友が取り払いました。どうやら和友の力は、こういう契約のような決まり事と言うのでしょうか、そういうものを曖昧にして無効化する力があるようです」

 

 

 やっぱりそうだったのね。そういう言葉が紫の口から聞こえるようだった。

 式神は、力を貰っている主に逆らうことはできない。それは人間が作ったロボットが人間に反旗を翻すことを認められていないのとおおよそ同じだ。その関係には絶対性が存在し、それがある限りどうしたって刃向うことはできないようにできている。

 だが、藍はこうして紫に抵抗している。それは少年の力が原因である。藍と紫との間にあった式の繋がりを絶ったという部分でもそうだし、これまで積み立ててきた藍の自我の強さがそれを実行させていた。

 紫は、少しばかり億劫そうな表情で言う。

 

 

「だったら、後でもう一度式を定着させないといけないわね。本当に……あの子は、息を吸うみたいにやらなければならないことを増やすわね」

 

「それでも悪い気はしない。そうでしょう?」

 

「そうね、そこがまた苛立つポイントではあるのだけど。手のかかる子ほどかわいいとはよく言ったものよね。手間をかけた分だけ愛着が湧いてしまっているわ」

 

 

 そう言って藍の様子を確認しようと顔を後ろに向けた瞬間―――藍はすでに目の前というところまで接近していた。

 

 

「いつの間にっ!?」

 

 

 弾幕を張るのを忘れていたわけではない。速度を緩めたわけでもない。それなのになぜこれほどまでに藍が近づいているのか。

 答えは、酷く簡単なものだった。藍の速度がさらに上がったのである。

 急いで距離を離さなければ―――さらに密度の高い弾幕を張ろうと力を巡らせる。

 だが、紫が次の行動に移ろうとした瞬間に藍の手が紫の腕を掴み上げた。

 

 

「くっ……」

 

「やっと捕まえましたよ」

 

「離しなさい!」

 

 

 掴まれた左腕を振りほどこうと暴れる。

 しかし、いくら力を入れて掴まれている手を引きはがすことはできなかった。

 振りほどけないのならば―――攻勢に出るまでだ。紫は、そう言わんばかりに右腕を振りかぶり攻撃に移る。

 しかし、紫の攻撃はいともたやすく藍に払われ、腹部に掌底打ちを受ける。寸分違わず、すっと伸びてきた藍の掌はみぞおちに入り込んだ。

 

 

(っ……容赦ないわね)

 

 

 みぞおちは神経系が集中しており、衝撃を受けると他の比ではない痛みを生じる。衝撃が強いと呼吸困難を起こす場所である。

 紫は、襲い来る痛みに歯を食いしばって耐える。痛みはじわじわと腹部に留まっている。

 藍は、耐えている紫を見て若干の距離を取ると余裕のある顔で告げた。

 

 

「紫様は昔から格闘戦が苦手ですね。料理と違ってあの頃から上達していらっしゃらない」

 

「例え苦手でも、この状況を打開できないほど劣っているわけじゃないわ」

 

 

 藍と普通に打ち合っていたら負けてしまう。

 考えるのよ。

 何が今の私に足りないのか。

 相手よりも劣っている部分、相手より優れている部分、それを補うための方法を。

 足りない部分。

 速さは負けている。それは、先程証明された。

 重さも負けている。それは、今ほど証明された。

 戦闘技術も負けている。これは、最初から分かっている。

 優れている部分。

 境界を操る程度の能力が使える。

 これは藍にはない力。

 藍に与えられた能力は、式という枠組みを外れたことで無くなっている。そもそも藍が所持している「式神を操る程度の能力」が発揮されることは、現状無いといっても差し支えない。

 なぜならば、肝心の式神である橙がここにはいないからである。

 仮に、橙がここにやってきたら最悪の状況になる。来ない方が絶対にいい。自分にとっても藍にとっても橙の存在は邪魔にしかならないだろう。

 

 

(劣っている部分は優れている部分で覆う。それが劣勢を逆転する唯一の方法)

 

 

 劣勢を逆転する方法は、優れている部分で足りない部分を覆い隠すことだ。

 できないことに目をつむるのではない。できることにあぐらをかくのではない。優れている部分で劣っている部分を覆い隠すことができれば、状況は好転する。

 

 

(身体能力を底上げする。藍よりも優る様に設定する)

 

 

 紫は、自らが保持している能力―――境界を操る程度の能力を行使する。

 行うのは身体能力の強化。劣っている部分の向上。

 技術はどうしようもない。これは身についている癖のようなものであり、上手い下手の境界が曖昧なもの。境界線のないものは操作できない。

 だけど、力の強さは測ることができる。速さは計測することができる。境界線がはっきりしている。

 紫の能力である境界を操る能力は、こうした境界線がはっきりとしているものならば何でも適応することができる能力である。逆に言えば、境界線が曖昧なものに対しては適応することが難しい能力である。

 紫の行っている境界操作のイメージは、計測を行っている機械に表示された数字を弄るようなイメージである。例えば、握力測定で40kgと出たとする。これを80kgに書き換える。自身の持っている力を40kgから80kgに書き換えるのである。ある場所とある場所の境界線を繋げ、ワープする。これは、ある場所Aとある場所Bの距離を測って1kmだったものを0kmに書き換えるようなイメージである。計算結果の書き換え、それが境界を操る能力の真骨頂だった。

 

 

(私の能力は和友と違って何だってできるのよ)

 

 

 そういう意味では、少年の境界を曖昧にする能力とは似ているようで使い方が全く異なっていることが分かる。

 少年の境界を曖昧にする能力は境界線を崩すもの。

 例えば、握力測定で出た結果が40kgでその境界線が曖昧になったら結果はどう表示されるだろうか。また、ある場所Aとある場所Bの距離が1kmあるとして、それを曖昧にしたらどうなるだろうか。

 きっとそれは―――よく分からないものになるだろう。よく分からないものは、狙った結果をはじき出すことができない。こうしようと思った結果が予測できないのだから、応用の幅が小さくなる。求めている結果を作り出せないのである。

 紫は、そんな使い勝手の悪い少年の能力とは違う無限ともいえる幅を利かせて力の限界の境界線を操作し、上限を引き上げる。

 藍の力よりも強くなるように。

 藍の速度よりも速くなるように。

 引き出せる力の上限を突破させる。

 身体能力で上回ってしまえば、テクニックによる違いを埋めることはできる。

 

 

「逃げるだけの時間は終わりよ。藍ばかり攻めるのは不公平だもの。私からも攻めさせてもらうわ」

 

「やれるものならばどうぞ。受けて立って見せます」

 

「そう、だったら止めてみなさい」

 

 

 紫は、藍との距離を詰めて右の拳を振るう。

 紫の右ストレートは、力に任せた乱暴なものだった。技術のある人間にならばたやすく避けられる、払いのけることができる―――はずだった。

 

 

(先ほどよりも速い!?)

 

 

 藍は、急に速度の上がった紫に慌てて対応し、攻撃の方向を逸らそうとする。

 しかし、対応が遅れたこと、何よりも紫の力が強くなっていることで完全に払いのけることはできず、左肩に直撃した。

 

 

(そして重いっ……先程の紫様の力とは一線を駕している。紫様の限界値は底なしか!?)

 

 

 当たった衝撃が肩から全身に回っていく。神力の衣が体を包んでいなければ、肩の骨ごと粉々だっただろう。それほどの一撃だった。

 

 

「落ちなさい!」

 

 

 ―――第二撃が来る。

 僅かに外れかけた左肩を無理やり稼働させる。ここで止まったら終わってしまう。

 今度は、正面から暴力的な足蹴りが飛んできた。

 

 

(急所だけは避ける!)

 

 

 体の中心を守るように体をすぼめて足蹴りを両手でガードする。

 紫の足が当たった瞬間に腕の骨が軋む音が響き、攻撃に押されて藍の体が僅かに後退した。

 

 

「見事です」

 

 

 本当にお強い方だ。私が千年以上前に負けて従者になっただけはある。そして、さすが私が従者になった甲斐のあるお方だ。

 あの時よりもはるかに強くなっている自信はある。負けない気持ちも、冷静な思考も、何もかもあの時より強くなっているというのに。

 紫様は、強い方だ。

 藍は、喜びを匂わせる表情で紫に向けて言った。

 

 

「この状態の私と互角に戦えるとは。昔よりも遥かに強くなっているような感覚ではあるのですが―――さすがは我が主とでもいいましょうか」

 

「私だって千年以上も経てば強くなるわよ。私もあの頃の私ではないの」

 

 

 そんな強がりを言う紫だったが、内心は焦りでいっぱいだった。今の攻撃で右こぶしの骨にひびが入った。手首がイカれて上手く力が入らなくなっている。

 

 

(冗談じゃないわ。境界を操作して肉体に負荷がかかるレベルで底上げしているというのに同程度ですって……)

 

 

 治るまでにどれほどの時間がかかるだろうか。妖怪が全盛期になる満月の夜だとしても、完全治癒までには数時間の時間を要するだろう。

 紫は、即座に境界操作の能力で自然治癒能力を高め、一気に傷の回復を狙う。能力を行使すると、数秒も経たずに痛みが一気に引いていくのが分かった。

 これならまだ戦えそうである。

 本当ならば骨ごとくっ付けてしまいたいが、紫の能力では直接的な骨の治癒は不可能だった。

 紫の能力は境界を操る程度の能力であって境界を作り出す、消し去る能力ではない。

 境界を作り出す能力を持っているのは閻魔である四季映姫であり、境界線を消し去る能力を持っているのは笹原和友である。

 

 

(私の能力では、境界線を生み出すことと消し去ることはできない)

 

 

 骨にひびが入って境界線ができたからといって、それを消し去ることはできないのである。距離を操って零距離にしたとしても細胞が結合しているわけではない、隣り合っているだけである。再び攻撃を行えば、同じように一気に崩れるだけだ。

 

 

(このまま戦えば、私の肉体の方が持たないわ)

 

 

 このレベルを維持してどこまで戦えるだろうか。そう思うと自然と表情が歪んだ。

 ―――限界突破。境界操作による力と速さの上限のリフトアップ。それは体に大きな負荷をかける。いくら力が強くなったからといって肉体が丈夫になったわけではない。

 もちろん、体の強度を上げることでカバーはできる。肉体の強度を強くすることで、攻撃に耐えることも可能である。

 だが、それをするためにどれほどの境界操作が必要になるだろうか。

 人体の骨の数は206本である。これだけでも206の境界操作を必要とする。人体の細胞の数は60兆個あるのだ。同じ操作を行えばいいと言うのならばまだ何とかできたのかもしれないが、細胞にも若い、古いという個体差があるため、それぞれに適した境界操作を行わなければならない。これらを全て強化するのは無理があるのである。

 

 

(藍と闘いながら、身体を弄る危険と隣り合わせの境界操作は身を滅ぼしかねない)

 

 

 特に藍と闘っている現状では―――不可能だ。

 境界を操ることは酷く繊細な作業だ。多くの境界を同時に操るのはあまり得策ではない。ミスをすれば身を亡ぼすことになりかねない。部分だけでいいのならそれでもいいのだが、どこかが強くなると弱いところに負荷がかかる。

 例えば、一本の棒がある。半分から上が金属で、下がプラスチックだとしたら―――プラスチックに負担がかかるのと同じである。

 何とか時間を稼がなければ、完全に治りきるまでの時間を―――紫は時間稼ぎを兼ねて藍が纏っている神力について疑問を投げかけた。

 

 

「その身に纏っている力は和友から送られてきているもののようだけど……初めてなのにそこまで力の運用が上手くいくものなのかしら」

 

「この力は、願いを叶える気持ちさえあれば応えてくれます。抱えている重みを捨ててはいけない。後悔しないなんて言い訳で吐き捨ててはいけない。この力の強さは、想いの強さに比例します。目標を達成するために抱えているものの重さで強さが変わります」

 

 

 少年の力は、想いの強さで力の大きさが変化する。少年の信仰の厚さもそうであるが、少年の信仰を受けている本人の少年の願いを叶えようという意思が力を増大させるのである。

 後悔なんてない。

 未練なんてない。

 それらは綺麗な言葉のように思う。

 だけど、その重さがない言葉にどれほどの想いがあるだろうか。

 少年は、言っていた。

 目標を達成するために必要な重さは後悔や未練ではないのだろうか。

 昔できなかったから、できなかった過去があるから。

 だから、強く叶えたいと思うのではないのだろうか。

 何の後悔もしていない人間の言葉など何の重みもない。

 何の未練もない人間の言葉など風に吹かれて飛んでしまうぐらいに軽い。

 後悔しているから、未練があるから―――だから心にずっしりとした重さを与えるのだ。

 後悔なんてしていないなんて嘘をついて今日に置いてきてしまうのは、抱えていく覚悟がないからだ。

 未来へと持っていく、抱えていくことで地面を歩いていける。重みが地に足をつけている。未来へ向かう体に重さが加わるのだ。

 藍は後悔している。過去に少年を助けることができなかったことを。少年を苦しめてしまう結果になってしまったことを。

 それを後悔しているからこそ、未来へと繋げていこうとしている。積み重ねた思いが攻撃に重みを付け加えているのである。

 

 

「紫様も一度体験してみると良いですよ。きっと新しい景色が見えるはずです」

 

「冗談言わないで、私は信仰される対象にはなりたくないわ。私は誰かに崇められる立場じゃなくて、いつのまにか隣にいる妖怪でいたいのよ」

 

「紫様ならそう言うと思っておりましたが……残念です。一度ぐらい体験してみてもいいと思いますけどね」

 

 

 藍の提案に首を振りながら、必死に考えを巡らせる。

 これからどうすれば藍に勝つことができるだろうか。得られる情報から自分の可能性を模索する。

 

 

(引き離しにかかっても、スキマで移動しても、すぐに追いついてくる。疲れを見せている様子もないし、長期戦は明らかに私が不利だわ)

 

 

 長期戦は不利だ。無尽蔵に湧いてくる和友からの神力をどうにかしなければ、こちらの妖力が先に枯渇する。疲れている様子もないことから、体力的な低下も望めない。

 少年が疲れて倒れるまで待つことができるのならば話は変わるが、そこまでの長期戦は想定していない。書き記す作業を続けてきた少年のことだ―――夜が明けても祈り続けていられるだろう。

 

 

(妖力弾は神力の衣で打ち消される。肉弾戦は勝てる見込みがない)

 

 

 妖力弾は神力の衣を貫通することができていない。掠っていった妖力弾が抉れたことからそう考えているだけであるが、おそらくそうだろう。

 肉弾戦も無理だ。正面を切って戦うのは技術に差がある上に体が持たない。

 ならば、どうすればいいのだろうか。神力の衣に邪魔されずに確実に攻撃を当てることができる方法はないだろうか。

 そんな想像に対して即座に思考が答えを導き出す。そして、その答えを実行した。

 

 

(だったら私の特異な境界を操る能力で)

 

 

 ノータイムで境界を操り空間と空間を繋げる。繋げる空間は、これから攻撃する自身の右側にある何もない空間と、藍の顔面を捉えることができる横顔のすぐ傍である。

 空間を繋げた瞬間に右こぶしによる攻撃を放り込む。

 避けられるわけがないと思った。これは前動作が一切ない攻撃だ、虚を突いた一撃だ。先程の攻撃を躱せなかった藍に避けられる道理などなかった。

 ところが、紫の右こぶしに手ごたえは全く感じられなかった。

 

 

「この位置からの攻撃を弾くですって!? 随分と見ない間に規格外になったものね」

 

「規格外になったのはついさっきです。この力は願いを叶える力を与えてくれる。私の想いを突き通すために背中を押してくれる力が、私を支えている」

 

 

 藍は、払いのけた紫の右手をそのまま掴むと勢いよく引っ張り放り投げる。

 紫は、自らが作った境界線を跨いで藍のすぐそばまで移動させられた。そして、不安定になった体勢を立て直そうとしている紫を見て藍の笑みが深まった。

 

 

「次いで、あの時の借りを返しましょうか。今こそが遥か昔の借りを返す時です。あの時は、余りにも理性がありませんでしたから」

 

 

 千年以上前、私は紫様になす術もなく負けた。

 理性が飛んでいたからだろうか。

 あの時の私は、どちらかというと獣と呼ぶ方が近かった。

 一方的に蹂躙された。

 今が負けてしまったあの時の借りを返す時だろう。

 今があの時からの成長を見せつける時だろう。

 あの時のリベンジを―――今遂げるとしよう。

 神力がゆったりと体の中を循環する。

 意味を与える。

 役割を与える。

 久しぶりの感覚である。

 燃え広がる、燃え上がる、何もかも燃えて、空中に解き放つ。

 狐火―――私の未来を照らし出してくれ。

 

 

「久しぶりに見せますね、私の狐火。燃えて、燃えて、燃え上がる私の炎。大地を焦がすほど、空気を灰にするほど何もかもを私の色に変えて見せますよ」

 

 

 狐火―――それは怪火である。火の気のないところに立つ火のことである。

 狐火が空中を漂う。ぽつぽつとどんどん増えていく。空中を埋め尽くすように道を照らすように青白い光が暗い夜空を埋め尽くしていく。星が見えなくなるほどに明るい発光が世界を照らし出す。

 見失ってなどいない。

 未来を求める手は、確かな方角に伸びている。

 不安はある。

 怖れもある。

 だけど―――それも抱えていけるから。

 その重さが―――気持ちを支えているから。

 だから―――前に進むのだ。

 

 

「さぁ、ここからです。紫様、ここから私が紫様を追い込んで御覧に入れて見せます」

 

「やれるものならやってみなさい」

 

 

 追い込みにかかる。

 囲い込み。

 未来を包囲し、この手に掴み取る。

 逃げていくのなら出口を塞いでやればいい。

 逃げ場などないと明示してやればいい。

 そんな藍の意志をくみ上げるように狐火がギュッと集まって紫を囲う。

 

 

「そんなもので出口を塞げると思わないで!」

 

 

 脱出の方法は大きく二つある。一つ目は妖力弾による狐火の消火による出口の創出。二つ目は隙間移動を使ったワープである。

 前者である―――妖力で打ち払うという方法は得策じゃない。妖力で狐火を打ち消せば、そこが出口だと分かってしまう。

 それに、いくら炎で視界が埋もれているとはいえ、中の様子が分かっていないとは限らない。出口を複数開けてもどこから抜けようとしているのか分かってしまう可能性もある。

 紫は、即座に境界操作の能力を用いてスキマを使って脱出を図った。

 

 

「は!?」

 

 

 紫がスキマを展開し逃げようとするところに神力の塊が飛んできた。

 大きさは直径30cmあるかどうかというところである。神力弾は、激しく光輝いてその力の強さを物語っている。

 どうして気付かなかったのか。どうして探知できなかったのか。疑問に対する回答は一瞬で出てきた。

 それは、狐火で囲われていたためだと考えられた。同じく神力でできている狐火が神力弾の接近を気取らせなかったのである。

 ここで考えられる対処法は、大きく3通りである。スキマで神力弾を別の場所に飛ばすか。左右上下に避けるか。弾くかの3通りしかない。

 避けるという選択肢はあり得ない。周りが狐火に囲まれている状況で避けるという行動を取るのは危険というか、そもそも回避行動が間に合わない。

 ならば弾き飛ばすか。いや、それはできない。藍の放出した神力弾の力が余りにも強すぎる。

 紫は、逃げるために展開しようとしていたスキマを開く動作を一旦停止し、神力弾を別の場所に飛ばすためにスキマを開いた。

 

 

「冗談じゃないわよ!」

 

 

 紫は、荒々しい声を発しながらスキマを開き神力の弾を別の場所へと飛ばした。

 神力弾が全く別の所に飛んでいく。おびただしく光っていた神力弾の存在が視界から消えてなくなった。

 

 

(しまった……!)

 

「追い詰めましたよ!」

 

 

 その瞬間―――目の前には藍がいた。どうやら、自らが飛ばした神力弾と一緒に飛んできたらしい。これまた視界を覆った効果による目くらましからの接近だった。

 藍の拳が強く握られる。そして、まるでミサイルを飛ばすように一気に発射される。手加減一切なしの、紫の体を粉々に砕くほどの勢いで放り投げられる。拳に押し出される空気が爆散して大きな音を立てていく。音速を越えた拳が音を立てて飛来する。

 終わってしまう。負けてしまう。そう思って身構えた。

 

 

「あれ?」

 

 

 藍の力の無い声が空間に響く。

 力が上手く伝搬しない。拳から伝わるはずの衝撃はいくら待ってもやって来なかった。余りの手ごたえのなさに紫に向けていた視界を下に下ろす。

 すると―――右手がスキマの中に入り込んでいるのが確認できた。先程神力弾を飛ばす時に使ったスキマにそのまま入ってしまったようである。

 

 

「抜けているところも変わらないのね。スキマにわざわざ入るなんて―――もう貴方はここから動けないわ」

 

 

 紫が開いていた空間が閉じられ、藍の右腕の出口が失われる。リボンで結ばれた空間はまるで空気に溶け込むように世界から消えて無くなった。

 これで藍はここから動けなくなった。空間と空間がくっつき、ある場所で腕が出ている。そんな状況で腕を動かすことはできない。動けてしまえば、世界に同時に2つの腕が生まれることになる。そんな不整合を世界は許さない。出るのならば、腕ごと失う必要がある。腕を千切って出るしかない。

 だが、そんな状況の中でも藍の表情には不敵な笑みが浮かんでいた。

 

 

「いえ、関係ありませんよ。ここからだってできることはあります」

 

「何ができるというのかしら? 空間が閉じてしまった今となっては、貴方はこの空間から動けない。それこそ腕を千切らない限りね」

 

「できることなんていっぱいあります。なんだってできるのです。今の私ならなんだってできます。できないことなんて意外と少ないのだと、紫様は知った方がよろしいかと思いますよ?」

 

 

 内に溜まる神力を開放する。そして、神力を与えてくれる祈祷者である少年に語り掛ける。

 力を貸してほしいと。自らの望みを伝える。右腕を元に戻したいと告げる。空間を元に戻したいと告げる。

 

 

「―――願えば叶う」

 

 

 右手を右にずらす。藍の右手がゆっくりと空間から戻ってくる。微かに歪んだ空間から返ってくる。まるで境界線を曖昧にするように繋いだ空間を無視して戻ってくる。

 

 

「そんな!?」

 

 

 紫は、目の前の光景に驚きの表情をにじませ硬直した。

 そして、そんな驚きの表情で固まっている紫を逃さないと言わないばかりに拳が突き立てられた。

 決して当たってはいけなかった攻撃が紫の体にめり込む。紫の体内から空気が勢いよく吐き出されると同時に、力を受けて後方に吹き飛ばされた。

 ほどなくすると吹き飛ばされた紫の背中に何かが接触して勢いが殺される。

 紫は痛んだ体を無理やり動かしてそっと後ろを見た。そこには、狐火が形を変えて網状になっているのが見えた。

 狐火がクッションになって紫の体を捕獲していた。先程までゆらゆらと炎のように揺らめいていた狐火が、網状になって紫の体を縛っていた。

 

 

「な、なんで」

 

「言ったでしょう? 和友の能力は酷く曖昧なものなのだと。境界線を引けるものならば引いてみてください。曖昧なものに境界線が引けると言うのなら、という話にはなりますけどね」

 

 

 藍が余裕のある表情で近づいてくる。ゆっくり捕えた紫に近づいてくる。

 リベンジはおおよそ果たされた。後は紫の心を捻じ曲げるだけだと言うように、悠然と接近する。

 

 

「狐火も最近まで全く使っていなかったので形状変化できるか不安でしたが、上手くいって良かったです」

 

(こうなったら和友を狙うしかないわね……)

 

 

 紫は、圧倒的優位な状況で迫って来る藍を見ながら心の中でそう思った。

 藍の力はあくまでも少年から送られているもので、少年を潰せば力の供給が無くなり神力が使えなくなる。

 現実論で言えば、藍を倒すよりも少年を倒す方が圧倒的に楽である。すぐにでも少年を倒してそこから藍を倒せばいい。効率と可能性と考えればその案が最も適当だった。

 しかし、紫は少年を傷つける選択肢を選びたくなかった。

 

 

(本当なら和友を傷つけずに押し通したかったけど、和友を殺さずに私の望む未来を手に入れたかったけど)

 

 

 少年を倒すことができなかったのは、後2年という寿命を抱えていながらも一生懸命に未来のために頑張っている少年のことを可哀想だと思っていたからだろう。記憶を曖昧にするという自己の存在否定ともいうべき選択まで選ばせて、そのうえで少年を傷つけることが躊躇われたからだろう。

 それはいうなれば、傷だらけの小犬に向かって足蹴りをするのと大差がない。

 しかも、その子犬の飼い主は自分である。

 随分と可愛がってきた。

 随分と助けられてきた。

 家族の存在を教えてくれた。

 幸せを感じた。

 なのに、それをくれた少年を自分が殺さなければならないなんて。

 ―――選びたくなかった。

 でも、より大事なもののために別の何かを犠牲にすることは必要なことだ。

 

 

(やりたくなかったけど、選びたくなかったけど―――やらなければ私の意志を通せない)

 

 

 藍を守るために、和友を殺すことは必要なことだ。

 選べる選択肢が他にないから。

 選ぶだけの力がなかったから。

 ここで藍に勝って、藍の記憶を曖昧にする力がなかったから。

 藍を救うために、少年を殺さなければならない。

 

 私の描いていた理想は、現実論のように見えてまだ空想レベルだったようね。

 藍が思い描いているものと同じで、あくまでも理想論の一つだったということかしら。

 藍の記憶を曖昧にして。

 和友には納得した上で2年後に死んでもらう。

 そんなことさえもできないなんて。

 藍に勝つことができていない時点で、想像は息絶えてしまいそうになっている。

 登るべき階段の大きさを見誤ったのは、私が無能だったからかしら。

 これじゃあ、藍のことを馬鹿になんてできないわね。

 

 紫は、少年に想いを馳せる。

 心の中で自らの決心を少年へと告げる。

 私のやることは―――最初から決まっていた。

 

 

(ごめんなさい、和友。私には選べるものが何もなかったから。選べるだけの力がなかったから。未来を信じられる強さがなかったから。貴方の期待には応えられなかった。だから―――許してとは言わないわ。恨むだけ恨みなさい)

 

 

 強がりじゃなかった。これがこれまで決心した重さを体現した言葉だった。

 恨まれるのは正直嫌だけど。

 少年を助けられなかった、望みを叶えられなかった自分自身の力の無さに苛立つけれども。

 この選択を選ぶことに迷いはない、そう思った。

 そう思った時、少年の声が聞こえてきた。

 

 

(いいよ、紫がそれを選んだのなら。僕は受け入れるよ。だって―――他ならぬ紫が選んだ道だもん。僕は紫の背中を押してあげる。紫が僕を応援してくれたように―――紫を応援してあげるから)

 

 

 少年の声が聞こえた。

 何もなかった独りよがりの心の中に、大きなものが乗った気がした。

 独りで決めた未来像に、大きな想いが乗った気がした。

 少年の言葉に責任が重くなった。

 だが、それを負っている人が一人じゃないという感覚が心を支えている。

 背中に何かが乗っている。

 温かいものが心の中に広がってくる。

 紫はそっと目を閉じてお礼を告げた。

 

 

(……ええ、ありがとう)

 

 

 瞳から自然と溢れ出た涙が一筋の線を描いた。

 今から殺そうというこの期に及んで和友が応援してくれている。

 背中を押してくれている。

 背中に添えられた手から僅かな温かさが流れ込んで来る。

 いつだってそうだ。

 いつだって、いつだって。

 ああ、この子は本当に卑怯だわ。

 そんなことを言われたら―――絶対に負けられないじゃない。

 

 

(紫、泣かないで)

 

(これは、私が泣いているんじゃないわ。貴方が泣かないから、貴方の代わりに泣いているだけ。貴方が泣かない分の涙を私が流しているだけよ)

 

(そっか……だったら、僕の代わりに存分に泣いて。泣いて、泣いて、前を向いて)

 

 

 ああ、これがそうか。

 藍の言っていた意味が今ならば分かる。

 覚悟を決めた想いが力を与えてくれる。

 自分一人がではなく、誰かに想われていることが力になる。

 誰かに支えてもらうのも悪くない。

 家族に支えてもらうのは、もっと悪くない。

 ねぇ、和友は幸せだったかしら?

 私たちと一緒にいて幸せだったかしら?

 私達と家族に成れて幸せだったかしら?

 聞くまでもないわよね。

 私が幸せだったのだから。

 貴方も幸せだったに決まっているわ。

 ―――和友、今だけ私の背中を支えて頂戴。

 

 

(紫の両足は、前に向いている?)

 

(ええ)

 

 

 私の足は、確かに前を向いている。

 求める物を求めて前を向いている。

 過去を全て引き連れて。

 全てを覚悟して。

 前を向いている。

 

 

(自分の気持ちが向いている方向は同じ?)

 

(ええ)

 

 

 気持ちと体は、同じ方向を向いている。

 心と体は、完全に同期している。

 今ならなんだってできる気がする。

 ―――準備はできたわ。

 

 

(だったら頑張れ。負けるな。いつだって前を向いて。僕は、いつまでだって待っていてあげるから)

 

「ええ―――当然よ。私が負けるわけないわ」

 

 

 その優しさが相手を傷つけるってあれほど言ったのに、何も変わらないのね。

 きっと生まれ変わっても、貴方は変わらないでしょうね。

 誰のためにでも生きて。

 誰かのために生きて。

 自分のために生きている。

 優しさは他人に与えるもので。

 厳しさは自分に与えるもので。

 そうやって相手を引きずり回して責任を感じてしまう人間。

 そんな貴方だからこそ―――家族になれた。

 そんな貴方だからこそ―――幸せだった。

 紫が流した涙の跡は、綺麗に消え去っていた。

 

 

「今何と言ったのですか?」

 

「私は負けないと言ったのよ」

 

 

 紫の目にぎらぎらとした決意の炎が燃え上がる。

 ―――境界操作。

 妖力弾をスキマへと放り投げる。

 狙うは―――和友の命。

 さぁ、いずれまた会いましょう。

 地獄でも。

 天国でも。

 来世でも。

 心の中でも。

 どこにいたって、必ず貴方を見つけてあげるから。

 

 

「さようならの挨拶よ! またどこかで会いましょう、和友!!」

 

「紫様!?」

 

 

 紫からの凶弾が少年に向けて解き放たれた。




紫の能力は、本当に何でもできて凄いですね。
対処法が次々に浮かぶから追い込む方法を考えるのが大変です。
さて、ここからどうなるのでしょうか。


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