少年との記憶を保つために主である紫に刃を向けるか。
それとも、紫の言うことを聞いて記憶を曖昧にするか。
少年は、きっと藍が迫られている選択のどちらを選んだとしても同じことをしただろう。紫の命令に従い少年に関する記憶を曖昧にする。あるいは、紫の命令を拒否して少年に関する記憶を曖昧にするのを阻止する。どちらを選んだとしても少年が採った選択は同じだっただろう。
藍は、選択した。
二者択一の問いに対して一つの答えを選択した。
覚悟を持って選択した。
だったら選んだ藍に僕ができることは何だろう。
その二つの可能性を提示した僕ができることは何だろう。
そう考えたとき―――出てきた答えは一つだけだった。
「藍、選択した未来を勝ち取るために全てを背負って戦うんだ。後悔も不安も悲しみも喜びも嬉しさも、全ての感情を背負って前に進んで。その力が藍の力になるはずだから」
「ああ、分かっている。何一つ落とさない。何一つ投げ出さない。私は、全部を抱えて未来へ進むと決めたのだ」
「藍の背中は僕が押してあげる。どんな選択をしても、どんな結論を出しても、どんな結果が出たとしても僕が応援してあげるから。心配しないで、その背中にはいつだって僕が乗っているからね」
少年の両手が藍の背中を押す。少年との記憶を守るために戦うことを決断した藍を後押しする。抱えた重い荷物を背負って前を向いた藍を応援する。
ここで失敗したとしても。
負けてしまったとしても。
応援し続けよう。
どこまでだってついて行こう。
「いってらっしゃい。僕はいつまでだって待っているから。勝っても負けても、いつまでだって待っているから」
「いってきます。待っていてくれ、必ず未来に連れていくからな」
少年は、藍の返事を聞いて満足そうな表情を浮かべ、緩やかに両膝を地につけて両手を重ねた。
祈りの体勢に入る。
祈る対象は、自らの神様になってくれる藍である。
祈るべき思いは藍の想いを成就させること、藍が望む未来を形にすることである。
実のところ―――少年は神様なんてものはいてもいなくても変わらないものだと思っている。神様なんて宇宙人と同じだ。見たことのないものに対して存在のあるなしの議論は意味をなさない。いてもいいし、いなくてもいい。そんなどっちでもいいことである。
だけど、信じていないことが神様がいないってことの証明にはならない。あると思えばいつだってそこにいる。それが神様という存在だろう。
神様と呼べば神に成る。願いを込めて誰かに祈りを捧げれば、祈られた人は祈りを捧げた人間にとっての神に成れる。そんな簡単なことなのである。
いつだってそうだった。これまでだってそうだった。信じるものを信じて、正しいと思う道を突っ切ってきた。歩くたびに背負っていく荷物が増えて、どんどん重くなる足取りを無理やり前に進ませて、壁を乗り越えてきた。
やっていることは同じである。信じる対象が自分から相手に移っただけ。願いを叶えてくれる対象が自分から相手へと変わっただけだ。
さぁ、僕が信じる神様を信じようじゃないか。
いつも通りに神様にお祈りを捧げよう。
願いを成就させるために努力をしよう。
どうか―――僕の願いを叶えてください。
「この力は……和友の力か?」
少年が祈り始めると、神力の衣がゆっくりと藍の体に纏わりつくように展開されていく。少年の祈りによる信仰の力が静かに藍の体へと流れていく。染み込んで行くように体の芯から指先の毛細血管までゆっくりと伝搬していく。
体の中からぽかぽかと温かくなる感覚。そして、今まで自分を取り囲んでいたしがらみが全て無くなっていく感覚に全身が支配される。
生まれたままの、あるがままの何もなかった頃。
誰にも縛られず。
誰にも頼らず。
そっと、空を見上げていたあの頃に―――戻っていく。
唯一残っているのは、願いを叶えるという願望だけ。
それ以外が酷く小さくなって見えなくなる。
というより―――願いを叶えることの方が大きくなっているから相対的に小さくなっているのだろう。
「解き放たれる、何もかもから自由になる。縛られていたしがらみが全部なくなって一個の生物になるような……」
全身を神力の衣が完全に包み込むと、主である紫が藍に対して張っていた式神の印が消えてなくなった。紫と繋がっていた妖力供給のラインも同期するように綺麗さっぱりと消えた。おそらく、少年の境界を曖昧にする程度の能力が式神の繋がりを曖昧にして切断したのだろう。
「紫様の力が感じられなくなった。繋がりが絶たれたのか? 和友の力が作用しているのか。境界を曖昧にする程度の能力が繋がりを曖昧にして断ち切ったとでもいうのだろうか」
紫との繋がりが絶たれた瞬間に、本来持っている妖力が活力を取り戻し始める。本来の色、若干の青みを帯びた妖力が体の芯に戻って来る。
「本来の妖力の形が戻って来る」
抑え込まれていた妖力の蓋が僅かに開かれる。
その瞬間―――久方ぶりに感じる妖力がまるで爆発物が爆発したように膨らんだ。
「っ!」
想像以上の力が一気に流れ込んで来る。妖力の勢いに対抗するように少しだけお腹に力を入れる。
体内から湧き上がった妖力は一気に体内を駆け巡ると渦巻くように体の中を循環し始めた。もともと自分が扱っていた力だけあって酷く体になじむ力だった。
「ああ……そういえばこんな力だったな。私の力は、もともとこんな色をしていた」
自分の中に本来あるべき力が戻って来た。
そこで、一つの疑問が出てきた。
「それにしても、私の妖力はこれほど多かっただろうか」
戻って来る妖力が全盛期である九尾として活動していたあの頃よりも大きくなっている。
これは、過去から積み重ねてきた歴史―――約1500年分が今に重なっているから起きている現象なのだろうか。知らず知らずのうちに外部から与えられる恐怖が増えたからなのだろうか。
そう思ったが―――それ以上に暴れまわっていた時から成長しているからだと思った。紫様の下で式神として役割を担ってきて成長したから。和友と共に生活し、心が充実していたから。だから妖力が成長したのだ―――そう思ったら頬に少しだけ笑みが浮かんだ。
「私も成長したということだな。あの頃から確かにいろんなものが変わった。環境も、関係も、時代も……」
暫くすると戻ってきた妖力も神力に抑え込まれるように内に留まる。
種類の違う力は決して混じり合うことはない。ガスで料理をするのとIHで料理をするのと両方を併用するぐらい無理があるといえば分かってもらえるだろうか。同じようなことができる力ではあるのだが、やり方が根本から異なっているのである。
神力を使っている間は妖力が使えなくなる。妖力を使っている間は神力が使えなくなる。境界線を曖昧にして融合できたとしても、力を発揮する方向性を決める時に不都合が出ることだろう。
今のところは、どっちかだけを使うということしかできない力である。
「和友の力に私の力が包まれて抑えられている。和友の力が全身を覆っている……全部抱えていくぞ。どこまでも、地の果てまでも背負って行く。嫌だと言っても連れて行ってやるからな」
そっと空を見上げる。これからを見据えて空を見上げる。
現在、天井は抜けている。藍が乱入したことによって落下してしまっている。屋敷の中にいながらにして外の景色を覗くことができる状況である。
夜空には満月が神々しく光っている。若干の厚い雲が空を漂っているのもあって、月が見え隠れしているものの、月からの妖艶な光が外で踊っていた。
この時こそ―――妖怪が最も力を得ることができる瞬間である。今のように神力を纏っている状況では余り関係がないが、妖怪にとっては最盛期を迎える瞬間だろう。今こそが最も決着をつけるのにふさわしい時、自然とそう思える瞬間だった。
見上げた月に重なるように影ができる。黒い影が月を隠す。
あそこにいるのは誰だろうか。シルエットは良く知っている形をしている。立ち振る舞いは自分が最も知っている人物に近似している。
何より、向けられている視線がよく知っているものだった。
「……あれは、紫様か?」
空中で漂っている人物は、主である紫である。間違いない―――これまで数千年を共にした仲だ、間違えるはずがない。これまで何度顔を合わせてきたと思っているのだろうか。蓄積してきた経験がその存在を紫だと認めている。
藍は、影の正体を紫であると心の中で確定しながらゆっくりと上空へと飛び上がった。祈りの体勢の少年を置き去りにして、いなくなってしまったメイドの姿を確認することなく、自らの目的を果たすために紫の下へと近づいた。
距離が縮まっていくと、より詳細に主である紫の姿が明瞭化してくる。
藍から見た紫の表情に特に驚いた様子は見受けられない。ただ遠くを眺めるような視線を送ってくるだけだった。
紫の約1メートル前というところまで近づくとその速度をゼロにする。
目の前に主である紫が佇んでいる。何も言わずに視線を向けている。
「紫様、私は……」
「言わなくてもいいわ。こうなることは最初から分かっていたことだもの。こうして藍があの時のように私の前に立って刃向ってくる。これは、半年前から未来の一つの形で想像できていたことよ」
式神である藍が主である自分に反抗してくる。強くなった我を持って、自分の意見をぶつけて押し通そうとしてくる。こうなることは半年前から、少年が病気になったあの時から予期していたことだ。
そんな日が来ることは、あの時から分かっていたことだ。
「思えば、そうなる節は最初からあったわ。藍は、和友がマヨヒガに来てから一人の存在として独立し始めたから。そう考えると半年前に気付いたのはやっぱり遅かったのかもしれないわね」
藍が反抗するための土台は和友が来てからの2年間で作られてきた。だんだんと自我が強くなり、言う事を聞いているだけの存在から―――一つの存在へと昇格を果たしている。
その土台が今の藍の存在を作り出していることを考えれば、紫の予測できた時期は少年の病気に気付いた時と同じように遅かったのかもしれない。
だけど―――分かったところで何ができたわけでもなかった。
「ただ、それを好ましく思っていた私が言えることは何もなかった。藍が私に意見してくるのを億劫に感じることもあったけど、それ以上に藍が生き生きとしているのを見るのが好きだったから」
藍が一個の存在として気持ちを口にすることを喜ばしいこととして捉えていた紫に、言えることは何もなかった。
「藍を止めていたのはいつだって私だった。和友は藍を止めなかったし、藍は自分を止めなかった。私が藍の障害になっている自覚は常にあったわ」
自分が藍にとって最大の障害になっている自覚はあった。藍の行動を止めているのはいつだって少年ではなく自分で―――食事の時だって、毛づくろいの時だって、行動を制限しているのは自分だった。
「藍を止めるのは私の役目なのよ。今日という日に―――今日しかない日に反発してくる藍を止めるのは私の役目なの」
特に今日という日は―――特別な日だ。自分の想いが、藍の記憶を消さなければという想いが藍の未来を左右している。
藍が反乱を起こすなら今日しかない。藍にとって明日は無いのと同じなのだ。今日という日を乗り越えなければ、明日は今日を連れていってくれないのだから。
今日という日は―――記憶を消すことが決まっている今夜は、条件が整いすぎているぐらい反抗するには格好の機会だった。
「今日だって、明日だって、来年だって変わらない。私がやるべきことなのよ。藍が私の従者である限り変わらないことなの」
藍には―――今日しかない。
紫には―――これからしかない。
両者がぶつかっているのは、そんな分かりやすい価値観の違いからだった。
こうなってしまったのは、藍が少年に依存したから。
こうなってしまったのは、少年が藍に甘かったから。
そして、何よりもそれを止められなかったから。
紫は、大きな責任感を持って自分の責任を果たそうとしていた。
「従者の失態は主の責任―――これは、こうなってしまうことを止められなかった私の責任。私の責任は私が果たすわ。藍の代わりに、和友の代わりに私が払ってあげる」
「紫様、お願いします。記憶を曖昧にする件は無かったことにできませんか? もしも今からその言葉を撤回してくれると言うのならば、ここで暴力に訴えなくて済みます」
「……藍はこうして私の前に立ちふさがっても、式神の繋がりが消えても、私を敬ってくれるのね」
「例え繋がりがなくても、私は―――紫様の式ですから」
藍は紫のことを何とか説得しようとする。紫が折れてくれれば、この話は全て丸く収まるのだ。最も意志を曲げることが難しいと思っていた少年が崩れた今、紫を落とすことができれば話は綺麗に収束する。これからの未来を続けていける。
「私は、紫様と闘いたくありません。この手で紫様を傷つけたくはないのです」
そして何よりも、主である紫とこのまま殴り合いに発展する―――暴力的な手段に出るのが嫌だった。
主と式という主従の関係が無くなっていることは分かっている。契約の証が途切れた今となっては気にしても意味がないものになってしまっていることは分かっている。
分かってはいるのだが、どうしても心がそれを善しとしない。
いくら契約の形が無くなったとしても。
繋がりが無くなったとしても。
―――それでも、私の主は紫様なのだ。
契約が破棄されてしまっている今でも―――紫様は我が主で、その式だという誇りは失っていない。確かに心の中に、強い想いが停滞している。
「そういうところは何も変わらないのね」
紫の表情にそっと深みのある色が浮かんだ。
「藍は、いつまで経ってもそんなことを言っているから駄目なのよ。だから私は貴方に期待できないの。だから、私が守ってあげなくてはいけないと―――そう思わされるのよ」
「私はこれまでも、これからも、どちらも捨てるつもりはありません。全部を抱えて飛ぶと先程決めたのです」
「とことん甘いわね。抱えきれなくなったものは取捨選択しなければならない。飛べない鳥はすぐに喰われて死んでしまうわよ」
藍はどこまでいっても詰めが甘い。
和友が来てから余計にその傾向が強くなった。
「全部を守ることは無理だということを知りなさい。守れるのはその両手で抱えられるものだけよ」
「私は、それでも抱え続けます! 落ちたものを拾ってでも未来に繋げてみせます!」
「どうして分からないのかしら? 捨てる覚悟のない者が失った悲しみに耐えられるはずがないのよ。貴方は和友を失う衝撃に耐えられないわ」
捨てられない。
捨てる覚悟がない。
全てを守ろうとしている。
少年のことも、自分のことも。
そんなことだから―――そんなことだから腹が立って仕方がないのだ。
そんなことだから選択できないと、障害を乗り越えられないと思ってしまうのだ。
失う覚悟がなければ、少年の死は乗り越えられない。
少年を失った時に現れる壁の大きさは、少年の存在の大きさに比例する、少年に対する依存度に比例する。
その衝撃は私が死ぬことと等価だろうか。
その苦しみは私が死ぬことよりも大きいのだろうか。
だとすれば、今この時―――私のことを切り捨てられない時点でもう無理だと言っているも同じだ。
いずれ抱えきれなくなる。2年後に死ぬことが決まっている少年の存在を抱えきれなくなる。
そして、抱えきれなくなった自分を責めて押し潰されるのが目に見えている。
こうして選ぶことができない時点で、和友の未来は支えられない。
「ここで私を殺す覚悟もできない奴に、和友の未来を抱える資格なんてないわ」
「どうにか分かっていただけませんか。考えを改めてもらえませんか?」
「藍、私の意見が変わる可能性に期待するのは止めなさい。もう―――決めたことなのよ」
紫の鋭い眼光が藍の瞳を貫く。
もう何も言うまい。
これ以上の会話に意味があるようには思えなかった。
何を言われても意見を変えるつもりはない。
ここで―――今夜、藍の少年に関する記憶を曖昧にして少年のことを忘れてもらう。それで昔のころの藍に戻ってもらう。
例え、それで藍の心が一度死んでしまうとしても。
これまでの生活が大きく変わってしまうとしても。
今から意見を変更することは全く考えていない。
これまで悩んできた期間が自分の気持ちを支えている。そう簡単に崩されるほど適当に積んできた想いではないのだ。決断の力は想いを積み重ねてきた量に依存する。
「はははっ」
藍は、どこかで良く聞いたことのある台詞に微かに笑みを浮かべた。
もう―――決めたことだから。だから変えられないと。そういう言葉を使っている人間をよく知っている。頑固で頭の固い人間をよく知っている。
「決めたって―――紫様も和友と同じことをおっしゃるのですね。紫様は、どうしてそこまで頑固なのですか! 和友そうですが、紫様も頑固すぎます!」
紫は、予想もしていなかった藍の返しに笑う。
そうか、思えば和友も同じことを言っていたかもしれない。
頑固なあの子のことだ。
いつだって決めたことに対して曲げられないあの子のことだ。
どこかで絶対に口にした言葉だろう。
私も和友の影響を受けて大きく変わっている。
何かに執着したのは幻想郷という場所以外に無いと思っていたけど、そうでもなかったみたい。
意外と独占欲が強くて。
意外と融通が利かなくて。
頑固だったのだと言われてようやく気付いた。
言われて変わった自分に気付いた。
そして、そういうことを言われると怒ってしまう性格も今となっては変わってしまっている。
私は、‘今’笑っている。
言われて怒りが湧いてくるというより、喜びが支配している。
ああ、本当に悪くない。
悪くない気持ちだった。
「ふふっ、そうかもしれないわ。私は頑固で意地っ張りなのよ。だから諦めなさい。私は、選んだ道を違えることはないわ」
「そんな……」
「迷って悩んで決めたことだから。可能性を天秤にかけて選んだのがこの道だから。これが私の選んだ道だから、今から変えるつもりなんてないの」
ここまで言えば藍も気づいてくれるだろう。いくら言っても何も変わらないことを。説得しようとすることがもう無理だということを。
そう思っていたが、藍は紫に対しての説得を諦める様子を見せなかった。
瞳がまだ力を持っている。最初の時から意志の形は変わっていない。最初の宣言通り、何もかもを抱えていくという決意は重いもののようで、そう簡単に放り出せないようだった。
「今の私ならば大丈夫ですから。和友を失っても生きていけますから」
「貴方のその言葉はあくまでも未来予想図よ。可能性の塊―――確実性なんてどこにもないわ」
そんなものあくまでも予想でしかない。可能性の話をしているに過ぎない。
もし、そうならなかったら。
もし、予想通りにいかなかったら。
予測する時間が先のことになればなるほど、可能性は曖昧な広がりを見せる。
記憶を消すことは、今日からのことだ。ほぼ確実な結果を出すことだろう。マイナス要素は何も見えてこない。当人の藍からしたら迷惑極まりない話で認められないのかもしれないが、本人以外からすれば正しいと分かる選択肢である。
「当人からすれば堪ったものではないのでしょうけど、このまま手を付けなかったら手遅れになるかもしれないのよ。周りのことを考えてみなさい。周りを考えれば、私のことを考えれば、今のうちに原因を取り除く方が賢明だと分かるでしょう?」
これは、ウイルスを抱えているのが藍一人で藍を生かしておく必要があるのかという議論とおおよそ同じだ。
藍はウイルスに感染している。ウイルスの大元である少年が死んでしまえば発症する病である。
この病は他人に感染することはないが、他人に影響を与える。少年を失った瞬間に暴走する危険を孕み、他者に危害を加える可能性がある。周りにいる人は襲われるかもしれないという危険を感じながら生活することになる。
だとしたら、皆を守るために藍を殺した方がいい。仮に病気の発症の原因である少年が死んでしまわない、助かる可能性があるのだとしても藍を殺しておく必要があるだろう。周りを傷つけない可能性があるとしても殺しておく必要があるだろう。
苦しみを、寂しさを、喪失感を訴える藍を殺さなければならないだろう。そして、そんな苦しんでいる藍の隣にいるだけで何もできない自分を殺したくなるのだ。
そんなことには絶対させない。そのために未来の可能性を摘み取ることぐらい、その程度の苦しみぐらい耐えて見せる。
その程度の苦しみだったら耐えられるから、未来のために―――‘これまで’を殺すのである。
「紫様は私の言葉を信じてくださらないのですか? 例え私が意気消沈して辛い想いをしたとしても、紫様が傍にいてくだされば―――私は生きていけます。昔のように生きていけます」
「ええ、私は藍を見捨てることはしないわ。藍が死にそうになったら私が止めてあげる。悲しんでいるのなら支えてあげる。絶対に、絶対に、藍を手放したりしないわ」
傍にいてくだされば―――それはそうだろう。
紫は、藍を見捨てない。独りで生きていけないというのならば、傍にいて支えてあげる。寂しいと言うのならいつだって隣にいてあげる。
だが、それで課題が解決するかは全くの別問題である。
「だけどね……それで藍が立ち直れるかなんて分からないじゃない」
傍にいたところで何も変わらないかもしれない。看病してもずっと廃人のままなのかもしれない。抜けた穴を埋められずに病気になってしまうかもしれない。
妖怪は、肉体的損傷が原因で死ぬわけではない。心が死ぬことで死ぬ動物だ。少年の死で致命傷を受けた心を修復できるのかと問われれば、首をかしげざるをおえなかった。
「藍が失った和友の穴を私が埋めるなんて絶対に無理だもの。和友がそうであったように、心に空いた穴は別の物で埋め合わせできないようにできているのだから」
何かを失ったことによって生まれた心の穴を、別のもので埋めることができないのは少年から学んだことである。
少年は両親を失った穴を埋められずに病気になった。紫と藍が両親の代わりをしてくれたと言っていた少年も、やっぱり穴を塞ぐことができなかったのだ。少年の両親と紫と藍では形が違うのだから埋められるわけがなかったのである。
同様に藍も同じことになるだろう。少年を失った穴は一体誰が埋めるというのだろうか。紫や橙が精いっぱい埋めたとしても完全に埋まることはない。
そうなったら藍はどうなるのか。心の穴を埋められない藍がどうなるのか。
その時の藍が想像できないから。
だから―――未来ではなく今を選択したのだ。
「私は、未来の可能性に賭けるのは嫌なのよ。和友を失って藍まで失ったら、私はどうするのよ。今更―――私一人でどうしていけっていうのよ……」
少年は二年後に死んでしまう。
藍は、少年の死と共に死んでしまうかもしれない。精神が崩壊して、心に重きを持つ妖怪としての性が生を拒むかもしれない。
藍が死んでしまえば、橙は昔の猫又の黒猫に戻ってしまうだろう。
そうなれば―――マヨヒガに残されるのは紫だけである。
「橙はあくまで藍の式になっているからあの状態でいられるのよ。藍が死んでしまったら橙は元の猫又に戻ることになる。そうなったら残るのは私一人じゃない。私一人しか残らないじゃない!」
どうしてこうなってしまったのだろう。
昔なら一人でも生きていけたのに。
昔ならこんな思いをしなかったはずなのに。
どうしてこうも弱くなってしまったのだろうか。
どうしてこうも一人が怖くなってしまったのだろうか。
「あの頃とは何もかもが変わってしまったのよ。和友が何もかもを壊して、作ってしまったから」
全ては、和友を幻想郷に連れてきたことから始まった。
和友は、様々なものを変えていった。
生活の全てを破壊して、新しい形を想像した。
それは、人間が育んでいる家族という形。
人間が持っている家族という関係の構築。
「私たちに家族としての形を作ってしまったから」
知ってしまった。
遥か昔に憧れた人間の家族という関係を知ってしまった。
妖怪は、基本的に独り身だ。
家族なんていない。
縄張り意識を持っている妖怪も確かにいるが、そこにあるのはあくまでも種族間の繋がりだけだ。
それも、私のような独り妖怪には夢のような話。
私は知りたかった。
人間の‘誰かのために何かができる’その優しさの根源を。
―――家族のために。
そういう強さと優しさを―――知りたかった。
「だから、こうしてあなたの前に立っている。家族のために、家族を守るためにここにいるのよ」
そして、学んでしまった。
少年に教えられてしまった。
家族という形の優しさを。
家族という形に包まれている温かさを。
家族を知ってしまったから。
温かさを知ってしまったから。
居心地の良さを知ってしまったから。
―――家族のために。
今、藍の前に立っている。
今、ここで戦っている。
知らなかった。知らなければよかった。知らないままだったらよかった。知ってしまったから戻れなくなった。
いえ―――違うわ。
知りたかったから。
知って、それが嬉しいことだったから。
これからも続けていきたいものだったから。
だから―――守るために戦っている。
戻れないから戦っているのではない。
戻りたくないから―――家族のために戦っている。
「私は私の家族を、大切なものを守るためにこの選択肢を選んだのよ」
紫は、真剣な表情で藍に伝える。
「だから―――もしも、私の想いが認められないっていうのなら殺してでも押し通しなさい。それが、貴方が唯一願いを叶えられる方法よ」
心の中に紫の言葉が重くのしかかる。紫の言葉は、それだけの重さを持っていた。
家族のために、家族を守るために戦っている。それも、守られているのは自分である。
だが、心の中にある意志はその重さに耐えきった。紫の気遣いは素直に嬉しかったが、押し通す気持ちは全く衰えなかった。
「……分かりました。そういうのでしたら、分かってもらえるまで私の気持ちを伝えるまでです」
ここで諦めて記憶を曖昧にする選択肢があるだろうか。
紫がその選択を選び、他の可能性を淘汰したように。
藍だって他の可能性を排除してこの選択肢を選択したのだ。
お互いに引けないものがある。
紫は少年を捨て、藍を守るという現実的な案を。
藍は少年を救い、家族としての形を継続する理想的な案を。
それぞれが、それぞれの案を提示した。
それを両者が受け入れられないのならば、押し通すしかない。
「紫様が認めるまで、私の強さを、変わった私の気持ちを押し付けるまでです」
そっと息を吐き、拳を握った。
視線を鋭く尖らせ、僅かに力を入れた。
未来を勝ち取るために。
今を摘み取るために。
両者の想いが今ぶつかる。
私としては、紫の意見も藍の意見もどちらの意見もありな気がいたします。
ただ、やっぱり現実を生きている者としては、紫の意見を採用したくなりますね。