ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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少年は、自分を見つけた藍に自らが抱えている願いを告げた。
最後に、殺してほしいという願いを口にした。
藍は、そんなことを考えたくもなかった。


変わったもの、変わらなかったもの

 介錯をして欲しい。

 その言葉は、切腹の際に痛みを感じることなく逝かせる首切りを要求する言葉。

 私が―――和友の首を落とすのか。

 あれほど和友を苦しめたことを後悔しているというのに。

 苦しめてしまった要因を作り出した自分を責めているというのに。

 殺す役目まで私に託そうというのか。

 

 和友を殺す。そんなこと考えたこともなかった。

 和友を死なせてしまう原因を作ってしまった私だが。

 殺してしまうような要因を作り出した私だが。

 自分から殺そうと思ったことはなかった。

 殺そうと思うことさえも、思いたくなかった。

 

 

「いやだ……」

 

 

 藍は、そっと首を振って少年のお願いを拒絶する。

 

 

「……そんなこと、私にはできない」

 

「ふふっ、そう言うと思ったよ」

 

 

 思っていた通りの藍の回答に少年が苦笑した。

 今すぐに殺せるとは思っていない。これから気持ちを作っていくのだ。これから死ぬことになっている2年後に向けて、大きな花火を打ち上げ、最後を終わらせる役目を担えるようになればいい。

 それに、もしも殺す心づもりを最初から作れるようなら、少年は今こんなことをしていないだろう。今を生きていない。半年前に死んでいるはずである。

 あの時に――殺してくれたはずである。

 

 

「でも、藍なら変わることができる。変えられる力を持っている藍なら変えられる」

 

 

 ―――変わることができる。

 どんな生き物であっても。

 人間であっても。

 妖怪であっても。

 吸血鬼であったとしても。

 変わることができるのだ。

 変わりたいという想いと、前に進む気持ちが何かを変えてくれる。

 

 

「だって、僕が変われたんだから。僕が望む未来は、こうして姿を変えたんだから」

 

 

 少年は、変わる覚悟をした。

 変える覚悟を持った。

 未来の形を想像して、それが最も自分が欲するものだと分かったから。そこに繋がるための欠片を見つけたから。可能性を見出したから。最も望むべき未来を捕まえに走ることを決めたのだ。

 だが―――それは一人では辿り着けない未来だ。

 

 

「僕の夢は、僕一人では叶えられない。約束の場所に立つことのできる協力者が必要だ」

 

 

 少年の求める最終地点は、一人では辿り着けない場所にある。誰かがいなければ登れない壁がある。

 一緒に走ってくれる人が必要だ。一緒に歩幅を合わせてくれる、同じゴールを見ることができる人物が必要だ。

 少年が思い描く理想の最終地点にたどり着くためには、少年と共に走ることができる資格を持っている―――藍の存在が必要だった。

 

 

「きっと、藍なら僕と一緒に走ってくれる。目的を同じくして、同じ未来を望んでくれる」

 

 

 理想の達成のためには、藍にも一緒に走ってもらわなければならない。

 同じ方向へ。

 同じ未来へ。

 同じ理想へ。

 共に走ってもらわなければならない。

 いうなれば―――二人三脚。

 どちらかが足を引っ張ってはいけない。

 目標となるゴールは一緒だ。

 歩幅を合わせて、同じ目的地に向けて走らなければならない。

 

 

「僕はそう信じてるよ」

 

 

 きっと藍ならば一緒に走ってくれる。これは、自分を見つけることができた藍にしかできないことだ。

 藍は、弱いように見えて心の芯がかなり強い。苦しみに対しての耐性がある。耐性がなかったらとっくに終わっているはずだ。苦しみに負けて、心が終わっているはずである。

 藍なら耐えきって見せる。

 苦境を乗り越える強さは、今から手に入れていけばいい。

 涙を堪えて。

 寂しさを抱えて。

 悲しみを越えて。

 虚しさを受け取って。

 どこまでだって進んでいける。

 そんな強さを手に入れればいい。

 藍は、それができるだけの資格を得た。

 後はそれを行使するだけなのだ。

 

 

「今は決断できなくてもいい。だけど、きっと最後には僕を殺してくれると信じている。藍は、自分が思っているよりも随分と強いから」

 

「私はやらないぞ。和友を殺すなんて絶対にしない」

 

 

 藍は、勢いよく首を振って少年の要求を断固拒否する姿勢を崩さなかった。

 できないと思っているからだろう。自分では絶対にできないと思っているからだろう。藍にとって少年は心の拠り所で、太陽のような存在だ。無くなってしまえば、生きていけなくなるような―――そんな‘何か’である。

 藍は、少年を殺したくなかった。

 だが、そんな藍の想いとは無関係に少年には何の不安や焦燥感もないようだった。

 必ず―――殺してくれる。

 約束の場所で―――全てを終わらせてくれる。

 確信を持ったように自信に満ち溢れていた。

 

 

「藍は知っているでしょ? 僕が苦しんでした時期のことを。僕は、きっと力尽きる。能力の拡大に耐えきれずに死んでしまう」

 

 

 藍が介錯を務めずとも、このまま待っていても死んでしまう。それは、人間が時間の経過によって老化をして死んでしまうことと何も変わらない。逃れられない不変の自然の摂理である。

 追って来るだけの能力と逃げていくだけの少年とで永久に走り続ける耐久レースが行われる。

 少年の抱えている荷物はかなり多い。

 両手、両足、背中、頭、全てに荷物を背負っている。

 少年は、走っている最中に荷物をどんどん捨てていく。

 能力の浸食から逃れるために。

 圧倒的早さを持っている能力の勢いに負けないように。

 大切なものを一つ一つ捨てていく。

 捨てられたものは、能力に飲み込まれて消えてなくなる。

 最初からそんなもの無かったかのように消えてなくなる。

 積み重ねてきた思い出も。

 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。

 全てが無くなってしまう。

 そして、無くなったことさえも忘れてしまう。

 そんなことになったら、今まで生きていたことまで無くなったも同然だ。

 それだけは許されない、許容できない。

 だから―――藍に頼んでいるのである。

 最後の最後、何も残らなくなる前に希望を叶えて欲しいと懇願しているのである。

 

 

「僕は、みんなのことを忘れたくないんだ。何もかも分からなくなって死ぬなんて嫌なんだ」

 

「それでも、私には……できない」

 

「本当に藍は優しいなぁ……」

 

 

 少年がいくら説得しても藍の首は縦には振られなかった。

 少年を殺すことはそれほど藍にとってハードルの高いことなのである。自分の心を壊すような行為に対して心が激しく嫌がっている。不安定になることを拒否している。

 寄りかかっている少年が消えてしまえば、藍の心は解放されるだろう。寄りかかっていたものが無くなって自由に宇宙空間を漂うことだろう。

 だが、そうなったときの落差が問題なのだ。今の楽な体勢から急に動かなくてはならなくなる状況への環境の変化が大きすぎるのである。砂漠から雪原へ、ジャングルへ、高原へ、海へ。いうなればそういう変化だ。体がついていかないのである。

 

 

(それでも、藍には自ら離れてもらわなきゃいけない)

 

 

 何とかしなければ。寄りかかることに対して―――拒否を示すような何かを。寄りかかることが不自然なのだと。離れる覚悟をしなければならないのだと、自分から離れるための理由を与えてあげなければならない。

 何か―――何かないか。

 そう考えたとき、ある考えが頭の中に浮かんだ。

 

 

(そうだ、話してしまえばいいんだ)

 

 

 伝えればいいのだ、真実を。

 藍が少年に依存することになってしまった能力の弊害について、伝えればいいのである。

 鈴仙がそうなったように。

 嫌われるような。

 気持ち悪がられるような。

 そんな理由を与えてあげればいい。

 

 

(能力の弊害について話してしまえば、今の関係ではいられなくなる。これまでの関係に戻ることができなくなる)

 

 

 話してしまえば、戻れなくなる。

 あの頃の関係には、マヨヒガで生活してきた頃の関係には戻れなくなる。

 朝におはようと挨拶を交わす関係に戻れなくなる。

 お昼ご飯を一緒に食べる関係に戻れなくなる。

 夜に空を見上げて星を見る関係に戻れなくなる。

 ―――そういう優しい過去に戻れなくなる。

 

 

(……怖がることは何もない。フランだって恐怖を打ち払って前に進んだんだ。僕も、同じように前に進むだけ)

 

 

 戻れなくなる―――だから何だと言うのだろうか。

 前に進むと決めて前しか見ていない今の状況で後ろに戻ることを考える余地など何もないというのに。

 重くなる気持ちを無理やり抱える。少し重くなった足取りで、少年は何の躊躇もなく藍に向けて能力の弊害について口にした。

 

 

「それが僕の心の大きさによって惹かれているからかもしれないのに」

 

「どういうことだ?」

 

 

 少年は、間髪入れずに藍の質問に対する回答を提示する。迷う様子を一切見せずに、全く躊躇するそぶりもなく、これまでの関係を打ち壊す言葉を告げた。

 

 

「僕の心は、その大きさゆえに他人の心を惹きつける。精神世界で万有引力の法則が成り立っているんだよ。藍のその気持ちだって、そこから来ているものなんだ」

 

 

 少年は、ついに能力の弊害について藍に告げた。最も能力の弊害の影響を受けているだろう相手―――藍に向けてその言葉を口にした。

 藍の抱えてきたものは、実のところ少年が与えていたものだったのだと。能力のせいで、心が引き寄せられていたのだと伝えた。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、事情を呑み込めていない様子だった。不思議そうな顔を浮かべているだけで、何も言葉を発しない。

 心の中に万有引力の法則が働いているなど、言われてもピンと来なかったのもあるだろう。信じたくない想いが邪魔したのもあるだろう。

 しかし、説明されて理解できないほど頭が悪いわけでもなかった。

 脳内で行われた会議は、一直線に答えを導き出す。

 

 少年の境界を曖昧にする程度の能力の効果。

 大きく拡大している少年の心。

 質量を持っている精神世界。

 何よりもこれまで惹きつけられていた想いが状況を飲み込ませる。

 自分の心は、確かに少年に引きずられているという事実を突きつけてくる。

 

 

「藍がそんな気持ちになったのも、みんな能力の弊害のせいなんだ」

 

「…………そうか」

 

 

 私の心は、境界を曖昧にする程度の能力の弊害によって作られたのだと少年は言った。

 この気持ちは、和友の都合のいいように操られていたのだろうか。

 こんなにも思い通りにならない気持ちは、作られたものだったのだろうか。

 和友の姿を無意識に追ってしまうのも。

 和友が喜んでくれると、自分のことのように嬉しくなるのも。

 和友が笑顔を向けてくれると、心が沸き立つのも。

 和友と一緒にいると、安心して落ち着くのも。

 和友が誰か別の女性といることに不安を抱えるのも。

 和友が消えてしまうことにこれほど怯えるのも。

 和友のことを―――好きになったことも。

 みんな、嘘だったのだろうか。

 みんな偽りの姿で、本当の姿は別のもので。

 本来は、こんな形にならなかったとでもいうのだろうか。

 

 

「だから、偽物なのかもしれない。能力がもしもなかったとしたらこんな思いをしていないのかもしれない」

 

「…………そうだったのか」

 

 

 ―――違う、嘘だ。

 違うと、嘘だと頭の中で叫んでいる声が聞こえる。感情が少年の言葉を嘘にしようとしている。心の声が少年の告白を偽物にしようとしている。

 あれは嘘だ。

 あれは冗談だ。

 聞き間違い、気のせいなのだ。

 心は、勢いよく少年の言葉を否定しに走る。

 だが―――理性は少年の言葉を事実だと認定する。理論が通っている。そうでなくてはおかしいのだと。つじつまを合わせようとする。

 

 

「―――みんな嘘だったのか?」

 

 

 和友の言っていることは、嘘だ。

 

 

「―――本当にそうなのか?」

 

 

 本当にそうだろうか。

 酷く辛そうな顔で、今にも泣きそうな顔で―――そんな顔で伝えている和友は、目の前の和友は、嘘で塗り固められた仮面を張り付けているのだろうか。

 

 ――――そうじゃないだろう?

 

 和友は、決して人を故意に傷つけることはしない。

 和友は、そんなことをする人間じゃない。

 自分の知っている和友は、そんなことをするような人間だっただろうか。

 私の好きになった和友は、そんなことを何も感じずにできる人間だっただろうか。

 

 ――――違うはずだ。

 

 だったら、今抱えている気持ちが嘘なのだろうか。

 

 ――――そうじゃない、そうじゃないだろう?

 

 

「みんな―――本物だろう?」

 

 

 この気持ちに嘘はない。私の心は嘘をつけるほど、使い勝手のいい心ではない。そのことはこれまで生活してきてよく知っている。

 良くも悪くも真っ直ぐだったから、苦しむ羽目になった。

 真っ直ぐ和友に伸びて、曲げることができなかったから辛かった。

 苦しんだのも。

 辛かったのも。

 

 皆―――本当の私の心。

 

 だったら、どこにも嘘なんてない。

 どこにも、偽物なんてない。

 みんな本物で、本当の自分自身の心だ。

 

 

「和友の能力の弊害によって心を惹きつけられたから。確かに、そう思うと自分の気持ちが嘘みたいに思えて気持ちが悪い。今も少しだけ、気分が悪い。だが―――それがなんだというのだ?」

 

 

 和友の能力が生んだ弊害のせいで心を惹きつけられたから。

 だから、和友を好きになったのか。

 それが和友を好きになった理由か?

 それが―――和友を好きになった理由だろうか。

 

 

「そんなものが理由だとしたらどれほど良かったことだろうか。どれほど、救われるだろうか」

 

 

 好きになった理由がそんなものだったら―――どれほどよかっただろうか。

 好きになった理由がそんな単純なものだったら―――どれほど救われただろうか。

 そんな軽いものだったら、どれだけ簡単に捨てることができただろうか。

 

 この気持ちは―――ひと言の言葉で表せるようなそんな簡単な感情じゃない。

 そんな簡単に表せるような何かだったら思った時に捨てただろう。感じたときに未練もなく捨てたはずだ。

 要らないという理由から。余計なものだという理由から。こんなことはおかしいという理由から。許されることではないという理由から。実ることは無いという理由から。そんな簡単な理由で捨てられたはずなのである。

 

 

「私にだって、まだよく分かっていないのだぞ? 私には、この気持ちがたった一言で表せるようなそんな単純なものだとは到底思えない」

 

 

 捨てられなかったのは、それがよく分からないものだったから。

 とても重いもので。

 とても理解できないものだったから。

 この想いをどう表現すればいいだろうか。どうすれば分かってもらえるような言葉に置き換えることができるだろうか。想った瞬間からずっと考えてきたが、未だに答えは出ようとしない。

 傍から見た感情は酷く分かりやすい。未来に何が起こるのか予測して理解することと同じぐらい簡単だ。なぜならば、自分が見た光景というのは自分が思いたいように解釈できるからだ。自分がそう思ったのならそうなる、決めつけることができる。

 しかし、自分がそれを抱えると途端に理解できなくなる。当事者になれば、状況を把握する際に見たいものを見ることができなくなる。それはまるで、未来を予測するよりも今何が起きているのかを理解するのが難しいのと同じだ。

 

 

「私は、確信を持って言えるぞ。私のこの感情は和友に能力がなくても抱えたものだ。だってそうだろう? 和友がくれた―――背負っている感情を捨てる理由を得た今にしても、心に残るものが多すぎる」

 

 

 少年が与えた捨てる理由で捨てられた感情は幾ばくか。

 ほとんど何も変わっていない。

 今、和友を目の前にしていればよく分かる。捨てられた荷物など―――あったのだろうかというほどに何もない。重いものがまだ心の中に残っている。相変わらず、心を苦しめている。

 

 

「だって、何もかも変わっていない。和友に対して抱えている荷物は、何一つ下ろすことができていないのだ」

 

 

 背中には同じ重みがある。

 同じ想いがある。

 他の誰でもない自分の気持ちが。

 誰かに与えることのできない自分の気持ちが。

 誰かに預けることもできない自分の気持ちが。

 自分だけが持っていたい自分の気持ちが。

 能力の弊害がそれらを捨てる理由にはならない。

 能力の弊害がそれらを抱える理由にはならない。

 確信を持って言える―――私の気持ちは、和友の能力から与えられたものではない。

 

 それに、この想いがどこから来たのかなどどうでもいいことなのである。

 一生懸命働いて得たお金が目の前にあるのと、強盗をして奪ってきたお金が目の前にあるのとで、目の前にあるものにどれほどの違いがあるだろうか。汚い金、綺麗な金、表現はいろいろある。

 だが、お金であるということは変わらない。何も偽札を偽造したわけではないのだ。偽物ではなく、本物のお金である。

 それと今ある気持ちも同じだ。

 どこから来たのか。

 どこから産まれたのか。

 誰から与えられたのか。

 誰から奪ったのか。

 そこにどれだけのことがあろうとも、‘今目の前にある気持ち’は、本物であるはずなのだ。

 

 

「私のこの気持ちがどこから来たのかなんて関係ない。どこから生まれたのかなんて関係ない。今胸の中にある気持ちは、確かに私の気持ちだ」

 

 

 これまでの生活は、嘘だったわけじゃない。

 これまでの暮らしは、偽物だったわけじゃない。

 ずっと、ずっと、一緒にいた。

 この2年間、いつだって一緒に生きてきた。

 与えられた感情は、確かに心の中に息づいている。

 この感情が与えられたものであったとしても。

 この感情が操作されていたものであったとしても。

 確かに、見えている全ての色を変えたのだ。

 今までの生活や景色が変わった。

 色のない単調な光景が虹色に輝きだした。

 何もかもが違う生活になった。

 その変わった生活が何よりも私が持っていなかったもので。

 ―――何よりも欲しかったものだった。

 

 

「一緒にいれば落ち着いて、離れれば心配になる。何かをすれば楽しくなり、傷つけば悲しくなる。今までの生活が嘘みたいだった。まるで夢のような時間だった」

 

 

 思い返すだけで、笑顔になる。

 思い返すだけで、嬉しくなる。

 かつて、そんな記憶を持ったことはあっただろうか。

 思い出せるのは、何時だって悪い時の思い出ばかりで、楽しかった思い出は薄れて消えていくというのに。和友と培った楽しかった時の記憶は、鮮明に刻まれている。

 今生きている世界は夢の中の世界なのだと言われてしまえば、信じてしまうことができるほどに現実離れしているように思う。

 今までの私だったら、和友に会う前の私だったらきっと信じた事だろう。そんなものは幻想で、夢なのだと。早く夢から目を覚ますのだと。

 だが、今の自分は違う。夢は夢ではなくなったのだ。毎日、重たい物を持って地に足を付けて歩いている。あの重い想いが体を地面に立たせているのだ。ふわふわ浮いているような夢の中とは違う。

 

 

「些細なことに一喜一憂する毎日が待ち遠しく感じたのは、間違いなく和友のおかげだ」

 

「藍……」

 

 

 少年は戸惑っていた。能力の弊害による影響を受けて気持ちが作られていると告げたのにも関わらず、何も落ち込む要素を見せず、全く傷つく雰囲気もなく、気持ちを吐き出せている藍の姿を見て。

 

 鈴仙とは―――違う。

 能力の弊害によるものだと告げられて部屋から出て行ってしまった鈴仙とは違う。

 

 藍の持ち合わせている理性は、能力の弊害を受けていることを認めている。

 そして、少年が最も危惧していた―――あってもなくても変わらないという解答を出さなかった。能力を少年の一部として取り込むようなことをしなかった。

 あくまでも、少年と能力を区別してくれている。能力の弊害によって好きにならされたのだと思っていない。あくまでも少年が好きだから好きになったのだと。そういう姿勢を崩さなかった。

 

 

「ふふっ、こうして気持ちを真っ直ぐに伝えたのはこれが初めてだな。なかなかに恥ずかしいものだ」

 

 

 自分でも分かる―――今人生で一番自然な笑みを浮かべられている。

 こうもはっきりと気持ちを伝える日がこんなにも早く訪れるとは。今までは一度だって口にできなかった言葉を、素直な気持ちを伝えることができるとは。

 未来永劫言えないのではないかと思った言葉がすらすらと出てくる。詰まることなく、溜め込んでいた想いが口から出てくる。

 恥ずかしさで顔が赤くなる。

 顔に熱が帯びてくるのが感じられる。

 それでも、心は喜んでいる。

 それ以上の歓喜を感じている。

 

 

「この恥ずかしいという感情も和友がくれたものなのだろう。和友は、沢山のものを私にくれたよ。どれもが大切で、大事で、失いたくないものだ」

 

 

 私は、和友と出会って初めて知ったのだ。

 明日を待ち望むことは、これほどに楽しいことだったのだろうかと。

 

 明日も―――良いことがあるといいね。

 

 その言葉がどれほど未来を待ち望ませたのか。

 そして、毎日を幸せにしてくれたのか。

 それは今でも変わっていない。

 新しい明日が来るのを待ち望んでいる気持ちは、苦しみが増えた今だって心に宿っている。

 これから、これからだ。

 まだまだ続くのだ。

 今日がある限り、明日はきっとくる。

 今日生きている限り、明日はきっとくる。

 明日は、いつだって今日を引っ張って行ってくれるのだから。

 

 

「私は、これからも思い出を増やしていきたい。希望を持って明日を迎えたい。和友と一緒に明日を思い出にしていきたいのだ」

 

 

 感情が表に出る度に、心が叫び出す。

 次々と抱えている想いを外に出そうとする。

 心の奥底にある根源ともいえる想いが主張し始める。

 そうなると―――もう我慢などできなかった。

 言うなら今しかないだろう。

 言えるのは、‘今’しかない。

 この気持ちを伝えられるのは今しかない。

 この想いを、抱えている気持ちを、真っ直ぐに伝えられるのは今しかない。

 

 

「和友、恥ずかしいから一度しか言わないぞ」

 

 

 嫌がっている自分は、もうどこにもいない。

 怖がっている自分は、もうどこにもいない。

 あるのは、素直になった自分だけ。本当の気持ちに向き合って自分の感情に真っ直ぐ手を差し伸べられた自分だけ。素直な気持ちを見つけることができた自分だけ。

 断られることを怖がるのは未来が暗くなるのを考えるから。受け取ってもらえなかった気持ちの矛先をどこに向けていいのか分からなくなるから。

 だけど、もう怖がる必要はない。この気持ちは永久に抱えていける。そして、ゆっくりと少しずつ降ろしていける。

 覚悟は―――決まった。

 

 

「私は、和友のことが好きだ。一生隣にいて欲しいと思っている」

 

 

 ―――言ってしまった。

 取り返しがつかなくなってしまった。

 口から一度出てしまった言葉はもう戻すことはできない。

 だけど、何の後悔も不安もなかった。

 少年の瞳が涙で潤む。声は震えていた。

 

 

「僕の一生は後2年もないよ? もうすぐ、死んじゃうんだよ?」

 

 

 少年の寿命が後2年だとしても。

 一生という言葉がもうすぐそこに来ていたとしても。

 それが逃れられない運命だとしても。

 きっとそれすら―――抱えていけるから。

 だから―――これからも背負わせてくれないか。

 だから―――和友のこれからを背負わせてくれないか。

 藍が伝えるべき言葉は決まっていた。

 

 

「それでもだ。それまでには失う覚悟をしよう。だから、それまでは和友を失わずに済む方法を探させてくれないか。私に、これからの和友を背負わせてくれないか。かつて私が和友を背負った時のように、あの重みを抱えさせてくれないか」

 

「…………」

 

 

 無言のまま少年の頬を涙が伝った。頬をそっと一筋の線が伝っていく。

 藍は、泣きだしてしまった少年を見て優しい笑顔を浮かべた。

 

 

「なんだ、急に泣き虫になったな。もう泣き顔を見せていい歳じゃないだろう?」

 

「僕を泣かせたのは、藍でしょ!」

 

「そんなに私からの言葉が嬉しかったのか?」

 

「嬉しかったさ。泣いちゃうぐらいにはね」

 

「ははっ、そうかそうか。そんなに嬉しかったのか。私は伝えられて良かったよ。私の素直な気持ちを伝えられて良かった」

 

 

 少年は、気持ちを落ち着けるように、大きな風を心の中に取り入れる。

 藍は、もう昔の藍ではなくなった。

 確かに変わった。変わった理由は分からないが、何かしら思うところがあったのだろう。何かがきっかけで何かを変えたのだろう。

 

 

「清々しい気分だ。これまで重さを感じていたのが嘘のようだよ。確かに抱えてはいるのだが、随分と整理されたように感じる」

 

 

 心の中の本当の気持ちを見つけて。素直な気持ちを見つけて。少年の存在を見つめて。藍の表情が少年に見せつけるようにすっきりとした顔になっている。優しい笑顔を浮かべている。

 藍が変わって見せたのだ。目の前ではっきりと、逃げずに前に進むことで変わって見せたのだ。フランと同じように足を前に出して、変化を恐れずに未来を変えて見せたのだ。

 だったら――今度は自分の番である。

 

 

「藍が僕に気持ちを伝えてくれたんだ。だったら、僕からも気持ちを伝えないとね」

 

 

 藍が伝えたのならば、自分も気持ちを伝えないと不公平だろう。

 不安を抱えて、恐怖を感じて、それを乗り越えて伝えてくれた藍に申し訳がない。

 ここで引き下がってしまったらこれまでと何も変わらない。

 変わると決めたのだ。

 目的のために、理想のために、変わると決めたのだ。

 藍と同じように変わって見せるのだ。

 足を踏み出して大声で叫べ。

 今抱えている想いをしっかりと伝えるために。

 少年は、藍の気持ちに同調するように自らが抱えていた想いを告げた。

 

 

「僕も藍のこと、好きだよ」

 

「……本当か!? 本当に本当か!?」

 

 

 藍は少年の言葉に一瞬唖然とするも、頬を綻ばせて真偽を問うた。

 これまで思い描いていた未来が目の前まで来ている。後は尻尾を掴むだけというところまで来ている。そういう期待感が藍の表情に表れていた。

 

 

「嘘なんてつかないよ。僕は、この気持ちを偽ったりしない」

 

 

 もう、自分の気持ちをごまかしたり、偽ったりなんかしない。

 それが例え区別できていないものであっても。

 不安がらずに伝えるのだ。

 分からないものを分からないまま伝えるのだ。

 それが受け入れられない想いでも、素直に気持ちを伝えればいい。

 心の望むままに真っ直ぐ目的地に向けて進めばいい。

 少年は、笑顔で藍へと答えを告げた。

 

 

「人に対する好きってまだいまいち区別がついていないけど、藍が特別なのは間違いないよ」

 

「……良かった、私の気持ちは一方通行ではなかったのだな。これほど嬉しいことがあるだろうか。ああっ、もう何もいらない。私は今の気持ちだけで胸がいっぱいだ」

 

 

 そっと胸に手を当てる。心臓の鼓動が少しだけ早くなっている。心は満たされた気持ちを感じている。これでもかというほどに噛みしめている。

 そんな藍を見て少年の表情が少し曇った。

 少年の好きという言葉は、境界線の引かれていない言葉である。好きという感情がどこからが好きなのか区別できていないのだ。

 カレーライスが好き。どうして? 何が理由で? それが好きだと認めた理由はなんなの? そこらへんが少年にとっては曖昧なのである。

 好きになった理由というのは人それぞれバラバラで、境界線の引かれていないもの。

 貴方は、どうしてそれが好きなのですか。少年はその質問に対してはっきりと答える何かを持っていない。

 こと―――藍のことになればなおさらだ。

 一緒に生活してきたから? 一緒に遊んだから? 一緒に時間を共にしたから? よく知っているから? よく助けてくれたから? だから好きなのだろうか。きっと違うだろう。そんな明確な基準があって選べる言葉じゃない。

 その境界線は、いつだって曖昧なはずだ。

 きっかけなんてなかったかもしれない。いつの間にかそう思っていた。そう思ったらすごく嬉しくなった。だから好きだと思った程度の、何か曖昧なもの。少年もよく分かっていない曖昧なもの。

 そこに藍の尺度を重ねてしまうと別のものになってしまう。勘違いをしてまた嘘をついてしまうかもしれない。自分の本当の気持ちが偽物になってしまうかもしれない。

 それだけは嫌だった。

 そうなって気持ちまで曖昧になってしまうのだけは嫌だった。

 

 

「喜んでくれるのは嬉しいんだけど、僕の好きっていうのは……」

 

「言うな、分かっている。和友の言う好きと私の言う好きが違うのかもしれないのだろう? 別にそれでいい。今はそれで十分だ。それ以上はこれから望むべき場所にある」

 

 

 少年の不安が最初から分かっていたというように取り消される。

 藍は理解していた―――少年と自分の言葉に齟齬がある可能性が秘められていることを。そして、それを分ったうえで望む場所を見上げている。その言葉は、本当に変わったのだということを感じさせる言葉だった。

 少年は、自分の理解者の一人となった藍に笑顔を向けると、そっと考えるそぶりを見せた。

 

 

「そっか……じゃあ、どうしようか……」

 

「どうするというのは?」

 

 

 すぐさま悩む少年へと問いが投げかけられる。

 少年は複雑な表情で藍の瞳を見つめ、口を開いた。

 

 

「これから選ぶべき道は、どっちでもいいんじゃないかと思ってさ……結果は、どっち側にいても変わらないから。僕が最後に藍に殺される終わり方を望んでいるのは、どちらにしても変わらないと思うんだ」

 

「だから、私はそんなこと絶対にしないぞ!」

 

 

 声を張り上げ、少年の願いを拒否する。そこは譲れない部分のようである。そこは変われないようである。

 しかし、いつかは変わってくれるだろう。変わらないものなどないのだから。決意が、覚悟が人を変えてくれる。

 

 

「あくまでも僕の望みだよ。そうしてくれないと僕が苦しいだけってだけ」

 

「…………必ず助けるから」

 

「期待はしないでおくよ」

 

 

 少しの沈黙の後に少年を助けるという言葉が藍の口から出た。

 その沈黙が言わずとも物語っている。どうしようもなかった過去を踏まえて、未来に何ができるのかを考えたときに―――何もできることがないのだということを。

 抗うことは、美しいことだろうか。

 逆らうことは、正しいことだろうか。

 そこの問いに気付けたときには、きっと理解してくれるだろう。

 少年を殺す道が最も正しく、最も皆が救われる決断だということを。

 これ以上を求めず、これ以外を求めない。

 そんな未来のあるべき形を知ることになるだろう。

 少年は期待を胸の内に収めて、話を元に戻しにかかった。

 

 

「話がそれちゃったね。僕が悩んでいるのは、藍の記憶を曖昧にすることに関してだよ。僕は、藍の記憶を曖昧にしても曖昧にしなくてもどっちでも変わらないと思うんだ」

 

「どうしてだ? 記憶を曖昧にしたら和友のことを思い出せなくなって、介錯などできないぞ?」

 

 

 藍は、あくまでも少年の記憶を曖昧にする案に反対の立場である。

 反対する理由は単純に忘れたくない大切なものだからという感情論からきているものだが、それを伝えても少年は記憶を曖昧にすることを承諾しないだろう。あくまでも、理性的な理屈的な理由が必要になる。だから、介錯を行ってほしいという少年の要望に応えるためには、少年の記憶を曖昧にされていては達成することができないということを盾に説得しようとしていた。

 だが、少年の意見は変わらなかった。ここで藍の記憶を曖昧にしてもしなくてもおそらく同じ結果になることを予期していた。

 

 

「藍は、僕を見つけることができたんだよ? 僕との記憶を見つけられないわけがないじゃないか」

 

「そこは私に期待しているのだな」

 

「いや、確信しているんだよ。藍なら必ず僕との記憶を取り戻すって」

 

 

 見つけられないわけがないのだ。少年を見つけた実績がそう思わせる。少年の本心を心の中から見つけ出すことができて、曖昧になった少年との記憶を探し出せないわけがない。

 少年は確信を持っていたからこそ、藍に選択を迫ろうとしていた。やってもやらなくてもどっちでもいいのなら、やって欲しいかやって欲しくないかで決めればいい。どちらが大切かで二者択一すればいい―――藍に選択を委ねればいい。

 

 

「だから、記憶を曖昧にするかしないかの判断は藍に任せるよ」

 

「私が決めるのか? 答えなど決まっているぞ?」

 

「よく考えてね。今からしようとしている選択肢の先を」

 

 

 藍は、何も考えずに少年についての記憶を曖昧にする選択肢を破壊しようとする。

 これからの選択にはきちんとしたメリットデメリットがあって、どちらかを選ぶことで、何かを捨てなければならなくなるのである。

 

 

「記憶を曖昧にした場合、僕はマヨヒガを出て行く。藍と一緒にはいられない。記憶を曖昧にした意味がないからね。これは僕に対する矯正なんだ。近づいた距離を一気に離す、起爆剤」

 

「だから、私の気持ちは決まっていると言っているだろう? 私は、和友と離れるなんて嫌だぞ」

 

 

 少年についての記憶を曖昧にするメリットは、今までの生活を一気に変えることができるところにある。依存なんてなかったかのような昔の藍に戻れる。少年のことであれこれ悩むこともなくなれば、悲しむこともなくなる。心が自然な形を取り戻すことができる。

 しかし、それはあくまでも何も知らない人間から見ればメリットになるような内容である。感情や想いを全部無視して考えれば、それがいいと分かるような話である。

 今の藍にとっては、それはデメリットとも呼べる何かに変わってしまっており、選ぶメリットが何もなかった。

 

 

「そして、記憶を維持する方を選んだ場合、僕はマヨヒガで残りの2年を過ごすことになるだろう。いつも通りの日常が後2年間続く」

 

 

 少年の記憶を曖昧にしないという選択肢を選んだ場合、少年と一緒にこれからの2年間を過ごすことができるだろう。

 2年後は、少年の言うように藍が少年を殺すことになるとは思われるが、少なくとも2年後までは今までの生活の延長線上が続いているように思える。

 しかし―――この選択肢を選ぶためには、一つの壁を乗り越えなければならない。少年についての記憶を曖昧にすることは、少年だけが決めたことではないのだから。

 

 

「だけど、この選択肢を選ぶためには紫の許可がいるんだ。記憶を曖昧にする案は紫と一緒に考えたんだから。紫は、藍の心を守るために記憶を曖昧にするという選択肢を選んだんだから」

 

 

 藍は、どっちを選ぶのだろうか。

 少年と共にいる道を選び―――紫と闘うのか。

 少年の記憶を消す道を選び―――これまでを失うのか。

 

 

「藍は、紫の命令と僕との記憶のどっちを取るの?」

 

「私は…………」

 

 

 しばらくの沈黙の後に選ばれた答えは、藍の心をほんの少し削ぎ落とした。

 




変わったフランと藍を見て、少年は変わる覚悟を持ちました。
それが悪い方向に進むのか。
それが良い方向に進むのか。
どちらになるかは変わりませんが、変わることには違いありません。

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