ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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記憶を消すと言われて狼狽する藍。
そこに畳みかけるように少年の寿命が後2年ほどしかないという新事実を突きつけられる。
あまつさえ、その原因が―――両親の名前を冠した標識の消失によるものだった。



燃え落ちたもの、溶け込んだもの

 失った記憶は―――両親のもの。

 失わせた原因は―――藍の苛立ち。

 少年から親の記憶を奪ってしまった。そんな罪の意識に襲われ、藍は顔をこわばらせて黙り込んだ。

 

 

「大丈夫、大丈夫だから。藍は約束を果たしてくれたよ。失ったものをカバーしてくれた。僕の両親の代わりをしてくれた」

 

 

 二人は、二年前に少年の心の中で約束を交わしている。標識を壊した藍に向けて、標識に書いてあった部分のカバーをしてほしいという犠牲に対する対価を払う約束を結んでいる。

 結局藍は、少年に告げられる今の今まで標識に書かれている文字が何なのか分からなかったが、分からない状態で少年の約束を十分に果たしてきた。共に笑い、共に苦しみ、少年の‘家族として’過ごしてきた。

 

 

「それだけで十分だよ。僕にはもったいないぐらいの償いだった」

 

 

 少年は、約束を守ってくれたことで藍の罪を完全に許していた。

 思い出してみれば、ちょうど母親の立場にあるのが藍で、父親の立場にあるのが紫だっただろう。

 少年を心配し、苦しくとも守ることに全力を注いでいた母親。心を擦り減らす少年の行動を支え、少し離れたところから無理のないように目を配った父親。それは、今の紫と藍の立場と大きく変わらない。

 本当に十分すぎるぐらいの補完だった。

 感謝してもし足りないぐらいの思い出ができた。

 少年は、心から今まで温かく接してくれた二人に感謝の言葉を送る。

 

 

「今の僕にとっての両親は間違いなく藍と紫だよ。本当にありがとう」

 

「和友はそう言うが……両親のこと失ってしまったことを忘れられるわけではないのだろう? 標識を失ってしまったことが病気の発症に繋がっていることを考えれば、心の穴を埋められていないことは確かなはずだ」

 

「心に空いた穴は絶対に埋まらないよ。僕の両親と紫と藍とでは形が違うんだから隙間ができるのは当然さ」

 

 

 何かを失って心に穴が開く。それを埋められるのはやっぱり同じもののはずである。

 誰かがそこに入ったところで同じ形ではないのだから完全に埋めることはできない。

 母親から愛されなかったからといって、他の母親に愛してもらって愛されたい気持ちを埋めることができるだろうか。

 違うだろう―――愛されたかった母親は最初の一人のはずである。

 

 

「僕の両親は二人だけだ。その代わりは誰にだってできない」

 

 

 それを違うもので埋めようとしても、必ず隙間ができることになる。

 それに、違うもので埋め合わせをするなんて色の違う土で無理矢理抑え込むのと同じで、そんなことをしたら傷跡が目立って気になって仕方が無くなる。

 忘れようと思っても、忘れられなくなる。

 あの人はこうだったとか、あの人だったらなんて考えが頭の中によぎってしまう。それでは、心の傷を一時的に塞げても自分で掘り返してしまうことだろう。

 そんなことをしたら傷は広がるばかりである。

 

 

「僕の両親の代わりなんていない。もちろん藍と紫の代わりだっていない。みんな同じようで……みんな違うんだよ」

 

「和友……」

 

「区別ができない僕にだって分かるよ。何かの代わりなんてこの世の中には存在しないんだって、同じように見えるものにだって違いがあるんだって。僕の母親は一人だけ。父親も一人だけだ。僕にとって藍の代わりがいないように。藍にとって僕の代わりがいないように。同じものなんてないんだよ」

 

 

 少年の母親はあくまでも一人しかいない。

 少年の父親もやっぱり一人しかいない。

 私が少年の母親だと藍が言っても、少年がそういうふうに認識しても、やっぱり少年の母親と藍は違うものなのである。

 いつも使っているボールペンが無くなった時、違うボールペンと見つけて最初は満足するのかもしれない。

 けれども、やっぱりそれはその場しのぎなのだ。慣れているボールペンは失った時に探そうとしていた最初のボールペンなのだから。

 多くの人は失ってしまったボールペンを探し始めるだろう。そして、見つかればきっちりと心の穴は埋まることになる。

 心の穴は埋め合わせでは埋まらない―――取り戻さなければ埋められないのだ。

 

 

「本当なら両親と過ごした記憶で、一緒に笑い合った思い出で埋めてあげられれば良かったんだけどね。同じもので埋めることになるから、穴は綺麗になくなるはずだった」

 

 

 そう―――心の穴は、失ったものと同じものを見つけてあげられれば埋めることができる。それが実際に失ったものを取り戻すことによってなのか、共に積み立てた過去の思い出なのかは分からないが、時間が心の穴を埋めてくれるという言葉があるように、その人と培った思い出が穴を埋めてくれる、背中を押してくれることは往々にあることである。そうやって同じ種類のもので空いた穴を埋めることで納得することができるのだ。

 だから―――両親のことを探そうと思った。培ってきた、積み重ねてきた歴史を探して、思い出して、両親の痕跡を探そうと思った。記憶・記録を探し出して心の穴をすっぽりと埋めようと考えた。

 だが―――

 

 

「そうなっていないということは、何か問題があったのだな」

 

「うん……顔と姿だけは何とかなったんだ。紫がアルバムをもってきてくれていたおかげだね。問題はその他の部分―――両親に対する情報を埋め込むために必要な要素が全く足りなかったんだ」

 

 

 持っている両親の情報をかき集めた。自分では何も思い出せない。住んでいた家から何かを持ってこられたわけでもない。だから、主に紫からの情報で失った記憶を補完しようとした。

 しかし、紫が持ってきた情報だけでは両親を失った穴を埋めるために十分な情報を得られなかった。

 

 

「失っていた期間が長過ぎたんだ……きっと僕の能力が要らない記憶だって判断したんだろうね。もう、思い出せる記憶もごく僅かになっている……」

 

 

 標識という刻み込んだ情報が消えて重要度が下がった両親の記憶は、次々と曖昧になっていった。

 思い出というのは感情の起伏による記憶であり、何かが起こったときの記録である。そういう記憶というものを区別しているのは誰と一緒の記憶なのか、何が関連した記憶なのかということだ。

 友達と遊んだ記憶は友達というものがいてこその記憶であり、友達が分からない人間に備えられる記憶ではない。遊んだ友達というものが分から無くなれば、その記憶はどんどん思い出せなくなり、無かったことになっていく。

 そして最終的には―――忘れたことも忘れるのだ。

 

 

「僕は、忘れてしまうことさえも忘れてしまいそうで怖いんだよ」

 

 

 両親のことを忘れてしまう恐怖もそうだったが、忘れたことも忘れてしまうような気がして恐ろしかった。

 

 

「それに……もう無理なんだ」

 

「なぜだ? 今からでも標識を立てれば、現状を維持することは可能なのではないのか? 空いた穴を埋められれば、今からでも和友の両親の記録を辿れば……」

 

 

 珍しく諦めの言葉を口にする少年に藍が今考えられるだけの提案を持ち掛ける。

 心に穴が開いていてそれが原因で病気になっているのならば、穴をできるだけ埋めることでとりあえずの延命治療になるのではないかと考えたのである。

 これは実際に的を射ていて、心の穴の面積が少なくなるほど少年の病気の遅延に繋がる。それは、蛇口からコップの中に水を入れるようなものであり、蛇口の捻りを小さくすれば水が出てくる量が少なくなり、溢れ出すまでの時間を長引かせることができるのと同じである。

 しかし、そんな提案も無意味だというように少年の首が横に振られた。

 少年の表情は酷く悲しそうだった。もう何もかも取り返しがつかないといった雰囲気で、いつもの元気や笑顔が見えてこなかった。

 

 

「だから、それがもう無理なんだ」

 

「どうしてだ? 和友の家に行けば、完全に埋めることができなくとも、もっと隙間を埋めることぐらいできるだろう? アルバムからは姿かたちしか見えてこないかもしれないが、和友の家にならば他にもいっぱいあるはずだ」

 

「うん、藍の言うとおりだよ。僕もそう考えた」

 

 

 少年の家には沢山のものがあった。紫が少年の家に行った際のことを思い出してみれば、様々なものが置かれていたことが分かるだろう。

 少年の部屋でいえば、友達の名前やその他諸々を覚えるために記載したノートが置いてあった。

 リビングには、古めかしいおもちゃが並べられていたのを思い出してほしい。

 記憶を辿る術ならば、家に戻ればいくらでも見つかるはずだった。そういう意味では、藍の提案は何も間違っていなかった。

 そういう意味では―――。

 

 

「だけど、今となってはそれもできない」

 

「どういうことだ?」

 

 

 できない―――それは不可能という言葉である。

 幻想郷の外へと出る方法がないわけではない状況下で、できないというのはどういうことなのだろうか。 

 藍は、次に少年から発せられた言葉で―――衝撃を受けることになる。

 

 

「……燃え落ちたんだ。何もなくなって、灰に変わってしまった」

 

「……え?」

 

 

 衝撃の事実に思わず言葉を失った。

 燃え落ちた―――それは家が燃えて無くなったということ。

 灰に変わった―――それはもう何も残っていないということ。

 少年の家は、もう少年を待ってくれてはいない。

 両親と同じように少年を置いて先に逝ってしまった。

 

 

「藍は覚えているかな? 僕が泣きながら帰ってきた日のことを……僕が外の世界に行ってすぐに帰って来たあの日のことを」

 

「ああ、あの泣きながら帰ってきた日か……」

 

 

 少年の言葉には心当たりがあった。

 いつだったか、少年が泣き腫らした顔で帰ってきたことがあった。決して上を向くことなく、涙を流しながら廊下を駆けて部屋へと入り込み、外へと出てこなくなったことがあった。

 

 

「和友、何があったのだ?」

 

「今の和友に話しかけるのは止めなさい。そっとしておいてあげなさい」

 

 

 理由を尋ねても何も言わず食事を取ろうともしない少年に声を何度かかけたが、主である紫に静止されて結局のところ話せずじまいに終わった。

 次の日には、いつも通りの少年に戻ったため気にしてはいなかったが、そんなこともあった。

 

 

「その日……僕は、燃えてしまった家の前で泣いていたんだ」

 

 

 自分の家に帰ったのは随分と前だ。少年がまだ幻想郷に来て間もないころである。

 外の世界にある家に戻ることを考えたのは些細なきっかけだった。紫との些細な会話から考えたことだった。

 

 

「僕の両親が取っていた成長記録……そんな物があったんだね。ちょっと失念していたよ。そうだよ、戻って探せば良かったんじゃないか……」

 

「和友、どうしたんだ? 何か気になることでもあったのか?」

 

「ううん、なんでもないよ。ちょっと思うことがあっただけ……」

 

 

 家に帰ろうと思ったのは、そう―――ちょうど紫が少年の成長記録を家から持ってきたと言われた時で、戻ればよかったのだと気付いた時である。

 それから間もなく、紫に頼み込んで家まで連れて行ってもらった。それは、紫が少年の家に行ってから1週間も経っていないころである。そして、その時にはもうすでに少年の家はなくなっていた。真っ黒な別の物になって、小さな家が全く様変わりしたように大きな存在感を放って存在していた。

 泣きそうになった。

 だけど―――誰かがいる前に泣きたくなかった。

 顔を無理やりに強制する。

 いつものような顔で声だけを震わせる。

 

 

「僕の家に残っていたのは灰だけだった。燃え落ちて、燃え尽きて、何も残っていなかったんだ。あの時は悲しくて、辛くて、涙が止まらなかった」

 

 

 完全に燃え尽きて何もなくなっていた。黒く炭化した何かが残骸になって、地表に広がっていた。まだ少しだけ温かく、まだどこかに熱があって、鼻を刺激する匂いを放って、確かに何かがあったことを示している。

 それが―――何よりも悲しかった。

 

 

「……夢を見たからか」

 

 

 藍の口からぼそりと言葉が零れ落ちた。

 藍には、少年の家が燃え落ちた原因に心当たりがあった。

 そう、少年が来てからまだ1日も経っていないその日―――少年は夢を見た。

 少年は、その日一度死んだのだ。

 

 

「あなたが来ると思っていたらから待っていたのよ。死んだ感想はどう? それも相変わらずなのかしら?」

 

「家が、火事になったよ……」

 

 

 少年の夢は、正夢になった。

 夢と現実が交錯して、夢が現実を侵食した。

 

 

 

 少年は藍の夢を見たからという言葉に頷くわけでもなく、肯定することもしない。ただただ、泣きそうな顔で静かに立っていた。

 

 

「なぁ、和友……」

 

「僕なら、大丈夫だよ」

 

 

 なんて声をかければいいのか全く分からなかった。

 慰める言葉など何一つ出てこない。聞けば聞くほど、少年が袋小路に入り込んでいることが分かるだけで、どうすればいいのかなんて何も思いつかなかった。

 少年は、それが分かっているからこれからの人生を諦めたのだろう。

 あと2年間しかないと、諦めているのだろう。

 もう―――変わらないことだから。

 もう―――変えられることではないから。

 もう―――不変で普遍の原理になってしまっているから。

 

 

「藍もやっと分かってくれたみたいだね」

 

「…………」

 

 

 少しだけ明るい表情を作る少年に、藍は応えられなかった。

 

 

「藍は、この世界を見てどう思った? 前来た時と何が違うと思った?」

 

「そうだな……」

 

 

 一度周りを見渡す。

 空には相変わらず気持ち悪い色彩が映し出されている、地上も同様に移り変わりを見せている。建物も建っている、標識も少なくなっているとは感じていたが建っている、人間もいる。

 しかし、過去に無くて現在にあるものが確かな存在感を放って目に映っていた。

 

 

「……地表を水が覆っていることだな」

 

「ふふっ、さすがに分かるよね。藍は、僕の心の中に1年間もいたんだもん。分からないはずがないか」

 

 

 藍の回答に少年が微かに笑う。

 以前の少年の心の中と明らかに異なっている部分―――それは地表を覆っている液体の存在である。建物も人間もいるにはいるのだが、液体の中を進んでいる。移り変わる地表も液体に呑まれている状況で、澄んだ海を外から見ている状態で地表が動いている―――そんなふうに見えていた。

 

 

「この水は、一体どこから産まれているのだ?」

 

 

 この水は―――どこから湧いてきているのだろうか。藍は、地表を覆う水の存在がどこからやってきたものか分からなかった。

 少年の心の中にあるものは基本的に外部から運ばれてきたものである。標識や立て札はいうまでもなく、建物や景色に至るまで外の情報から産みだされたものである。そう考えると、この液体はここ2年の幻想郷での生活の間で形成されたものであることが分かる。

 しかし、この2年間で一体どんなことがあってこのような水が現れたというのだろうか。

 少年は、紫と同じ話し方をし始める。周りから詰めていくような、本人に理解させるようなやり方で藍の外堀を埋めていく。

 

 

「この水はね、両親の標識があった場所から溢れ出てきたものなんだ」

 

 

 心の地表を覆っている水は、両親の標識があった場所から湧いてきたものだった。温泉を掘り当てて噴き出すように、湧き出してきたものだった。

 この液体は、両親を失ったこと、そして家が燃えてしまったことによって心に負荷がかかり溢れ出てきたものである。

 

 

「そうだね―――僕の心の涙みたいなものだ」

 

 

 そういう意味では、少年の悲しみを具現したものといえるだろうか。少年の悲しみから産まれた涙のようなもの。それが現在、時を経て3メートルという水深に至っていた。

 

 

「この世界には逃げる場所が、出口がないからどんどん増えてここまできた。もともとの標識の高さじゃ埋まってしまうほどの高さになったんだ」

 

「この水かさは今後も増えていくのか?」

 

「増えるよ……止まることなく増えていく」

 

 

 少年の心の中の水は今もなお増え続けている。

 水かさは、あっという間に今飛んでいる少年と藍のいる場所まで来るだろう。今ある10メートル近くまで伸びた標識までたどり着くだろう。

 それが―――問題なのである。

 

 

「そして、侵食するんだ。この世界にある物質を腐敗させ、腐食する。最後には海だけが残ることになるだろうね」

 

「それでは……」

 

「そう、何もかもなくなっちゃうんだ。これまで溜め込んだ区別の標識が、決まり事の立て札が、みんなとの記憶が―――消えていく」

 

 

 水は、物質を腐敗させる。物質は酸化反応を起こしながら水に溶け出し、その身を削る。鉄は酸化し錆になり、木材は腐り朽ちていく。そして、標識と立札が消えれば、関連する記憶も一緒に曖昧になっていく。

 キャベツとレタスのことを判別できない人間が、キャベツについての思い出を保持していることなんてまずない。それは、それが何に関わる記憶なのかがきっちりと‘区別されていない’からである。

 そんな曖昧な記憶は、すぐに消えてなくなってしまう。曖昧なものはさらに曖昧になって、あってもなくても一緒の無色の記憶になって、最後には無色という色も失ってしまう。

 

 

「病気の症状が酷くなったとき―――水位は今立っている標識より少し下のところまで来ていたんだよ。こんなものじゃない」

 

 

 水位が一番高かった時は9メートルを超えていた。

 もちろんのことだが、いくつかの標識はその時に失われた。

 

 

「あの時、僕は必死だった。病気と闘いながら必死に守ろうとしていた。だけど、やっぱり努力には限界があるんだよ。ゴールがないマラソンみたいなもの……ずっと走っても追いかけてくる。僕は、途中で追いつかれそうになって抱えている荷物を下ろしてしまった」

 

 

 思い出を守るために必死に努力した。周りから狂気じみていると思われる程度には必死だった。

 血反吐を吐いても、手を動かすのを止めない。

 忘れたくないからという一心で。

 書いて、書いて、書いて、書いて、書いた。

 その努力の結晶が今の標識の高さに現れている。

 10メートル近くの標識の高さとなって具現している。

 

 

「あの時に多くの標識が水に溶けだした。まるで、能力の練習をしていた時の水滴に触れて溶け出すように標識に書かれている文字が消えて、標識ごと無くなった。もう、友達の名前はほとんど残っていない。そして―――次は、今ある物全てが形を無くすことになる」

 

 

 必死に努力した。

 文字通り必死だった。

 積み立て、積み上げる。

 努力によってより高い標識を立てた。

 だが、全てを救うことはできない。全てに均等に時間をかけていたら全滅してしまう。標識の数が多すぎて間に合わないのだ。

 その時に犠牲になったのは、関わり合いの薄い友人たちの名前、幻想郷に来て必要が無くなった知識だった。

 だが、その残ったものも、いずれなくなってしまう。

 次が来れば、跡形もなく海の中に消えていってしまう。

 

 藍は、ここまで少年の話を黙って聞いていて、一つ頭に引っかかるものがあった。

 病気で苦しんでいた時が―――9メートル。

 今が―――3メートルである。

 この違いは、どこからきたものなのだろうか。

 水位が過去と現在とで減っているということは、そのまま水かさを減らせる方法があるということだ。

 

 

「半年前、どうやって元の状態まで戻したのだ? 同様の方法を使い続ければ、ずっと維持できるのではないのか?」

 

「僕の能力は、境界を曖昧にする程度の能力。標識の存在を曖昧にしているこの水は、僕の能力が影響している酷く曖昧なもの。だったら曖昧なものをはっきりさせてあげればいい。そうすれば、必然的に曖昧な存在の水が減って水かさが減る」

 

 

 少年の境界を曖昧にする程度の能力は、紫も言っていたように心の中で最も強い効果を発揮している。これまで能力を内に留めてきた弊害で、内側で大きな影響力を及ぼしているのだ。

 湧き上がる水は、少年の心に負担がかかったことによる能力の暴走であり、無意識下での能力の制御が利かなくなっている証である。

 水は、曖昧にする程度の能力を発揮するようにこれまで引いてきた境界線を曖昧にしていく。ちょうど曖昧なものが区別できていたものを飲み込むような形である。

 一つの曖昧さが他の正確なものを曖昧にするのである。1+1が曖昧になれば、この世の中の数式は意味をなさなくなるのと同じだ。

 そんな曖昧な存在である水を明確に区別してあげられれば、曖昧な水の存在を掻き消すことができる。曖昧さを具現している水を消し去ることができる。

 そして―――そんなことをできる人物は、藍の知る限りにおいて一人しかいなかった。

 

 

「境界線を引いて白黒はっきりつけるんだ。もちろん、その人の区分けにもよるけど、彼女はそのあたりしっかりしてそうだったかな。紫もそう言っていたし」

 

「閻魔様か……」

 

 

 そんなことをできるのは一人しかいなかった。少年の心の中を覆っている水を減らした人物は、幻想郷において一人しかいない。

 確かに閻魔である彼女であれば、白黒はっきりつける程度の能力を持っている彼女であれば、少年の曖昧なものをはっきりと区別することができるだろう。

 

 

「紫には感謝しているよ。紫がいなかったら、今の僕はいない。紫がいたから僕がこうしてここにいられるんだ」

 

 

 区別を得意とする彼女が動いたのはたまたまでもない、少年を助けるためでもなかった。

 彼女を動かしたのは、紫の懇願があったからだった。紫が彼女に頭を下げ、彼女がそれに応じて動いたのである。それを考えれば、二度と同じ方法は使えないことだろう。むしろ、1度だけでも手を貸してくれたことの方に驚くところである。

 

 

「だとすれば、2度目はないな。閻魔様は紫様の願いを二度も聞き入れるお方じゃない」

 

「これで分かったでしょ? もう二度と同じ方法は使えない。彼女は、同じ情けをかけたりはしない」

 

「では、本当にどうしようもないのか? 本当に和友が助かる術はないのか?」

 

「ないよ、僕の命が助かる方法はない」

 

 

 少年の口から自分のことなのにまるで他人事のようにはっきりと助かる方法がないと断言する言葉が出る。

 実際少年が助からないという現実は、事実だろう。助かる方法が何もないのだ、必然的に時間の経過と共に弱っていき、息絶えることになる。半年前と同じように苦しんで死ぬことになる。笑顔を見せる余裕もなく、消えていくことになる。

 

 

「半年前と同じようになるというのか?」

 

「そう、半年前と同じ状態になる。また同じことを繰り返す。同じように抗って、頑張って、引きずりながら進んで、そして―――死ぬんだろうね」

 

 

 半年前と同じことが起こる。

 また同じように必死に筆を引き、境界線を引き、抗うのだろう。

 苦しんで、辛くて、それでも頑張る。

 抗って、粘って、そして―――息絶えるのだろう。

 応援することしかできない自分が嫌いで、殺したくなるのだろう。

 

 

「……そんなもの見たくない」

 

 

 ―――そんなもの見たくもなかった。

 最も見たくないものだった。

 あの時の想いを再びすることになるのか。

 藍は、本当に人生を諦めてしまうのか問いかけた。

 

 

「和友は、諦めるのか?」

 

「諦めるというか、どうしようもないって感じかな。僕は、あの状態になってずっと耐えていけるだけの自信がない。みんなとの思い出を守りながら戦える自信がない」

 

 

 半年前の闘病生活の経験が警告している。何度やっても、何をやっても、同じ結果になると経験が物語っている。

 もう、自分にできることなんて何もないのだ。常に追いかけてくるものに対して抗うことは、ただの悪あがきでしかない。

 抗った結果、状況が好転することは決してない。追いかけてくる相手は速度を落としてくれない、止まってくれない。

 少年ができることは必死に両手に荷物を抱えて走ることだけ。そして最後には追いつかれて死んでしまう。そこまでは半年前にすでに見たヴィジョンである。

 あの時―――少年は死ぬはずだった。

 この流れに沿って死ぬはずだった。

 それを閻魔様―――四季映姫に助けられたのだ。

 そして、そんなことはもう二度と起こらない。

 奇跡でも起こらない限り、助からない。

 奇跡とは―――起こらないことを指す別称である。

 覚悟はすでにできている。

 半年前のあの時に覚悟している。

 少年は、決死の覚悟をもって藍に言葉を投げかけた。

 

 

「だから、藍には約束をしてほしいんだ。これは僕を見つけられた藍にしか頼めないこと……藍にしかできないことだ」

 

「私にできることならば、なんでもする。なんでも言ってくれ」

 

「藍には、僕の介錯をしてほしい」

 

 

 藍は、少年の言葉にまたしても絶句した。

 介錯―――それは、切腹の際の痛みを和らげるための首切りである。




この話では、家が火事になったあたりの伏線がようやく回収できましたね。他にも、約束のことや病気から復帰した理由も書くことができて満足しております。ここから、いろいろあって紅魔館編が終わるのは、後数話というところですね。

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