ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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藍は、少年の心の中に取り込まれた。
少年の存在を感じて、少年を見つけ出す。
藍が自分のことを見つけたことを知った少年は、酷く満たされたような表情を浮かべていた。
満たされた少年から告げられた言葉は―――藍の記憶を消すことになっているという未来の予定だった。


失ったもの、失われるもの

 和友の言葉が信じられなかった。

 そんなこと聞いたこともなかった。

 そんなこと想像したこともなかった。

 これまでのことが無くなってしまうなんて。

 これまでのことが失われてしまうなんて。

 そんなの嘘だと思った。

 そんなのは嘘だと思いたかった。

 だから、聞き間違えだということにした。

 

 

「ん? 今何と言ったのだ? 私の聞き間違えか、記憶を消すと言った気がしたのだが」

 

「それで間違っていないよ。藍が持っている僕に関する記憶は、今夜をもって曖昧になって分からなくなることになっている」

 

 

 少年の言葉を信じられずに聞き返したが、少年から返ってきたのは先程と何一つ変わらない答えだった。

 今夜というのは―――今のことである。もうすでに日が落ちて月が顔を出している。そして、記憶を消すことになっている時間をはっきりと‘今夜’と口にしているあたり、具体的にいつどこで何をするかも全て決まっていることが伺えた。

 

 

「どういうことだ!? 私の記憶を消す? 私はそんなこと知らないぞ!」

 

「知らなくて当然だよ。これは、僕と紫が決めたことだからね」

 

「なぜだ! なぜ、そんなことをしなければならない!?」

 

 

 唐突に告げられた言葉で頭の中がぐちゃぐちゃにかき回される。信じられないという気持ちが頭の回転を鈍くする。もはや吐き気がするほどに身の毛がよだっていた。

 

 

「私は認めないぞ! そんなことは断固として拒否する!」

 

 

 記憶を消すという話は、これまで少年や紫と共に生活してきて一切聞いたことのない話だった。少年に対する依存が過ぎるという話はされていたが、記憶を消すほどの強硬策に出るとは耳にしていない。

 何がどうなっているのか。

 何がどうなってそうなるのか。

 藍は、理不尽な状況に声を張り上げる。自分の知らないところで、自分に関する重大な事柄が決まっていたことに抵抗する。

 

 

「藍、落ち着いて。まだ話は終わっていないよ」

 

「ふざけるな!!」

 

 

 混乱する頭の中で何度も少年の言葉が反復される。

 記憶を消すことになっている。

 少年に関する記憶を今夜消す。

 僕と紫が決めたこと。

 

 

「どうして和友との記憶を消さなければならないのだ!!」

 

 

 少年の言葉から察するに、主である紫は記憶を消す案に賛同しているということが伺える。紫が賛同しているということはつまり―――この記憶を消すことはほぼ確定事項なのだ。紫も少年も一度決めたことを軽々しく変えたりしない。

 

 

「なぜ、私に伝えてくれなかった!?」

 

 

 答えは聞かなくても理解できていた。優秀な自分の頭は答えを簡単に導き出した。

 自分が知らないのは、知らせない方が賢明だと判断されたからだ。話さない方がいいと主である紫から判断されたからだ。きっと少年が話さなければ、藍は知らないうちに記憶を失っていたことだろう。

 藍は、怒りと困惑に感情を支配されながら想いを喚き散らした。

 

 

「これまでそんな話は一度もしていなかっただろう!?」

 

「随分と前に決まっていたんだよ。僕に関する記憶を消すってことはね」

 

 

 記憶を消すということは、随分と前から決まっていたこと。

 記憶を消すことが決まった成り行きは、少年に引き寄せられた心を無理やり引き離す方法を考えていた時である。このままでは共倒れになってしまう状況になっていた時のことである。

 打開策を考える中で紫は少年と共に思考し、記憶を消すという案を採択した。

 

 

「他にもいろいろあったんだよ。物理的に距離を取るとか。しばらくの間会わない期間を作るとか。そんな薬物依存から徐々に離れるみたいな案もあった」

 

 

 少年の心から解き放たれるために様々な提案がなされた。単純に距離を置く方法から、荒療治に至るまで複数の提案があった。

 その中で記憶を消すという暴力的な案に確定した理由は、効果が確実に出るということが分かっているからだ。そして何よりも、他の方法で上手くいくヴィジョンが全く見えなかったためだった。

 

 

「だけど、それじゃあダメなんだ。僕は分かっているよ。僕がどこかに攫われたら、僕がいなくなったら、藍が探しに来てくれるって。藍は探さずにはいられないんだって」

 

 

 少年と物理的に距離を取ったところで何の解決になるだろうか。距離を取るということは、今すぐ少年が死ぬことと何も変わらないのである。会えないという状況に心が暴れ出すだけで、何の解決にもなっていない。

 きっと、会いに行くだろう。

 何もかも捨てて、会いに行くだろう。

 少年の下へと―――会いに行くだろう。

 

 

「―――それじゃあ駄目なんだ! 何も変わらない! 何も進まない! 僕たちは未来に進めない!」

 

 

 それでは意味がないのだ。やはり、何かしら覚悟をして自ら少年から離れるということをやってのけるぐらいのことができなければ何も変わらない。そして、それができないからこその強硬策である。

 記憶を消すという手段は、少年が病気になった時の藍の様子を見て考えたこと、紫と話し合ってどうすれば皆が悲しまずに済むかを考え抜いた先に導き出した答えだった。

 

 

「藍にこのことを直接話す予定はもともとなかったんだけど……今の藍ならと思ってさ。やっぱり本人に何も言うことなく記憶を消すなんておかしいと思うんだ。藍の記憶のことだもん、藍が決めるべきだと思うんだよ」

 

 

 本当ならば、相手に了承を取らずにいきなり不意打ちのように記憶を消す算段だった。混乱することが、反発することが目に見えていたから。伝えるのを控えて唐突に実行する予定だった。

 だけど、少年はその予定を破って藍に話すことを選択した。

 

 

「大事なものが何なのか―――僕を見つけることができた藍ならきっと分かるはずだから。何が大事で、何が必要なのか。藍にとって大事なことが何なのか。守りたいものを決めるのは、藍自身であるべきだと思うんだよ」

 

 

 今の藍になら話してもいいと思った。

 ‘今の藍’になら選択することができると思ったから。

 自らのこれからの道を選ぶだけの意志があると思ったから。

 選ぶ―――二者択一を迫ってどちらかを選ぶことができると思ったから。

 自分の大事なものは―――何よりも自分で選ぶ必要があると思ったから。

 

 

「それに、記憶を消す理由は聞くまでもないでしょ? 藍は分かっているはずだよ」

 

 

 少年は、優しい笑顔で藍に暴力的な言葉を投げつける。分かるはずだと、理解しているはずだと藍に向かって自らの非を問う。

 

 

「…………」

 

 

 分かっている。

 痛いほど知っている。

 これまでの生活でいくらでも注意されてきた。

 これまでの生活の中でいくらでも気付く機会があった。

 自分が溺れていることに。

 無意識のうちに沈んでいることに。

 いつだって、警告はされていた。

 サイレンは常に鳴り響いていた。

 救助するための手は、常に伸ばされていたように思う。

 ただ――――全てに対して手を伸ばさなかっただけだ。

 この気持ちの良さに―――溺れていたかっただけ。

 いつまでも続くと思いたかっただけ。

 

 

「そういう流れになる理由を、藍は知っているはずだよ」

 

「私が和友に依存しているからか……」

 

 

 藍の口から弱弱しい声が漏れた。

 記憶を消される原因がどこにあるのかなど知っている。把握している。

 むしろ――そこにしかないのだ。他には特に思い当たる節はない。全ての原因が少年に起因していて、少年を中心に渦巻いている。

 少年がやって来たあの日から全ての色が変わったのだから。

 少年と会ったあの日から七色の世界に変わったのだから。

 

 

「だが、記憶を消すまでのことではないだろう? 今からだっていくらでも修正が利くはずだ。悪いところはこれから直していけばいいではないか」

 

 

 少年に対する依存が酷く深いということが、記憶を消す原因になっている全てだろうか。依存が深いからという理由で記憶を消すという極論に至るだろうか。

 記憶を消すというのは、これまでを無かったことにすることである。これまでの思い出を、これまで積み立ててきたものを全て一掃するということである。

 依存が過ぎるというのは記憶を消すほどのことなのだろうか。いくらでも修正が利きそうな話であるのに、いくらでも後戻りができそうな話なのに、どうしてそんな極論じみたことをしなければならないのだろうか。 

 藍は、依存しすぎという事象に対する対策が記憶を消すという強硬策になっていることに疑問が湧いてくるばかりで全く理解できていなかった。

 

 

「もう遅いんだ。これは決定事項で覆ることは絶対にないし、覆そうとも思わない」

 

「どうしてだ? 今からでも間に合うだろう? 私が気を付ければいいではないか……これから、依存を薄めていけばよいことだろう?」

 

「そのこれからが、もう無いんだよ」

 

 

 少年は、非常に言い辛そうにもう引くことのできる後が無いことを口にする。

 今日という日が来てしまった以上、もう後ろには何もないのだ。もともとの決行日が今日だったというのはもちろんのことであるが、藍に対して記憶を消すということを話してしまっているというのが致命傷になっている。

 

 

「話していなかったらまだ何とかできたかもしれないけれど、こうして言葉にして伝えてしまった時点で後戻りはできなくなった」

 

 

 話してしまった以上、戻れなくなっている。もしも少年が藍に話していなければ、まだ記憶を消すタイムリミットを伸ばせたかもしれないが、それももはや過去のことだ。

 

 

「いや、どちらにしても無理だったかな。伝えていても伝えてなくても、どっちでも変わらなかっただろうね」

 

 

 いや、どちらにしても無理だったことだろう。決めたのは何も少年だけではない、紫もなのである。

 少年がここから藍の記憶を消さないでおこうと提案したところで何が変わるというのだろうか。

 少年の未来は決まっていて。少年の未来には一本道しかないのだ。道を逸れるようなことをしたら―――紫が止めるはずである。正面から見つめている紫が少年の進路を修正するはずである。

 記憶を消したと嘘を突き通すことも100%不可能に近い。紫に対し、嘘をつき通してこれからも生活するなど不可能である。いつか露見し、今よりも酷くなるという予感しかしなかった。

 

 

「……紫様か」

 

 

 藍は、会話の流れから記憶を消すデットラインを決定したのが紫だと想像した。今日というリミットを設けたのが、紫の手によるものだと考えた。

 和友がそんなことを考えるわけがない。

 自分の想っている和友が自分を裏切るようなことするわけがない。

 何も言わずにこんなことをするはずがない。

 信じて疑わなかった。

 疑いたくなかった。

 紫が決めたことなのだから仕方がなく従っているのだと思いたかった。

 心が一番安定する回答に身を委ねたかった。

 

 

「記憶を消すということは紫様が考えたのだな!?」

 

「藍……」

 

「和友がそんなことを言うはずがない。紫様も困ったものだ……紫様には私の方から話をつけておくから」

 

 

 少年は、唐突に責任を全て紫へと押し付けようとしている藍を悲しそうな目で見つめる。

 こうなるのが嫌で、こうなってしまうのが分かっていて―――だから記憶を消すという結論に至ったことを藍は知らない。病気の症状が最も酷かった時期に、皆を守るために、皆が壊れしまわないように記憶を消すべきだと紫と話し合ったことを知らない。

 

 

「違うよ」

 

 

 違うだろう?

 そうじゃないだろう?

 あの頃の藍はどこにいったの?

 どうしてそんなことを言うの?

 そう―――理由なんて分かり切っている。

 原因はよく知っている。

 なんでこうなるのか。

 こうなりたくないから頑張っているのに。

 そうしたくないから我慢しているのに。

 やりたくもないことを、しようと覚悟したのに。

 

 

「そうじゃない」

 

「そうじゃないって……紫様が和友にそれを強制したのだろう? 和友がそんなことをしようとするわけが……」

 

「なんで分からないんだ!? 僕が大事にしているものが何なのかどうして分からない! そうじゃないだろう? そうじゃなかったはずだろう?」

 

 

 僕は、マヨヒガに来た当初のことを知っているから。

 もともとの紫と藍の関係を知っているから。

 仲の良かった二人を知っているから。

 だからこそ、その絆を守りたいのに。

 

 

「なんで、そんなことが簡単に言えるようになっちゃったんだよ……」

 

 

 少年の肩が藍の言い草にわなわなと震える。藍が見ている自分という存在が透けて見えて悲しくなった。

 藍にとって都合の良い存在―――本来の少年とは大きくかけ離れた幻想に涙が出そうになった。

 

 

「和友……私は何かおかしいことでも言ったのだろうか? 何か気に障ることを言ったのだったら教えてくれないか?」

 

 

 少年は、症状が最終局面を迎えているのだと表情を歪ませた。

 藍は、大きな心にある少年の本当の気持ちに気付いていない。

 少年が望んでいる物

 少年が欲している物

 少年を探し出せた藍ならば気付いていてもおかしくないのに。

 気付きたくないと言わんばかりに事実を捻じ曲げている。

 記憶を消すということを全て紫が考えたのだと自分にとって都合のいい事実に書き換えている。

 少年は、真実に立ち向かおうとしない藍に向けて大声で事実を述べた。

 

 

「これは僕自身が考えたことだ! 記憶を消すことは僕が考えたんだ!」

 

「……嘘だ」

 

 

 藍の口から微かな声が漏れた。

 

 

「藍、嘘じゃないよ。本当のことだ」

 

 

 まだ、信じられないのだろうか。

 まだ、信じたくない想いが事実を捻じ曲げようとするのか。

 逃げるな、逃げ道はないのだから。

 時間は問題を解決してくれない。

 時間が解決してくれるのは、時間が解決してくれる程度の問題だけだ。

 少年は、震える藍の両肩にそっと手を乗せる。

 藍は、不安を隠せていない瞳で少年を見つめていた。

 

 

「紫は何も悪くない。前も話したよね、紫は藍のことが心配なんだよ。戻れなくなって、壊れてしまうのが怖いんだよ」

 

 

 藍に記憶を消すことになった理由を理解させるためには、紫の想いを伝えることが最も必要な方法だと思った。紫の感じている不安を藍に分かってもらうことが、今の状態になっているのだと把握させるのに最も有効な方法だと思った。

 藍の目はいつも少年に向いている。

 紫が向けている視線に少しも気づいていない。

 紫が向けている気持ちに少しも気づいていない。

 紫は、藍のことを心配しているのだ。

 マナーがなっていないからではない。

 能力が足りないからではない。

 心配だから注意しているのだ。

 だから―――言葉をかけているのだ。

 藍は、本当の意味で紫の気持ちを理解していない。

 藍が今見つめるべきは、少年ではない。

 紫と紫の瞳に映る自分自身の存在である。

 

 

「あの時、いろいろ考えたんだよ。僕に対する記憶を消すことは、最初から案の一つにあった。僕自身に関係する記憶を曖昧にするぐらいなら僕の境界を曖昧にする程度の能力で十分にできる」

 

 

 藍の記憶を消す方法は、少年自身の能力によって果たされる予定になっていた。

 少年は、二年前から続けている能力の練習によって、自分のことならば意識して曖昧にすることができるようになっている。それは、弾幕ごっこの練習時にも見せた技能である。

 もともとは、紫の境界を操る能力によって記憶を消す手筈になっていたのだが、少年が自ら紫に打診したことによって少年の曖昧にする程度の能力によって記憶を曖昧にするという手法を取ることに変更になっていた。

 

 自分が起こした問題を解決するのは、自分であるべきだろう。

 自分が起こした罪は、自分で清算するべきだろう。

 じゃないと―――荷物を背負ったままになる。

 重い荷物を抱え続けなければならなくなる。

 自分にしか持てない重りは、自分でしか下ろせないのだから。

 誰かが代わりに持ってくれるわけでも、誰かが代わりに下ろしてくれるわけでもないのだから。

 それに、少年がやるか紫がやるか、そんなもので結果は変わらない。少年がしくじれば紫がやるだけの話だ。藍の頭の中の少年に関する記憶を曖昧にしたことによって影響が出ても、紫が何とかするだろう。

 藍は、記憶を失うという事実を受け入れなければならないのである。

 

 

「だから、藍に全てを話すなら今しかない。記憶を無くしてしまう前に話しておかなきゃならないんだ」

 

 

 そこまで藍に伝えると藍の肩から少年の手が離れる。

 藍は、茫然とした様子で少年の目を見つめている。遠くを儚げに見つめていた。まるで現実逃避をしているように見えた。

 少年は、生気の感じられない藍に向けて真剣な顔で語り掛ける。

 

 

「藍、僕の話を聞いて欲しい」

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の言葉に何も反応しなかった。もぬけの殻になってしまったように、体から力が抜けきっていた。全てを失ったような顔で、全てを無くしたような表情で佇んでいた。

 僕は諦めないよ。

 僕の未来を諦めないよ。

 何度だって言うよ。

 何度だって伝えるよ。

 逃げないで。

 そっちに出口はないから。

 そっちは行き止まりだから。

 だから、行き過ぎて戻れなくなる前に。

 僕のことを見て欲しい。

 

 

「藍」

 

「…………」

 

「藍!」

 

「っ…………」

 

 

 藍は、少年の叫び声でハッと意識を取り戻したように眼球を動かした。

 

 

「……とりあえず、分かった。何も納得できてはいないが、和友の話を聞こう」

 

「良かった。時間が余りないし、大事なところから話していくね」

 

 

 藍は、まだ頭が混乱している状況のまま曖昧な返事を返した。

 もちろん藍がまだ事実を受け入れられていないことは分かっている。ここで受け入れられるだけの耐性がないことは理解している。そんな藍だからこそ、伝えない方針になったのだから。

 だが、あいにく時間がない。心の外には藍が張った四重結界が張ってあるとはいえ、無防備な体がさらされているはずである。

 少年は、時間がないことを考慮して、意識を取り戻した藍に向けて大事なところから説明した。

 

 

「まず、僕の寿命は後2年もないんだ。僕は半年前と同じように苦しんで死ぬ。あの時と何も変わることなく、力尽きて死ぬことになっている」

 

「…………は?」

 

 

 藍の口から唖然とした声が漏れた。

 いきなり半年前に発症していた―――治っていると思っていた病気が治っていないということを言われたのももちろんのこと、寿命が後2年もないという言葉に頭の中を白くした。

 しかし、今の藍の思考がついていけないのを考慮しても、物事を伝える順番はこれで正しい。

 少年は、ちゃんと相手に伝えなければならない大切なことというものを理解している。これからのことを理解するうえで最も大事なことは、少年の命がもう2年もないという事実を知ることである。半年前に発症していた病気が治っていないという事実を知ることである。このことを知ることで、記憶を消さなければならなくなったのがどうして今なのかということを理解する大きな要因になってくれる。

 少年の病気が治っていないことを知っているのは、少年を連れてきた紫、永遠亭で少年の治療を行った永琳、永遠亭での話し合いで知った鈴仙の3人である。

 この3人はすでに事実を受け入れ、少年の現状について把握している立場の人間になっている。その中に―――藍も入ってもらわなければならない。

 少年は、思考を停止させる藍をお構いなしに言葉を並べ出した。

 

 

「今から半年前に僕が発症した病気は完治していない。あの時と状況は何も変わっていないんだ」

 

「そんな、だったらあの時どうして病状が回復した? 今だって元気に暮らしているではないか」

 

「あの時は、元の状態まで戻してもらっただけだったから。無秩序なものを秩序立ててもらっただけで心に空いた穴は塞がっていないんだよ」

 

 

 藍は、いちいち停止しそうになる頭を動かし、少年の会話に平衡する。

 病気が治っていない?

 元の状態に戻してもらった?

 少年の口から吐き出される言葉は、意味が分からない事実が多かった。

 だが、その中でも藍の知っている内容が一つだけあった。

 それは―――心の中に空いている穴のこと。

 少年の心の中の穴というのは、藍にとっての大きなトラウマである。

 トラウマとなったのはちょうど半年前、少年が苦しんでいる時、少年が苦しんでいる理由を紫から聞いた時のことである。

 

 

「どうして私が? どうして和友が苦しんでいる原因が私になるのですか? 私が、何をしたというのですか?」

 

「それは……藍が和友の心の中の標識を2つ破壊したからよ。標識が破壊されたことによって穴が開いて、曖昧な世界に大きな溝ができた。それによって死の病に侵されているの」

 

「……それならば、もう一度標識を立てることができれば、和友の今の病気は治るのではないでしょうか?」

 

 

 藍は、最初に紫からこの言葉を聞いた時、標識を壊してしまったことによって病気を発症したことよりも、病気を治すことができるのかもしれないという希望を持った。

 自らの壊した標識が原因で病気になったことを棚に上げれば、標識が壊れたことによって病気を発症したという事実は―――病気を治す方法を把握したも同然なのである。標識が失われて病気になったのなら、元に戻せばいい。そうすれば、病気も何もかも治って元通りの生活ができる。そんな期待を持った。

 しかし、次に告げられた紫の一言で気持ちをどん底まで沈めることになった。

 

 

「じゃあ聞くけど、藍は壊した標識に書かれていた文字を覚えているのかしら?」

 

「標識に書かれている文字……ですか、それは……」

 

「分からないのでしょう? 和友もそう言っていたわ。藍には分からないと思うから聞かないでほしいって。きっとそれを聞いたら自分を責めるだろうから言わないでほしいって」

 

 

 藍は―――標識に書かれていた言葉を思い出すことができなかった。壊した標識に書かれている文字を思い出すことができなかった。これは、少年の心の中でも少年に対して謝った内容と同じである。あれからさらに2年も経過して、思い出せるわけがなかった。

 少年から決して告げられなかった病気の原因となった事象。紫から告げられた圧倒的な破壊力を持った言葉の刃が引き裂いた傷は、今も藍の心に深く刻まれている。

 藍は、紫の少年の病気の原因についての言葉を思い出すと自然と体が震えてきた。

 紫から告げられたあの夜から眠ることができなくなった。自分の責任で少年が苦しんでいると、死にそうになったのだと思うと、目が冴えて、涙が流れそうになって、唇をかみしめた。

 だから、少年がそばについていた。

 少年がそばにいて支えていた。

 眠る前に―――ずっと隣にいた。

 

 

「心に空いた穴というのは、紫様のおっしゃっていた私が壊した二つの標識によるものか」

 

「そう、藍が初めて僕の心に入った時―――2つの標識を壊したことによってできた穴だよ」

 

 

 震える体を抑えながら自らの罪を口にする。

 少年が病気になった理由は、藍が初めて少年の心の中に入った時に壊した2本の標識が原因だった。2本の標識というのは、藍が無秩序な世界から出られないことに絶望し、自暴自棄になったことで破壊した2本の標識のことである。

 少年は、心の中の標識が破壊されたことによって病に陥り、苦しみ、死に直面した。

 

 標識とは―――少年の努力の証。

 能力によって拡大していく心に対抗するために区別を行った証明。

 あくまでも、‘能力に対して’少年が行った行為である。

 

 だったら、境界を曖昧にする能力を制御できるようになった今ならば、こんなことにならないのではないかと思うかもしれない。能力が悪さをしているから病気なったのだったら、能力を制御できれば症状を抑えられるのではないかと思うかもしれない。

 だが、現実にはそんなことにはならなかった。

 ここで知っておいて欲しいことは―――少年は無意識下で発動する事象を全て制御できるようになったわけではないということである。

 少年の境界を曖昧にする能力は、ある程度扱えるようになったとはいっても少年の心の中の拡大を止めるところまでには至っていないのだ。心の中の無秩序性は保たれたままで、ずっとこの形のままだった。

 少年の努力によって心の中だけに留めていた能力は、標識の破壊によって均衡を崩した。標識の破壊によって心がぐらつき、衝撃を受けることで能力が安定を失ったのである。

 その結果として―――少年の病は目を覚ました。もともと奥底に秘めていた危うい可能性が、心にできた穴からこちらを覗きだしたのだ。

 藍は、少年の病気の原因について紫から伝えられている。だからこそ、自分に大きな責任を感じていた。もしも標識を壊していなければ少年が苦しむことはなかったと思うと、頭の中から罪悪感が抜けなかった。

 

 

「では、やはり私の責任か」

 

「違うよ。あれはみんなの責任だ。藍だけの責任じゃない」

 

 

 確かに標識を壊した直接的な原因は、藍にあるだろう。そこに異論を挟む者は誰もいないはずである。

 だが、こと少年が病気になったことに関していえば、藍だけの責任とは断言できなかった。藍が標識を壊してしまった原因を作り出してしまったのは、紛れもなく少年と紫なのだから。誰かだけの責任には決してできない。それぞれが罪とその罪の意識を抱えている。

 

 

「心の中に入れてしまった紫も、早く助けに行かなかった僕も、みんな悪かったんだよ。藍だけが悪かったわけじゃない。一人で背負う必要はないんだよ」

 

 

 少年が、藍が自暴自棄になるまでに見つけ出せていれば、こんなことにはならなかった。

 紫が藍を少年の心の中に入れなければ、こんなことにはならなかった。

 少年に心の中の無秩序性についての理解があれば、こんなことにはならなかった。

 数々の条件が揃って、藍が標識を2本破壊するという結論に至ったのだ。

 

 

「それに、藍はしっかりと約束を守ってくれた。何も気にするなというのは無理かもしれないけど、藍はしっかりと対価を払ったんだから」

 

「その、約束を守ってくれたというのは何のことなのだ? 半年前は教えてくれなかったが」

 

 

 少年の心の中に初めて入った時、藍は標識を2本壊したことを謝罪している。その際に、少年からあることを告げられた。

 

 

「もしもそれが生きていくために必要な区別だったら、その場で教えてほしいんだ。俺は、その場限りなら分かるから。その場だけなら言われれば区別がつくから。その場面が来た時に逐一教えて欲しい」

 

「分かった。和友が分からなくなったら私が教える。和友が、区別がつかなくなったら私が教えるよ」

 

「お願いな」

 

 

 確かに少年と約束をしている―――壊した標識に関することを補ってほしいという約束を交わしている。

 しかし、それに関しては壊した標識の中身が分かっていないため、穴埋めができたのか判断がつかなかった。少年は、半年前に病気で苦しんでいるときも約束を守ってくれたから気にしないでほしいと言うばかりで、肝心の中身を決して口に出して藍に教えるということはしなかった。

 少年は、藍の疑問に対して笑みを浮かべ、優しく問いかける。

 

 

「藍は、壊した標識に刻まれている言葉が何か分かった?」

 

「いいや、当時も言ったかもしれないが壊したのは随分と前だったし、自暴自棄になっていたから覚えていないのだ。意識して壊したわけではないからな」

 

 

 藍は、あれから2年経った今になっても答えを見つけられていなかった。見つけようと努力はしてきたが、思い出す努力をしたところで意識して壊していない標識に書かれている文字など思い出せるわけもなかった。それはまさしく、2年前に歩いていてたまたま蹴り飛ばした石がどれなのかと聞いているに等しい問いかけである。そんなもの、誰が分かると言うのか。

 

 

「そういう和友は、私が壊した標識に書かれていた言葉が何なのか分かっているのか?」

 

「分かっているよ。僕が藍の壊した2本の標識に書いてある文字を把握したのは、心の中から戻ってすぐだったかな」

 

「すぐだって?」

 

 

 藍は、すぐに分かったと言う少年の言葉に耳を疑った。少年はあろうことか藍が標識を壊した当日に壊した標識に書かれていた言葉を把握していたというのである。

 

 

「気づいていたのならばどうして言わなかったのだ? それが分かっていたのならば、病気だって治せたはずだろう?」

 

 

 壊した標識に書かれていた言葉が分かっているのであれば、病気の発症を止めることだってできたはずなのに。病気の症状だってもっと軽くなったかもしれないのに。今からだって治せるかもしれないのに。

 どうして少年は、標識に書かれていた言葉を口にしなかったのだろうか。標識に書いてある文字が分かっていながら、再び標識を立てようと思わなかったのだろうか。

 そう考えたとき―――藍の脳内に3つの可能性が挙がってきた。

 

 

「紫様に止められていたからか?」

 

「それも確かにあるけど、それが原因で話さなかったわけではないよ」

 

 

 1つ目は、告げてはならなかったから。

 

 紫によって口止めされているため、告げられなかったというものである。事実を知った藍が傷つかないように、混乱し暴れないようにするために告げてはならなかったという可能性である。これが最も分かりやすく、理解しやすい可能性だったが、少年の様子を見るとそうではないようである。

 

 

「ならば……和友がこのことについて話したくなかったからか?」

 

「それも少しはあるだろうね。僕は、この話題を藍に出すのが怖かったから。でも、病気を治したくなかったわけじゃないよ」

 

 

 2つめは、告げるという行為を少年が望んでいなかったから。

 

 告げないことで少年の目的が達成される、少年の願いが果たされるからというものである。

 それはつまり―――少年がそのとき死ぬことを望んでいたということに他ならない。

 それは大きく間違っていない。病気で苦しんでいた時期に死ぬことを望んでいたのは事実なのだから。そのときゴールはここでいいと思っていたのだから。ここで死んでしまうことに何一つの後悔も未練もなかったのだから。

 しかし、病気を治すことを完全に諦めていたわけではない。ここで終わってもいいと思っていただけで、病気に打ち勝とうという意思は最後の最後まで持っていた。

 ならばどうして標識に書かれていた言葉を話さなかったのか。

 

 

「だったらどうして?」

 

「藍だって分かっているんでしょ? 標識の言葉については、話しても意味がなかったからだよ。話しても皆が何もできないことを知っていたから、だから言わなかっただけ」

 

 

 少年から正解が示された。

 

 3つ目は、告げても意味がなかったからである。

 

 告げることで何も変わらないから。告げたところで誰にも何もできないから。

 それはつまり―――少年の病気が標識に書かれていた言葉を把握したからといって治ることがないということを意味している。

 この可能性は3つの可能性の中で最悪のものだ。何もできない、抗うことができないということは、諦めろということに等しい。

 

 

「ねぇ、藍は覚えているかな? 僕の心の中から出たときに僕がやっていたことを」

 

「心から出たときにやっていたこと? 私たちの名前を覚えようとしていたときのことか?」

 

「うん、そうだよ。よく覚えていたね」

 

「忘れるものか。忘れろと言われても忘れられない思い出の一つだ」

 

「僕は、心の中から出た後に藍との‘名前で呼ぶ’という約束を守るため、紫と藍の名前をノートに刻み始めた。そして、僕が名前を刻んでいる途中に藍がやってきた。そこまでは覚えているよね」

 

「ああ」

 

「じゃあ、これも覚えているはずだよ。藍は、名前を書き続けている僕に対して言ったよね、両親は止めなかったのかって……僕が失ったものに気付いたのは、その時だよ」

 

 

 少年の言葉によって藍の脳内に標識の言葉が想起される。

 失ったものに気付いたのが―――両親についてのことを聞いたとき。

 その事実に失ったものの存在が姿を現した。

 

 

「あの時はごめんね。我慢ができなかったんだ。焦っていてイライラして動揺して、随分と当たっちゃった」

 

 

 少年は、普通とはおかしいといえるほどに温厚な性格をしている。イライラしているところなどまず見たことがなかった。初めてマヨヒガに来た夜のことを除いて一度も見たことがなかった。

 それだけ、あの夜は少年にとって特別だったのである。

 あの夜、失ったものの余りの大きさに冷静さを維持していられなかった。

 紫が藍を少年の部屋の中から連れて行ってからも、少年は泣きながら二人の名前を覚えるために努力した。辛い想いを引きずりながら必死に約束を守るために名前を書き込む作業に打ち込んだ。両親の悲しまないで欲しいという言葉を飲み込み、覚えていて欲しいという約束を破って瞳に留まった涙を拭うこともせず、約束を果たすために努力をした。努力をすることで自分の気持ちを誤魔化した。

 

 

「まさか……」

 

 

 少年の言葉から標識に書かれていた言葉が何なのか理解した。

 2年越しに―――ようやく分かった。

 自分が壊したものの大きさを把握した。

 自分が犯した罪の重さを実感した。

 脳内に出てきた解答に「そんなまさか」とは思ったが、その方が辻褄が合う。藍の脳内は、混乱していた中でもしっかりと理論的な答えを導き出していた。

 答えが分かった様子の藍を見つめる少年の瞳は、少し悲しそうだった。

 

 

「私が壊した二つの標識に書かれていた文字は、和友の両親の名前か……」

 

「あれ以来両親のことを思い出せなくなった。名前も顔も思い出せない。両親の好きなものも、嫌いなものも、誕生日だって分からない。記憶の中の両親は、全ての色を失った」

 

 

 藍が壊した標識に書かれていた言葉は、少年の両親についての名前だった。

 少年は、藍が標識を壊して以来、両親のことを思い出せなくなった。

 思い出せても、そこに映る人物が両親なのかどうか判別できなかった。

 

 心の中に―――両親の姿は見当たらなくなっていた。




少年の病気の原因がここで判明することになりました。
第1話を書いていた時から決めていたことですが、第8話以降で張った伏線を回収できてよかったです。標識に書いていある文字が両親の名前だと、名前はもちろんのこと人間の中で両親と判断するすべての事柄が消えてしまうことになるので、思い出にいる両親は誰か分からないものになってしまいます。少年は、これまでずっと藍に対して伝えずに生きてきました。それを今伝えているということの意味を分かってもらえればと思います。
そこからとることができる藍の行動は、大きく二つです。
1.受け入れるか
2.抗うのか
みなさんならどちらを選ぶでしょうかね。

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