ぶれない台風と共に歩く   作:テフロン

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穴が開いた天井から見えた者は、神力を纏った九尾の姿。
そこに行きつくまでの道のりには、やはり少年が関わっていた。
咲夜に殺されそうになる少年。
そんな少年を見た藍から放たれる殺意。
少年を心配する藍は、少年の肩に触れた瞬間―――


変化した心 見つかった希望

 藍は、空中に浮遊しながらよく見知った世界を見て小さくぼやいた。

 

 

「ここは……和友の心の中だな」

 

 

 目の前には2年前に1年間もの時を過ごした無秩序な世界が広がっている。空は相変わらずの色の移り変わりをしており、地表も同じように著しい変化を遂げている。瞬きする間に切り替わる光景は、何度見ても圧倒されるような光景だった。

 ここは―――少年の心の中。

 どうやら少年に触れたことが引き金になって少年の心の中に引き込まれたようである。

 

 

「2年前に和友の心の中に入った時は紫様の能力で入ったが……今回はどうやって心の中に入ったのだろうか。何か原因があるはずだが……」

 

 

 以前は紫様に引きずり込まれたが、今回はどうやって入ったのだろうか。そんな疑問を抱えながら少年の心の中を観察する。

 原因は、視界情報からは特に見つからない。視界から入ってくる情報は瞬間的に切り替わりを見せており、役に立つ情報は一切見当たらないと思われた。

 だが、以前来た時と大きく違うところを2つばかり発見した。

 

 

「……地表が液体に覆われている?」

 

 

 地表が透明な液体に覆われていた。地球ほどに広いと口にしていた少年の心が液体に覆われている。

 水深は3メートルほどになっているだろうか。人が液体の中に入れば埋もれるほどの深さがあることが空から見てもよく分かった。

 

 

「これは水か? 調べてみれば分かるのだろうが、触るのは止めておいた方がいいだろう……何が起こるか分からない」

 

 

 液体は見たところ水っぽく感じるが、正確に何であるのかは判断がつかない。触ってみれば、飲んでみれば分かるのかもしれないが、無秩序な世界を形成している少年の心の中の水を触ろうとは決して思えなかった。

 もしかしたら触れてしまうと溶けてしまうかもしれない。何かしら毒を含んでいるかもしれない。そんな予想が液体の正体を突き止めるための様々な行動を制止した。

 

 

「ここまで変わっているとなると……和友の心の中で一体何が起こっているのだろうか。少なくとも、以前和友の心に来た時はこんな感じではなかったはずだ」

 

 

 藍は、じっと地表を覆っている液体を観察する。

 波風一つ絶たない世界で、波音ひとつ立てない世界で、見間違いでもなく確かに地表を覆っている液体がある。

 2年前に来た時はこんなに液体が溢れ出しているということはなかった。踏みしめることのできる地面が確かにあって、液体があるところといえば、湿地帯や湖、川や海などの液体が存在する地形のみだったはずである。

 

 

「……明らかにおかしい」

 

 

 少年の心の中の変化はそれだけではなかった。その地表を覆っている水よりもはるかに目立っている物が、地表から見せつけるようにそびえ立っていた。

 

 

「標識は、あんなに高かっただろうか?」

 

 

 標識が―――天に昇るようにそびえ立っていた。

 標識の高さは水よりもはるかに高く、約10メートルあるというところだろうか。少しばかり飛行して周りの景色を見てみると、標識の高さがまちまちだということが分かった。

 飛んでいる途中に標識だけではなく立て札の存在も確認できた。その特殊な立て方から数が標識よりも絶対的に少ない立て札も、標識と同じように心の中にしっかりと立っているのが確認できる。

 立て札に関して言えば、標識とは違って2年前と同じだった。1メートル無いぐらいの高さであり、1辺の長さが2メートルほどの真っ白な正方形に囲まれている。

 液体は、その領域を境に立て札の方へは入り込んでいない。守られているように、液体の侵入を許していなかった。

 

 

「考えても分からないな。幻想郷での生活によって変化が起こったということなのだろうか? だとしたら、環境が変わって和友の中の世界が変わったということか。新たな常識や世界を取り入れた結果が、こうなったと……」

 

 

 少年の心の中で何かが起こっている。

 少なくとも、見た目にはっきりとした変化が起きている。

 地表を覆っている液体。

 高さの増している標識。

 何よりも―――‘力が使えている’というのが大きな変化だった。

 

 

「何よりも大きく変わったのが、飛ぶことができるということだな。昔と違って空を飛ぶことができるのは、きっと和友自身が飛ぶことを学んだからということなのだろう」

 

 

 藍は、空を飛んで少年の心の中を探索している。

 過去に少年の心の中へと入った時と違って力が使えている。力を使い、空を飛ぶことができている。おそらく、力が使えるようになったのは少年が空を飛ぶということを学んだからだろう。

 少年の心の中はあくまでも少年の心の中のルールに従っていて、少年ができないことは基本的にできないし、少年ができることは基本的にできるようになっている。もしも、少年ができることが心の中でできなければ、少年自身が自分のやっていることを信じていないということになる。

 まさかそんなことはないだろう。自分ができることが信じられないなど、自分の存在が信じられないといっているようなものだ。人間がそんな妖怪のような曖昧な存在理由で生きているわけがなかった。

 

 

「空を飛べることは理屈で分かったとしても……この液体と標識は一体どうしてこうなっているのか……」

 

 

 いくら考えても推測の域から出ない。

 無秩序な世界を形成している少年の心の中。

 無秩序とは、理論の成り立たない世界である。

 そんな無秩序な世界で起こっている現象を理論的に理解しようとしても、理解できるかどうかなど分からないのだ。むしろ、理論的に考えた方が理解できなくなる可能性が高い。少年の世界の常識で考えなければ、郷に入れば郷に従え―――少年の気持ちになって考えなければ答えは出ないだろう。

 だが、少年の心が分かるのは少年だけだ。

 他の人間では100%を理解することはできない。

 藍は行き詰る思考に頭を掻き、考えることを止めた。

 

 

「やはり、いくら考えても憶測の域から出ないことだらけだな。そこは昔と何も変わらない」

 

 

 もう一度心の中を見渡してみる。そして、再び変わった点を探そうと思考を回す。変わったところは、他にないだろうか。

 そう考えたその瞬間―――大きく変わっている点がもう一つあることに気付いた。

 気付いて、笑ってしまった。

 

 

「ふふっ、思えば一番変わったのは私自身かもしれないな。不安でいっぱいだったあの頃と今は違う。和友の心の中と分かっていれば、何も恐れることはない」

 

 

 少年の心の中の過酷な環境に心が荒廃し、ボロボロになった藍は―――もうここにはいない。今いる場所が少年の心の中と理解できてさえいれば、何一つ動じることはなかった。

 自然に受け入れるように。

 それが普通であるかのように。

 ずっと過ごしてきた故郷のように。

 心を酷く落ち着かせることができる。

 地平線の見える中で限りある世界を感じることができる。

 心の中を脱出するということができるという保証なんて何一つないのに藍の心は安定を保っていた。

 

 

「……力が感じ取れる。和友が刻んできた決まり事に込められた力が……」

 

 

 無秩序と思える中に確かに根付いているルールが感じ取れる。おおざっぱではあるが、目を閉じれば何かが地表から伸びていることを知覚することができた。

 

 

「これが立て札か」

 

 

 おそらくこれは、立て札の存在だろう。

 四角く隔離された領域が力を放っている。標識に比べればはっきりと存在を感じ取れる。きっと、和友が込めた力が強いからだろう。より強い想いを持って刻み込んだからだろう。

 強い想いの力が体にスッと入って抜けていく。

 ああ、やはりこれが和友の努力の証だ。

 いつまでだってここにいられるかもしれない。

 不安は何も感じない。

 恐怖は何も感じない。

 あるのは、酷く落ち着いてくる鼓動の音だけ。

 視界を閉ざせば、見たい景色が見えてくるようだった。

 

 

「ずっとここに……」

 

 

 ―――駄目だ。

 ここで、ずっと待っていてはいけない。

 心の外では戦闘が起ころうとしている。

 悪魔の犬が攻撃を開始しているかもしれないのだから。

 

 

「私は何を考えているのだ……外に出る方法を探さなければ」

 

 

 なんとかして外に出なければ。

 だが、どうやって出るというのだろうか。

 そもそも、どうやって心の中に入ってきたのかも分かっていないのだ。

 どうすれば出られるかなど、分かりようがなかった。

 

 

「ここが和友の心の中ならば、やはり和友が私を引き入れたのだろうか? 2年前と違って紫様はおられなかったし……」

 

 

 心の中へと入ってきたということは、誰かが引き入れたということである。あの時側にいたのは、少年だけだったのだから心の中へと入り込む原因を作ったのはまぎれもなく少年自身だろう。

 それが意図したものなのか、意図していないものなのかは分からない。

 だが、引き入れたからには中に引き入れようとした、あるいは引き入れてしまった誰かがいるはずである。

 そんな誰かが―――少年が心の中にいるはずである。

 だったら、和友の下へと向かわなければ。

 外に出るために―――引き入れた和友の下へ。

 

 

「和友を探そう。急いでここから出なければ、外にいる和友と私が危ない」

 

 

 このままでは二人の身が危ない。

 和友と自分の身に危険が迫っている。

 だから、和友の下へ向かわなければ。

 だから、和友の所へ行かなければ。

 だから、和友を迎えに行かなければ。

 

 

 ――――本当にそうだろうか?

 

 

 今思っている感情はそれが本物だろうか?

 危険だから和友を探しているのだろうか?

 外へと出なければならないから和友を見つけようとしているのだろうか?

 それが本当だとしたら、危険がなければ探さなかったのだろうか。

 外へと出る理由がなければ、見つけようとしなかったというのだろうか。

 

 

 ―――そうではないだろう?

 

 

 和友はきっと一人で待っている。

 この心の中で独りきりで寂しがっている。

 きっと、独りで迷子になっている。

 

 ―――だから探すのだ。

 迷っているあの子を探してあげなければと、そう思うのだ。

 

 

「今、見つけてやるからな」

 

 

 大きく息を吸う。そして、膨大な大きさを誇る心の中で少年の存在を探してみる。

 

 

「和友は……」

 

 

 そっと目を閉じて神経を集中する。

 すると、自分の世界の中で自分以外の生物の存在を感じ取れた。標識や立て札とはまた違った感覚だった。温度を感じるというのだろうか、直感的に生き物だということが分かる。

 間違いなくここにいるはずだ。

 ゆっくりと開けられた目は、方角の無い世界で一点だけを見つめていた。

 

 

「あっちにいる気がする。この方角から和友の存在を感じる。待っていろ、すぐに駆け付ける。すぐに探してやるからな」

 

 

 藍は、感じ取った少年の気配に向けて飛び立った。もてる全力の速度で飛行し、できるだけ早く少年の下へとたどり着こうと自分のできることをする。

 しかし、藍の移動を邪魔するように頭痛が起こった。

 

 

「くっ……視界から得られる情報に頭が混乱してくるな」

 

 

 視界に入って来る情報量に脳がきりきりと痛みを訴えてくる。視覚情報を遮断するように目を伏せたくなる。

 周りの風景が移り変わる速度は藍の飛ぶ速度よりも若干速いために、視覚情報の混乱によって進んでいるのか戻っているのか止まっているのか分からなくなってくる。

 道路上を車で移動していて、周りの景色が車と同じ速度で動いたり、様々な方向に動き回っていたりすると自分がどこに進んでいるのか分からなくなってくるのと同じ状況である。

 あくまで飛んでいるという感覚があるから飛べているだけ―――慣性がかかって体に負荷がかかっているからその方向へ飛んでいるだけ―――何かの存在が近づいているというのが分かるから飛べているだけだった。

 藍は、パニックを起こしそうになる頭を押さえながら、早く少年の下へと辿り着かないかとはやる気持ちを抑えられなかった。

 

 

「一番速い速度でこの程度か。全力の6,7割程度ぐらいだな。確かに和友が認識しているのはこのぐらいの速度までか」

 

 

 今藍が出している最高速度は、自身が出せる最高速度の6~7割程度だった。この速度は少年や橙との弾幕ごっこで出している最大の速度である。少年が知っている藍の最高速度である。

 それでも、少年の出している速度よりは数十倍は速いだろう。どうやら少年が出せる速度までというわけではなく、少年が認知している速度までなら出せるようである。

 

 

「これで、和友が知覚しているからという私の理論が正しいという確証が一つ増えたな」

 

 

 藍は、自分の考えが間違っていなかったことに笑みを浮かべながら少年がいると思われる場所まで一直線に進んだ。

 時間にして数十分だろうか。歩いて行っていたら数日はかかるような距離を進むと遠くに人影らしきものが見えて来た。

 

 

「やはりこの方角にいたか」

 

 

 何者かの存在を見つけたとき藍の中にあったのは、良かった、間違っていなかったという安堵の感情だった。もしも間違っていたら、それこそ前回のように迷い続けることになっただろう。

 目的とする人物は、標識の前で浮きながら佇んでいる。水面との距離は4メートルあるかないかという程度である。

 藍は、徐々に速度と高度を下げながら人影との距離を詰める。

 

 

「和友だな」

 

 

 近づいていくと、その人影が少年であることが分かった。

 少年は、藍の接近に気付いていないようで藍のいる方向とは逆方向の空を静かに眺めている。少年の視線の先には小さな星が浮かんでおり、それに視線を集中させているようだ。

 ―――星? そんなものあっただろうか? 

 そもそも、この世界には夜なんてものがあっただろうか? 

 この世界の空の色は無秩序に彩られた色彩豊かな色になっている。星なんて確認できるような色じゃなかった。

 だが、今ははっきりと見えている。一個だけぽつんと寂しそうに光っている星が、行き場を失って留まっている。

 一体あれは―――なんなのだろうか。

 いや、そんなことよりも大事なことがある。

 藍は、疑問を抱えながら無防備な少年に近づき、声をかけた。

 

 

「和友! 見つけたぞ!」

 

「えっ? なんで……」

 

 

 少年は、藍の声に慌てて振り返る。少年の表情は酷く驚いた顔をしていた。まるで幽霊を見たかのように信じられないものを見たような様子だった。

 

 

「和友、話をしたいのは私も同じだが―――残念ながら私達にはここで話している余裕がない。早く戻らないといつ悪魔の犬が私の結界を越えて攻撃してくるか分からないからな」

 

 

 一刻も早く少年の心の中から出る必要がある。少年の心の中は、少年に会えば少年の時間に同期され―――外の世界と同じ時間の進み方になる。

 藍だけならば膨大に圧縮された時の中のため、何時間かかっても外の世界で数秒しかたたないだろうが―――すでに少年に接触してしまっている。

 体内時計はより強い影響力を持つ方に統一される。この場合は、心の持ち主である少年の時間に統一されることになったはずである。あの時と同じように、そうなったはずと考えるのが普通だった。

 

 

「私の張った結界も万能ではない。相手も動かない私たちに対してただただ待っているだけという行動をとることもないだろう。相手の手の内が分からない以上、早めにここから出なければならない」

 

 

 外の世界では藍の張った四重結界が機能しているだろう。

 だが、それもいつまでもつか分からない。いつ破られるか分からない。

 咲夜が何かしらの方法で、もしかしたら力技ででも打ち破る可能性がある。結界が打ち破られてしまえば、精神が心の中に入っている無防備な藍と少年は、赤子の手をひねる程度の労力で殺されてしまうだろう。

 そうなってからでは遅いのである。

 

 

「和友、ここから外に出る方法はないのか? 以前は紫様に出してもらったが、今はその紫様がおられないのだ」

 

「ちょっと待ってよ。藍は、どうやってここを見つけることができたの?」

 

「和友、何度も言うようだがここで話をしている余裕はない。私達には時間がないのだ」

 

 

 以前は紫のスキマによって出入りをしたが、今回の場合はどうやって外へと出ればいいのだろうか。藍は、少年が外へと出る方法を知らないのか尋ねた。

 少年は、藍がどうやって自分を見つけたのか非常に気になっていたようだったが、時間がないのが現状である。どうやって少年を見つけたのかなど外に出てもできる話だろう。

 藍は話を断ち切り、どうやって出るのかという議論に持っていこうとしていた。

 しかし、藍の言葉を遮るように―――少年の大声が藍の勢いを一気にかき消した。

 

 

「お願い、答えて!!」

 

「ど、どうしたのだ? 急に怒鳴ったりして」

 

 

 めったに叫ばない少年が大声を出したことで、藍はたじろいでしまった。

 少年がこれほどまでに相手の行動を遮ぎろうとしたことが今まで何度あっただろうか。思いつかないぐらいには、珍しい行動である。

 何がそんなに気になるのだろうか。

 何がそんなに気に障ったのだろうか。

 

 

「私は、何か和友の気に障るようなこと言っただろうか?」

 

「…………」

 

「わ、分かったから、そんな目で見ないでくれ」

 

 

 少年は一切理由を口にせず、真剣な表情で藍を見つめている。ひたすらに、答えるまで何も話さないという意思を感じさせる瞳で藍の目を貫くように視線を向けている。

 だが、聞かれたところで藍から少年を見つけた理由について話せることなど何もなかった。なんとなくいる気がすると思ったからその方向に飛んできた。そして、その感覚通りに来てみたら少年がいただけなのだ。どうやって見つけたのかと言われても、自分自身が分かっていなかった。

 

 

「だが、和友がいると思った理由は特にはないぞ。なんとなくここにいると思っただけで、和友がいる気配がしたからだ」

 

「僕がここにいるって感じ取れたってこと?」

 

 

 少年の目が射抜くような力のこもった瞳からいつもの優しい瞳に変わる。

 

 

「ああ、私はずいぶん遠くから飛んできたが、確かに感じた。和友の気配というか、和友の存在を感じたのだ」

 

「僕の存在を感じ取った……?」

 

 

 唐突に呟くようにして声を漏らした少年から力が抜けた。全身の力を失い跪いた。

 空中に飛んでいるため、跪いたという表現が正しいのかは分からない。

 ただ、藍はその表現が正しいと思った。全てが台無しになったような。全てが終わってしまったような。そんな悲壮感を感じるような雰囲気が醸し出されている。

 少年の体がゆっくり液体が覆っている地面に落下し始める。逆さまに体が回転モーメントを得てくるりと回り始める。

 落下する直前―――少年の表情は薄く笑っていた。

 

 

「そうか、そうだったのか、ははっ……」

 

「和友!? 大丈夫か!?」

 

 

 落下しそうになっている少年に慌てて手を伸ばす。伸ばした手が確かに存在する少年の体を支えた。

 少年の体が藍に支えられて自由落下を静止する。藍の両手には何の力も感じなかった。重みのない身体が手のひらに乗っていた。

 藍は、視線を少年の顔へと向ける。少年は笑顔を浮かべていた。

 

 

「藍、ありがとう。僕なら大丈夫だよ。むしろ、見たいものがやっと見えて分からないことがようやく分かって清々しい気分だ」

 

 

 少年から支えてくれた藍にお礼が告げられる。そして、藍の体に両手をあてがうと、ゆっくりと体を起こし、何かとっかかりのとれたようなすっきりとした表情を浮かべた。

 見たいものが見えた―――その言葉の意味は藍には分からなかった。

 何かを求めていたということなのだろうか? 

 少年は、思考を巡らせる藍を置き去りにして続けて言葉を口にする。確信を持った様子で自分のこれまでの行動を咎め始めた。

 

 

「僕のやり方は間違っていたんだよ。僕は、何も恐れることなんてなかった。怖がっちゃいけなかったんだ」

 

 

 恐れていた。

 怖がっていた。

 ―――何を?

 

 

「最初から距離を取ろうとしていた僕のやり方で僕を見つけられる存在が生まれるわけがなかったんだ。本当の僕を見つけてくれる人なんて現れるわけがなかったんだ」

 

「和友、何を言っているのだ?」

 

 

 距離を取ろうとしていた?

 本当の僕を見つける?

 和友は、本当の自分を見つけて欲しかったということなのだろうか? 

 藍には、少年の言っている言葉の意味が分からなかった。

 今少年の目の前にいたのが藍ではなく紫や永琳であれば、少年の言葉が理解できただろう。周りを引き摺り込まないように、惹きつけない様に上手く距離を取って生活してきた少年の真意を知っている二人だったならば、理解できたことだろう。

 少年の望みは―――少年の膨大な心の中のほんの一部だということを。全体を形成している決まり事や識別対象は少年の想いの本質ではなく、今藍の目の前にいるのが―――少年の本心であることが理解できただろう。

 藍は、少年の本当の気持ちを見つけてみせた。

 

 

「藍が僕を見つけられたのはいわば必然だったんだね。この膨大な、広大な、無秩序な世界で僕を見つけられたのは―――いつも藍が僕の傍にいてくれたから」

 

 

 距離を保った状態では、遠すぎて見えない。

 月や火星から地球を見て、人の姿が確認できるだろうか。

 どこかに何かがあることを知覚することができるだろうか。

 そんなもの―――分かるわけがないのだ、知ることなどできやしないのだ。

 少年の本心を見つけられる可能性は、少年の心に接して少年の心に降り立つことのできる者にしか存在しない。

 少年の心に近いところにいなければ、少年の本心を探し出すことはできない。

 月から、火星から―――宇宙空間を越えて少年に会うことなどできないのである。

 

 

「傍にいなければ、人の心には触れられない。傍にいなければ、人の心は支えられない。傍にいなければ、心は救えない」

 

 

 藍が少年の心にはいることができているのは、まぎれもなく藍の心が少年の心に接触するぐらい近くにあるからということに他ならなかった。

 少年は、再度藍へとお礼を告げる。

 

 

「藍、ありがとう。藍のおかげで大切なことに気付いたよ」

 

 

 誰にも迷惑をかけないように生きていこうと思っていた。

 誰かを引きずらないように生きていこうと思っていた。

 約2年後に病気の再発によって死ぬことがほぼ確定的担っている状況を想えば、それが正しい選択肢だと思った。

 

 

「僕は諦めていたんだ。これから先の未来を思い描くことを。唯一しかない未来に新しい可能性を探すのを」

 

 

 自分のような異常性を持っている人間が生きていること自体が間違っているのだ。

 周りに迷惑しかかけられない人間がどれほど互いを傷つけるか。それは諸刃の剣だ。迷惑をかけているという罪悪感が異常者を傷つける。迷惑をかけられている健常者が日常生活を犯される。

 そんな異常者の一人である少年は、周りを傷つけるだけの自分が恨めしくて、普通に生活できているみんなが羨ましくて、それでも助けようとしてくれるみんながいて、それが何よりも辛かった。

 

 

「これが正しい選択なんだって、唯一選べる選択肢を正しい選択だって、僕自身が望んでいる結果なんだって思い込もうとしていた」

 

 

 助かろうなんて微塵も思っていない。

 思うことすらおこがましい。

 助かりたいなんて自分が思ってはいけないのだ。

 少年は、自分自身を諦めていた。逃れられないものに立ち向かう意思があっても、勝てない相手に挑み続ける心があっても、最終的な結果を受け入れてしまっていた。

 それが正しいものだと。

 それが最も良い結果を生むのだと。

 選べる選択肢がない中で納得しようとしていた。

 助かりたい本心を無視して、無かったことにしようとしていた。

 思うこと自体が間違いだって。

 理解されるものではないんだって。

 それは間違っているんだって。

 本当の気持ちを無視しようとしていた。

 だが―――それを藍が変えてくれた。

 僕を見つけた藍が教えてくれた。

 僕の心は、こうも叫んでいるじゃないか。

 僕の心は、素直に望む未来を口にしているじゃないか。

 誰も見つけてくれないからって。

 誰も探し出せないからって。

 そんな言い訳を藍が潰してくれた。

 藍が見せてくれた可能性が希望の光を灯した。

 

 

「だけど、そうじゃなかったんだ。僕の心にはいつだって望む未来があって、それを見たがっていたんだから。僕はその気持ちに素直になるべきだったんだ」

 

 

 救いというのは何もしていない者に与えられるわけではない。

 救いを望んでいない者に救いなど訪れるはずがない。

 

 

「僕を救ってあげるには、あくまでも僕自身が救いを望まなければならない。僕自身が僕を救ってあげなきゃいけなかった。フランが自らの鎖を断ち切ったように。僕の望む場所へ至るためには、自分自身が何よりも救われることを望む必要があったんだ」

 

 

 フランを見ていてよく分かった。望めば叶う、望まなければ叶わない。

 誰が救われたいと思っていない人間を本気で救うだろうか。

 少年の場合に限って言えば、命を助けようと動いてくれる人がいるかもしれない。かもというか、確実に藍はその方向に向けて活動するだろう。

 だが、それは少年の命を救っているだけで少年の心を救っているわけではない。少年にとっての救いとは命が助かることではないのだ。

 少年の望む場所―――そこに何があるのか藍は知らない。きっと紫も知らない。永琳だって知らないだろう。それは少年だけが知っていること。そして―――少年を見つけた藍だけが知る資格のあることだろう。

 

 

「怖がらずに、僕の心が望んでいることを伝える必要があったんだ」

 

 

 理解してもらうこと。

 感情を共にすること。

 それは、誰かと共に歩くこと。

 それは、誰かと寄り添うこと。 

 分かってもらいと思うのならば。

 理解して欲しいと思うのならば。

 見つけて欲しいと思うのならば。

 救われたいと思うのならば。

 助けて欲しいと思うのならば。

 近づかれることを避けちゃいけなかった。

 傷つけられることを怖がっちゃいけなかった。

 傷つけることを恐れちゃいけなかった。

 傷つけることから―――逃げちゃいけなかったんだ。

 

 

「僕はもう―――逃げたりしないから」

 

 

 勿論のことながら藍には、少年の言葉は理解できていなかった。

 だけど、それでよかった。

 今は――それでよかった。

 

 

「藍は、心の中にいる僕の存在を感じて僕を見つけてくれた。その事実だけで僕はここから先を生きていける、これからの未来を進んでいける」

 

 

 少年は、藍が自分を見つけることができた事実に酷く勇気づけられた。

 死しかない未来の中に希望を見つけた。

 死の中に光る望みへと繋がる事実がそこにはあった。

 

 

「僕の不安や憂いはこれでなくなった。僕の望む未来は、もう決まったよ」

 

「何のことか分からないのだが……和友の望むものが決まったというのなら私も嬉しい」

 

 

 少年の話の全体像の1割も分からなかった。だが、少年が何かを得たというのならば、と藍は笑みを作った。

 今は、分かっていなくてもいい。

 最後の最後に全てが分かっていていれば、それでいい。

 

 

「僕は、もう少しだけ自分本位になろうと思う。周りの人たちを信じようと思う。藍も紫も、みんなを信じてみようと思う。みんな僕が作った鎖を断ち切ってくれるって」

 

 

 そっと、自分の未来を想起する。

 新しい可能性が新しい未来を提示している。

 二年後の自分は、何をしているだろうか。

 死の間際に何をしているだろうか。

 終わりの寸前で何を想っているだろうか。

 今の自分の望みを転写して、将来の自分自身を感じ取る。

 何もない場所で、移り変わりを見せる中で、ただただ待ち望んでいる自分がそこにはいた。

 誰かが―――自分の下へと辿り着いて物語を閉じてくれる時を待っていた。

 これが、僕の望む未来。

 叶えるべき僕の夢。

 僕の辿り着く―――世界。

 

 

「きっと約束の場所までたどり着いて、僕の望むものを見せてくれるって信じるよ」

 

「約束の場所?」

 

 

 心当たりのない少年の言葉に藍の口から疑問が漏れる。

 少年は、藍の疑問に対して優しい笑みを浮かべながら次の言葉を口にした。

 

 

「ねぇ……藍。聞いて欲しいことがあるんだ。藍には、僕から伝えておかなきゃいけないことがある」

 

「和友、何度も言うようだが私達には時間が……」

 

 

 藍と少年には時間がない。少年の心の中にやってきてすでに30分が経とうとしている。少年と会ってからの時間は数分程度ではあるが、外にいるメイドがずっと待っているとは限らない。

 仮に咲夜自身の力で藍の四重結界を壊せないとしても、増援を呼んでくる可能性は十分に考えられる。現状、精神世界の肉体が消えていないということから外の世界の体が無事なことは分かるが、これからもずっと大丈夫という保証はどこにもないのだ。その安心のない状況が、藍の焦りを増大させる要因となっていた。

 しかし、少年は後回しにしようとする藍の考えを否定した。

 

 

「今しかないんだ。今しか、僕たちに話ができる時間はない」

 

「どうしてだ?」

 

 

 藍は、少年の今しか時間がないという言葉に疑問を口にする。ここで話をするよりも外で話をする方が時間が取れるだろう。

 間違いなくそうだろうと思っていた。時間のある時に余裕を持って話せばいいと、そう思っていた。

 次に少年の口から出てくる言葉を聞くまでは。

 

 

「紅魔館での仕事が終わり次第―――藍から僕に関する記憶を消す予定になっているからだよ」

 

 

 ―――少年の言葉は、頭の中を真っ白に塗り潰した。




少年の本心を見つけられたということが、今回の話では最も大きい部分ですね。
少年の望む形―――いったい何なのでしょうか?
きっとそれは、原作に入ればすぐに分かることになると思います。

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