アマガツが見つめる先、俺の右肩の後ろにカビの生えた巻物が浮いていた。それは勝手に糸がほどけ、五十から六十センチほどに広がった。文字に見えない蠢く何かが羅列されており、目を通せば何故だか文字として認識できる狂気的な内容。これが俺のペルソナなのだろう。
アマガツのペルソナである童話書がゆっくりと巻物へと近づき、混ざり、ぐずぐずと汚れていく。傷一つなかったはずのそれは、古ぼけて痛み、端々が朽ちた魔導書へと変化した。
表紙には金の文字で『The Testments of Carnamagos』と刻まれていた。
2章 『これ本で読んだことある!』
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「魂を繋げたおかげで動けるようになったよ。やっぱり支配されている時間に割り込むのは無理があったね」
アマガツが、前足で耳の裏を掻きながら上機嫌に言う。先ほどまでの関節が錆び付いたような動きが嘘のようだった。
なんとなく気まぐれに耳の裏を掻いてやると「あふー」と満足気な息を洩らし、耳をパタパタと小さく動かしていた。俺は感覚を失っているのだが、アマガツは違うようだ。
「どんな風に元の時間に戻るか、という話だけど。戻るだけなら簡単だよ。暴走しているペルソナとボクのペルソナを融合させたから、ボクが主導すればいいだけ」
「そうなのか? なら朽ち果てるとか無駄に脅す必要も無かっただろうに」
アマガツの背を撫でると、前後の足から力を抜いたのか、うつ伏せになって脱力した。
「戻るだけならね。戻った瞬間、イチルくんは灰になるよ」
「え?」
「灰になって朽ちて死ぬよ」
あまりの言葉に、撫でていた手が止まった。
「イチルくんを介して力を使っている『強大な力』によって、停止しているこの世界が実現しているんだけどね。君が信徒のような状態だから生きていられるし、活動もできてるのが現状なんだ。その際、この世界の歪な法則に適応するようにイチルくんの存在が書き換えられているから、元の世界に適した人間の法則に戻らないといけないんだよ」
だからボクを基本として一つ一つ書き換えるんだ、とアマガツが仰向けになりながら言う。
都市伝説に出てくる異なる世界などに存在する『時空のおじさん』などは、時や空間を支配する神々の気まぐれによって書き換えられ、取り残されている存在らしい。元の世界に帰るにも、法則が書きかえられ過ぎて戻ることが叶わない憐れな存在なのだという。
「霊感が鋭くなったり、変な才能に目覚めるかもしれないけど、そこら辺は諦めてよ」
「普通の時間に戻れるならそんな程度、全然問題ないから。」
「そう? それならボクも何とかできそうから安心してよ」
さあ撫でて、と仰向けになったアマガツがアピールする。わしゃわしゃと少し乱暴に腹を撫でると、気に入ったのか耳が動いている。
「あーいいよいいよ、もっと愛を込めて撫でてくれたらもっといいんだけど。……とりあえず、理不尽に魅入られた代償は何時だって同じように理不尽でしかないっていうのは覚えておいてね」
「俺ができる最大の撫でポだ、我慢しろ。……アマガツも俺みたいなことがあったのか?」
「今できる最大の撫でポとか素敵だね、存分に味わっておくよ! あ、理不尽? あるよ、いっぱいある。暴走する前はボクの邪魔をするやつばっかりで散々だったよ。ライドウとかいうもみ上げと何度も殺し合いしたし。あいつホントずるいんだよー。必中するタイミングの魔法を前転で避けるし、ビームとか刀で切り捨てるし。最終的には異界を広げてる時に負けて暴走したけどね」
「ふう、久しぶりに堪能したよ。人との会話自体も遠い昔に感じるよ」
アマガツが立ち上がる。首に掛かっている懐中時計の針が回転し始め、ぴたりと止まる。前足で時計を抱え、文字盤を覗き込み「大体20年ぶりくらいだね」と言った。
「お前何歳だよ。20年とか明らかに俺より年上だろ」
「ボクはいつまでだって10歳だよ。そもそも暴走期間が15年くらいで、図書館に放置が5年くらい。人間として生きていた時は10歳だったから……やっぱり10歳だね」
「それはもう10歳ではないのでは?」
10 + 15 + 5 = 10
アマガツの計算式だとこうなるらしい、たまげたなあ。
「魂を共有する相棒なのに、こんなにイチルくんとボクで意識に差があると思わなかった……!」
「すまんな」
目を丸くしてショックを受けているアマガツの首元を撫でる。耳がぴこぴこと動くので、撫でられるのがやはり好きなのだろう。
「ええんやでっと。じゃあそろそろ戻るために作業しようか。やることは簡単、トライアンドエラーでバグを取る様な物だよ。ボクが法則を書き換えるから、イチルくんは元の時間軸に戻る。失敗したらやり直し」
魔導書が両開きとなり、バラバラとページが離れ、アマガツの傍に浮いたまま留まった。
「……簡単そうだな」
「まあ、うん。失敗したら肉体が死ぬだけだし簡単だよ」
「は?」
ぱん、と空気が爆ぜる音がした。図書館が消滅し、周りは何も無い荒野となっていた。
「あ、失敗した。リセット、と」
アマガツが弾け、俺の意識も消えていった。
「時間が止まってるってことは、速度は光を超えてるってことだよね。ボク自身も質量から切り離されて久しいから、速さは重さって忘れてたよ。異なる法則だろうと擦り合わせてるんだから止まっている間の行動は全部どうにかしないとダメだね」
てへぺろ☆とアマガツがお茶目に告げる。舌をぺろりと出しながらウィンクしている兎の顔はとてもシュールだった。
「りとらーい」
「ちょっと待……」
カッ!と音がしそうな勢いで閃光が奔った。
「あ、失敗した。リセット、と」
「熱膨張だ」
ドヤ顔でアマガツが言う。何言ってるのかよくわかりませんね……。
「りとらーい」
ゴゴゴ、という音ともに浮遊感を感じた。
「あ、失敗した。リセット、と」
「軸を間違えたよ。過去に魔界に繋がったことがあったらしくて、日本が沈むところだったよ。あぶなかったねー」
鼻歌交じりでそういいながら、アマガツが浮いているページを覗き込む。ページには無数の文字が刻まれているようだった。
「次は上手くやるよ」
もう何も言うまい。
久しぶりに感じる感覚が楽しくて喋るのを後回しにしているとか、そういうわけではない。
「よいしょっと」
星は唸り、天は燃え、地が割けた。
「失敗失敗。リセット」
「仕事は大きさと動いた距離で……」
「真面目にやってる?」
「やってまぁす」
「マヨネーズで和えたもやしとチョコレートのコラボは味覚に大いなる刺激を……」
「ぶち殺すぞ」
--2
「ボクらは、エントロピーを凌駕した……!」
アマガツが感極まったような声を洩らした。
失敗が百を超えた辺りで、魔界の方が法則が緩いからそっちにしないかなどと言い出したこともあったがどうにかなったようだ。
薄暗い図書館に、音を立てる物は僅かしかない。寄贈された柱時計の内部で回る歯車の音が聞こえるくらいだ。少しだけカビの混ざったどんよりとした空気を感じる。
「ぶっちゃけてしまうと単に不都合な部分を力の元に送りつけて、時流操作の条件ごとに対応するように書き換えただけだから凌駕はしてないけど」
「……ホントに大丈夫だよな? 腕を振ったら街が瓦礫と化したり、骨だけになったり、光が収束して虹色になったり、ロケットパンチのようにぶっ飛んだりしないよな?」
経験した失敗談である。
自分の肉体を観測できるレベルの失敗は後半になってからで、何度街を破壊したかわからない。
「ダメだったらやり直せばいいよ。ペルソナを暴走させて邪神パワーでぎゅーんってやるだけだし」
「確かに……いや、それはおかしい」
地面の硬さ、体で切る風、高くてべたつく湿度、ぬるい空気、人々の呼吸、歩く度に感じる反作用。何もかもが懐かしい。
「何もかもが懐かしい……。が、思ったよりも感動しない」
抱えたアマガツをもふもふしながら言う。これだよ、俺が求めていたのは。柔らかな手触りのいい毛並みが俺に満足感を与えてくる。うーんもふもふ。
体温自体がひと肌よりも若干温かいうえに毛皮で暑さが倍率アップなので、素人には夏はおすすめできない装備だ。
「まあ、失敗する度に感じてた衝撃と比べると温いからね。そもそも10万時間以上を孤独に生きてた君にはどうでもいいのかもしれないよ。車検だったら結構なパーツを交換する時期だし」
「車検という発想に至る辺り、10歳とかもうこれわかんねえな」
「わかるよ。10歳だよ」
「兎……10歳は人間でいうところの92歳……あっ」
私、察してしまいました。
「え? なに? なに勝手に察したの? ボクに教えてくれないかな」
アマガツが顔面に張り付いてきて、前が見えねぇ。
剥そうにも、四肢に力を込めているのか、ぴったりフィット。
「息苦しいっつうの。……10歳超えた兎はうんこ食うってよ」
アマガツの首元を掴んで引き剥がし、宙吊りにしながら告げる。
「うん、それボク関係ないよね」
排泄器官ないからなあ。
ただいまーと帰宅。もう十年以上も前のことに感じる。そもそも十万時間って何年だ。
見慣れた廊下を通って室内へ。見慣れてはいるが、全てにおいて新鮮であるという謎の状態。視覚情報以外の何もかもが懐かしいという奇妙な体験をしている気がする。
そもそも時間が止まった世界に生きていることこそおかしいのだが。
「ここがイチルくんの部屋で、ボクの部屋にもなるんだね。……随分と汚いんだねー」
室内のあらゆる場所に本が積み重なっており、様々な物がバラバラに砕けたりして飛び散っていた。
ライターを使って行った実験のせいでばら撒かれた火の粉が、書物などに引火していた。
「停止中は宙に固定できるから天井付近まで物を置けたのが祟ったか。実験した物も全部落下したのか」
真夏の夜の業火だ。よく燃えているし、身体に悪そうな凶悪な香りも漂っている。
これが生きているってことか。凄い。あとちょっと気分悪くなってきた。
「片付けが大変そうだね。あ、そうだ。ちゃんと物質世界の法則で動けているのかちょっと試してみようよ。掃除も出来て一石二鳥だね」
アマガツがそう言うと、白い兎の姿から灰色の仔猫へと変化する。
そして突如として灰色のガスボンベが五本ほど現れる。家庭に設置してあるプロパンガスだろうか。
「お前の部屋でもあるんだが」
「だがもう無くなった! ……あ、安心してね、これは他所の家のガスボンベだから」
えくすぷろーじょーん、などと戯言を吐き出したアマガツを放置して、窓から外へと飛び出す。一応、俺が使える限界まで時間を止めた。暴走しない安全な範囲だと僅か一秒程度だが。
当然ながら、背後で爆発し、熱に焼かれ風に吹っ飛ばされた。
「これ本で読んだことがある!」
読んでて良かった『受け身で元気、投身自殺』。全然自殺できないと馬鹿にしたことを内心で謝るとともに、感謝も述べておく。
本で学んだとおりの受け身を取り、地面へと着地した。衝撃が伝わり、手足に凄まじい痺れが流れる。遅れて鈍い痛みが奔る。新鮮な感覚だ。
生きてると実感できる。
強大な力で吹っ飛ばされてやり直すなんて実感する前に終わるから無意味だった。
「おお、凄いよ。打ち身程度で済むなんて。停止中の世界で得た経験のほとんどをリセットしたのに」
柔らかな笑みを浮かべているかのように口角の上がった灰色の仔猫であるアマガツが語りかけてくる。
「おい。聞いてないんだが?」
「あ……。こ、これがペルソナの力だ!」
すぅーっと笑いを残してアマガツの姿が消え……そこだ!
「……」
透明になっている頭部を掴み、じっと見つめる。
見つめる。
見つめる。
……。
「……ごめんなさい、教えるのを忘れてました」
「次やったらお前あれだぞ、あれ。もうなんか物凄いことするからな」
「あはは、なになに?」
まだ残っている口が、いたずらっ子のようににやにやとした笑みを浮かべ、楽しそうな声を挙げる。
「冷蔵庫のプリンを俺一人で食う」
「ごめんなさい」
謝罪とともに現れた仔猫は真顔だった。
2章を終了します。
「久遠の未来か刹那の明日か、イチルくんが交わる運命がちょっとだけ見えたよ!」
『射賦高校』
・主人公の通う高校です。
・夏休みの間、深夜に奇妙な連中が活動していたようです。
・夏休み明けの現在、深夜は異界となるようです。
『英語教師』
・過去に……生徒に分け隔てなく優しい理想の教師です。正気は完全に失われています。
・体罰を繰り返す体育教師を排除して、人気者の地位を得ました。
・2年2組の担任だ! 学生たちををサポートする頼れる大人だぞ! とのことです。