ちりの人が形作られ、鼻に息を吹き込まれ、そして生き物となった。
主に崇拝を捧げるために、栄光を讃えるために、かくあれかしと。
そうあれと望んでいるから、彼は人間だった。
何処へ消えゆく魂が、悪魔に息を吹き込まれ、そして魔人となった。
魂無き無聊を慰めるために、心を求めるために、かくあれかしと。
そうあれと望まれたから、彼女は魔人になった。
――各々の土曜日・無垢な魂の行方――
各々の土曜日・無垢な魂の行方(前)[仮]
アリスが生まれたのは、セプテントリオンが襲来してからそれほど間を置かないような頃合いだった。
元となった名もなき少女の穢れのない魂が、人の心を求めたベリアルとネビロスの目に留まった。
それだけだった。
ベリアルとネビロスにまともな自我は残されていなかった。
どちらも、統括している存在が失われたことが関係しているのかもしれない。
鏡合わせを繰り返したような遠い異なる世界、核で常識のすべてを焼かれた世界、そこで”本物”のベリアルとネビロスはザ・ヒーローの手によって葬られた。
それでも、愛する者のために、尽くすためだけに、残骸はアリスを生み出した。
何も生み出すことのできない、創造性の一切を持たない筈の悪魔が、唯一生み出した心に従って。
生み出されたアリスは最初からすべてを持っていた。
無垢な魂を穢さないように、生まれる前に全てを与えられていた。
知識、力、純粋な心……何もかも。
そして、誰も、何も、何者も、誕生したアリスに何も与えなかった。
すでに持っている者に、何を新しく与えられるだろうか。
ベリアルとネビロスは、残骸と化した悪魔は、アリスの誕生を歓んだだけだった。
物言わぬ不死者たちが友だちだった。
傅き異を唱えぬ悪魔が友だちだった。
怯えた悪魔は、ただ逃げるだけ。
諦めた人間は、何も生み出さない。
純真なアリスは、ただ強すぎる力を持った幼子だった。
何も知らなければそれで幸せだった。
そして、何も知らなかったことを知ったアリスが、未知を感じた幼子が、自ら幸せを追い求めて箱庭から抜け出すのも当然だった。
無垢な魂が、その行方を望むままに。
足るを知らず、足らざるを知って。
ヒトが蛇に唆されたように。
――07:30 路地裏――
アリスの胸元に掲げられていたヒランヤが小さく揺れた。
当初の予定を大きく外れたが、それでも順調に魔人へと至っているヤサカとパスが繋がっている証だった。
こちらからの干渉を行うはずの片割れは、すでに破壊されていた。
だが、捨てられたわけではない。
魔力を必要としたヤサカが、その体内に取り込んでいる。
居場所を知ることや、どれほどの力を持っているか、漠然と理解できる程度だ。
それでもよかった。
アリスが求めているのは、ヤサカが世界に存在していること、そして自分に近づいていること。
それだけわかれば、安心だった。
不安はあのヤサカが失われること、それだけだ。
ただ、予想以上に悪魔の力を内包しているにも関わらず、ヤサカが魔人として完成しないことには首を傾げていたが。
不安要素も当然のことながら、存在している。
あと三度、もしくは二度、夜が明ければ世界は終わりを迎えるという。
歪な蠅のような魔王がアリスにそう告げていた。
だからアリスは何が何でもヤサカを連れ出さなければならない。
ヤサカならば連れていける、そういう約束だ。
アリスは魔力を風に乗せる。
魔力で形作られたアリスの世界から、現実にいるヤサカへの手紙だ。
ここにいるのだと知らせるために。
人間が触れれば溶けて消え去るような、猛毒を含んだ甘く未熟な恋文。
あとは待つだけだ。
膝の上に乗せた絵本をめくる。
自分と同じ名前を持った主人公が不思議な世界を巡る物語。
空想へと思いを馳せ、過去の自分と重ねて逡巡する。
生まれたばかりの純粋なアリスに初めて与えられた数々の刺激。
無垢な魂に未知の知恵を囁き、交わることの出来る道を示す甘美な誘い。
物語に勝るとも劣らない至福の時間だった。
自分で得ること、相手から与えられる素晴らしさ。
何もかもが新鮮で、心が躍るような感動ばかりだった。
――だからこそ、失われるのが怖い。
――08:00 路地裏
ヤサカの後を追いかけ、気付けば可笑しなことになっていた。
突如として目の前に現れたチュールで顔を隠した老婆と、その老婆に手を引かれた少年から目を離せない。
ダイチは事態が上手く飲み込めず、生じた困惑に思考を曇らせる。
「坊ちゃまは貴方に興味を持たれてはおりません。ですが、あの悪魔人間には興味があるとのこと。そこで、哀れな貴方が望むのなら、あの悪魔人間を超える魔人の力を与えようと申しております」
老婆が穏やかな口調で、ダイチにそう告げた。
老婆に手を引かれている少年は、伽藍の瞳で虚空を見ている。
ダイチは、その言葉が真実だと確信した。
なぜかはわからないが、そう思えた。
その言葉に答えていいのか。
踏み込むべきではないと本能が警鐘を鳴らしている気がするが、それ以上に魅力的だった。
鼓動が煩い。
喉が、ひどく乾く。
それでも口が動いてしまう。
「俺は……」
少年がため息を吐いた。
それだけで、言葉が詰まる。
「よろしいのですね」そう老婆が少年に告げていた。
「いえ、答えは結構です。坊ちゃまは望んでおられません。しかし、貴方が持っていることに意味があるようです」
老婆が差し出しながら「貴方が使う必要はありません」と告げた。
それは簡素な瓶だった。
中で何かが蠢いている。
虫のような、悪魔のような。
ダイチにはわからない。
ふと、ヤサカならわかるのではないかと思いついた。
ふらふらと足が進み、手が瓶へと伸びる。
駄目でも、彼に全てを委ねてしまえば……。
「それでいいのです。流転する先に、望むものがある。弱い魂は強い魂に……」
瓶に触れるまであと数歩といったところで、まるでダイチの挙動を止めるかのように、それは空から舞い降りた。
薄く黄土がかったそれは、円錐形の独楽のような形をしていた。
涙を逆さにしたような、乳歯のような、そんな印象だった。
威圧感は無く、恐怖もない。
弱そうだ、そうダイチは思った。
習慣的に行っているアナライズを起動させる。
結果はセプテントリオン、名をベネトナシュ。
「セプテントリオンか!」
アプリを起動させ、悪魔を呼ぶ。
瓶への抗いがたい誘惑は溶けていた、ダイチの頭の中にはセプテントリオンへの危機感でいっぱいになっていた。
ダイチがアプリを操作する短い間に、ベネトナシュは四つに分かれた。
中身は、かつて戦ったセプテントリオンの一部に酷似していた。
「枯れ落ちる枝葉を任された管理者。そんな矮小な歯車程度が横入りを……?」
少年の呟きが、ダイチの耳に届いた。
だが、それどころではなかった。
ダイチが呼び出した悪魔が送還されていく。
まるでヤサカが行った、先ほどのように。
ベネトナシュの一部、フェクダに似た半分の円環が紫電を纏う。
その様からダイチは気づく。
他のセプテントリオンの力、それが使える可能性に。
本物の攻撃よりも弱い雷が迸った。
ダイチ、老婆、少年、すべてを巻き込むように。
視界が明滅する。
一瞬、少年と同じ金の髪をした老人が見えた。木製の車椅子に乗っている老人だった。その背には、年若い女性が控えていた。
「よろしいのでしょうか」
「重要なのは魔人。それに届けば、今はいい」
雷の光が消えた後、ダイチの周りには誰もいなかった。
あの二人は何処にいない。
視界の端で瓶が転がっていた。
あの二人がいた証拠は、気持ちの悪い瓶だけだ。
ベネトナシュがゆらりと揺れ、ふわふわと移動する。
何処かへ向かおうとしている。
ダイチは見逃されたのか、興味が無いのか、そのままベネトナシュが小さくなっていく。
「あいつ、何処に向かったんだ……?」
ダイチがぽつりと呟いた。
その言葉は露と消える……
「悪魔人間の元に向かったのだろう。君は見逃された。いや、むしろ見えていなかったとでも言うのか。あまりにも大きな影は、矮小すぎる光など飲み込んでしまう」
はずだった。
それは蠱惑的な魅力を孕んだ声だった。
自分に見向きもしなかったセプテントリオンに向けた独り言だったため、返答されると思っていなかったダイチの心臓が大きく跳ねた。
「喜べ。強い友の御蔭で、君は死なずに済んだことを」
言葉の主は長身の青年だった。
それは、金色の髪、病的な白い肌、鋭い瞳、怪しい色気を放っている、青年だった。
青年の姿を見たダイチは体の震えが止まらなくなった。
怖い。
何よりも、誰よりも。
強さは感じない。
強さだったらヤサカのほうがずっと上な気がする。
ただ、怖い。
「幸福を噛み締めろ。君が弱いせいで、強い友には厄介事が増えたことを」
落ちていた瓶を拾いながら、青年が言葉を続ける。
聞きたくない言葉だった。
否定したかったが、震えが強くなるだけで、ダイチは何も出来ない。
「力があれば、土の器は軽くなるのか。強さがあれば、罪は注がれるのか。欲のままに、それが幸せなのか」
青年が、ダイチに瓶を差し出した。
「『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』」
詰まらなそうな表情を浮かべた青年が瓶を弄ぶ。
「弱い自分を知った人間が、初めて神の力を感じるそうだ。だから、大いに喜んで私の弱さを誇りましょう、と。面白いだろう。君はどうだろうか。今、神は傍に在られるか」
瓶からきーきーと奇妙な鳴き声が聞こえる。
気持ちの悪い鳴き声だ。
ダイチの知っている生物とは異なる、酷い雑音だった。
「力が欲しいか。望むなら与えよう、このルイ・サイファーが」
その瞬間、ダイチを縛っていた恐怖が消え去った。
まるで初めから何も無かったかのように。
それが怖かった。
あれほどの恐怖を孕んでいた存在が、こんなにも何も無い様で振る舞えることに。
『シジマっち、ちゃんと答えないとダメだよ。最高位悪魔の言葉には本心で答えないと、きっと殺されちゃうから』
ティコが呟くように、ダイチに助言した。
何時ものノリがそこにない。
選ばなければならないことは理解した、強制的に。
絶対的な強者からの選択肢。
志島大地が望むべきこと。
いつか決まることが、今になって必要になった。
ただ、それだけだ。