実験室のフラスコ(2L)   作:にえる

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原作:Project .hack どっと吐く自由1

 

 --1

 

 暗転、しかし数瞬と経たないうちに目の前には様々な光景が広がっていた。

 口々に会話するPC(プレイヤーキャラクター)、背後で煌きとともに絶えずPCが出入りしている転送装置「カオスゲート」、石造りの床ところどころが朽ちて欠けていてゲームのグラフィックとは思えない。

 アイテムを売り買いできるショップ「キオスク」や記録をセーブすることのできる「セーブ屋」を横目に、ゆっくりと自らの分身ともいえるPCを歩かせる。

 石床を蹴る足音が小さく足元が聞こえる、そういったちょっとした作り込みが好感を持てた。

 巨大な扉が開き、薄暗かったドーム内に光が射した。

 照らされる夕日に目を細める。

 Δ(デルタ)サーバ 悠久の古都 マク・アヌ、少し型の古いディスプレイ超しに分身の瞳を借りて見える風景はやはり美しかった。

 

 マク・アヌは初めて『The World R:2』をプレイするプレイヤーが訪れる場所だ。

 放浪していた人族が苦労の末にたどり着いた安住の地だ。

 水が街の至る所に流れ、蒸気パイプが張り巡らされ、街並みは古めかしい。

 歴史を感じさせるマク・アヌは「女神の息子」という意味を持つ、そう設定されている。

 ヤクモはそういったゲーム内の設定が好きだった。

 暗記するほど、何度も読み解くほどではない。

 暇があれば流し読みする程度だがゲームを始める前に読む説明書のようなちょっとした楽しみのようで、そういった散りばめられた設定が好きだった。

 

 PCを運河の桟に移動させ、景色を楽しむ。

 水面が揺らぎ、水が柱や壁にぶつかって、ちゃぷちゃぷと音を立てる。

 夕日が現実の時間に合わせてゆっくりと沈んでいく。

 時間とともに変化する様は見ているだけでも飽きさせず、製作者のこだわりを感じさせた。

 

 そんな美しい風景を眺めながら、横目で交流サイトを徘徊する。

 興味が惹かれる話題は一切見つからなかった。

 サービスが始まって半年ばかりでデータの検証組は元気に走り回っているが、噂話を主軸に活動するオカルトの検証組はマンネリと言った具合だった。

 燃料投下とばかりに最近見つけたロストグラウンドを公開する。

 ヤクモは時間をかけて捜索し尽くしており、問題ないと判断したためだ。

 白熱し出した論争によって加速していくスレッドを閉じる。

 同時に電子音が鳴り、ゲーム内での連絡用に使われるショートメールが届いた。

 所属ギルドから決めた通りの方針で暫く活動するようにとの内容だった。

 手短に理解した旨を記し、返信する。

 沈む夕日が現実としての一日の終わりを、ゲームとしての一日の始まりを感じさせた。

 

 

 

 ギルド、一つの目的のために複数人のPCが集まって活動する団体のことだ。

 ヤクモが所属しているギルドは「黄昏の旅団」、幻のアイテム「キー・オブ・ザ・トワイライト」を見つけることを目的としている。

 ギルドマスターはオーヴァン、左腕は巨大で奇妙な装飾品に覆われている色眼鏡をかけた大柄な男のPCだ。

 メンバーは三人、マスターのオーヴァン、呪療士の小柄な女性PCを使用している志乃、そして双剣を操る軽装のヤクモだった。

 ギルドに誘われた切っ掛けはロストグラウンドを交流サイトに公開したこと、そうヤクモは考えている。

 公開するとすぐに声をかけられたのだから、想像ではあるが確かなのだろう。

 どのような方法で調べたか、疑問は抱いたがあまり気にはならなかった。

 ただ、「キー・オブ・ザ・トワイライト」が目的であるという言葉に強く惹かれた。

 ヤクモには懐かしい単語だった。

 

 突如として公開停止の憂き目にあった前作である『The World R:1』で友人が手にした腕輪、確かそれが「キー・オブ・ザ・トワイライト」だった。

 苦難を乗り越えた末に仲間たちと過ごした日々は今尚古ぼけることのない輝かしい思い出だった。

 オーヴァンはそれを、腕輪を求めているのだろうかと問いかけたことがある。

 人によってはバグを取り除くような、単なる腕輪でしかない。

 返ってきたのは否定、そして「もっと深い、世界の神が願いを叶えるほどのモノ」という言葉だった。

 オーヴァンはこの世界の神に何かを求めているようだった。

 ヤクモは神の行く末、女神の居場所を知っている。

 ヤクモの両腕に嵌められた七色に輝く腕輪を残して、システムの中枢へと旅立った。

 『The World』の最も深い場所へ。

 そこから呼び戻すためなのだろうか、そう考えたこともあった。

 だが、答えに至ることはなかった。

 

 ショートメールに書かれていた以前に決めた方針、それはギルドメンバーを集めることだった。

 手掛かりを集めるにしろ、闇雲に探すにしろ、人手は必要だ。

 メンバーを募る際にギルドの活動方針が大きく関わってくる。

 大型ギルド「ケストレル」が掲げる完全な自由やこれに次ぐ大型ギルド「月の樹」の秩序、TaNの経済による自立など、所属するだけで強みがあり、ゲームでの活動の指針を決めるようなモノが多い。

 「黄昏の旅団」はそういった面ではかなり弱い。

 「キー・オブ・ザ・トワイライト」という眉唾なアイテムを探すことを目的としたギルドなど、変わった物好きや偏屈なオカルトマニアがやってくるかすら疑わしい限りだった。

 前作でもヤクモは自分から仲間を作りにいく機会がほとんど無かった。

 その場のなし崩しだったり、友人が紹介してくれたり、苦労したことも無い。

 そもそも見ず知らずの他人と会話し、ギルドに誘えるほどコミュ能力は高くないし、人を見る目は養えていない。

 この奇妙なギルドに昔からの仲間を誘うのは気が引けた。

 暫し逡巡した後、ヤクモは悩むのを止めた。

 オーヴァンが何とかするだろうと思い至ったからだ。

 

 悩みが解決すると、なんとなく戦闘がしたくなってきた。

 すでに日は暮れていて、仲間を呼ぶのも微妙な時間だった。

 今日はソロプレイにしよう、ヤクモは内心でそう決めるとカオスゲートのあるドームへとPCを動かした。

 最近公開されたクエストに突撃するべきか、それともケストレルのメンバーがPK(プレイヤーキラー)の狩場にしていると噂されるエリアにでも行こうか、心の秤にかける。

 秤は様々な情報を加味してゆっくりと傾いていく。

 そして完全に傾き切り、ヤクモの今夜の方針が決定した。

 手ごろに経験値が詰めるであろうケストレル食い放題に突撃今夜の晩御飯、そんなフレーズが思い浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 --2

 

 斬撃の赤く輝く軌跡が、点在していた黒い泡を消してゆく。

 美しい世界に蔓延った汚れを濯ぐように。

 神々の怒りに触れ、祝福されしエルフから卑徒に堕とされた愚かな人の禁忌によって生まれた知性が、泡沫の如く。

 

 その様を、ヤクモは静かに見送った。

 プレイヤーキャラクターの瞳はセルロイドの人形のように、感情は浮かんでいない。

 当然だ。

 だってゲームなのだから。

 プレイヤーとゲームには、境界が存在している。

 

 

 

 三尖二対の双剣で、汚れが付いたとばかりに軽く宙を切った。

 そして、黒い泡の一切が消え去った壁に背を向け、ヤクモは歩き出した。

 禍々しく毒々しい三尖二対の双剣は、既にその手には無い。

 

 歩きながら、ゆっくりと右手を掲げ、厚手の皮で出来た丈夫な手袋を嵌めた指先から手首まで見つめる。

 自他の境界だけを、はっきりと。

 境界は、無残に引き裂かれた襤褸を無理に繋いだような継ぎ接ぎの腕と、軽装を纏った誰にでもエディットすることの出来るPCボディ。

 違法と合法の繋ぎ目。

 かつての残骸が、ヤクモの意志通りにゆっくりと、繊細に動いている。

 

 ゲームの仕様には有り得ないほど精密に、プレイヤーの意志を受け取って、手を翳す。

 薄暗い洞窟の中で、まるで地上の太陽に透かすように。

 白衣のフィリにも黒帽子のビトにもなれなかった想いから、影持つ者への憧れから、世界を投影した夕暮れ竜の光から、隠すように。

 

 

 

 指が月を、光を指し示すとき、愚か者は指先を見ない。

 あまりに強い光に、目を明けることすら出来ない者は、やはり愚か者なのだろうか。

 

 

 

 

 

 鈍色の寒空の下で、車椅子に坐した八雲葵は平生よりも遥かに上機嫌だった。

 首から下に軽い麻痺がある葵は好んで外に出かけない。

 一人で暮らすには、時間をかければ不自由しない程度だが、やはり健常とは程遠かった。

 奇異の目に晒されるのは慣れているが、”普通”のために構成された社会に適応できていないその身に、外の世界を無意味に彷徨うことは酷く難しかった。

 中学生までに培った”普通”が適応を許さない、だから妥協している。

 生じる歪みが、外の世界から、リアルから、自身を遠退ける。

 

 だが、今日ばかりは違った。

 約束のために、自ら葵は外へと赴いた。

 色恋といった鮮やかな約束ではない。

 ネット上の友人との約束だ。

 

 首元から吊り下げた懐中時計が、約束の時間へと少しずつ針を進ませる。

 かちこちと時を刻む時計の裏には簡素な花が彫金されていた。

 梔子だったか、送り主の好みの花だ。

 高価だっただろうにと鈍い動きで時計に触れる。

 思わず射した、強い照り返しに目を細めた。

 夏が過ぎたとはいえ、まだ暑さが尾を引いている時分、当然のように日の光もまた強い。

 八雲の額には薄らと汗が滲んでいた。

 

 

 

「待たせたか」

 

 懐中時計を貰った時の思い出に意識を飛ばしていた葵を覆うように影が差し、落ち着いた深みのある声がかけられた。

 ゲームで頻繁に聞く声だったが、デジタルの壁を越えた音ばかりだった。

 無意識に、地面へと向けていた視線を上げる。

 声の主は背の高い男だった。

 容姿は整っていて、背は高い。

 ノンフレームの眼鏡を通した瞳から、穏やかさと秘めた知性を感じられる。

 

「まあまあかな。俺が早く来たのが悪かったけどね」

 

 ほら、と葵が車椅子の車輪を軽く叩いた。

 触れた手が、籠っていた熱を感じた。

 ああ、と男が頷いた。

 車椅子は人があまりいない場所ならば、普通の歩行よりも速く移動できることもあるが、やはり電車などを利用する場合は酷く遅くなる。

 段差、隙間、通行人、砂利道、極端に狭い通り。

 不便を上げればキリがない。

 

「ああ、そうだ。八雲葵です。初めまして……というのはちょっと変だけど」

 

 葵が手を差し出す。

 室内にばかり籠っているから、白さが眩しい。

 男も高い背を屈ませ、応えるように握手した。

 

「犬童雅人だ。好きに呼んでもらって構わないよ、八雲君」

 

 そうして、犬童が自然に葵の後ろに周り、座る車椅子を押し出した。

 自然な動きだった。

 慣れているのだろうか、葵も犬童という男のリアルを詳しく知らない。

 知っているのはオーヴァンというPCでギルドを率いる変人、誰もが抱く印象とほとんど変わらない。

 その人物に車椅子を押されているという緊張で、葵の麻痺した身体が思わず強張る。

 拒絶するには、精神が近すぎる。

 

「ここは暑すぎるな、話すにも場所が必要だろう。良い場所を知っているんだ」

 

 コーヒーの味はイマイチだが、長居するには良い。犬童がそう告げた。

 

 

 

 

 

「犬童さん、上手だね」

 

「ん?」

 

「車椅子、押すの」

 

 ああ、と犬童が漏らした。

 車椅子を操る手に迷いは無く、長年座っている葵をしてストレスを感じさせない。

 巧い、そう押すのが巧いのだ。

 繊細ですらある。

 

「慣れてるからな」

 

「そう。家族かな」

 

「妹、それもかなりの歳の離れた」

 

 病気か、身体が不自由なのか。

 どちらだろうか。

 葵がわかるのは……

 

「大事なんだ」

 

「全てに代えても良いくらいには、な」

 

 優しさの伴った手つきから、妹をとても大切に思っていることくらいだ。

 

「それは素敵だね」

 

 それっきり会話が途切れた。

 葵は固くしていた体の緊張が、自然と解れ、身を委ねていた。

 

 

 

 

 

 --2

 

「それで……」

 

 犬童が葵を連れて来たのは、人のいない閑散とした喫茶店だった。

 挽いた豆の香ばしいの匂いが漂っている。

 葵は車椅子から木造りの椅子へと座を移していた。

 窓際の席、人気のない川沿いを楽しむことが出来るようだ。

 

「『黄昏の鍵』の話だっけ」

 

 『黄昏の鍵(キー・オブ・ザ・トワイライト)』にまつわる詳しい話を聞きたいのだと、オーヴァンに頼まれて、この約束は果たされた。

 本分を進めるべきだろう。

 犬童に問いかけ、葵が目の前に置かれた真っ黒のコーヒーを煽る。

 香りはいいが、葵には酷く苦い。味の良し悪しはわからない。

 机に備え付けられているポーションに入ったクリームを垂らす。

 拙い手で握ったティースプーンを、ゆっくりと回す。

 燻るように、黒の中に円を描き、純白は混ざっていく。

 

「それも興味があるが、 一度混ざってしまったコーヒーとミルクを君ならどんな風に分離する?」

 

「どんなって」

 

 犬童へ向けていた視線を、目の前で混ざり合った、少しだけ茶色を帯びたコーヒーに落とす。

 逡巡。

 なんとなくコーヒーを啜り、まだ苦みが強いのだと砂糖を足した。

 

「あ……。これの場合、砂糖も分ける必要が」

 

 質問の前提を少しだけ変えてしまったことに、気不味く感じながら、犬童の瞳に視線を戻す。

 

「あるかもな」

 

 喉を鳴らして、犬童は笑った。

 何処か浮世離れした雰囲気を醸し出していたが、その笑みは人懐こい物だった。

 

 

 

 

 

「コーヒーとミルクそのものを分離するのは難しい、というか出来る気がしない。砂糖なら、まあ、蒸発させたりを繰り返せば、できる気がするけどね」

 

 先ほどのミスから逃れようと、葵は話を続ける。

 

「そうだな、出来はしないだろう。そもそもする必要もない」

 

「前提を変えたら出来る、かな。どっちか認識とか物理的に消滅させて、どっちかだけ残す的な」

 

「それだと分離したことにはならないだろう。元から一つだった、そういうことになる」

 

「両方、消すとか?」

 

 やはりそうなるか、犬童が呟いた。

 どうなのだろう。

 葵は振り返る。

 自らの食われた精神、魂はゲームの中に彷徨っているだろう。

 混ざり合っているだろう。

 まさにコーヒーとミルクのように。

 何時か戻ることはあるのだろうか。

 

 有り得ないとは思いたくない。

 妥協はした、だが、機会があれば取り戻したいのが本音だ。

 

「実験室に存在するフラスコのように、条件を変えられるのならば或いは」

 

 葵が半ば無意識に呟く。

 ただし、それは現実の実験室やフラスコでは不可能な話だ。

 コーヒーとミルクを分離できる、そういう設定に則るように全てを変える必要がある。

 無駄な労力だ。

 その全てを変えることが出来るような、設定できるような視点に立たなければならない。

 もっと神に近づく必要がある。

 それが個人にとって無駄ではないとしたら。

 

「試す価値はあるのかどうか。女神すら与り知らぬ……」

 

 犬童がまた呟いた。

 何かに意識を巡らせているのか、視線は窓の外を向いたまま。

 これが彼の、変人たる由縁だろうか。

 

 

 

 少しの間を置いて犬童が、葵と視線を交わらせた。

 戻ってきたのだろう。

 

「待たせたか」

 

 待ち合わせの時と同じことを口にした。

 なんだか面白かった。

 葵はそれを内に隠しながら「そうでもないよ」と返して「何を考えてたのか聞いても?」と続けた。

 

「青い鳥について、かな」

 

 求める人の数だけ存在する、幸せの青い鳥。

 人によって様々な願いに対応する。

 面白い表現だ。

 理解がある。

 『黄昏の鍵』は人の数だけ。そして人によって形を変える。

 

「いいね、それ」

 

 素敵な表現だ。

 女神が喜ぶような、夢のある形。

 葵の声が、心なし弾んだ。

 

「青い鳥は人の想いだけ、『黄昏の鍵』も人の心だけ。代わりのない唯一を示してるんだろうね」

 

 

 

 

 

 目の前に置かれた、ホイップクリームの白さが眩しいショートケーキをフォークで突つく。

 彩るように添えられた、苺の鮮やかな赤みが、食欲を湧かせてくれる。

 漂うのはとても甘い砂糖とクリームの香り。

 コーヒーの香ばしい香りと混ざって、何とも表現し難い。

 それも悪くないように、葵には思えた。

 

「さて、『黄昏の鍵』の有無だっけ。あるよ、絶対」

 

 PCだったり、アイテムだったり、エリアだったり、人によって様々な形で。

 葵が続ける。

 

「価値あるアイテムとか、友情とか。そういった誰にでも分かる物じゃない」

 

「屁理屈の状態とは異なる、と」

 

 誰にでもわかる心温まるエピソードやレアアイテムのような、誰にでもわかる体を成していない。

 己だけが求めた姿。

 だから”屁理屈の状態”とは異なるのだ。

 うん、と答えながら葵は苺を頬張った。

 好きな物を残しておく性分らしい、ケーキは皿に残っていない。

 

「求める者にとって求める儘に。ただ、それが見えるかはわからない。振り返った時に自分だけ分かるのかもしれない。だって個人にとっての唯一だからね」

 

 犬童が表現した”屁理屈の状態”と殆ど変らないかもしれない。

 葵は有ると断定できるが、何処にあるかは答えられない。

 だって知らないから。

 望みは人の心だけ存在している。

 

「『黄昏の鍵』を欲する望みが浅ければ、何時かは必ず」

 

 人によっては何処にでも転がっているアイテムが、唯一のときだってある。

 エノコロ草、スパイラルエッジ、友情、愛情、黄昏の腕輪。

 ”屁理屈の状態”と重なる部分も多い。

 分離するのは困難だろう。

 人の心だけ存在している、そんな領域だ。

 

「例えば、望むものがあやふやで、女神にしか成し得ないような奇跡の場合は?」

 

「無理に届かせなければ、有っても分からないし、使えない。ひょっとすると耐えられないんじゃないかな」

 

 精神の距離を、アウラまで。

 葵が呟いた。

 あまりに奇跡に等しい願いならば、神と同等の視点に立たなければわからない。

 求める『黄昏の鍵』が奇跡ならば、『The World』にかつて存在した女神に近づく必要がある。

 

「奇跡を蓋然性の高い段階まで自ら近づかなればならない、そういうことだろうか」

 

 犬童が自分の冷えたコーヒーを流し込む。

 可能性は何時だって存在する。

 簡単なら気付けば達しているし、難しいのなら自然と逃す。

 無意識でも行われていることだ。

 ただ、奇跡が目の前に顕現するレベルまで引き寄せるためには、近づかなければならない。

 奇跡を、必然にまで。

 少なくとも、偶然にまでは。

 

 それらを考慮して「オーヴァンが求める『黄昏の鍵』はどの程度だろう」と葵が訊ねる。

 奇跡を追うのか。

 追うとして、精神の射程をどれほど近づけるのか。

 

「曙光の都アーセル・レイへと至る途を探すくらい」

 

 犬童が笑う。

 莫迦なことを言っているだろうと。

 曙光の都アーセル・レイ、神々が卑しい人を見限って去った場所だ。

 天上の途を見つけなくば辿り着けない神話の地。

 『The World』の設定を擬えたのなら、それは贖罪の旅だ。

 英雄にも、好奇心に駆られた愚か者の目的ではない。

 

「本当に探しているなら、俺も良い場所を知ってるよ」

 

 葵はそれが莫迦なことだとは思わない。

 誰にだって、何にだって必死になることは有るのだから。

 かつて見た勇者だって、愚直に進んだ。

 『黄昏の鍵』と同じなのだ。

 

 人の心、精神の数だけ、存在する。

 だから教える。

 隠されている美術館を、『The World』に深く接する可能性を見出す場所を。

 

 

 

 

 

 --2 θ隠されし 禁断の 展覧会

 

 巨大な青銅の扉、その横に刻まれた傷が赤く明滅した。

 そして、オーヴァンとヤクモの姿が現れた。

 

「ゲートをちょろまかしてるから誰も知らないよ。多分。Auraはどうかな」

 

 ようこそ、バル・ボラ美術館へ。ここを利用するなら傷を使ってね。

 そう言葉だけ残して、ヤクモは継ぎ接ぎの腕で扉を開け、先に進む。

 その後を、左腕が異形へと変異していた銃戦士のオーヴァンが付いて行く。

 

 オーヴァンを歓迎したのは、積み上げられたデータの山だ。

 未整理の情報。

 書籍の状態だったり、裸のまま羅列した電子記号のままだったり、姿は様々だ。

 無造作に置かれていたり、飾られている美術品も、瞬く間に姿を変えていく。

 

「愉快な場所だな。ここなら何でも知った気になれそうだ、きっと愚者がよく育つ」

 

 オーヴァンが、手元にあった電子媒体に目を通す。

 内容は、CC社が火事で焼失したはずの情報だ。

 他にも視線を巡らせば、消え去ったR:1の情報で溢れている。

 

 「賢者も育つよ、と言いたいけど。利用しているのが俺だけだから察するしかないね」

 

 オーヴァンは賢者か愚者か、どちらを目指すのか。

 ヤクモが目線で訊ねた。

 返事は無い。

 笑みを浮かべ、手にしていたデータを床に置くだけだった。

 

 

 

 

 

 ヤクモの先導に従って、オーヴァンも続く。

 ”故郷”と題された額縁に、ヤクモの両親が住む土地が映し出され、続いて外国の病院が映し出された。

 通り過ぎながらヤクモが口を開いた。

 静かな美術館には、声量が小さくともよく通る。

 

「これ、故郷が映るらしいよ。俺の親はどうにも面倒を見るのが嫌になったらしいんだ、だから俺は東京で一人暮らし。オーヴァンは外国生まれ?」

 

「あれは妹の病院だな」

 

 俺はあまり定住しない、性に合わないことばかりでな。そうなんだ。

 二人は訥々と会話を交わしながら歩く。

 飾られた美術品は数多あり、全てが異なる”絵”を見せる。

 話題には事欠かない。

 

 

 

 内装ががらりと変わる。

 落ち着いた都内の美術館の廊下と言った通りから、エスニック調の部屋へ。

 二つの台座が目に入った。

 

「カイトとAuraだ」

 

 ヤクモは、ディスプレイ越しに、己の過去を見た。

 PCながらも決意を秘めた強い瞳を持つカイト。皆が勇者だと讃えるが、実際の姿を知っている者は少ない。

 儚げで、電子の海の遥か深い所に潜ったアウラ。かつて『The World』の中枢を担い、そして見守るために去っていった。

 

「アイナ……」

 

 オーヴァンが思わずと言った具合に漏らした。

 見る人によって変わるのだろう。

 ヤクモにはカイトとアウラだった。

 オーヴァはまた違う姿。

 

 

 

「母胎と男根を模した像、か。自我と意識、自己に繋がる道……」

 

 オーヴァンが呟いた。

 己を成した故郷などの環境。

 それぞれによって見える男女が変わる像、それは男女を記号的に模した物。

 分身であるPC。

 意味するのは境界の不明な自分という存在だ。

 

「よくわかるね。俺にはさっぱりだ」

 

「ここの司書だろう、展示品が泣くぞ」

 

 ヤクモがその言葉に首を振る。

 司書はいない。

 単にR:1時代に見つけただけのロストグラウンドだ。

 元型であるfragmentから脈々と繋がる、データの遺産。

 

「ここに司書はいない。誰だって自由に使っていいんだよ」

 

 誰にでも使えるわけではないから公開はしないけど、と続けた。

 

 「誰も知らないのなら、それは無いのと同じこと」

 

 オーヴァンが呟いた。

 

 

 

 

 

 芝生が敷き詰められた中庭を抜け、木立の中にある小さな建物へと足を運ぶ。

 小規模の教会。

 ヤクモが扉を開けると、天窓から射し込む光に照らされた内部が見える。

 寂れた内装は、土ぼこりが待って、人が踏み入れなくなって久しいのだろう。

 酷くリアルだ。

 

 

 

「すべての元を生み出したハロルドは天才だったらしい」

 

 仲間がそう言ってただけで俺にはよく分からないけど、と葵が教会の先にある渡り廊下を進みながら言った。

 

「究極AIを作り、娘を生み出す。その過程でモルガナと呼ばれる揺り篭を作り、人をサンプリングした」

 

 廻廊を抜け、ロストグラウンドを映し出す絵画を横目に、歩みは止まらない。

 

「なにを視て、なにを聴き、なにを嗅ぎ、なにを味わい、なにを触れ、なにを意識したのか」

 

「モルガナ・モード・ゴン」

 

 オーヴァンから発されたモルガナの名に、葵がちらりと視線を向けた。

 究極AIを生み出すための母胎、ただの揺り篭、それがモルガナシステム。

 死を恐れ、無理やり孕まされた娘を殺そうとした鬼母。

 生むことしか存在の意義がなかったシステムは、拒否して狂っていった。

 歪みは波となった。

 波状の如く、形を変えて、様々な影響を残した。

 

「なにゆえに知覚する。わたしがいるからだ」

 

 何処までも球形の特別展示室。

 扉が仰々しく音を立てて開いた。

 八角形を成すように、八つの台座が並んでいるだけの部屋。

 

「より高次元で演算された器官、その元型の八相。オーヴァン、『黄昏の鍵』が絶対にあると俺が断言できるのはハロルドが天才だからだ。『The World』は深い部分でプレイヤーと繋がっている、理解できるかな」

 

「誰よりも、心底に」

 

「それは素敵なことだ。そして最悪でもある」

 

 オーヴァンの目の前にある台座から、像が浮かび上がる。

 半透明の、人の目を象ったような種だ。

 ヤクモが戦えなかった、倒せなかった波の姿。

 

「その缶詰はコルベニク……か」

 

「缶詰か、面白い表現だ。だが、お気に召さなかったようだな」

 

「まあね」

 

「それなら如何する?」

 

「如何もしないよ。中身がどうだろうと、パッケージされているなら無理に開けない」

 

 それは俺の役目ではないのだろう。

 発することの出来ない言葉が、ヤクモの口の中で溶けていった。

 

「何時かそれを後悔するかもしれない」

 

「構わない。常に成功することなんて無理なんだ。誰かに任せるよ」

 

 ヤクモには、ミルクと混ざったコーヒーを分離させることは出来ない。

 出来るのは消滅させることだけだ。

 もしかすると、消滅させることすら出来ないのかもしれない。

 任される誰かは、勇者か。

 もしくは『黄昏の鍵』か。

 オーヴァンの求める奇跡が重ければ重いほど、誰かが奇跡へと重なっていく。

 そして、オーヴァンはアウラへと精神の射程を詰めることになる。

 

 「俺は好きな物を残しておく性分、なんだと思うよ」

 

 生身の躰が邪魔になる。

 唯、識だけに。

 ハロルドが辿ったように、オーヴァンも辿るのだろう、それがヤクモは嫌だった。

 

 今は問題を遠ざけただけに過ぎない。

 

 

 

 


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