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「月島、状況は」
血抜きしながら鶴見が呟くように部下の月島に問う。
びくんびくんと震えていた獲物も、少し前までは口から言葉を垂れ流していたが、今や首と大腿の付け根から血を流すのみ。
ただの血袋と化していた。
その血もやがては失われていき、皮も剥ぐとなれば残るのは肉と骨だけだ。
獣しか食べることのない屍肉と骨だけだが、鶴見の知る死体の中なら上等な方だ。
肉は理性なき獣すらも求める。
残った骨は、知性を持つ死を悲しむ者だけが求める。
この血袋の末路は、風化して雄大な大地と混ざることで答えとなるだろう。
「死者が7、負傷者が3です。傷を負った物も単に自律呼吸ができているだけの模様です」
「そうか。……不運だったな」
「……はい。実に、不運でした」
鶴見の言葉に、月島が絞り出すように顔を伏せながら答えた。
死者の中には月島とともに戦場を駆けた者も居た。
月島の言葉はこのおそらく死者に向けて、それもこの惨状を作り出した男に向けてだろう。
しかし、鶴見は別の意味で言葉を吐き出していた。
そもそもこの場に誘導したのは鶴見だった。
男に情報を与え続ければそれに答えるかのように呼応して、本土で死体の山を築きながら北の大地に上陸したあの男に。
「囲み、十分な距離を置いて銃で仕留めるようにと指示を出したはずだったのだがな」
「……どうも市街地で銃撃を躊躇い、そのまま接近を許したようで」
「そうか。……儘ならんな」
幾らか手を回してはいた。
だが、本土で捕まればそれまで、上手くいけば儲け物程度のはずだった。
撒いた種が、間違った芽吹き方をしてしまった。
いや、違う。
あれは獣だった。
人の味を覚えてしまった獣。
餌の代わりに不要な人肉を与えられて育った獣だ。
そんなものを種と表現したり、従来のやり方で飼い慣らせると考えたのが間違いだったか。
損壊の激しい遺体を思い出す。
割られた頭部から炸裂した脳漿と血液、飛び散った肉片、零れ落ちかけた眼球。
頭部が無事な遺体は、肩から腹まで割かれるように千切れて血潮とともに臓物が零れていた。
あれは人の殺し方ではない。
「サンケ・ペツの
「三毛別の緋熊、頻繁に聞く名でしたね。三毛別……あれはこっちの
「いや、そうじゃない。あれは本土の山から来た。サンケ・ペツとはアイヌ語で『川下へ流しだす川』を意味していて、戦場でアイヌ出身の者がそう呼んだのは始まりらしいぞ。三毛別とは全く関係ないのだとか」
近づいた露兵を盾にして、躊躇った露兵を殺す。
殺した露兵を盾にして、躊躇わなかった露兵を殺す。
騒がしい露兵がいれば首を引き抜き、騒がない露兵も引きずり回して盾とする。
流れる敵兵の血は、まるで川の如く。
アイヌの民は純朴で、そして自然への畏敬を常に抱いている。
そんな者がサンケ・ペツと表現した。
ペツは水量の豊富な川の意が有り、アイヌは森と川に生かされている。
如何ほどの血を流せば至れるというのか。
「ヒグマには銃撃を徹底するように周知する。近接で熊狩りする狩人になるためにこの地に来たわけではないからな」
「はい、ええ。……市街地、それも人込みであろうとも、でしょうか」
「今後を考えれば避けたいところだが、本心はそうなる。この程度気に病むなど我々には今更な話だ」
血を抜き終えた死体を眺めながら、鶴見はため息をつく。
銃があろうとも、獲物に殺される猟師は多い。
知恵を絞り、人事を尽くし、命を賭けて狩ったとして、そうして得られる対価のなんと少ないことか。
皮に利用価値は無く、肉は食べられず、骨は言うに及ばず。
人並みに知性を養い、人以上の狂暴さを秘め、人の争いでその爪を研ぎ、人に紛れて市井に潜り込める理性を持つ、そんな獣が虎視眈々と見ているのだ。
「それに……。そう、私は彼と話したことがある。……先ほどの第二回年頃男子☆ヒミツのおしゃべり会以前に、第一回年頃男子☆ヒミツのおしゃべり会を開いた」
「確かに密会していましたね」
「第一回年頃男子☆ヒミツのおしゃべり会だ」
「……第一回年頃男子☆ヒミツのおしゃべり会で話されていましたね」
「ああ、大っぴらには言えないが悪くなかった」
帰ることのできない故郷の話。
入ることの無くなった山の話。
もう見ることのできない家族の話。
そして……。
「私は尋ねた。これからどうするのか、と」
月島が席を外し、情報を与えたその瞬間に。
情報を見終えた男の言葉は強かった。
「『56人殺すのさ』、と。彼はそう言った」
その瞳は爛々と輝いていた。
そう見えた。
鶴見にはそう見えてしまった。
「それは……」
「そして、先ほどの第二回年頃男子☆ヒミツのおしゃべり会でもう一度訊ねた。何人殺したのかを」
地元で名のある豪邸に押し入り、警備を物ともせずに処理し、そして家主を殺した。
鶴見が駆け付けた時には、一つの死体だった物が転がっていた。
生きていて、死んでいなくて、助からなくて、それでも長く生きそうな人間だった何かと、一仕事やり遂げたような笑顔の男。
部下に囲まれ連行されて、再び密会をするときには鋼の手枷で縛られ、鉄球の繋がった足枷を引きずっていた。
鉄球を物ともせず、その重さの乗った蹴りで見張りを殺し、壁を砕き、そして逃げ切ったあの男。
「『56人殺したのさ』、と緋熊は私に答えた。わかるか。警察も殺して、巡邏も殺して、兵も沢山殺して、それなのに56人」
「あれからすれば56人だけが人間だった、と」
「或いはその56人が……。いや、これ以上は辞めておこう。理解しても意味がない。考えは知りたいところだが同じ穴の貉に、いや同じだが、それでもわざわざ巣穴まで一緒になる必要もない」
野生の獣は殺した獲物の数を数えない。
知性がないから、獲物だから、必要ないから、それが自然なことだから。
そして、人を喰った熊は人の味を覚える。
ずっとずっと。
殺した数を数えるかのように、それが美味かったことを覚えている。
「さて、私はこの皮を鞣すが一緒にやるか?」
「……遠慮させていただきます。私はまだやることありますのでここで一度失礼します」
「ああ、私も作業が終わればすぐに行く」
月島の出ていく姿を見送る。
あの男は復讐を果たした。
復讐は虚しいことだと誰かが言った。
果たしたことも無い癖に。
あの男のなんと晴れやかな顔か。
見せてやりたいくらいだ。
苛立ちなのか、僅かに手元が狂い、皮に肉が残る。
『中尉殿の目的はなんですか?』
戦友やその遺族に報いることだ。
嘘はない。
無駄な虚栄心のせいで散らずに済むはずだった命に応えるためだ。
嘘はない。
徒花が強い風に吹き飛ばされないように壁を作って守りたいだけだ。
嘘はない。
「津山に3、緋熊に7。……まったく、大損害だ」
あの時、金塊への導となる刺青を持つ津山が現れなければ緋熊を殺せたかもしれない。
鶴見は自分がその場に立っていたであろう、もしもの可能性を少しばかり考えた。
家族を殺された、その復讐を終えた男を殺せただろうか。
殺せた。
きっと殺せた。
嘘は、ない。
「羨ましい……。いや、そうでは……。おっといかんいかん、汁が垂れる」
ぽつりと呟いた独白に反論しようとして、戦場で吹っ飛ばされた前頭葉辺りから時折垂れてくる汁に気づいてすぐに拭う。
無駄な戦いに報いるために、金塊を追っている。
嘘は……。
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「イイジマルリボシヤンマですね。この時期に見られるようになります。こういった昆虫たちが、湿原の動物たちの食料となり、生態系を支えているんです。食物連鎖は奥が深く、だからこそ美しいのですね。味は……うん、うまい! そしてこの餌につられたアオサギ、この子たちは意外と色々な場所で見られますが、こういった生態が築かれていることを見て確認できるのは本当に素晴らしいことだと思います。……ウッ」
「すげぇ! すげぇよ先生! これが自然……!」
その場で掴んだヤンマを食べながらアオサギに愛を放つ先生の姿を見て、つい俺は興奮の言葉を漏らした。
「これがトンファーキックだ!」
唐突なカポエラ。
脳が飛び散る見張り。
砕ける壁。
走り去るオリ主。
――そして、運命と出会う。