しかしながら『磯の香りの消えぬ間に』は予想以上に面白く、脳内で漁師を僕に置き換えてヒロインと一緒に脳内で旅をしていた。
おおよそ五時間ほどか。気付いた時には忌々しいクマの声が聞こえてきて、現実へひっぺ返された。そのせいか凄く眠い。ヒロインちゃんともっと脳内旅行したかった……と後悔しても仕方ないし、僕は重たい瞼と身体を起こし、食堂へ向かった。
食堂に顔を出すと、あまり朝に見かけない顔ぶれがいた。黒い制服に三つ編みだったので背面しか見えていないが、彼女が腐川さんだとすぐにわかった。しかし珍しい事もあったもんだ。朝はいつも顔を出さない彼女なのに、野菜をおかずにご飯と味噌汁を啜っていた。
するとどうしたことか、僕の脳内に悪戯心が走った。どうやって驚かそうかと考えていたのだ。いい年して何考えているんだとツッコミが飛んできそうだけれど、僕は元から人を驚かすのが好きで、ドッキリとかテレビでよく見ていた。特に5、6歳ほどの子の驚いた顔は特に愛らしい。
しかし流石に食事中に驚かすのは後を考えると面倒臭い事になりそうなので、食後に驚かすことに決めた。
驚かし方はこうだ。後ろから忍び足で近づいて真後ろに立っておくのはどうだろう。うん、絶対驚くだろう。驚くだろうが、しかしながらこの作戦は倫理的に問題がありそうだ。まず女子の真後ろに、男がぶっきら棒に立つというのは、明らかに犯罪じみている。自分の立場になったら滅茶苦茶怖い。
うん、やめよう。驚かすのはよくないよね。
僕は改心し、普通に腐川さんに話しかけることにした。
「おはよーさん、腐川さん」
「ふれあぁええぇぁぁあぁ!?!?」
「ふえぇ!?」
あまりの悲鳴に、僕の方が驚かされた。
なんちゅう悲鳴上げてんだよこの野郎! 驚いただろうが!
悲鳴を上げた腐川さんは、すぐに今座っていた席から離れ、僕から遠い距離をとった。
「はぁ!? …………へ?」
いや、へ? じゃねぇよ。
「……おはよ、腐川さん」
「…………、な、な……お、おはよう……」
なんと腐川さんが挨拶をした。何だか挨拶をするような柄ではないと思っていたけれど、まさか返してくれるとは。いやまあ、完全に成り行きで挨拶した感じだったろうだけれど。まあそれでも僕は少し新鮮味を感じていた。ショックは隠せないけれど。そこまで驚くなんて、だったら驚かしとけばよかった。
「……い、いや、違う……。な、なんでアンタが、ここにいんのよ……」
いや違わない。挨拶することは必要なことだ。
腐川さんの僕に対する対応に更にショックを受けながらも、僕も対応する。
「もう朝やし、朝食を摂ろうかなぁ、ってな」
「そ、そりゃそうよね……」
「ん、なんかあったんか?」
「え? あ、な、何もないわよ……」
「あ、せやせや」
僕はズボンのポケットに仕込んでいた腐川さんから借りた本を取り出す。
「この本、面白かったで」
本を腐川さんの胸元に差し出す。そうすると彼女は手を大きなものを分かりやすく説明しているかのように手を大振りし、ジェスチャーでもしているのかと思えるほどあたふたしていた。
手の動きがようやく静まり、どもり声で「あ、ありがとう……」と言ったあと、食堂から逃走するように去っていった。
感想、もう少し言いたかったんやけどなぁ……。
腐川さんはあの通り、人見知りがかなり激しい性格だから、話をしようとしてもなかなか話を聞けない。ちょっと行きすぎな感じもするけれど。
まあまた会ったときにでもすればいいだけの話だ。この学園に投獄されている限り大丈夫だ。
死なない限り、また会える。
「あれ、河上じゃん」
僕もそろそろ食事を摂ろうと考えながら腐川さんの片付けてなかった食器を見ていたら、食堂に江ノ島さんが入ってきた。
「おはよ、江ノ島さん」
「え? ……あー、おはよう、河上」
もうそろそろこの人危ないんじゃないの? 挨拶しただけで凄い焦ってたよ。こういう天然ボケのところを見て、本家江ノ島はよく殺害を試みないものだ。いやまあ、さっきも言ったけど本家も同じルールに縛られている立場なんだけどね。いやもしかしたら、彼女はこの状況を面白がっているのかもしれない。
「でさ、今日どんなおかずあるの?」
その後、僕らは軽い世間話をして朝食を過した。江ノ島さん──戦刃さんは天然気質なところがあり、ときどき話したらやばい話がいっぱいあったけれど、話が弾んで楽しかった。
朝食を終えた僕らは、各々の個室へ帰った。
この後どうするかと僕は考えていると、中々思いつかなかったので心を無にして、お坊さんがよくする座禅をしてみた。といってもよく分からなかったのでベッドの上に適当にあぐらをかいで、手を太ももにおいて目を瞑っただけなのだが、これが結構効果的でなかなか気持ちが落ち着く。
しかしながらいつまでもそうしていられたわけではなく、突然の来訪者により座禅(というより無心)をやめた。いきなりインターホンの音が聞こえるもんだから、
ベッドから降りて玄関に向かいドアを開けると、そこにはセレスさんが立っていた。いつも通りポーカーフェイスで、笑った感じの顔つきだった。
「遅いですわよ、河上君。わたくしが着たら五秒で出ないといけないでしょう?」
「いきなりインターホンなって出れる人がおるかいな」
「口答えは容赦しませんわよ?」
「…………」
イントネーションは特に変わった様子はなかったのに、恐怖を覚えるほどの本気の威圧感を感じ、僕は自然に黙ってしまった。
「うん。忠実でよろしいですわ」
「……はい」
僕はなんて答えればいいんだよ。
「それで河上君。実は遊びにきたんですが、そろそろお部屋に入っても宜しくて?」
「え? ああ、いいよ。どうぞどうぞ」
部屋に誰か来るなんて珍しい事もあったもんだと思いながら、僕はセレスさんを部屋に入れた。
「質素な部屋ですわね。もっと着飾ったらどうですの」
「ええやないか。これが落ち着くんよ」
「わたくしは、もう少しごちゃごちゃしている方が落ち着きますが」
セレスさんの言うとおり、どちらかというと僕もごちゃごちゃしている方が落ち着くタイプなのだ。じゃあなんでそうじゃないかと言うと──ていうか言わんでもいいことなんだけれど、別に好きでごちゃごちゃしている訳じゃない。面倒で放置しているだけで、別に好き好んでごちゃごちゃする必要はないだろう。
セレスさんはそう言いながら、近くにあった椅子に腰掛ける。
「……一つ、ご質問よろしいでしょうか」
「え、うん」
唐突に言い出すもんだから、何も構えず僕は返事をした。
「あなたは生徒達の中で好きな子とかいらっしゃります?」
「え、好きな人?」
そういえば考えた事がなかったけれど、確かにこれといって僕はこの人が特定で好きだ、ということを考えた事がなかった気がする。
たとえば僕が好きなアニメに出てくるキャラであっても、やっぱり全員あってこそ、と思っている。しかしこの人特定で好きというものはあんましない。ケータイやパソコンの壁紙も全員集合系や、ペア系が多かったりして、特定の人物だけの画像というものを持っていなかった。……いや、ピンクなものは話が別だけれど。
よくある結婚システムだとかも、正直すごく悩んだりする。あの子がいい、あの子もいいと悩んでしまって、もういっそ結婚せずにハーレム作ろうよと思いたくなる。
このダンガンロンパにおいても、全員好きなキャラなのだ。殺人なんて起きて欲しくなかったのに、おきてしまったんだけれど。
でもなぜセレスさんは僕の好きな人を聞いてきたんだろうか。そんな事聞いても何も生産性もないのに。……もしかして俗に言う、照れ隠しとかはありえないか? 僕に好きな人がいるかどうか気になってついつい聞いてしまったとか。
だけどセレスさんがそんな回りくどいことをするだろうか? ダンガンロンパのゲームをやっていた時、好感度最大まで進めたらランクが実質ナンバーワンになったことはあったけれど、あれも結構直接的だった気がする。別に「I love you.」とか言っていたわけじゃないけれど、それでもナイスなジョークをぶちかましていた気がする。
「で、好きな方とかいらっしゃるのですか」
「え、ああ。ちょっと待って」
「わたくしはただ好きな方がいるかどうかを聞いているだけですわよ? 何故そんなに深く考える必要があるのでしょうか」
「……おるよ」
なかなか急かしてくるセレスさんに少し苛立ちながらも僕は正直に答えた。
「そうですか。あなたはその人を、大切にしたいと思いますか?」
「当たり前やがな。好きな人なんやから、大事にするのが当然や」
「勇ましいですわ。あなたに惚れられた人は、さぞ嬉しいことでしょうね」
なんだか気味の悪い感じになってきた。何だか他人行儀というか他人事というか、まるで自分を含めていないように聞こえる。セレスさん自身が聞きたいことじゃなかったのだろうか。裏の裏のことを仄めかすような、そんな台詞に感じた。
「それを聞いてわたくしは一つ、提案があるのです」
「提案? なんやまた急に」
「ささいなことですわ。前の石丸君の提案を再び提案するだけです」
「……清ちゃんの提案?」
「はい。今晩から、夕食は全員揃って食べる、というのを復活させようと思ったのですが、どうでしょう」
「…………」
こんな離散した状態で、全員なんて集まるだろうか。
人殺しが起きて二回。次殺されるのは自分じゃないかと疑心暗鬼に陥っている状況で、夕食を一緒に食べようと言ったところで、果たして皆は来てくれるだろうか。
「わたくしは思うのです。今こそ全員で団結して、黒幕に歯向かう力をつけようと」
「……結構、熱いキャラやってんな、セレスさん」
「いえ。わたくしはそう思っているだけですわ。それにこれは、あなたのためになると、わたくしは思っています」
「僕のため?」
独善的な印象を受ける彼女から、「僕のため」なんて他人に尽くすようなこと、今まで聞いたことのない言葉だった。本来ここで怪しいと思える言葉だったと思うのだけれど、僕はすんなりとその言葉を受け入れた。
「そうです。あなたのために。そして、あなた自身が気付く事もあるかもしれないですわ」
「は?」
気付く事って、なんだそれ?
「わたくし、夢を見ましたの」
「え、ちょちょちょ。待ってえや。何の話やねん」
「……いいですから聞いてください」
呆れるよう聞こえるその声は、どこか弱々しさが混じられた声でセレスさんはそう言った。
「わたくしが見た夢は、とてもおぼろげなものでした。何かに追われる夢とか天高いとこから落ちる夢とかではなく、ただただ生きていると感じさせられた夢でした」
「なんかまた、変な夢やな」
「ええ。変な夢でした。まるで今ここにいるわたくしは夢であるかのように錯覚してしまうほど、変な夢でした」
「……そんなリアルな夢やったんか?」
「いえ、リアルな夢ではありません。……いえ、リアルな……感じではあったのですが……、とにかくとても形容しにくい、と言いますか……」
いつもの断定とした口調はなく、歯切れの悪い言い方ばかりだった。
「……その夢を見ていると、不安に駆られるのです。自分が夢から消えていくような……不思議とそこにいるのが当たり前だったのに、そのリアルが、消えていく夢……」
「…………」
もしかしたらセレスさんは、記憶を失くす前の記憶を取り戻そうとしているのかもしれない。彼女達の、本来の学園生活はとても楽しい思い出だったのは、すごくわかる。その楽しいひと時も、超高校級の絶望により楽しいひと時は快楽のひと時に摩り替えられた。
セレスさんの顔は、雪の一粒を手のひらに乗せたら水に溶けるとうな、儚く小さな顔をしていた。
「……なんででしょうか。別にこんな話をするためにここに来たわけではないんですけれどね。無性に、本当に突然話したくなって……」
「そうか……」
「そうですわ」
「…………」
この間の時間は、とても短いはずだったのだが、僕にとって凄く長く感じられた。そして僕は短い時間のなかに、長く考えた言葉を言う。
「大丈夫や、セレスさん」
「…………」
「僕がきっと、この学園から皆を解放して、絶対に助ける。んでもって、いつか皆でポーカーしよう」
「…………弱いくせに、やけに強がるのですわね」
そんな虚弱な声量で、しかしはっきりとそう言った。嬉しそうに僕は聞こえた。
「いいでしょう。そうきたのであれば、わたくしも本気を出すべきだと思います。しかしわたくしの本気を前にしたら、あなたはジェンガのように崩れ去るでしょうが」
「そんときゃ、セレス手法のポーカー必勝法の伝授、お願いいたします!」
「そうこなくては」
そういうとセレスさんは椅子から立ち上がり、玄関へ歩く。しかしドアの手前でセレスさんは急に立ち止まった。
「河上君」
「ん、なんや?」
「もし困った事があれば、少ないながらもわたくしも協力いたします。いつでもご相談ください」
「はは、なんやそれ」
「そうですわね。あ、それともう一つ。夢のことで一つ思い出したのです。わたくしの見た夢と、このモノクマのおこした事件。共通点が存在すると思うんです」
「共通点?」
「ええ。ただ夢は漠然としすぎているせいで、どのような共通点なのかはわかりません。ただ、そう感じるのです」
「ふん、わかったわ。考えてみる」
「それと、今日の本件……つまり夕食の集合に関してですが、収集をかけますので、夜七時に集まってください」
「オッケーわかった」
「河上君、信じてくれてありがとう」
「え?」
そういうと、セレスさんは部屋から退出した。
……なんや最後の言葉。なんか、嬉しいやんか。
まあ正直言うと、ちょっとしたキャラ崩壊的なものは感じなくはないけれど、実はそれが彼女の姿だったというのもあるかもしれない。とくにセレスさんが見た夢というのも、相当彼女の心身を崩してきたのだろう。誰かに甘えたかったのかもしれない。
自分で言うのもなんだけれど、彼女もまだ高校生であり思春期だ。色々葛藤のある時期だし、一番悩みやすい時期だ。不安定になるのも当然だろう。
しかし個人的な話になると、僕にその事を相談してくれたのは単純に嬉しかった。