(1)
「あ、おはようー瞳子」
「…おはようございます。お姉さま」
五日目の朝、祐巳さまの様子はいつもと変わらない。
昨日のあれは見間違いだったのだろうかーーー?瞳子がそう都合良く解釈しようとした時、
「祐巳、何かおかしいわね」
瞳子の背後から声がした。ーーーバッと振り返ると、祥子さまがシーーー!と口元に指を立てて視線で諭してくる。祐巳さまには聞こえないように、ということらしい。
「ちょっと、林を散策しない?」
瞳子がそれに頷きで返すと、祥子さまは祐巳さまへと声をかける。
「祐巳!少し外に出るわ」
「え?私も行きますお姉さま!」
「あなたはやらなければならないことがあるでしょう?」
「へ?」
「宿題。あなた持ってきたはいいけど、全然手を付けてないじゃない。この後は令たちが来るのだし、明日はパーティがあるのよ。いつやるの?」
「…今、ですね」
祥子さまの圧力に屈し項垂れる祐巳さまを置いて、二人は別荘地周辺の林へとやってきた。
「祐巳って優しいでしょう?」
唐突に告げられる祥子さまの言葉に瞳子は反応が遅れた。
「何でも受け入れるし、滅多に怒らないわ」
「それは、そうですわね」
瞳子は祥子さまの意図が読めずに、少し警戒する。
「けれどそれって、何にも強い関心がないからとも言えるわ。確固とした自分の意志とかね」
「これは私たちのせいでもあるけれど、祐巳は自分に自信がないのよ」
そう…だろうか、謙遜し過ぎな嫌いはあるし、自身への賞賛へは無頓着であるが、それは鈍感でマイペースな祐巳さまゆえで、そこにネガティヴな思考があるとは思えなかった。
「自分には特別なものは何もないと思っている。だから今祐巳が手にしているものは、偶然と奇跡の結果で、いつかそれが失われてしまうことを恐れているわ」
「それは違いますわ!」
瞳子は我慢ならなかった。彼女が彼女だから皆が惹かれるのだ。
「そうね、けれど私たちみたいな特殊な立場と環境の人間がそれを言ったところで、説得力に欠けるのよ」
瞳子は言葉に窮してしまう。確かに今祐巳さまの周りにいる人間は少し特殊かもしれない。小さい頃から周りに期待されるのが当たり前で、それに応えるのも当然の義務かのように熟し、人の上に立つことに慣れている。自分が特別と思ったことはないが、恵まれているとか普通とは違うと言われれば納得せざるを得ない。
「春休みに会ったときにね、言ったのよ『期待されるのが怖い』って。失望への恐怖からくる言葉だけれど、自覚しただけでも大した進歩だと思ったわ。そのきっかけはたぶんあなたね」
瞳子は思わぬ指摘に不意をつかれた。
「祐巳が自分から関心を持って、自分の力で掴めたと思える初めての経験が、瞳子ちゃんなのよ」
「祐巳にとって瞳子ちゃんからの拒絶は堪えるでしょうね」
「私はそんなつもりじゃ…」
些か呆然とした状態で答えると、祥子さまがふっと表情を和らげる。
「こればかりは、祐巳がもっと自身と向き合って乗り越えなければいけないことだから、気にしていても仕様がないわ」
「今は、側で見守ってあげてちょうだい」
そう言って慈愛に満ちた微笑みを浮かべた祥子さまはとてもまぶしかった。
(2)
「ピアノに合わせるなら、フルートかヴァイオリンがいいんじゃないかな」
相変わらず、男装の麗人よろしくサラサラのショートヘアを掻き上げ、スラッとした体躯をソファに投げ出して、そう答えたのは卒業式以来の令さま。
「でも去年と同じ歌なんて少し趣向が足りないんじゃないの?」
そのお隣で、遠慮なく厳しい意見を投げるのは、今となっては見た目だけが薄幸の美少女、由乃さま。
「けれど、それが気に入られたのなら変える必要はないのでは?」
そんな由乃さまにも物怖じすることなく応えるのは、姉の手綱を握る妹、菜々ちゃん。
「二曲披露してはいけないのかしら?」
少し遠慮がちに解決策を提案するのは、まるで絵本の中から飛び出してきたお姫さまのような少女、志摩子さま。
「そしたら、もう一曲をどうするか考えないといけませんね」
そう姉の意見に同調するのは、一見しっかり者の単なる妹バカ、乃梨子。
「もう一曲ねえ、あまり難しいのでなければ大丈夫だと思うわ」
祥子さまの言葉によって、二曲ということはほぼ決定した。
しかし、三人で頭を抱えていた問題も五人も加わるといろんな意見が出るものであるーーー。
昼食後の昼下がり、小笠原家の別荘の広間では、明日のパーティについての作戦会議が行われていた。
つい数ヶ月前までの薔薇の館を彷彿とさせるこの光景ーーー、懐かしさに心が浮き立っているのは瞳子だけではない。…チラッと隣の祐巳さまを窺い見ると、その心底楽しげな表情に、午前中までの瞳子の憂いも晴れていく様であったーーー。
まるでタイムスリップしたかのような錯覚に陥りそうだが、菜々ちゃんの存在が、しっかりと私たちが前に進んでいることを示してくれている。ある意味アウェーなはずの菜々ちゃんが肝の座った子でよかったーー。まあ、そもそも菜々ちゃんを祥子さまに紹介したいという由乃さまの我儘から実現した訪問だと先ほど知ったのだが…。
「『アヴェマリア』はいかがでしょうか?」
二曲目を皆が思案している中、そう言ったのは志摩子さまであった。
「っえ??むりむりむり!無理だよ志摩子さん!」
祐巳さまが勢い余ってつんのめりながらも必死に却下する。
「伴奏は問題ないけれど、あれはラテン語なのだし、素人が歌うにはレベルが高いでしょうね」
祥子さまが冷静に判断して、祐巳さまは安堵の溜息を吐く。
「祐巳さんが歌える範囲かあ」
うーん、と顎に手を当てて考えていた由乃さまは何か思いついたのか、パッと表情が華やぐ。
「リベラの『あなたがいるから』なら、授業でやったから祐巳さんも歌えるわよね?」
瞳子の嫌な予感を裏切り、由乃さまの出した意見は至極真っ当なものだった。その時たまたま目に入った乃梨子が目を丸くしているのも失礼だとは責められない。
「うーん、それなら覚えてはいるけど」
「そう、曲はそれで決まりね!」
しかし、祐巳さまはどうも不安そうな顔をしている。
「後で練習しましょう。だからそんな顔しないの!祐巳」
「…わかりました」
そして当然のごとく祥子さまには逆らえないのであった。
「じゃあ、伴奏をどうするか決めないとね?」
「ピアノは祥子お姉さまの方がお上手ですので、瞳子はバイオリンでお願いいたしますわ」
こうして、西園寺家の曾お祖母さまへと贈るプレゼントはつつがなく決まった。
「それにしても、去年敵地に赴いてまんまとボスを篭絡した祐巳さんは流石ね!」
「ちょ、由乃!」
一息ついたところで、
由乃さまは瞳を爛々と輝かせ、興味津々という風に話を振る。が、あまりにも身も蓋もない言い方に令さまが焦る。それでこそ由乃さまである。
そこで「ブッ!!」と紅茶を吹き出しそうになりながら笑いを堪える菜々ちゃんもやはり大物だと思う。
「でも、ボスの意見が浸透していない下っ端には仕返しされる可能性もありますよ?」
何を思ったか、乃梨子が由乃さまに乗っかったーー。瞳子は白けた瞳で乃梨子を見遣るが、その内容自体は実は懸念していたことでもある。
「乃、乃梨子?」
志摩子さまはギョッとして乃梨子を見つめていたが、
「…ふう」とひとつ物憂げに溢された溜息に、皆の視線がそちらへと集中した。
「…ええ、相当悔しかったみたいだから、去年より気合の入った仕掛けはあるかもしれないわ。ごめんなさい祐巳」
好き勝手に言う二人を咎めることもなくーー、いや、それ以上に祐巳さまのことが心配なのだろう。
祥子さまは途端に憂わしげな表情を見せる。
「大丈夫ですよ。私はお姉さまや瞳子さえ側にいてくれれば、何も怖いものはありませんから」
そんな顔を曇らせた祥子さまに対し、柔らかく落ち着ききった表情を見せる祐巳さまは、先ほどまでの不安で自信がない様子とは一変していた。
祐巳さまは誰かのためにこそ力を発揮されるのかもしれないーーー。
「あーあ。私もそのパーティに参加できたらなあ」
束の間の清寂な雰囲気をうち破って由乃さまが言い放つ。
「お姉さまは、ただ争いに参加したいだけでしょう」
すると菜々ちゃんがすげなく切り捨てたーーー。
「菜々、あんた最近調子に乗り過ぎじゃない?」
そこから始まった黄薔薇姉妹の小競り合い、もといーー痴話喧嘩。
それを見た祥子さまは祐巳さまに顔を寄せて「あの子、なんだか江利子さまみたいだわ」なんて言っている。
「それは私も少し思うなあ。三人の演奏を聴いてみたいしね」
令さまは慣れているのか、二人を放って会話を再開した。
「そういえば、令さまは祐巳さんの歌を聴いたことがないんですね」
「そうなんだよ。私だけだから少し寂しくてね」
「えええ、そんな寂しがるような代物ではないですよ!」
「いやいや、噂は聞いてるよ?いつか私にも聞かせてね」
「ていうか、ここにグランドピアノがあるんだから!今歌ってもらえばいいんじゃないの?」
こちらの会話は平和ですわね〜、なんて思っていたらいつの間にやら由乃さまが戻ってきた。
「いや、由乃。残念だけどそろそろ帰らないといけないから」
楽しい時間はあっという間、とはまさにその通りでーーー。
「泊まっていってもいいのよ?」という祥子さまに対して、この人数では流石にご迷惑をかけるから、と断りを入れた令さまたちは「じゃあまたね」と、電車の時間に間に合うように別荘を後にしたのであった。
(3)
青く澄み切った大気のどこからか流麗で爽やかな音色が響き渡る。
小鳥の囀りもいわんやとばかりの音の共演は、しかして、時折途絶えるのであったーーー。
小笠原家の別荘地。
門から林を抜けた先に佇むアンティークのような一軒家。
この建物の一階広間にその音の源があるーーー。
『あなたがいるから』
その歌詞は英語。歌詞の中では、悩める者を救い給う聖母マリアへの畏敬と信心が暗示され、サビにはラテン語が登場する。
「ごめんなさい…お姉さま…瞳子も」
先ほどから何度も演奏が中断しているのは、祐巳さまがサビでつまづいてしまうからであった。
酷く落ち込む祐巳さまをなんとか励まそうと瞳子は声をかける。
「まだパーティまで十分時間がありますから、大丈夫ですわ」
しかし言いながらも、瞳子自身不安が拭えていなかった。
昨日の夕食後から、三人で合わせて練習しているのだが、そこからあまり進歩がないのである。
「最悪、二曲目は諦めるしかないわね」
祥子さまもそんな様子を見て察したのか、負けず嫌いの彼女にはめずらしく、妥協案を提示した。
ーーーそれは、祐巳のためなら己のプライドなどどうでもいいという祥子さまの紛れもない本心ではあるのだが…。
「…私のせいで、お姉さまの足を引っ張りたくありません!」
瞳子が不味い、と思った通り、祐巳さまはますます頑なに思い詰めてしまう。
「元々やる予定ではなかったのだし、気にする必要はないわ」
そう言って席を立った祥子さまは祐巳さまの側へと寄り、「一旦休憩にしましょう?」と宥めるようにその頬に触れる。
添えられた手も、かける声も、そそがれる眼差しもーーーー祥子さまが祐巳さまに与えるものは、全てが彼女だけに向けられる格別な愛情に満ちていた。それを素直に受け入れ、祥子さまの前でだけ見せる妹の顔で甘える祐巳さまーーー。
そんな様子を眺める瞳子は、羨ましさは感じるものの、この二人の関係だけは邪魔する気にはなれないのだった。
とにかく今日のパーティが無事に楽しく終えれればいい。
祐巳さまに向けられる妬みや僻みの感情が彼女を傷つけることがないように、と瞳子は気合を入れ直した。
リベラの『あなたがいるから』知っている方も多いかと思いますが、ボーイソプラノグループなうえに、祐巳たちの時代には存在しない歌です。けれど、メロディも歌詞もすごく素敵で、特に歌詞はこの話に合うと思ったので選びました。どうか、ご容赦くださいませ。