(1)
『ユミ』の2ndシングルはチャート初登場三位を獲得。
ラジオでもリクエストされる事が多く、街中で、車内で、テレビで、その歌声を耳にする機会は増えていた。
高まる『ユミ』の需要。
それに対して、ユミ本人の露出は明らかに少なく
会えるとしたらライブ、そしてそのライブこそが『ユミ』の真髄を最も感じられる場所だった。
目にした者は、例外なく彼女のファンになる。
だがそれも、まだ表題曲が二曲の『ユミ』。
単独で大きなものが行われる可能性は低かった。
『ユミ』への出演依頼。
それは、テレビなら音楽番組、バラエティ番組、またはドラマ。
それ以外には、CM、ファッション雑誌、少年雑誌…といったように、その容姿の良さも相まってか、各種様々なものがありはした。
しかし、これらのオファーはその殆どが通らない。
そんな中、音楽雑誌には毎月何処かしらに『ユミ』が載っている。
数少ない彼女の近況を知れる手段。
『ユミ』が載った雑誌は売れ行きが良かった。
これのお陰でファンの渇望もある程度は満たすことができた。
だけれども、避けては通れないものもある。
それは、『ユミ』の成長のためにも。
(2)
「…ユミ、予想はついてると思うけど、音楽番組、少し出てもらうよ」
その言葉を聞いたのは、セカンドのリリース翌日だった。
まだ、なんのランキングも出ていない。
「こういうのは、予め人気が予想されてるとオファーが来るんだよ。発売前に映画のヒットもあったしね」
「この前の、生放送の番組でしょうか?」
「嫌? 今ならもう大丈夫かと思ったんだけど。それで様子見ていけそうなら他の歌番組も出てもいいかもな」
嫌、というよりは、苦手というか、なんとなく恐い。
だけど、そんな甘えた理由でいつまでも逃げていたい訳でもなかった。テレビはより多くの人に歌と想いを届けられるいい機会なのは確かだ。…カメラ越しだから繋がりを感じづらいだけで…。
「いえ、分かりました」
そういった経緯で…。
現在は、これで二度目となる都内のスタジオにいる。
リハの順番待ち中。
楽屋でマネージャーと大人しく待っていると、部屋の戸が叩かれた。
予定より少し早かったのだけど、特に気にすることなく立ち上がる。
先に扉を開きに行ったマネージャー。しかし、彼女は驚いたように声を上げた。
「え、どうされたのですか?」
祐巳はそこにいる人物にマネージャーの態度が改まったことを不思議に思い、ふと彼女の背後から覗き込んでみた。
「ああ、少し『ユミ』さんとお話ししたいと思って訪ねたんですよ」
その人は、この番組のプロデューサーだった。
以前、番組に出演した際に一度軽く挨拶はしたことがある。
マネージャーの彼女は対応に困っているように見えた。
断りたいけれど相手の立場を考えると気分を害すことはできないという感じで。それを見てとった祐巳は、別に自分が話を聞けばいいだけなんだから、と要求に応えることにした。
「プロデューサーさん。今日はお世話になります。『ユミ』です。私にお話とは何でしょうか?」
すると、マネージャーは驚いて私を振り返り、プロデューサーの彼はにっこりと私の顔を見つめてきた。
「ああ、『ユミ』さん、ありがとう。貴女にはとても期待してますよ」
そう言って、部屋へと入ってきた彼とマネージャー、私の三人は楽屋のテーブルを挟んで腰を下ろす。
そして、祐巳が思わず引いてしまうほどの勢いで、彼は話し出した。
話というよりは、熱心な勧誘に近かったけれど。
その内容は、彼が制作統括する他の番組にもぜひ出てくれないかというもの。彼が出した番組名は祐巳も知っていた。毎週一人を特集する人気のドキュメンタリー番組。それと、トークバラエティ番組。
「事務所の方にオファーしても相手にされないもんだから、『ユミ』さん本人と直接話したいと思いましてね」
祐巳は自分にそんな話が来ていることを初めて知った。
彼が伝えてくるのは、いかに視聴者が『ユミ』を望んでいるか。いかにこの番組に出ることで『ユミ』の知名度が上がるか。いかに『ユミ』と番組、双方にとって有益か。そして、番組の編集も『ユミ』のイメージを良く見せる構成にすると。
気になったのでしたら、おたくの社長に頼み込んでみてくれませんか?———と……。
祐巳はいつの間にか気分が悪くなっていた。
胸の内がもやもやとして、少し苦しい。
「『ユミ』さんなら、すぐに大人気スターになれますよ!」
なんでだろう。この人には笑顔を向けられない。
「正直、どうして出し惜しみするのか理解に苦しみますね。私ならもっと上手く『ユミ』さんを使います」
————!
「すみませんが、そろそろ『ユミ』のリハーサルの時間では?」
私の胸が何故だか一際痛みを覚えた時、マネージャーが話を切った。
男は高そうな腕時計に一瞬目をやる。
「ああ、そのようですね。まあ、私が言えば少しくらい時間に融通は効きます」
しかし、彼はまだいい足らないとばかりにそのまま続けようとした。
「実は、ドラマ班のプロデューサーにも頼まれてるんですよ。機会があれば説得してみてくれって」
「それは私共に言われても困ります」
今度こそ、マネージャーの態度にも遠慮がなくなり、プロデューサーに対してもはっきりと断じた。
けれども、そこで男が浮かべたのは厭らしい不敵な笑みだった。
「——いいんですか。『ユミ』さんを出して頂けないのでしたら、そちらの事務所の他のタレントの使用も控えさせて頂くかもしれませんよ」
————え?
「——それは、我々に対する脅しでしょうか。この件は社長に報告致しますが…あの方があなたの思惑で出し抜けると思わない方が宜しいですよ」
しーん、と静まる室内。
重苦しい沈黙の中、男が立ち上がり、椅子の引くギギーという音が妙に耳に障った。
「…まあ、いいでしょう。とりあえず、今日は楽しみにしていますよ、『ユミ』さん」
部屋を出る間際、私へ向けた声、目線、笑み、その全てが祐巳の心を粟立たせ、薄気味悪くまとわりついてきた。
沈んだ気持ちのままにリハーサルへと向かう。
マネージャーが何度も謝ったり励ましたりしてくるのだけど
彼女の責任ではない。
リハーサルのスタジオには、…先に向かったから当たり前なのだが、あのプロデューサーが待ち構えていた。
気にしないように、目線を合わせないように。
祐巳はスタジオにセットされたステージの上に立った。
「これから『ひこぼし』のリハーサルに入りまーす」
「お願いします」
スタッフの声に歌へと集中しようと瞳を閉じる。
メロディに耳を澄ませ、曲に自分の気持ちが溶け込むように、息をすって、歌い出しと同時にそっと瞼も開けた。
——けれど……やっぱりダメだ…。
誰に向けて、どこに向けて、歌えばいいんだろう。
視界に映るのは、私に向けられる複数のカメラと数十人のスタッフの目。ここの人たちはもしかしたら皆あのプロデューサーと同じように私を見てるのかもしれない。恐い……。
カメラの向こうを意識しようにも、暖かいはずの人々の顔が浮かんでこなかった。
「ーーーー………」
はぁ、と重い気持ちのままにリハーサルを終える。
マネージャーの元へたどり着く前にあの人が寄ってきた。
「『ユミ』さん良かったよ」
今のコレのどこが良かったのだろう。
この人はたぶん私の「歌」などどうでもいいんだ。
例えどんなに褒められても、笑顔を向けられても、
彼に対して募っていくのは不信感のみだった。
本番直前。
祐巳の楽屋に高岡さんが入ってきた。
「ユミ、大丈夫か?」
マネージャーがあの後すぐに報告を入れたらしい。
「…私より、高岡さんは…事務所は、大丈夫ですか?」
祐巳はあのプロデューサーに言われたことをとても気にしていた。
自分のせいで、迷惑がかかるかもしれない。
それくらいなら、私が仕事を受けた方がいい気もする。
「ははっ!大丈夫だよ。ただの脅しだ。あのプロデューサーが言ってるだけで、局の方針じゃない。あいつの番組に出られなくなったところで痛くも痒くもないさ」
高岡さんは少しも気にした風もなく、明るく笑い飛ばした。
祐巳もそれを見てほっと一息つき、少し気持ちが軽くなる。
「この番組だって、最近やつがプロデューサーになったけど、スタッフやディレクターの音楽に対する熱い想いは変わらないはずだ。それだけは誤解しないであげて」
——そうなんだ。
先入観と恐怖心で、彼らを無意識に見ないようにしたことを恥じた。
「ふふっ」
祐巳はいつになく優しい言い草の高岡のことが可笑しかった。
「何笑ってんだよ、全然大丈夫そうじゃないか」
そんなセリフも照れ隠しにしか見えなかった。
あははっと笑う祐巳に対して、マネージャーが時間を告げた。
「じゃあ、いつも通り楽しめよ」
「はい」
そして、生放送が始まる——。
高岡さんに言われたからというのも失礼な話だが、自分の曲順を待つ間、真剣に番組作りに取り組むスタッフを見ていると、その熱い想い、良い音楽を視聴者に届けようとする気持ちが、歌手へと向ける眼差しからちゃんと読み取ることが出来た。
——『ユミ』の出番。
この前は舞い上がっていて全然意識していなかったけれど、スタジオの観覧席には、『ユミ』を熱心に見てくれる人々の姿があった。
ほっとする。
——大丈夫だ。
ここにいるのは、純粋に私の歌を聴いてくれる人たち。そしてそれ以上に、もしかすると祐巳とは一生直接会うことがない人たちとも、心を繋げられるんだ。歌を通して。これはそんな特別な場所。例え誰に何を言われたって、私のこの気持ちさえ変わらなければ、きっと想いは伝わる。それでいいんだ。
『ユミ』の二度目の歌番組生出演は、彼女の柔らかな微笑みと共に視聴者の目に焼付くことになったのであった。
この歌番組を境に、音楽番組に限っては、テレビを通しての『ユミ』の露出が増えることとなる。
それは、祐巳の番組に対する意識の変化と大学の夏季休業期間ということもあり、一層歌手活動に力を入れ始めたからであった。
そして、回を増すごとにその姿に自信と輝きが増していく彼女。
その影響はCDの売り上げという数字が如実に物語る。
発売二週目にはチャートの二位に。
このまま、一位にまで上り詰めるのか——と思われていた。
しかし、翌週——。
祐巳は自分の浅慮を悔やみ、己の甘さを思い知る羽目になる。
……ーー。
「…これ、は」
八月も後半。
空は高く澄み渡り、まぶしく力強い日差しが降り注ぐ暑い盛りの日々。それはまるで祐巳の歌への想いと呼応するかのようだった。
——つい、数瞬前、いま、これを、目にするまでは。
「今日発売の週刊誌だ」
高まる熱に突如として浴びせられた冷水。
——どうして…。
「ごめん、ユミ。俺のせいだ」
違う。だって、これは、高岡さんが仕組んだ事じゃない。
ただ、どうして、こんなことが記事になっているのかが、ワカラナイ……。
『期待の新人歌手ユミの恋人は誰だ?』
記事の見出し。
そして、私とその恋人候補として挙げられる有名人の方々。
その根拠は………これが何よりも許せない…ッ!
そこに映るのは首元のアップ。
祥子さまと祐巳の絆である、ネックレス——だった。
「——ユミ、こんな適当な記事はすぐに風化する。けど、しばらくは噂になるし、この事について質問されるかもしれない。無視すれば良い。面倒だろうけど耐えてくれ」
事実無根だからといって、祥子さまの名前を出して否定することはできない。お姉さまをこんなくだらない事に巻き込んではいけない。
「これは大切な姉との絆です」こう言えば正しく伝わるだろうか…。
「外せとは言わないんですね…」
「ああ、今外したところで、余計な憶測を呼ぶしな。堂々としてろ、そこにあるのは祐巳の一番大切な想いだろ」
その通りだった。——そうだ、これは祐巳の誇りだ。
「はい」
応えた祐巳はもう動揺してはいなかった。
凛とした祐巳の眼差しは、むしろより強さを増していた。
『——!祐巳!ごめんなさい!!…』
その後すぐにお姉さまから掛かってきた電話。
まだ、早朝なのに情報が早い。
なぜ…悪くない人が謝らなければならないのだろう。
「お姉さま、落ち着いてください。こんなのはお姉さまの所為ではありません」
『いいえ、私に原因の一端がある以上、私は私を許せないわ』
何か寄せ付けない決意を感じるお声。
そう、こんな記事が出てしまうと一番傷つくのは私なんかじゃない。
私のことを大切に想ってくれる、私にとってかけがえのない人たちだ。いくら言っても、優しい彼女は心配と責任を感じてしまうことだろう。
『祐巳、今から会えないかしら?』
祥子さまからの提案。
私もお姉さまに会って、大丈夫だと安心させてあげたい。
『——はい。では…ーーー』
(3)
「…………」
なんてことを——!
それを知ったのは、発売日前日の深夜だった。
けれど、既に配送中のそれを店に並ぶ前に全て差し止めることは、
祥子にもできなかった。
——!祐巳!!祐巳…!私のせいで…本当にごめんなさい……
私は祐巳を守るために必死になって力をつけようとしているのに。
その私がしでかした事で祐巳を、守りたい存在を追いつめてしまうなんて——。
祥子は、机に両手をつき、腕の間に広げられた雑誌を呆然と眺めた。
……どれくらい、そうしていただろうか。
その深い深い自身への失望へと落ちる中——
それでもハッと意識を浮上させたのもまた、祐巳への強い想いだった。
祐巳は——?
気づいてすぐさま携帯を手に取った。
しかし、通話を押す前にハタと思い至る。
時刻は、零時を過ぎたところ。
祐巳は——寝てるかもしれない。安らかな休息から無理に起こしてまで知らせるよりも…朝、直接会いに行こう。そもそも電話だけで安心なんて出来ない。
私は——、必ず祐巳に償うわ。待っていて、祐巳。
ユニゾンプロダクション、そのビルの一室で祐巳は私を待っていた。
愛しい存在。
目にした途端、安堵と不安と罪悪感が一気に溢れ出して、視界がにじむ。祐巳———。
「…っ!お姉さま!泣かないで下さいっ私は本当に大丈夫ですからっ」
祐巳が慌てて駆け寄ってくる。
部屋のドアの前で立ち尽くす私に手を伸ばして、懸命に私の顔を見上げる祐巳の濁りのないきれいな瞳。この世のどんな宝石よりも尊くて美しいと本気で思う。私の宝物。——それなのに、私は…私が彼女に傷をつけてしまった。
「…祐巳。公表していいわ。どんなメディアでも構わない。私も一緒に映れば、信ぴょう性は高いでしょう。こんなデマはすぐに吹き飛ばすわ」
「それはダメです!」
祐巳からは即座の否定が返ってきた。
「お姉さまは小笠原家のご令嬢で、将来も大いに期待されている身です。こんなゴシップで世間に晒されることなど許されないでしょう」
祐巳の言っていることは分かる。私自身が一番良く。
こんなことお祖父様もお父様も、激昂なさるだろう。
安易に世間に姿を晒すなと、ゴシップ記事のネタとしてなど小笠原の品位が疑われる。小笠原内での私の信用、でもそれより大事なものがあるから———祐巳!
「その通りよ。許されないわ。だから絶対そのネックレスの片割れが私だなんてことは世間には出ない。例え誰かが気づいても。けれど、私本人が動けば話は別よ」
私にとって祐巳以上に大切なものなんて何があるだろう。
小笠原内で信用を得たいのも力をつけたいのも祐巳が原動力なのに。
祐巳、私を頼って。あなたを守りたいのよ。
「……ーーーっ」
しかし、私を掴んでいた祐巳の手は力なく下された。
「…私が、歌手になったのは。お姉さまの足を引っ張りたいからではありません…。その、逆です…」
「…祐巳?」
祐巳は顔もうつ向けてしまったために、その表情を伺い知ることができない。
「…でも、これでは、私の選択は…私のせいで、お姉さまが…」
祐巳の様子がおかしい。
肩が小刻みに震え、声も必死に絞り出しているかのようだ。
頼りなくて、今にも崩れ落ちてしまいそうな祐巳の華奢な体。
「祐巳!」
私は、思わず祐巳を自分の腕の中に収めていた。
そうしないと、彼女が、祐巳が消えてしまいそうだったから…。
震える祐巳の体。顔は下を向いたままで、その腕が私に回されることはない。
顔が見たくて、その頬に手を触れようとした。
———ッ
さっと、それは僅かで、気のせいと言われればそうかもしれない。
けれど、違う。明らかに祐巳が私の手を拒んだ動きだった…。
「……ゆ…み…」
祐巳は、体の震えを抑え、ゆっくりと私の腕をほどく。
その手つきはとても優しい…。
そして、やっとこちらを見上げたその顔は……。
哀しみに…彩られていた——。
「——お姉さま、」
「………」
何を言われるのだろう。言葉の続きを聞くのが恐ろしい。
「——お姉さまは、絶対に何もなさらないで下さい」
言い切った後の瞳には、確固たる意志が込められていた——。
それから、お車までお送りしますと言って、私の横を通り過ぎ、扉に手をかけた祐巳。
祥子は呆気に取られ、状況の判断ができないでいた。
言われるままに祐巳の背を追う。
サラサラと揺れる亜麻色の髪、高等部の頃より随分と伸びて、もう、二つに括られることもない。
過るのは、一抹の寂しさ。
ぼーと足を義務的に進めるうち、気づけば、小笠原の車の前で止まっていた。
「………」
「………」
漂う静寂。
綺麗な姿勢で立ち、目はあっても、口を開く気配はない祐巳。
祐巳は、私が乗り込むまで、ずっとそうしているつもりのようだった。
私は、もうどうしていいのか、あまりもの動揺に分からなくなっていた。
バタンとドアを閉める。
けれど、最後にせめて言葉を交わそうと窓を開ける。
「…祐っ」
「…お姉さま、しばらく距離を置きましょう——」
やっと口を開いた祐巳から落ちた言葉
その意味を混乱のなかようやく理解した時には
景色が一変し
もう、目の前に、祐巳の姿はなかった。
ここで止めてごめんなさい。
祥子さまを苦しめてごめんなさい。
でも、祥子さまも祐巳ちゃんも大好きです。
今は我慢願います…。
ちなみにこれは第一章の一番の山場という訳ではありません。
試練のうちの一つです。