(1)
「——ユミ」
そっと、斜め後ろに立った男が祐巳へと声をかける。
商業ビルのエントランスに簡易的に設置されたステージ。
そのバックヤードで、外のモニターを少し不思議な面持ちで見つめる少女はその声に応えた。
「……高岡さん。来たんですね」
「ああ、俺が楽しみにしてた瞬間だからね。もちろん立ち会うよ」
そう、これは祐巳のために、高岡が念入りに企画し、用意したステージ。期待通り、CMの評判も上々で、世間はこの時を待ちわびている。
モニター越しに見る外の様子は、不自然に存在する簡易ステージに気を取られる者はいても、なんの告知もないためだろう、立ち止まる者は少数。
高岡の口角は自然と上がる。——あと数分後、この景色が一変し、新たなスターの誕生に人々が沸き立つさまを予見して。
「緊張してる?」
「——いえ、不思議と落ち着いてます」
強がりでもなく、祐巳の心は凪いでいた。
ただ、まるで現実感がなくて、今から自分がここで歌うという事実が、どこか夢のように感じていた。
「…ユミ、ちゃんと天から地に足を着けてね。これが君の新たな一歩だよ」
ぼうとする頭に届いた男の言葉をゆっくりと噛み締め、頷く。
「…はい、私の想いを、しっかりと——、」
外の大型街頭ビジョンが切り替わる。
「———伝えに行きます」
決意の言葉と同時に飛び出した少女。
その背中に男の声は届いていたろうか——。
「行ってこい。ユミ」
(2)
祐巳は、不思議な高揚感の中にいた——。
自分の歌。そこに込めた想い。それを自分自身で世界に表現できる。
溢れる想いのままに身を任せて歌うことが、気持ちよかった。
大勢の人たちに囲まれていることを意識したのは、内から溢れくるものを出し切った後のこと——。
「ユミーーーーー!!」と己の名前があちらこちらから叫ばれる。
そこでやっとハッとして、辺りを見渡した。
人、人、人———。老若男女問わず。祐巳と初めて顔を会わせる人たち。そんな彼ら彼女らが、一心に自分を見ている。真剣に私の歌に聴き入ってくれていた———。
その感動と感謝、もしかしたら安堵もあったかもしれない。
それらの気持ちが無意識に、瞳から溢れていた。
祐巳は少しの名残惜しさを感じつつ、深くおじぎをした。
頭を上げるまでに、涙を抑える。——そして、笑顔で。
「ユミです。今日は聴いていただいてありがとうございました」
——ワァァァァアアア——————っっっ!!!!
そのいつまでも届く暖かい声援に見送られながら、
祐巳は自分の選んだ道に自信を持って進み始めたのである——。
(3)
ーー翌日。
スポーツ紙、雑誌、テレビに『ユミ』の話題が取り上げられる。
同時に始まる、インタビュー、番組への出演依頼、ライブへの問い合わせ。
1stシングルは、その強烈な宣伝効果も影響し、発売初日から売り上げは好調だった。
「————」
「——では、ユミさんは勉学と芸能活動を両立して行くという考えなのですね?」
「はい、それが両親との約束でもありますし、私自身、学生生活も楽しみたいと思っています」
現在、祐巳は事務所の応接室で雑誌の取材を受けている。
学生生活を楽しみたいと言いながら、今日の講義をやむなく休んでいることに多少の罪悪感を抱きつつ…。せめてもの救いは出席の取らないものだったこと。
「———最後の質問ですが、なぜ歌手になりたいと思われたのですか?」
———……。
「……大切なものを、自分の力で手に入れるためです」
大切なものとは?と、最後と言ったのに重ねられた問いには、微笑みで返す。
「内緒です」
すると、どうしたことか、こちらを見つめたまま固まってしまう記者。
大丈夫か訊ねた祐巳に対し、ハッとしたように慌てて話を締めくくる。
「い、いえ、本日はありがとうございました」
「こちらこそ、これからよろしくお願いしますね」
祐巳はにっこりと丁寧におじぎをして見送る。
その来た時よりも若干挙動不審な背中を不思議に思いながら。
「……ユミさん、人たらしですね」
午前中は雑誌の撮影、午後からはラジオ、そして今日の最後にまた雑誌、その全てに付き添っていたマネージャーが、祐巳へと一日の総括とも言うべき感想を述べた。
「?」
きょとんとした表情を向ける祐巳に対し、なぜか呆れた顔をしてから、何でもないですと言って、別の話を切り出した。
「ところで、ユミさんって、通学どうしてます?」
「え、バスと徒歩ですけど?」
そして先ほどと同じ表情の祐巳。
「マスクとか…、してないですよね…」
マネージャーは「まじかー」と額に手を当てる。
「今まで支障とかなかったです?」
「なかったです」
その表情は変わらない。なぜそんなことを聞くのだろう?と。
「今日みたいに仕事の時は私が迎えに行きますけど、もし、朝も学校への送迎が必要なようならすぐ教えてください」
「え!?そんな申し訳ないですよ!大丈夫です!」
祐巳はそんなことを言い出すマネージャーに焦る。
そこまでお世話してもらう必要はないから。
「本当ですか〜?」と疑いの目を向ける彼女に首をこくこくと振って。
「まあ、いいです。それと、来週歌番組の出演が決まりましたので、しっかり体調管理して下さいね」
驚くことに、まだ発売二日目なのだが、CMの効果と昨日の話題性からか、早くも有名歌番組への出演が決まったのだ。
実は諸々の番組から出演依頼は来ているものの、高岡がその中から吟味しているだけだというのは、祐巳のあずかり知らぬことである。
彼女の言葉を真摯に受け止めて、
仕事漬けだった一日を終えた次の日——。
家から一歩出ると、昨日は顔をあわせる機会がなかったからか、道行く近所の人たちに呼び止められる。
「テレビみたよ」と。祐巳はそこまで意識していなかったのだけど、歌声だけが流れるのとはワケが違うらしかった。
『ユミ』の存在は、昨日一日で一気に広まり、周知のものとなっていた。
けれど、昔からの顔なじみの人たちが祐巳にかける声は暖かい応援だった。少し興奮しながらも自分のことのように喜んでくれたり、励ましてくれたり。
周囲の優しさにほっこりとありがたさを感じながら、バスに乗り、M駅で乗り換え、またバスへ。特に何事もなく大学にたどり着く。
いつも通り。
そのため、やはりマネージャーの疑いは思い過ごしだと再確認して構内を歩いていた。春の気持ちの良い陽気を感じながら。
そんな時、前方に見知った顔を発見する。
「祐巳!ごき…じゃなかった、おはよう!」
「ふふ、おはよう。祐巳」
由乃と志摩子。大学生らしい清楚な私服を着こなす二人は、いつ見ても可憐で目を引く。中身も見た目通りかは置いておいて。祐巳の自慢の親友である。
「おはよう!わ〜二人に会えて嬉しいよー」
この二人は同じ学科。祐巳だけが違うというのも寂しいものだが、学部棟は一緒なので顔をあわせる機会は結構ある。
そのまま三人で目的地へと向かう。
「祐巳、あんた凄いことになってるわよ」
「そうね、テレビをつけたら祐巳が表れたものだから、なんだか不思議な気持ちになったわ」
今日の会話は私のこと。
「うーん、でもあんまり実感が沸いてないんだよね」
確かにステージで歌った時は高揚したのだけど、夢みたいな時間で、その時の溢れる気持ちは思い出せても、記憶が曖昧だった。
それ以外の仕事に関しても、まだ祐巳自身は受け身でいればいいことが多くて、大変だとか、芸能人になったとかいう意識は薄かった。
「ええっ!?!この異常なほどの視線を浴びてて、何も感じないの!??」
由乃が、信じられない!と憤慨する。
「…祐巳に、それを言ってもムダよ。由乃…」
そして志摩子が由乃を宥める。
なんだろう。この二人だけ分かり合えていることが少し悔しい。
「なんでそこで悔しがるのよ!私の心配損じゃない!」
「なんの心配?」
祐巳の真面目な疑問に、由乃は「私はもう知らない」と言って、答えることを放棄した。
「ふふ。あのね、祐巳が好奇の目で見られたり、不躾な人たちが寄ってくるんじゃないかって、心配してたのよ…由乃は」
代わりに志摩子が答えてくれる。
それに対して「…志摩子も、でしょ」と抗議をする由乃。
二人とも優しいなあとは思うけど、取り越し苦労である。
時々、構内で数人に囲まれることはあっても、祐巳の予想より影響はなかった。
「…ありがとう。でも大丈夫だよ!今日ここに来るまでだって、全然いつもと変わらなかったし!」
これで安心だろう!と明るく言い放ったのだけど…。
「……まぁ…祐巳って高等部の時もそうだったものね……」
「……冒しがたいオーラがあるから、むやみに寄ってこられることはないんではないかしら……?」
なにやら二人でボソボソと相談を交わし始めたので、一人置いてきぼりを喰らう。
また自分だけ蚊帳の外なことにちょっぴり切なさを感じつつ、一応気をつけなさいよ!と念を押す二人と別れたのであった。
………
—–—
……
…
...
「……祐……祐巳……祐巳!」
っえ!?
祐巳はガバッと頭を上げた。
状況を把握しようと視線を巡らす。
誰も立っていない教壇、次々と席を立ち、去りゆく学生たち…。
どうやら、寝入ってしまっていたらしい。
不味い、ほとんど聞いていなかった……。
「…私、祐巳が『ユミ』だなんていまだに不思議だわ」
溜息を零しながらそう呟く祐巳を起こしてくれた人物。
彼女は最近仲良くなった友人。筒井 環。
高等部の頃は接点がなかったのだけど、志摩子とは同じ藤組だったために、交流があったらしい。
たまたま被っている講義が多く、どちらからともなく話しかけ、いつの間にやら行動を共にしていた。
そして、エンタメ情報にあまり関心のないらしい彼女は、昨日まで祐巳を『福沢祐巳』としてしか認識していなかった。
なのだけど、昨日祐巳がいない間にどこからかそれを知ったらしく、黙っていたことを謝る祐巳に放った言葉は、
『…へー』のみであった。
「……」
「…?いつまで寝ぼけてるの?置いてくよ?」
「…いや、変わらないな〜とおもって」
実は、祐巳が心安らかな学生生活を送れているのは、この友人の存在も大きい。
「だって、祐巳は祐巳で変わらないし、私が変わる必要ある?」
無意識に溜まっていたのであろう疲れも、彼女の言葉に晴れていく。
きっと彼女のような人も沢山いるはず。祐巳の友人作りの前途は明るかった。
「ないよっ!」
ぶんぶんと首を振り、顔にありったけの嬉しさを込めて答える。
「祐巳うるさい…」
そんなつれない態度でそっぽを向くものの、その口角がわずかに上がっているのはしっかりと拝んだ。
「ふふっ早く行こー!講義始まっちゃう!」
「誰のせいだと…!」
軽々と駆ける祐巳———。
踏み出した世界。動き始める周囲。集める視線。
それでも祐巳の日常は柔らかな笑顔と共にあった——。
そして、歌手としての『ユミ』
一週目から売り上げは好調。
評判が評判を呼び、伸びてゆく数字。
数日後に迫る初の歌番組生出演。
奇しくもこの日は祐巳の誕生日。
十九歳の門出を華々しく迎えることだろう。
輝かしい滑り出し。
けれどそれはまだほんの始まり。
彼女の瑞々しい感性は、何を吸収し、どんな成長を見せてくれるのか。
『ユミ』はもっと大きくなる。その期待を背に、羽ばたき続けられるのなら。
それは、予感、期待、願望。
歌の天使の出現に、業界は俄かに沸いていた。
祐巳の新たな友人の名前は、読者さまのご意見をお借りして、筒井環さんになりました。
知らない方のために。
彼女は原作小説『マリア様がみてる 私の巣』の主要登場人物です。
祐巳と同じ学年で、志摩子さんのクラスメイト。
パッとした美人の見た目に反して、中身はとてもユニークで、とても魅力溢れるキャラクターです。
祐巳の日常はそんなに心配しないで下さい、今のところ。というお話でした。