「……では事態は既に終息しており、被害の方も軽微だったと?」
ゴドディン公爵家令嬢、アリス・ルイーズ・オブ・ナヴァール。
通称プリンセス・アリスは、信頼する女官長パトリシア・エリクソンによって、一時間前に隣国アイルランドの首都ダブリンで起こった争乱の顛末を、賢人議会の特別顧問専用の執務室で報告を受けていた。
「はい。フェニックス公園の一部が呪詛に侵されたものの、今はそれも綺麗に取り払われており、荒廃した個所も魔女を数名派遣すれば数時間ほどで復旧可能だそうです」
と信じ難い報告をミス・エリクソンは述べた。
アリスは一瞬報告の内容を疑った。が、それは考えにくい筈である。
優秀で忠誠心厚い――ときにそれが腹立たしくもあるが――ミス・エリクソンがアリスに偽りの報告を述べるなどあり得ない。幾通りもの情報筋より報告を受けて精査された確定情報なのであろう。
それを承知してなお信じ難い内容であった。神と魔王が争って、その程度の被害で済んでいるとは!
彼らが争えば甚大な物質的被害、魔術的被害を被るのが普通である。それこそ、数年規模でも復興の見込みがつかないことも珍しくないほどである。
神と魔王が引き起こした事件を、事故、災害として処理するために使用される年間費用の数字に偏頭痛を患わなかった魔術結社の総帥は、世界を見回してもおそらく皆無であろう。
だというのに、今回に限って魔女数名を派遣するだけで事足りるという。人里離れた未開地ならともかく、大都市ダブリンのど真ん中で神と魔王が争ったというのに、この程度の被害で済むとは奇跡に等しい。
そういう背景があるからこそ、アリスが報告の内容を疑ったのは無理からぬことであった。それにしても、ダブリンの魔術結社の総帥はさぞや喜び勇んでいるに違いない。
「……それで、ミス・エリクソン。『まつろわぬ神』を撃退したという、カンピオーネのことですが、何者ですか?」
アリスは溜息を吐いて、話題を変えた。その貴婦人にあるまじき不作法は、決してそれが羨ましかったからではないのだ、とここに明言しておく。
とはいえ、ミス・エリクソンはそのアリスの不作法を見咎めて、細い枠の眼鏡の奥に収まった目を吊り上げるも、アリスの質問には淀みなく答えた。
「報告によると、外見は十代の東洋人で、欧州では見慣れない術者の装束を身に纏い、長剣を手にしていたそうです。この長剣ですが……おそらくは日本伝来の刀剣で間違いないだろうとのことから、フェニックス公園に現れたという東洋人のカンピオーネは、日本人の少年の可能性が高いというのが、分析班の見解です」
アリスはほっと安堵した。どうやらミス・エリクソンは不作法を見逃してくれるらしい。緊急時だからだろう。これが平時なら数分の小言を賜っているところである。
「日本人ということは、七人目である草薙さまということでしょうか?」
最もアリスは少しも懲りた風もなく、内心で舌を出しながら、貴婦人然とした口調で質問した。
とはいえ、それはないだろうな、とアリスは自分で結論付けた。そろそろ思考を政略用に切り替えることにしよう。
賢人議会の分析班が、現存している七人のカンピオーネの顔を見間違う筈がない。
もし、フェニックス公園に現れたのが草薙護堂ならば、ミス・エリクソンはこんな無駄な会話を省いてさっさと結論を告げていた筈である。
となれば、フェニックス公園に現れたというカンピオーネは、いまだ存在を確認されていなかった“八人目”の可能性が最も高い。
予想通りミス・エリクソンは、違うと答えた。
「現在、賢人議会と繋がりのあるダブリンの魔術結社に協力を要請して、アイルランド政府に働きかけてもらっています」
「ああ、入国記録ですね」
成る程と、アリスは頷いた。
如何にカンピオーネが埒外の存在とはいえ、海外に足を運ぶとなれば、移動に適した権能を所有していない限り、文明的な交通手段に頼らざるを得ないのは道理である。
となれば当然、入国管理局にその足跡が残すことになる。幸い賢人議会は謎のカンピオーネの詳細な身体特徴を掴んでいる。後は賢人議会の情報とアイルランドの出入国記録とを照合すれば、自ずと身元が判明するというわけである。
だが、これで身元が判明しなかったのならば、それは法を順守した正規の交通手段でアイルランドに渡って来たわけではないということである。
そうなれば、もうお手上げである。後は八人目を探し出して本人に直接尋ねるか、日本の魔術結社に情報提供を頼むしかない。
前者は論外だ。八人目はいま神との闘争中。つまりは狩りの真っ最中。相当な興奮状態であると予想される。その状態のカンピオーネは普段の百倍は危険である。八人目の性情明らかでない以上、近づくのは下策だろう。
後者は……悪くはない。ただ、賢人議会は日本の魔術結社とはあまり交流がない。叶うなら借りは作りたくはないが、いまのカンピオーネに接近するのに比べたらずっと危険は少ないに違いない。
黙して指示を乞うミス・エリクソンにアリスは、目をやって命令を出した。
「仕方ありません。日本の魔術結社……確か、正史編纂委員会でしたか。彼らに連絡して詳しい情報を貰ってきてください」
その後、ミス・エリクソンは幾つかの報告を済ませると、執務室を退出していく。
これから、ミス・エリクソンはカンピオーネと『まつろわぬ神』の現在地の特定及び詳細情報を取得するために関係各所を走り回る羽目になるのだろう。間違いなく徹夜だ。
(お肌は大丈夫かしら、ミス・エリクソンはまだ婚活中のはずなのに……)
などと失礼なことを思いながら、アリスは退出する女官長の背を見送った。ぱたん、と閉じられる扉。
それを見届けると、アリスはもう堪えきれぬと、ふふっと笑みを溢した。もちろん、貴婦人らしく優雅に。だが、内心では狂喜乱舞していた。それこそ、小躍りしたいくらいだ。
『まつろわぬ神』VSカンピオーネ
この一大イベントをアリスのような退屈を持て余している人間が見逃す手はない。
しかも、神は二柱。だが忘れてはならない。もともとこの英国圏内には、一人の魔王が拠点を構えているのである。つまりは、魔王も二人。
二柱の神に二人の魔王。
これから繰り広げられる戦いは、数多の神秘を目にしてきたプリンセス・アリスを以ってしても予測不可能!
熱狂的なお祭り好きであるアリスにしてみれば、実に興奮させられる催しである。
実のところ、アリスの立場――賢人議会元議長にして現特別顧問――としては何としても彼らの行動に掣肘を加えなければならない筈である。
騒動の渦中が隣国とはいえ、いつこちらに飛び火するのか解らないのである。女王陛下とイングランドの民衆を守護するためには、そうするべきであろう。
だが、神と魔王の戦いに常人が介入できる余地などある筈がない。
それは欧州最高の貴婦人と称され、『白き巫女姫』と謳われる最高の巫女であるプリンセス・アリスですら例外ではないのだ。
定命の者はただ神と魔王が引き起こす猛威が過ぎ去るのを震えながら待つしか術はない。
―――ところが、その直中にあっても奇妙な性質を表わす者もいる。
嵐が到来すると解ると、大人たちが被害を恐れ慌てて家屋を補強しに行くのを尻目に、胸を高鳴らせている幼子たちがいるように、神と魔王たちが引き起こす争乱を愉しみにしている不心得者もいるのである。
その一人こそ、プリンセス・アリスに他ならない。
アリスは公爵家令嬢というやんごとなき身分に生を受けたものの、幼少時から健康面に重大な欠陥を抱えて過ごしてきた。
身分的にも健康的にも、肉体を縛られ不自由を強制され続けてきたアリスであるが、生まれ持った特殊能力である精神感応、さらには幽魂投出の霊力によって、精神は極めて解放的かつ活動的であった。それこそ、周囲が困るほどに。
その特殊な生い立ち故に、考え方が余人と少々違っていても仕方ないことであろう。
それは兎も角、いかなる力を以ってしても人間には神と魔王の戦いを止めることは出来ない。それが現実だ。
ならば、神と魔王の戦いで巻き込まれる被害のことは、一時忘れて愉しんでしまえばいいではないか。ようは開き直るのだ。
神と魔王の超常の戦いを。そこで振るわれる神技を。驚嘆すべき秘術の数々を眼に収めて、心ゆくまで愉しめばいいのだ。もっとも、幽体の身の上では、ポップコーンを片手に観戦と洒落込むわけにもいかないのが残念であるが。
どんな絶望的な状況でも、そこから
もっとも魔術界に秩序を齎すべく活動する賢人議会の重鎮としては、かなり問題のある性格であるのは間違いない。
「どうやら、貴様の性格の悪さは相変わらずのようだな。まったく―――貴様のような輩を『姫』などと奉る連中の気がしれん!」
突然聞こえてくる若い男の声。バチバチッと紫電が弾ける音とともに、アリスの正面に一人の男が姿を現れた。
貴公子然とした美青年だった。着込んだダークグレーのジャケットには、皺ひとつなく、着用者が几帳面な性格であることを窺がわせた。
きっちりと整えられた黒髪、黒い瞳には深い知性と強靭な意志力の煌めきが垣間見える。
優しげに整った白皙の美貌は、微笑めばそれだけで多くの女性を虜に出来ようが、いまはにこりともしない仏頂面だった。不機嫌なのではなく、これが地顔なのだと知っているのは、彼と付き合いの深い人々くらいだろう。
アレクサンドル・ガスコイン。
通り名は―――黒王子アレク。神速の貴公子とも言われる、英国のコーンフォールの地に根城を構えるカンピオーネである。
「まあ、アレクサンドル。レディの部屋に訪ねてくるときは、ノックくらいするものですよ。相変わらず、あなたは礼儀がなっていませんね」
男―――アレクは鼻を鳴らして、それを無視した。
貴婦人を前にして、失礼極まる態度であったがアリスはとくに腹は立てなかった。この程度で感情を逆なでするようでは、この男とは付き合っていけないのである。
「あなたに礼儀作法を説いても無駄でしたね。では、アレクサンドル。今日は何の御用で?」
「フン。恍けるな、女狐。ダブリンの件に決まっているだろうが」
アレクは冷やかにそう吐き捨てた。
もちろん、アリスは解っていた。すべてを承知の上で恍けて見せたのだ。同時に彼女は黒王子の狙いにも気づいていた。
霊視による託宣ではない。単なる腐れ縁の長さによる経験則であった。
アリスとアレクはかれこれ十年来の付き合いになる。この十年、ときに鍔迫り合い、ときにお茶を囲んで談笑し合い、ときに共闘し合ってきた。なまじの味方より相手を理解している。
だからこそ、アレクの狙いが解るのだ。彼は自分の興味のあることなら、どんな障碍があろうとも周囲の迷惑など省みずにひとりで突っ走るくせに、自分とは関わりのない厄介事となると、途端にやる気を無くす性分なのである。
おそらく、アレクは今回も必要な情報を提供して厄介事を分散してしまうか、あわよくば一方的に押し付けてしまおうと考えているに違いない。
アリスは黒王子が賢人議会でも把握していない情報を保有していることを確信している。
彼女はアレクが珍しくコーンウォールの根城に逗留しているのを把握していた。
そこに『まつろわぬ神』顕現の急報を受けて、ダブリンまで慌てて飛んで行ったに違いない。賢人議会が『電光石火』と名付けた神速の権能ならば、隣国といえど、一瞬で移動できる筈である。
悪漢気取りの中途半端な正義感を振りかざすこの黒王子のことである。自分の勢力圏内で『まつろわぬ神』が出現して、これを無視して被害でも出れば面倒だと思ったに違いない。
そこでいざ戦場とおぼしき場所に出陣してみれば、まさかそこに見慣れない先客がいようとは予想もしていなかった筈である。
勿論驚いただろうが、アレクのことである。これ幸いにと、その先客たる同族に厄介事を押し付けて自分は高みの見物を決め込む程度のこと、恥じ入ることなく平然とやってのけることだろう。
後は見物で目にした
八人目と賢人議会にすべてを押し付けて、自分は最後まで高みの見物を決め込む意図なのは明白だ。……その性格が災いして、とうの八人目から不名誉な呼ばれ方をされたことをアリスが知らない。
「ふう、アレクサンドル……あなたはどうしてそうなのですか? これがヴォバン侯爵なら、きっと神も魔王も纏めて相手にしようと意気込まれるはずでしょうに。それなのに、あなたと来たら!」
政敵の相変わらずのスケール感の矮小さに、アリスは嘆いた。
「だから、いい加減に俺と奴を比べるのは止めろ。あんな知的ぶっただけの野蛮人と一緒くたにされるのは不愉快だ」
整った眉根を寄せて抗議するアレクに、ツンとあらぬ方向にそっぽ向くアリス。
しばし沈黙が執務室を支配した。……結局、先に折れたのはアレクであった。
「……話を聞く気があるのか? ないのか?」
憮然とした調子でアレクは聞いてきた。
「そうですね。冗談はこのくらいにして、お話の方を伺わせて頂きますわ、アレクサンドル」
アリスは細やかな勝利に心中でガッツポーズを執りながら、そう言い放った。最初からそう言え、と文句を吐き捨てて、黒王子は語り出していく。
自ら率いる魔術結社王立工廠で率先して教鞭を執るだけあって、アレクの説明は簡潔でありながら、明瞭だった。
ダブリンに現れた『まつろわぬ神』とカンピオーネの正体と名前。執られた戦術と披露された武技と異能の数々。聴いているだけでアリスの退屈の虫が吹き飛んでいくのを感じる。まさに驚嘆するべき話であった。
黒衣の臨時講師が語り終えた後、執務室には再度の沈黙の戸張が覆った。が、今度はそれを破ったのはアリスの方だった。
「……まさか、まつろわぬクー・フリンとは、また随分なビッグネームが来たものですね」
「ああ、ケルト神話史上最強の戦士と謳われている英雄神だ。そして、おそらくは、鋼の軍神でもある」
軍神・武神・戦神・闘神。
戦いを司る神々には、≪鋼≫と呼ばれるグループがある。
存在自体が剣の暗喩であり、鉱石を溶かす火、火を強める風、焼けた鉱石を冷やす水と共生関係にあるのがその特徴だ。
クー・フリンの伝承には、灼熱の戦闘欲で熱した体を冷たい水が張った大桶で三度に亘って冷ました、という逸話がある。これは≪鋼≫に見られる特徴のひとつである。
また、豊穣の神アヌと同一視される戦女神モリガンと戦い、これを下し、従えている。地母神との深い共生関係もまた≪鋼≫の軍神に顕著に見られる神話なのだ。
「クー・フリンの最後、そばにあった岩に体を括りつけて立ったまま死んだ――という逸話も≪鋼≫を暗示させますものね。ということなら、この神格も遡ればスキタイへたどり着くのでしょう」
スキタイの地こそ≪鋼≫の英雄のルーツだと言われている。すべての≪鋼≫はスキタイへと通じているのだと。
「だろうな。そうなると、乱入してきた『まつろわぬ神』の正体も特定するのは、容易いだろう」
「魔女と思しき『まつろわぬ神』ですね。確かに……」
それは、神話学に通暁した者同士だからこそ得られる共通理解なのだろうが、ああだこうだと口や立場でいがみ合おうとも、阿吽の呼吸が合う二人であった。
「ああ。そういえば、新しく現れたカンピオーネの方は中華の怪力女と同類のようだったな」
「武術と魔術を極めて神すら屠ったカンピオーネ。たしかに羅濠教主と似たタイプの方のようですね。これで性格のハチャメチャ振りも似ておられたなら、アレクサンドル。あなたも早急にスケール感を拡大させなければ、すぐに追い抜かれるかもしれませんよ」
そう、にこやかにアリスは告げるが、アレクはそんなこと知ったことか、と鼻で笑う。
「話はここまでだ。俺はこれで帰らせてもらう」
「ええ、アレクサンドル。たいへん有意義な話でしたわ。感謝します」
アリスが苦笑しながら口にしたその言葉を最後に、アレクサンドル・ガスコインは雷光の煌めきを纏って消え去った。神速の世界に突入したのだ。
アリスはそれを見届けると、改めて今後のことを女官長と相談するために精神感応の触手を伸ばした。