神殺しの刃   作:musa

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三話  月下の戦い 下

「……ッ!? むぅ……!」

 事実その通りだったのだろう。みるみるうちに白装束が朱に染まる。脇腹の創傷がひどく痛む。それ以外の、槍の穂先が触れもしていない筈の箇所からも、新たな裂傷が出来ていた。

 その数―――三十。そのすべての傷が次第に激しく熱を帯びて痛み出す。

「これは、逆棘の呪い……ッ!」

 崩れかかる体を宗一郎は強引に戻して、間合いを離すべく後退する。激しい運動でますます血が飛び出していく。だが気にしていられない。今攻勢を仕掛けられたら、防ぎきる自信はない。なにより、あの深紅の槍は危険すぎる!

 宗一郎の懸念を余所に、クー・フリンは追撃してこなかった。

「ほう、お利口だな。坊主、正解だ」

 そう言って、魔槍の英雄は口角を吊り上げて嗤う。

「……それはどうも、お褒めに預かり恐縮です。でもそれはきっと、親の教育がよかったためでしょう」

 何しろ英才教育(スパルタ)でしたからね、と胸中で呟きつつ、宗一郎は打開策を模索する。

 最優先で攻略する必要があるのは、やはりあの魔槍。宗一郎の直感では、あの槍はその真価を十全に発揮したわけではない。

 この魔性の傷ですら、あの『魔槍』の能力の片鱗に過ぎないとなると、真の力とはいかほどであるというのか、宗一郎をして心胆寒からしめた。

 だが、今警戒するべきは、未だ敵が秘せる能力よりも、敵が晒した方だ。

 我が槍は突けば三十の棘となって破裂する―――クー・フリンが唱えた呪句、その意味を宗一郎は全身で理解させられた。

 魔槍で負傷した創傷の追加。その効果たるや、二倍、三倍どころか、三十倍といった法外なものである。それにカンピオーネの非常識な肉体は戦闘中であれば、受けた負傷の痛みは即座に消え、驚異的な早さで治癒さえしてくれる。にも拘らず、それが今はない。

 全箇所の創傷はいまだ痛みを持って宗一郎の体を責め苛んでいる。明らかに通常の傷ではない。  ―――間違いなく、呪いの傷であろう。

 故に、これ以上断じて一刺たりとも生身で受けるわけにはいかない。

 カンピオーネの生命力とて、軽症でもあと五刺も受ければ死を免れ得ないだろう。重症を受けでもすれば、即死である。

 かといって、クー・フリンの神速の槍捌きを前にして負傷を恐れて勝てる道理がない。

 つまるところ、白兵戦に勝機はないのは明らかだ。

 だとすれば、槍の射程外からの遠距離戦に活路を見出すしかない。が、宗一郎の武装は長刀のみである以上、呪術に恃むしかない。が、呪術は神々の圧倒的な呪力抵抗により、決定打に為りえない……

 もはや認めるしかない。神無月宗一郎が保有する本来の戦闘能力は、クー・フリンのそれに劣っている。

 神無月宗一郎が磨き上げた剣術、練り上げた呪術をどれほど駆使したところでクー・フリンに勝つことは叶わない。

 ならば―――

「クク。なら、そう教えてくれた親に感謝しながら、それを満足に生かせなかったテメエの不甲斐なさを恨め。さあ、無駄話はここまでだ。覚悟は出来たか、神殺し」

 クー・フリンは腰を沈め、槍の切っ先をゆらりと宗一郎へと向ける。

 それは順当な槍術の構え。手負いの獲物に奇策は必要ないと判断したのか。神速の槍の舞いで決着を付ける算段のようだ。

 クー・フリンが飛ぶ。宗一郎が苦痛を忍んで稼いだ数メートルの距離が一瞬で奪われる。

 ―――為すべきことは明白。剣術でも呪術でも自己の力では届かないというのなら、自分以外の権能(チカラ)を使えばいい!

 

 

「オン クロダノウ ウンジャク――――」

 

 

 清浄な火の姿をイメージで描きながら、宗一郎は真言を紡ぐ。

 これは、神々を讃える聖句、神々に祈りを捧げる祈願句である。されど、神殺しの魔王が謳うならば、それは堂々たる神々への宣戦布告に他ならない。

 ああ――神々よ、見るがいい。恐れ戦くがいい。貴様らの天敵が此処にいるぞ!

 やにわに宗一郎の全身に赤い燐光が包み込むや、絢爛たる紅蓮の炎が噴き出した。

 宗一郎を基点に燎原の火の如く渦巻く赤い炎。さながら、生き物のように唸りを上げて吼え猛る。

 宗一郎目掛けて突進して来たクー・フリンは、慌てて後ろに飛び退く。発現した権能を警戒してか、獣の如き俊敏さで十メートルほどの距離を取った。

「―――ようやく晒したな! そいつがテメエがどこぞの神から奪った神力か。なかなか派手だな。おもしれえ、来いよ。どれほどのモンが見極めてやる」

 クー・フリンは愉快げに唇を吊り上げた。が、クー・フリンの期待に反して、紅蓮の猛火は顕れたときと同じく唐突に火の粉ひとつ残すことなく掻き消えた。

 クー・フリンを追撃もしなければ、宿敵を倒さんと火勢を強めることもない。その必要がなかったからだ。既に赤い炎は本来の役目を忠実に果たし終えていた。

「何……」

 驚きに目を見開いたクー・フリンは、ふいに顔を強張らせるや、目を細めて殺気を滾らせた双眸で宗一郎を射抜く。

「オイ、何をやった、神殺し? 貴様の体から『魔槍』の呪いが消えてやがる。たとえ貴様が異邦の同胞を殺して人ならざる身に成り果てようとも、今しばらくは槍の呪いに苦しむはずだが……」

 解せんな、とクー・フリンは低く呟き宗一郎を冷たく睨み据える。

 そう。宗一郎の体から『魔槍』の呪いは、すべて解呪されていた。激痛はたちまち取り払われ、カンピオーネの肉体は阻害されていた傷の治癒を開始している。

 これこそが、神無月宗一郎が密教における明王の一尊―――烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を倒して得た権能である。

 古代インド神話においてアグニの名で呼ばれた炎の神の所有する、烈火で不浄を清浄と化す神力で呪いを焼き払ったのである。

 この権能を発動すると、呪詛や毒素、そして、いかなる呪術ですらも無効化できるのである。

「どうしました、クー・フリンさん? 篝火を目にしただけで逃げ惑うとは、あなたは獣のように臆病なのですね」

 あれほど絶体絶命の危機にあった宗一郎は、いまやクー・フリンを挑発する余裕すらあった。

体から激痛は消え失せ、四肢も十全に動く。脅威だった『魔槍』の呪いも烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能で無力化できる以上、恐れる必要は何処にもない。

「抜けせ! だが解ったぞ。貴様の権能の正体が! 穢れと悪を焼き尽くす『聖火』の権能―――浄化の神力だ! それで槍の呪いを焼き払ったな!」

 自慢の愛槍の力が無力化されたことを知って、なおクー・フリンの不敵の笑みは崩れない。

「だが、オレは弱点も見破ったぞ! その手の権能はオレの『魔槍』の呪いは苦もなく燃やせても、オレ自身を焼くには少々火力が足りるまい」

「……」

 宗一郎は内心で舌を巻いた。おそるべき慧眼さである。わずか一度の権能の行使で能力を看破したのみならず、弱点まで見つけ出すとは。

 智慧の権能か、それに類する能力を有しているのかもしれない。ただの武神と考えていては、予想だにしない不意打ちをくらう羽目になりそうだ。

 クー・フリンの推測は正しい。宗一郎が烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)から簒奪した権能は、すべてを焼き尽くす破壊の炎ではない。不浄を焼き尽くす破邪の炎である。

 それ故に、どうしても能力の幅が限定されてしまうのだ。呪詛や毒素には絶対的な力を有する反面、通常の物質には旨く能力が働かないのである。

 無論、浄化の炎であろうと炎は炎である。熱量を有している以上、物質は燃える。だが神の呪術抵抗力を超えることは叶わない。……いや、術がないわけでもないが、アレは切り札だ。代償を考えれば容易に使用するわけにはいかない。

 つまりは、魔術を恃みとする神ならば繰り出される秘術を悉く燃やし尽くし、戦局を有利に運ぶことも出来ただろうが、白兵戦主体の武神ではどうにも相性が悪過ぎるのである。

 だがそれを承知して、なお宗一郎に臆する心が宿ることはない。もとより、宗一郎は戦闘において権能という理外の力に信を置いていない。

 条理を覆す奇跡。本来、人にすぎない宗一郎が持ち得ない筈だった圧倒的な力。それを宗一郎はある日、授かり得ることになった。

 権能とは人が神を打倒した奇跡に対する褒賞であり、次の神殺しを成し遂げるための牙であるという。

 だが思い返してみれば、権能を授けてきた存在とは果たして何者であったか。

 ―――神である。異邦の女神であった。

 かの女神の超呪法により宗一郎は異能の力を賜ったのである。だが宿敵であるはずの神から与えられたのならば、奪い取るのもまたかの女神の意のままなのではないのか。

 そう思い至ればこそ、宗一郎はこの権能(ちから)には頼るまいとしてきた。異邦の女神もまた宗一郎が倒すべき敵に他ならないのだから。

 そう、神無月家の数百年もの永きに亘る研鑽は、宗一郎のこれまでの修練は、古今東西ありとあらゆる神話に眠り微睡んでいる神々を叩き起こし、打倒することにあるが故に。かの女神とて例外ではない! 

 ……だが、いざと為るとこのざまである。危機に陥れば、カンピオーネの本能は宗一郎の意地など容易く捻じ伏せて躊躇なく権能を行使させる。

 己が未熟を恥じ入るばかりであるが、ひとたび権能の行使に踏み切れば、宗一郎は以後権能の力を戦術に組み込むことを躊躇わない。本能が勝利を求めて欲するのである。我ながら毒されているという自覚はあったものの、今更止めることなど出来るはずもなかった。

「ふっ」

 鋭く呼気を吐いて宗一郎は、両手に握る刀を意識して精神を集中させる。呪力が怒涛の勢いで長刀に注ぎ込まれるや、その刀身が燐然と赤く輝き、闇夜が駆逐されていく。

 赤い輝きは凝縮された火炎そのものだ。いまや長刀は超高温に熱せられた灼刀と化していた。それだけではない。宗一郎が長刀に封じ込めたのは、只の炎などではない。邪悪を打ち破る破邪顕正の炎。

 故に今この瞬間、人の手で鍛えられた長刀は烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能によって神刀へと変革を遂げた。

 剣撃の威力、切れ味ともに以前と比較にならない。さらに敵を穿てば内部から焼き尽くし、蹂躙する。神の呪術抵抗力がどれほど堅個であろうともこれを防ぐ術はあるまい。

 もとより、宗一郎は剣士である。弩級の如き戦法は好まない。敵はただ斬り伏せるのみ。

「ふん。火力不足を一点に集束させることで補ったか。あくまで、オレと斬り合いを興じるハラか。人間風情がいい度胸じゃねえか。いいだろう。付き合ってやる……と言いたいところだが、テメエが槍の呪いを無効化していい気なっているってのが気に入らん」

 そう言うやクー・フリンはゆっくりと右手を頭上に掲げた。その全身は衰えを知らぬ闘気が漲っている。

 間違いない。クー・フリンは新たな権能を行使するつもりだ。その予感に宗一郎の四肢が緊張する。五感がクー・フリンの一挙一頭足を見逃すまいと集中する。

「さあ、兄弟たちよ―――戦の角笛が鳴ったぞ! 槍の踊りの時が来た。疾く我が元に参れ。ともに大地を駆け巡ろう!」

 クー・フリンは言霊を唱えて、右腕を号令の如く振り下ろした。

 その途端、呪力の奔流が吹き荒れるや、その中から二頭立てに戦車が現れ出でた。

 轅に繋がれているのは精悍で逞しい二頭の軍馬だ。灰色と黒色の逞しい神馬が牽いているのは、豪華な装飾で飾り立てられた燐爛たる青銅製の戦車であった。その車輪両側面には死神の鎌の如き禍々しい巨刃が設置されていた。

 すぐさまクー・フリンは飛び上がり戦車へ乗り込む。

「よく来てくれた兄弟たちよ! 神話の刻のように再び共に戦おう」

 二頭の軍馬は主人の言葉に答えるように、嘶くと戦の興奮で蹄を踏み鳴らし鼻息を荒くする。

「待たせたな、神殺し。さっそく始めようじゃねえか」

 自分が召喚した戦車の威力に絶大な自信があるのだろう。クー・フリンは誇らしげに笑った。

 その一部始終をつぶさに見届けた宗一郎は、何する風でもなく無言のまま佇んでいた。

 さりとて、神代の戦車の放つ膨大な呪力に威圧されたわけでも、無論ない。

 ただクー・フリンの意図を宗一郎が、理解しかねたゆえである。

 軍馬よりなお早く大地を駆ける俊足の持ち主であるクー・フリンが、この局面で己以外に脚を託すのならば、あの戦車の能力を推測するのに難はない。

 おそらくは、神速の権能。宗一郎はそう見て取った。だからこそ、クー・フリンの目的が読めない。

 確かに神速の権能は強力な能力である。四次元的な挙動で戦場を天翔ける圧倒的な戦闘速度は、常人には対応することなど到底叶うまい。

 だが剣術の秘極に到った剣士ならば話は別である。

 クー・フリンは宗一郎がいまだその境地に達していないと判断したのだろうか。だとするならば問題はない。その勘違いを正してやればいいだけの話。

 問題なのは宗一郎が神速の権能の対抗手段を持ち合わせていることを承知して、なお神速の権能を行使してくる場合である。

 こちらならば、極めて深刻な問題である。クー・フリンの策が窺い知れぬ以上、安易に仕掛けるわけにはいかない。

 あるいは、前提条件からして間違っている可能性もある。つまり、敵戦車の能力が神速の権能ではないことである。可能性としては十分にあり得る事態である。

 とはいえ、クー・フリンの策を看破するまでは、守勢に回るしか術はない。それに現状最も警戒するべきは、やはり神速の権能であることに変わりはない。あの圧倒的な速度の暴威は脅威に過ぎる。油断はできない。

 実のところ、宗一郎は神速の使い手との対戦経験があった。それは宗一郎が最初に倒した神である烏枢沙摩明王―――かの神もまた神速の権能を有していたのである。

 当時、宗一郎にとって神速の権能はまったくの初見であった。一撃、碌に反応できずに被弾した。あのとき烏枢沙摩明王が本気であったならば、宗一郎の命脈は尽きていただろう。

 幸い、『まつろわぬ神』は人類を侮る傾向があったため、宗一郎は事なきを得た。と言っても、流石に二撃目を許すほど彼も甘くはなかった。既に鍛錬によって神速を打ち破る術理を修めていたからだ。

(……当時と同じことをすればいいだけのことです)

 剣理に沿うならば、宗一郎より速力に勝る敵ならば後の先―――敵に先手を打たせ、これを防いで勝利を得る――を取ればいい。

 速力に勝る相手にわざわざ宗一郎から仕掛けて敵の土俵に登ってやる義理などない。泰然と待ち構えるだけで事足りる。

 敵の戦闘速度が常軌を逸してさえしなければ、勝利へと導く正しい戦理である。だが定石が通用しないからこそ、ただの後の先では駄目なのだ。

 『神速』は文字通り目にも映らぬ疾さである。目で視てから反応するのでは遅すぎる。

 故に、敵の肉体反応を視るのではなく、心理的反応を感じ取るのだ。

 敵の放つ殺気を、攻撃の意思を研ぎ澄まされた五感で嗅ぎつけて、その瞬間に回避行動に移るのだ。

 しからば、敵影は何もない虚空を凪ぐのみであろう。

 いかに超常の速度を誇ろうとも、攻撃する前に回避出来れば恐れる必要などない。

 無論、困難を極めるも、一度ならずとも切り抜けた試練である。必ず成し遂げてみせると、宗一郎は意を決する。

 ―――第二幕は激しく切って落とされた第一幕とは裏腹に静寂とともに始まった。だが両者ともにこの静寂が長く続くことはないと解っていた。

 熟考の末、不動を選択した以上、宗一郎から動くことは有り得ない。クー・フリンもそれを察しているだろう。

 故に第一幕と同じく動くのはクー・フリンにおいて他にいない。

 果たして、クー・フリンは仕掛けた。もはや大地を踏む蹄の音すら聞くことも叶わぬ超速の世界へと突入した。

(やはり神速……!)

 先立ってクー・フリンの殺意を察知した宗一郎は、即座に反応し、真横に跳んだ。

 二頭立て戦車の能力が知れた以上、宗一郎の策は定まったも同然である。安全策を講じるならば、ここは回避に徹するべきであった。

 さらに返す一刀でクー・フリンの首を刎ねられれば最高である。だが大型車両に匹敵する馬鹿でかい戦車に乗り込まれた以上、たとえ御者台の上で身を晒していようとも、宗一郎の剣先を届かせるのは難しいだろう。

 故に回避こそが最善手なのである。

 神速はその速さが枷となって繊細な動きが出来ないという弱点を抱えている。宗一郎が回避行動を執った瞬間に神速の領域下のもと神懸った早さで追撃に移ることが出来ない。

 ましてやあの巨大戦車の構造上到底小回りなど利くまいし、一度回避されようものなら後は反転して再追撃する以外に攻撃する術はあるまい。

 あの戦車はもともと対人用ではなく対軍用に想定された決戦兵器なのであろう。

 万の軍勢をも薙ぎ払う巨体に物言わせた超重量の神速の突進力は脅威であるが、神速を見切る“眼”を持っているのならば無効化は容易い。むしろ小回りの利く生身の神速使いよりも対処しやすいかもしれない。

 しばらく回避に徹し続けていれば、いずれクー・フリンも己の戦術の誤りに気づき、自慢の戦車を降りて徒歩に戻らざるを得まい。

 そのとき、宗一郎は無傷で敵の権能ひとつを潰し退けた上に、クー・フリンより心理的に優勢に立つことが出来る―――筈であった。宗一郎が回避行動さえ執っていれば……

 宗一郎が身を置いた位置は、もといた場所より数歩ほど隔てた距離に過ぎない。その程度の距離を離れたところで、勇壮な巨馬の突進による轢殺死は免れても、禍々しい巨刃の一撃による裁断死からは逃れられない。

 回避に適した場所ではないことは明白であった。だが、もとより宗一郎は回避行動を執る積もりなど、さらさらなかった。

 宗一郎がこの位置に降り立ったのは、それが必要であっただけ。

 宗一郎は戦車に固定された巨刃を思い起こす。間違いなく神界の鋼に相違なかろうが、それ事態に強大な神威を帯びているようには見受けられなかった。

 ならば斬れる、と宗一郎はそう見積もった。

 宗一郎の手に持つ鋼も至高の逸品に違いないが、所詮は人界のものに過ぎない。だが浄化の神力を注ぎ込まれた今の彼の愛刀は即製の神器と化していた。

 故に、宗一郎の技量を以って神剣を振るうのならば、神界の鋼といえども断てぬ道理がない。

 宗一郎は神速の突進に対して回避ではなく迎撃で以って応じる心算であった。

 回避による事実上の無効化ではなく、迎撃による物理的な無力化で戦車を破壊することが狙いである。ちまちまと逃げ続けるよりも、あくまで攻めの戦法を宗一郎は選んだ。

 神威の速度域で驀進してくる二頭立て戦車、その側面に固定された凶悪なる巨刃を確かに見据えて、宗一郎は刀を大上段に振りかぶる。そのときである。

「―――ッ!?」

 宗一郎は見咎めた。常の眼では見ることも叶わぬ、この世ならぬ神速の領域より迫り来る戦車の御者台、その上で突きの構えを執るクー・フリンの姿を!

(まさか、向こうは神速を発動させながら精確に攻撃出来るのか……!?)

『だから、テメエは甘いんだよ』

 何処からとも聴こえてくるクー・フリンの嘲弄の声。それに先じて放たれた刺突は、文字通りの神速。だが間一髪宗一郎は身を伏せていた。

 紅槍の穂先が背中を擦過して白い衣を血に染める。傷口から懲りずに侵入してくる呪いを即座に焼き祓いながら、宗一郎は己の見込みの甘さに歯噛みした。

 あの魔槍の英雄を侮るべきではなかった。神速を見切られてなお必勝の方策を蓄えているとなぜ疑わなかったのか。

 だが回避手段を講じていたとしても槍の鋭鋒からは逃れられることは叶わなかったであろうと宗一郎は解っていた。

 宗一郎は武術に精通しているが故に、攻撃も防御も常に無駄を排した必要最小限の挙動を執る。たとえ回避行動を取っていたとしても、一寸の見切りで以って巨刃をかわす立ち回りを演じていたに違いない。

 それでは、やはり赤槍の餌食となることを免れ得なかったであろう。むしろ、次など考えずに遮二無二に地面に身を投げた方が意外といい結果を出していたかもしれない。

 神々との闘争において、修めた武術の技すら時には棄てざるを得ないことを宗一郎は身を以って学んだ。

 だからこそ、次は余計なことなど考えずに回避に徹することを宗一郎は心に誓う。

 だがこの時点でもまだ宗一郎は、クー・フリンの脅威について見積もりが甘すぎた。百戦錬磨の魔槍の英雄が容易な“次”など与えてくれるはずがない!

 ズドン!と地面が揺れるほどの轟音と衝撃が深夜の公園に響き渡る。直後、影すら見せずに通り過ぎていくはずだった二頭立て戦車が宗一郎のすぐ脇に“出現”した。

「―――!!」

 宗一郎は愕然と目撃したのは、なんと巨大戦車が左右二輪構造にも関わらず、唐突に前のりにつんのめって前輪走行(ストッピー)の如く後方の車体を浮き上がらせ、宗一郎を押し潰しに来る車両の姿であった!

 その原因を作り上げたのが、御者台からつるつると地面に伸びた赤槍なのだと誰が信じられようか。

 おそらく、クー・フリンは刺突をかわされるや否や、即座に制動装置(ブレーキ)の如く赤槍を地面に突き刺すことによって、急制動をかけて後方の車体を浮き上がらせたのだろう。

 物理法則に真っ向から喧嘩を売るその奇跡が、どれほどの魔槍の英雄の剛力が、どれほどの赤槍の強度が可能ならしめているのか、宗一郎には想像もつかなかった。

 条理に反した光景に唖然とするあまりに、宗一郎は千金に値する貴重な時間を無為に食い潰してしまった。回避する余裕が失われたのだ。

 このままでは地面に腰を突っ伏したままでぺしゃんこになる羽目になる。そんな運命はごめんだ、と宗一郎は何もない虚空を掴んでそこからあるものを取り出した。

 それは一枚の呪符であった。日本伝来の呪術たる陰陽術を行使するための触媒である。

 宗一郎はその呪符―――木行符に呪力を通して頭上に投げ放った。

「みなかたの、神の御力、授かれば祈らむことの、叶わぬはなし、野辺に住むけだものまでも縁あれば、暗き闇路も、迷わざらまし、我身守り給え、幸給え―――汲々如律令!」

 宗一郎は呪言を唱える。大国主神と沼河比売の間の御子神たる風神である建御名方神に捧げる祈祷。風を起こす木行符に、風神に捧げる祈祷呪文を上乗せした呪術強化。相乗された風の呪術が宗一郎の呪力を受けて起動する。

 放たれた木行符が轟風を呼んで収束、高圧の気圧の束が弾丸の如く疾駆し、宗一郎に圧し掛かってくる車体を押し上げ、吹き飛ばす!

 それに引き摺られるように二頭の神馬の後肢が浮き上がる。だが、前肢はまるで大地に吸い付いたように離れようとせず、車両は神馬の前肢を中心にコンパスで半円を描くように宙でくるりと回って落下し、轟音を響かせて地面に車体を押し付けた。同時に二頭の神馬の後ろの蹄も大地を踏む。

 二頭の神馬と一柱の槍神、三対の双眸がまるで何事もなかったかのように正面から宗一郎を見据えた。

「……」

 呆然と言葉も出ない宗一郎。それもそのはず、この事態は宗一郎が意図したものであるはずもなく、また偶然に起こり得ることでもない。

 宗一郎の呪術は戦車を数十メートルほど吹き飛ばして地面に叩き付けることによって破壊する意図があった。

 にも拘らず、現実はどうか。戦車は無傷で地面に着地を果たしたのみならず、あろうことか再突撃のための反転すらわざわざ行う必要すらないほど完璧に体制を整えているではないか。

 これも宗一郎が放った風の呪術をクー・フリンが巧みに利用したためだ。このような所業、騎手の卓越した戦車運用能力だけで為せる業では断じてない。

 事実、宗一郎は見ていた。宙に薙ぎ払われたクー・フリンの指先が幾何学的な紋様を虚空に描くのを。

 その紋様の意味は宗一郎には解らない。が、それが呪術に必要な呪符や呪文と同じ触媒であることは理解できた。

 ならば、結果を見るにクー・フリンが行使した呪術の正体も明らかだ。

 おそらく宗一郎が使用した呪術と同属性の風術だろう。気圧を操作することで吹き飛ばされて、破壊される運命にあった筈の二頭立て戦車を救出したに違いない。それのみならず、気流を操り即座に再突撃に移れるような位置取りで戦車を軟着陸させたのだ。

 まさに絶技といえた。並の呪術使いに出来る術ではない。あの魔槍の英雄は槍を繰り戦車を駆る武神でありながら呪術を司る神でもあるらしい。

 唯の武神ではないことは既に予想を立てていたが、難敵がますます難敵と化したことに、宗一郎は一層に気を引き締める。

「―――出でよ、貧狼!」

 宗一郎は素早く立ち上がり、距離を取りつつ、高らかに叫んだ。

 宗一郎の全身から呪力が爆発的に立ち昇り、それに呼応して逆巻く風が吹き荒れて―――消え失せた。何一つ変化しないままに。

 それを見咎めたクー・フリンは、厳しく宗一郎を睨み付ける。

「貴様、何をしやがった?」

 一見すると宗一郎が行使した何らかの術が失敗したように映るだろう。凡夫ならそう判断する。だがクー・フリンは呪術を司る神である。術式が成立したことを本能で感じ取っていた。

 故にクー・フリンには何一つ変化の起らない現状が納得できない。間違いなく何かが起こっているはずなのだ。

「さあ、何でしょう」

 宗一郎はクー・フリンの疑問に恍けるように答えてから朗らかに笑った。

「ちッ……」

 クー・フリンは舌打ちして周囲を警戒しつつ、次に執るべき行動を判断しかねた。神殺しが何らかの詐略を用いているのは疑いない。

 ならば一度神速の領域に踏み込んでしまえばいかなる術策であろうとも振り切れる、などと思うほどクー・フリンは自らの権能を絶対視していない。

 クー・フリンは宗一郎の術が神速対策の可能性を考慮しているからこそ動くことが出来ない。

 それは魔槍の英雄がこの戦いで示した初めての躊躇、その空隙を突くように宗一郎が動く。

 右手で刀印を結んでクー・フリンに突き付けた。これには全方位を万遍なく警戒していた彼も警戒度を宗一郎一点に優先せざるを得なかった。そうなると当然、周囲の警戒も緩くなる。

 ―――その瞬間を宗一郎は待っていた。

「行け、貧狼!」

 宗一郎が何かに向かって命ずる。

「ぬ……!?」

 だがこの期に及んでも目立った変化はない。怪しい音もしなければ、大気すら動く気配を見せない。にも拘らず、クー・フリンは本能に突き動かされるままに、赤槍を左側面の宙に向かって薙ぎ払っていた。

 そこはやはり何もない虚空を映すばかり、否、一点のみに置いて異常を発見する。そこは振るわれたクー・フリンの槍の軌跡、それに沿うように黒い液体が飛び散っていた。

「これは血か……!?」

 見えざる生き物がすぐ脇にいる! そうと解ったそのとき、とんでもない衝撃がクー・フリンを襲った。いや、違う。正確にはクー・フリン本人ではなく彼の駆る戦車が、何かと衝突したかのような衝撃を受けたのだ。

「ッ……!」

 悲鳴のように軋みを上げて倒れる車両。

 神速で大地を踏破する二頭の神馬が牽く戦車は、激突してきた見えざる襲撃者に屈服するかのように、右側面から大地に倒れていく。

 巻き込まれては堪らぬ、と御者台を蹴り上げて虚空に舞うクー・フリン。宙で身を捻って颯爽と着地する。

 横を見れば倒れ伏した戦車の姿。だが、二頭の神馬は未だ健在である。雄々しく蹄で大地を踏み、鼻息は荒々しく闘気に衰えは見られない。

「すまん、兄弟たちよ。今は退いてくれ」

 だがクー・フリンは、愛馬たちに声を掛けると送還の呪言を唱えた。

 主の決断に抗議するように嘶く神馬たち。が、クー・フリンはそれに構わず彼らを還した。神代の戦車は現界に必要な呪力を断ち切られ、容を失い虚空に霧散していく。

 クー・フリンの決断は当然だ。

 愛馬は無事でも愛車の方は交通事故に遭遇したように転倒している。一トンを超える大型車両である。人力で立て直すのは不可能でも、怪力無双の武神ならば可能だろう。

 だが、それもその時間を与えられたらの話。無論、そんな隙を見逃す宗一郎ではない。故に戦車の放棄は戦略上正しい選択だった。

 その代償に貴重な戦力を失ったのは痛いだろうが、何も永遠に失われたわけではない。神代の戦車である。横転した程度で壊れる筈もない。

 クー・フリンが呼べば再びあの勇壮な威風(すがた)を顕すだろう。

 だがクー・フリンにはそれが出来ない。戦車を転倒させた見えない襲撃者の存在が安易な行動を許さないのだ。いまクー・フリンは姿が見えもせず、気配も感じられない襲撃者の脅威に晒されていた……

「なんて事、考えてるんじゃなえだろうな、神殺し! オレが二度も許すわけがなえだろうがァ!」

 クー・フリンはそう吼えるや、左手を虚空に滑らせて不可思議な紋様を刻む。

 それは “(ペオース)”と呼ばれる神代に伝わるルーン文字。

 その意味(ちから)たる虚偽を、不正を、あらゆる秘密を暴き立てる呪力がクー・フリンの後方に向かって放たれる!

 自身の真後ろに投射したのは兵力差が倍である以上、挟撃こそが最も手堅い戦術だと見切ったためだろう。果たして、狙い通りにソレはいた。

 クー・フリンの秘文字が姿なき襲撃者の容姿(すがた)を詳らかにする。

 クー・フリンを宗一郎と挟む位置に現れたのは、黒い犬だった。無論、只の犬ではない。全長十メートルはあるだろう巨大な犬―――神獣である。

 その黒犬は飛びかかる隙を探っているのか、前傾姿勢でクー・フリンを紅蓮の瞳で睨んでいる。

「それもどこかの神から奪い取った神獣(ペット)……てわけじゃあねえな。なんだソレは?」

 クー・フリンは宗一郎と黒犬を視界に捉える半身の体勢を執りながら訝しげに呟く。

(流石は呪術の神ですね。貧狼の違和感に気づきますか)

 宗一郎は内心で感嘆の声を上げた。

 この神獣は宗一郎の切り札のひとつである。が、権能というわけではない。黒犬は神から奪い取ったモノではないのである。

 西洋魔術の奥義に神に対抗できる秘術があるように、東洋呪術にもそれは存在する。

 だが、西洋と東洋では奥義と一括りにしても、その術理の根本原理は真逆といっていい。

 西洋の奥義が神を傷つける能力を術者に賦与させるのに対して、東洋の奥義は神を傷つける存在を術者が召喚するのである。即ち、神獣を。

 これこそが東洋呪術の奥義がひとつ―――≪鬼神使役法≫。宗一郎が行使した術の正体であった。

「ククッ、そういうことか。ソイツは自前か。想像以上に術も達者のようだなあ、神殺し!」

 即座に状況を看破するクー・フリン。

「確かに、神獣を(くさり)で繋いでのけたオメエの腕前は見事だ。だが言ってみればそれだけにすぎねえ。同族を殺したといえど所詮は人間だ。神の真似事が出来てもオレたちとまったく同じことが出来る筈がない。神殺し、テメエ―――その神獣を御し切れていないな」

 それは断定だった。魔術を司る神ならではの感覚で、クー・フリンは宗一郎の術の弱点を見抜く。

 クー・フリンの指摘は正しい。宗一郎は神獣の完全制御に至っていない。

 宗一郎が引き出せるのは全能力の半分程度。神や魔王に使役された神獣と正面から戦えば一方的に蹂躙されるしかない。

 それを承知してなお重宝しているのは、唯一扱える黒犬の特殊能力のためだ。

 武神クー・フリンを以ってしても攻撃される直前まで察知できなかった気配遮断能力による奇襲力。この能力の前では戦闘能力の優越など些細なことである。

 姿が見えず、気配も感じさせ得ないということは、一方的に攻撃できる優先権を有しているに等しい。そういう意味なら神速の権能に通ずるものがある。

 だが違うところもある。それは武術的に対処不可能であることだ。

 神速は武の秘極に至った者ならば殺気に反応して回避が可能なのに対して、隠形はそもそも殺気すら遮断してしまう。音も匂いさえも、だ。

 これではどれほどの達人であったとしても対応できる道理がない。クー・フリンが襲撃者の存在を察したのは気配を感知したのではなく、ただの第六感だろう。だが、所詮は感に過ぎない。いつかは必ず外れる。

 とはいえ、これだけならば、絶対的な能力に聴こえるだろうが無論そんなはずはない。クー・フリンに破られている現実が能力の絶対性を否定していた。

 ある一面に突きぬけた能力というものは、意外な箇所に致命的な弱点を抱え込んでいる場合がある。

 黒犬の隠形術は武術的に対処不可能であるが、魔術的には極めて脆弱だった。術破りをされると瞬く間に真実を暴かれるのである。

「相性が悪かったな。相手がオレでなかったら強力な手札だったんだろうが。フン、だからと言って容赦はせん。犬は喰わないと誓ったが、殺さないと誓った覚えはないんでな」

 殺気を滾らせながらも、クー・フリンに動く気配はない。

 クー・フリンとて理解しているのだろう。黒犬の隠形術を破りはしたが、数の不利が覆したわけではないということを。

 依然クー・フリンは宗一郎と黒犬に包囲されているのだ。

 宗一郎はともかく黒犬の戦闘力はクー・フリンの敵になり得ない。一刺で事足りえる相手である。だが一手間は掛かることは確かだ。

 宗一郎とクー・フリンは白兵戦において実力が伯仲している以上、そんな隙を晒すことは致命的になりかねない。故に容易に動けないのである。

 対して、宗一郎も動けなかった。

 黒犬を犠牲にすればクー・フリンに致命打、そこまでいかずとも有効打は与えられるかもしれない。

 だがここで問題が生じる。黒犬は権能によって召喚された存在ではないということである。即ち、消滅しても復活することが出来ない。消滅は即ち死と同義なのだ。

 だが、宗一郎は何も黒犬の愛着故に死を厭うているわけではない。黒犬の戦闘力は低くとも、気配遮断能力は非常に強力な能力である。

 今回は相手取った神が呪術に通暁していたため、無効化されてしまったが、当然すべての神々がそうであるわけでもない。

 黒犬は今後とも役立ってくれる貴重な戦力なのは疑いない。手放すのは惜しい。

 やはり二頭立て戦車を無力化したことで満足して、後々のために温存するべきか、と宗一郎が決断を下そうとしていた、そのときである。

 

 

「ギャギャギャギャギャ……!ミィィィィヅゲダァァッ、グー・ブリィィィィィン……!!」

 

 

 奇怪な声が天頂より降ってきた。と同時に、宗一郎とクー・フリンが対峙するその中心の位置に紫色の煙幕のようなものが上から落された。

 爆発したように瞬く間に公園中に広がる紫の濃霧。

 腐る。腐る。腐る。

 紫の濃霧に触れたすべてのものが穢れていく。手入れの行き届いた美しい芝生が、萎れ枯れる。大都会とは思えない澄んだ空気が、腐り死んでいく。生命の存在を許さない死の世界が広がっていく。

「くッ……」

 それを直に浴びる羽目になった宗一郎は苦しげに呻く。

(これは毒霧!)

「佐久耶……ッ」

 毒を喰らった自分よりも妹を案じて宗一郎は芝生を蹴ってひた走る。

 その挙動に毒の影響は見られない。そもそも宗一郎に毒の類は通用しない。たとえ、そうでなかったとしても自分よりも妹の身を心配しただろうが。

 背後は気にしない。この状況下であればクー・フリンの追撃はありえまい。

 今は宗一郎も決闘の場に乱入してきた謎の第三者を警戒しなければならない筈なのだが、それらをかなぐり捨てて宗一郎は佐久耶の元に走る。

 幸い佐久耶は十メートルほど離れて場所で待機しており、ここまで離れると毒霧をかなり薄れていたため目視で無事を確認できた。

 さらに近づくと彼女たちの状態が把握できた。

 リリアナ・クラニチャールは毒霧にやられたのか、芝生に両膝をついて苦しげに喘いでいる。そんな女騎士に寄り添うように佐久耶が彼女の肩に手を置いている。

 治癒の術をかけているのだろう。が、リリアナの状態は一向に快方に向かう兆しが見られない。

 佐久耶の治癒術と毒素が拮抗しているのだ。これには宗一郎も驚いた。そこらの毒素など瞬く間に治癒させ得るはずの佐久耶の術で癒せないとは尋常な毒ではあるまい。

 呪術を超えた奇跡。間違いなく権能であろう。

 ならば、乱入者は『まつろわぬ神』なのか。天敵たる宗一郎に向かってこないところを見るに、クー・フリンの方に向かって行ったようだ。あの魔槍の英雄と何かしらの縁ある相手なのだろう。

 とはいえ、状況が不透明に過ぎる。紫の濃霧のせいで何も見えず、周囲が把握できないからだ。

 ―――撤退という言葉が宗一郎の脳裏によぎる。

 『まつろわぬ神』が二柱。それもどうやら両者は敵対関係にあるようだが、最悪の事態を常に想定しなければなるまい。つまりは共闘して攻めて来る可能性である。

 そう冷静に分析してなおそれはあるまい、と宗一郎は判断した。たとえ両者が協力関係に合ったとしても、あの魔槍の英雄に限ってたったひとりの敵を相手に二人がかりで攻め立てようなどとは思うまい。

 それは刃を交し合ったからこそ解ることであった。だからこそ、宗一郎も乱入者と共闘してクー・フリンを討ち取ろうなどと露とも思わない。

 ならば撤退しかない。一度この場から離脱を図り、戦場の全体像を俯瞰する。つまり、二柱の神々の闘争を離れて観戦しようというわけだ。

 それでまだ晒していないクー・フリンの手札の一つや二つくらいお目にかかれるかもしれない。

 宗一郎はクー・フリンが乱入者に倒されるなどとは、全く考えていなかった。

 あの魔槍の英雄を倒すのは自分だ―――という個人的な願望を抜きにしても、武術を魔術を極めたクー・フリンが敗北する(すがた)は、想像する方が難しい。

 ならば、早急に決着を付けられる前に、観戦と洒落込もうと考えた、そのときである。

「兄さま……!」

 珍しく焦った妹の声に、宗一郎はそちらへ首を巡らせた。

「この毒霧は私のカラダも蝕もうとしているようです。 だから一度戻ります。兄様、リリアナさまをお願いします」

 宗一郎が頷くのを確認すると、佐久耶の体は虚空に溶けるように消えた。

「な……! まさか、霊魂投出……!?」

 それを目にしたリリアナはその驚きの言葉を最後に、「うっ」と呻くと地面に突っ伏した。

 治癒の術が切れて、力尽きたのだ。宗一郎はそのリリアナの体に手を伸ばし、仰向けに転がした。さらに宗一郎はリリアナの鳩尾――臍下丹田――に右手を置いて、

「オン クロダノウ ウンジャク――――」

 烏枢沙摩明王の真言を唱えた。

 燦然と吹き荒れる紅蓮の燐光は、瞬時に宗一郎の右手に収束し、伝播する。

 毒素に侵されたリリアナから腐り果てた地面、さらには空気中に漂う毒霧にまで伝わるや、一気に紅蓮の猛火が爆ぜ広がった。

 紫の濃霧に包まれた一帯は紅の火炎に飲み込まれる。それは地獄絵図さながらの光景だった。が、幸いにして閃光花火の如くぱっと燃え上がり一瞬で掻き消えた。

 リリアナは無事だ。火傷ひとつ負っていない。それどころか、土気色の顔色が戻り、呼吸も安定している。浄化の炎は、その名の通りに穢れ(どく)のみを焼き払ったのだ。

 紫の濃霧も消え失せている。毒素以外には一切影響を与えていない筈だったが、周囲は毒霧によって無残な有様に成り果てていた。

 青々しかった芝生は枯れ果てて禿げ上がり、地面が剥き出しになっている。その地面も見るからに生命など一欠けらも宿っているように見えないほど不気味に変色していた。

 近くにあったトネリコの木は、葉が枯れ落ちて、幹はそれこそ数百年は経てきたように萎びている。美しかった公園は、僅かの間に見るも無残に荒廃した。その荒廃した公園の只中に合って、なお冷静に周囲に目を配る宗一郎。

 神殺しに至るために産み出された宗一郎にとって、周囲の景観の変化に一々心を動かされることなどあり得ない。

 神と魔王が死力を尽くして戦えばこうなることは当然だと割り切っている。

 だからこそ、宗一郎の意中にあるのは、そんな些細なことではなくて、二柱の神々のみである。

 濃霧が晴れたにも拘らず、四方に誰の姿も見られない。火炎の渦に巻き込まれたのか? いや、それはあり得ない。リリアナの身の安全を優先して、毒素だけを標的として焼き払ったのだ。あの二柱の神々には熱気すら感じなかった筈である。

 ならば、上か。宗一郎がそう思い到ると同時に空から声が降ってきた。

「神殺しよ。余計な邪魔が入った。今日のところはここでシマイだ。また、近い内に再戦といこうぜ、あばよ」

 宗一郎が頭上を見ると、なんとクー・フリンが空中に直立していた。そして、何もない虚空を蹴って物凄い勢いで上空へと駆け登っていくではないか! それは、あたかも天上へと続く不可視の階段を登っているかのようだ。

 あれもクー・フリンの権能なのだろう。飛翔か、あるいは跳躍か。だが、乱入者も流石は『まつろわぬ神』である。上空に逃れた程度では安全ではないらしい。

 乱入者―――濃紫の長衣を全身まですっぽり被った小柄な人影が宙を飛翔してクー・フリンを追撃する。魔槍の英雄とは違い、滑るように真っ直ぐ最短距離で上昇して猛追している。

 両者は瞬く間にダブリンの夜の黒い戸張に隠れるように見えなくなった。

 それを茫然と見送るしかない宗一郎。流石に上空に逃げられてしまえば彼には追撃する術がない。

 結局、何が何なのかわけが解らないままに、戦いは終わりを告げた。おそらくは、宗一郎とクー・フリン、双方不本意なままで……

 だが、宗一郎は少し落胆しただけでこの結果を受け入れた。クー・フリンの再戦の誓いなど聴くまでもない。神殺しとしての本能が再戦の時が近いことを教えてくれた。

 ならば、それまでに傷を癒し、体力を回復させ、来たるべき戦いのために刃を研ぐ。それが神殺しの剣士として、相応しい休息というものであろう。

 だが差し当たって宗一郎が今出来ることは、妹との約束を守るために眠り姫を毒素で腐り果てた荒地よりもマシな場所に移すことである

 宗一郎は地面に跪き、リリアナを抱きかかえる。そして、ふと視線を上にやる。

「……覗き屋の視線というものは、実に不愉快なものですね」

 と意味の解らないことを呟くと歩き去った。

 

 

 

 

 

 ちょうど宗一郎が目を向けた方角の遥か上空に、まるで夜の闇に溶けたかのように一体化して、虚空に立つ黒衣の男の姿があった。

「……覗き屋だと? 心外だ」

 耳聡い男は憮然とした口調で呟くと、雷光の煌めきと共に消え失せた。

 


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