神殺しの刃   作:musa

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六話 勇者推参

東から来た者(ペルセウス)』――

 その参上にもっとも驚いたのは宗一郎ではなく、むしろ女神ヘラの方だった。

「英雄神よ、お前はもうあの神殺しを仕留めたというのですか!」

 ヘラはまるで先を超されたといわんばかりに悔しがる。

 その様子を天馬の上に跨ったまま眺めていたペルセウスは、愉快気に微笑む。

「如何にも、その通り……と言いたいところですが、生憎とあの神殺しには、追い詰めはしたものの、上手い具合に逃げられてしまいましてな。アテナの御前にて再戦の誓いを果たしたものの、それまでの時が手持ち無沙汰でありました故、こちらの方に参らせて頂いた所存です」

「……アテナはお前を黙ってこちらに来させたというわけですか。かの女神は本当にわたしに助勢する意思はないようですね」

 まったく困ったものだと、ヘラはかぶりを振った。

「どうやら、そのようですな。ふふ、どうもアテナは余程あの神殺しの事がご執心のようでしたからな」

 アテナとの対面の場でも思い返したのかペルセウスは、そう言って微笑を浮かべた。

 地母神と英雄神の語らいを黙して聞いていた宗一郎であるが、その実、その心中は荒れ狂っていた。

 なぜあの英雄神がこの場にいるのか。あの『まつろわぬ神』は草薙護堂、同郷の神殺しに一時預けていた筈だというのに! 

 宗一郎の計画では、眼前の地母神を可及的速やかに片づけた後、草薙護堂に預けてあったモノを還してもらう予定だったのだ。

 まさか、それがこのような事態になろうとは、完全に想定外である。まったく役に立たない男にも程がある。

 とはいえ、この場にいない人物を罵ったところで現実は変わらない。宗一郎は荒ぶる心を鎮めつつ、新たに顕れた乱入者――ペルセウスを子細に観察する。

 翼持つ勇壮な駿馬の背に跨るその偉容には、些かの陰りも見られない。神殺しの魔王と死闘を演じたとは、とても信じられないほど、ダメージの影響は一切ないようである。

 よもや草薙護堂は、何の抵抗も叶わず敗北を喫したとでもいうのだろうか?

 実際のところ、宗一郎は草薙護堂を高く評価していた。というのも、その理由は一も二もなく、一月前に彼の権能を目にしたからに他ならない。

 『智慧の剣』――神無月家が数百年の研鑽の果てに完成させた秘中の秘。神殺しの刃。

 とはいえ、宗一郎が振るうのは所詮その偽物に過ぎない。だがあの同郷の神殺しは、あろうことかそのオリジナルを所有していたのだ。

 かの至高の宝剣さえ手にあるのなら、如何なる神と言えど、一方的に敗北を喫するなど考えられない筈なのだが。

 まさか草薙護堂は、《刃》を研ぐために必要な『智慧』を持っていなかったのだろうか。もしそうであるなら、いかに『智慧の剣』といえど、ナマクラ同然だっただろう。

 それなら実戦において使い物にならなかった筈である。ならば、一時の敗北も仕方があるまい。もっともあの同郷の神殺しは、『智慧の剣』を恃みとするたけの底の浅い戦士には、あまり見受けられなかったが。

 あるいはペルセウスを名乗るあの英雄神には、草薙護堂を封殺する何らかの秘密があるのかも知れない。が、宗一郎はそれ以上の思索を脇に置いた。

 そもそも彼は、草薙護堂がどのようにして敗北したかなどに関心はない。

 あるのは、同郷の神殺しを鎧袖一色した英雄神の戦闘力のみ。そしてそれはこうなった以上、実戦で確かめればいい話である。

 宗一郎は二柱の神々を睨み据えると、長刀を構え、再度刀身に炎を纏わせた。赤い凄烈な輝きが`夜の闇を灯す。

 地母神と英雄神。

 この強大な『まつろわぬ神』たちと単独で渡り合わなければならない現状、力の出し惜しみは即命を落とす羽目になりかねない。

 そう、神殺しの本能が警告を発していた。故に、全力全開で行く。

 宗一郎の戦闘体制の移行が英雄神の登場以降弛んでいた場を再度緊張させた。

「もうお喋りは結構です。僕たちは闘争の場に生きるもの。ならば、それに相応しい振る舞いがあるでしょう」

 宗一郎の凛とした声が場に響き渡る。

「ふふ。その通りだ、神殺しよ。我々は言葉を操るより、武威を振るうことこそが本分。どうやら君は、先程の神殺しより戦場の作法を弁えているようだな!」

 不敵に笑いつつ右腕を一閃、湾刀を取り出すペルセウス。

「野蛮な武器をひけらかして悦ぶのは、お前たち男どもだけです。ですが手早くお前たちを誅殺したいのはわたしも同じです」

 そう言ってヘラは、剣を手に執る男たちを冷やかに睥睨する。

 魔王と英雄神と地母神。三者の殺意と呪力が高まり合い、またも空間が軋み始める。

 一触即発の場――だが、先に動いたのはヘラだった。

 近接戦闘を好む男たちと違い、間合いを推し量る必要がまったくない遠距離からの一方的な大火力を叩き付けることを得意とするヘラならではの大胆な行動だった。

「わたしは大地(ゲー)を言祝ぐ女神ヘラなり。大地の女王にして聖なる庭園の主」

 朗々と言霊が紡がれる。

「なればこそ、わたしは恵みを授けよう。聖なる園に生え聳える大いなる樹々よ。黄昏の娘が愛でたる美しき花々よ。この荒涼たる世界に咲き誇り、彩るがいい!」

 世界を変革する唄が完成する。

 ヘラが言霊を唱えるや否や、石畳の路面がひび割れ、爆ぜる。もうもうと立ち込める粉塵の中から巨大なモノが顕れ出でる。

 樹だ。それもおそらくは、樹の根っこだろう。……だろうと特定が曖昧なのは、ソレがあまりにも巨大すぎたからだ。まるで数十メートルの大蛇が地中から跳び出してきたかのようである。

 それも二体も、だ。言うまでもなく標的は、宗一郎とペルセウス。

 降り懸かる危機に両者は、奇しくも同種の方法で乗り切らんとする。

 片や、己の両脚を恃みとして、路面を蹴り、宙に跳び上がる。片や、己の愛馬を恃みとして、両翼を羽ばたかせ、宙に跳び上がる。

 敵の武器(、、)が地中から生じる以上、大地に踏み止まるのは危険だと判断したのだろう。人と神。種族は違えども、両者ともに最高の戦士ならではの即断だった。

 虚空を蹴り、上空を駆け上りながら宗一郎は見た。

 地上に隆起しつつも、しっかりとナポリの地中深くへと根を下ろし、生え聳える一本の巨大な樹木の偉容を!

「これは……」

 息を呑む宗一郎。

 樹海深くに居を構える屋敷で長らく過ごしてきた宗一郎とてこれ程の樹木の類は、目にした記憶がない。

 全長四〇メートルはあろうか。絶大な生命力を現す新緑の若葉が生い茂る、まさに神樹とも呼ぶべき存在だった。

 もし護堂とリリアナがこの場でこれを見ていたなら、ナポリが被ることになる甚大な被害を懸念して顔を青褪めさせただろう。

 だが、都市の未来を憂いる感性など宗一郎には無縁な話だった。いや、たとえ彼にそんな繊細な神経があったとしても、今この場において十全に発揮し得たかどうか……

 なぜならば、大樹の幹に根を張る樹齢数百年の大木と見紛うばかりの巨大な横枝が、まるで生き物のように身をくねらせて、上空に佇む宗一郎目掛けて殺到してきたからだ。

 それも次々と。さながらその光景は、巨大な蛇の群に襲い掛かられる哀れな獲物を思わせた。

 もちろん宗一郎はただの無力な獲物などではない。迫りくる大蛇の如き巨枝を目にしても若き神殺しは、怯むことなく冷静に精神を集中させる。

「東山つぼみがはらのさわれびの思いは知らぬかわすれたか」

 大樹から伸び生える巨枝を、蛇に見立てて術式をアレンジ。宗一郎は陰陽術における蛇避けの呪文を祈祷。全力で呪力を振り絞って行使する。

 すると宗一郎を圧し潰さんと押し寄せてきた巨枝の群は、あっさりとあらぬ方向へと逸れていく。

「……」

 危険は去った。にも拘わらず、宗一郎の表情は依然として厳しいままだった。

 先の呪術は、抜群の手応えだった。いや、むしろ上手く行き過ぎた(、、、、、、、)

 仮にも神々が御した眷属の攻撃にしては、抵抗が少なかった。だとするならば、この期に及んでなおヘラは、宗一郎の実力を軽視しているのだろうか。

 ――否、違うと宗一郎は、すぐに悟った。

 宗一郎は、ナポリ上空のある一角に視線をやった。そこには勇壮な天馬に跨り、軽やかに宙を舞うペルセウスの姿があった。

 宗一郎と同様巨枝の群に集られているものの、太陽の勇者は愉しげな笑みを浮かべたまま、微動だにせず己の愛馬にすべてを託す。その絶大な信頼に応えてか、天馬は優美な翼を羽ばたかせ、踊るような流麗な動きで次々と襲いかかってくる、おびただしい数の蛇樹の群を避け続ける。

 そのさまを見咎めた宗一郎の心は、感嘆ではなく憤怒の色に染まる。しかし、怒りの矛先はペルセウスではない。ヘラである。

 ペルセウスを襲う大樹の横枝の数は、明らかに宗一郎を狙ったそれより断じて多い。その意味するところはひとつしかない。

 つまり女神ヘラは、神無月宗一郎よりもあの鋼の勇士こそを脅威と感じ取っていることに他ならない。

 若き神殺しは、灼刀の柄を握りしめた。あまりの屈辱で全身に震えが走る。獲物に侮られるほど狩人にとって不快なことはない。

 この屈辱はあの地母神の首を獲ることで必ず晴らすことを誓う。しかし、それを果たすには、何よりあの英雄神が邪魔だった。

 闇夜の中でもはっきりと優雅に宙を舞う神馬一体の騎士の姿を見出し、宗一郎は歩み出す。己の目的達成に向けての障害物をとっとと取り除くために。

 

 

 

 

 

 ペルセウスは、余裕綽々の面持ちで天馬の背に跨り、戦況を悠然と眺めていた。彼はこれまで指示ひとつ出していない。神話の刻より数多の戦場をともにしてきた相棒には、そんな不粋な言葉は不要である。

 ――そこに、愛馬が軽く嘶いた。

 危険を知らせてきたのだと、ペルセウスは直ぐに察した。

『鋼の勇士ともあろう者が、こそこそと逃げ回るだけで得意がるとは情けない。ですが、もうそのような顔を出来なくしてやりましょう!』

 何処からともなく聞こえてきたヘラの言葉と同時に、ペルセウスを襲う神樹の横枝の数が倍増しし、四方八方から天馬が駆け抜ける空間を握り潰しながら、濁流にように殺到する。

 神話の霊獣が如何に健脚を誇ろうとも、「足場」諸共消してしまえばその自慢の機動力も無為に化さしめる。その事実にヘラは、ようやく気付いたらしい。

『さあ、もう逃げ場はありませんよ、ペルセウス! 大人しく潰れてしまいなさい』

 己の必勝を確信したように勝ち誇るヘラに、なおも余裕の態度を崩すことはないペルセウス。

「ハハハ、逃げ回るだけとはなんとも心外なお言葉ですな、ヘラよ。戦場を愛馬と共に駆け巡る技もまた戦士にとっては、剣を振るうことと何ら変わらぬ腕の魅せ所だというのに。もっとも、アテナとは違い、どこまでも女人でしかない御身には、戦の妙を理解出来ずとも致しかたありますまいな」

『黙りなさい! 名を偽るだけでなく、そのような忌々しい生き物を駆ってわたしの前に現れるとは、本当にふざけた男ですね、お前は……ッ!』

「ふふ。おや、どうされました。ひょっとすると、軍馬を見て何か嫌な記憶でも蘇えってきましたかな?」

 ペルセウスはなおも挑発し、嘲弄する。

『――!』

 声なき激憤の声を上げて、ヘラが更なる呪力を解き放つ。

 唸り飛んで来る蛇樹の勢いが益々増していく。もはや一秒とて、ペルセウスの姿形や声に至るまで見聞きしたくないのだろう。

 一刻も早く潰れてしまえ、とばかりに深夜の闇を照らす月光の光すら遮って怒涛の如く押し寄せてくる。

 だが、ペルセウスの不敵な笑みは変わることなく、朗々と謳う。

「――いにしえの武勲、我が刈り取りしゴルゴンの首にかけて申しましょう。あらゆる蛇は、私の前で無力になると!」

 鋼の勇士の宣言と同時に、神樹から伸長した蛇樹は、ことごとく塵と化した。

 ナポリの空を呑み込まんとしていた、おびただしい数の巨枝が一瞬にして消失したのだ。

『それは、蛇殺しの言霊……! アテナの神格のひとつである女神(メドゥーサ)を倒し得た力ですねッ』

「如何にもその通り。どのような力を振るおうとも、御身ら地母神の本性は――蛇。この力からは逃れませぬぞ。……ですが、よろしければ、この戦には使わぬと誓約いたしましょうか? とりわけ、御身はアテナ以上に蛇の性が強い方だ。この力はさぞや堪えましょう」

 不敵な笑みを浮かべつつ、天馬の上で英雄神は慇懃に頭を垂れた。

『いらぬ気遣いです。まったくこの場にいる男どもときたら、似たような力で誅罰から逃れようとするとは。お前たちはなかなか似た者同士のようですね!』

 苛立たしげなヘラの声に、ペルセウスは興味を持つ。

「ほう……? そう言えば、あの神殺しは何処に?」

 ペルセウスの呟きに、

 

 

「僕はここです。そして、すぐに死んでください」

 

 

 すぐ後ろから応える声があった。

「!?」

 驚愕するペルセウス。

 いまだナポリの上空に無数の粉塵が漂う中、それらをかい潜るように虚空を蹴り、ペルセウスの背後に現れたのは、無論、宗一郎だった。

 後ろを取った宗一郎は、容赦なく灼刀を横に振りぬく。

 無防備なペルセウスの首を狙って奔った赤刃は、だが、主の危機を察した天馬の羽ばたきひとつで馬体が滑るように加速し、風を切るだけで終わった。

 速攻で始末できなかった不満を、吐息をついて吐き出し、しっかりと虚空を踏み締めて宗一郎は刀を構える。

 追撃は仕掛けない。いかに両脚に超常の力を宿していようとも、神話の霊獣相手に人間の脚で勝負を挑むのは流石に無謀すぎる。

 ペルセウスは天馬をすぐさま旋回させて、宗一郎と向き合う。その端麗な顔には何か言いたげな、苦々しい表情が張り付いている。

「君たち神殺しが『なりふり構わない』という悪癖の持ち主たちだというのは、先程の神殺しで承知していたが、君も一角の剣士であろう。ならば、盗人の如き勝利を掠め取るような真似をするのでなく、正々堂々正面から戦い合うべきではないか」

「それは状況によりけりです。そもそも、僕と彼女との死合いに余計な横やりを入れてきたのは、貴方の方が先でしょう」

 戦士の先達として、手癖の悪い後輩を諭すように言うペルセウス。それに、毅然と言い返す宗一郎。

 この戦場で相対するのがペルセウスのみであったなら、宗一郎とてこの英雄神と真っ向から武練のほどを競い合うことに何の異論もなかった。

 が、いまこの場には地母神もいるのである。ならば、何を優先するのかなど解りきっている。どんな形であれ、ペルセウスにはさっさと退場してもらう必要があった。

「……ふむ、確かに不作法をしたのは、私が先か。ならば、君の糾弾は妥当だと認めよう」

 狂える神はそう言って、殊勝にも自らの非を受け入れた。が、彼は口元をまるで挑発するかのように、吊り上げて嗤う。

「しかし、私とて今更ながらこの場を引き上げるつもりはない。ならば、我々はどう振る舞うべきかね、神殺しよ?」

「そう言うことなら、仕方ありません。――では、ペルセウスさん。どうやら、剣にて雌雄を決するしかないようですね」

 ナポリ上空で火花を散らし合う宗一郎とペルセウス。

「ハハハ、その意気やよし! 私もあのような性格の方とはいえ、女人と刃を交えるよりは、君のような神殺しの剣士と斬り合う方が好みではあるな」

 そう言ってペルセウスは、しばし熟考するように沈黙すると、再び口を開いた。

「ふむ、決めたぞ。ヘラよ、聞こし召せ――我々はこれより決闘を始める。御身はその決着まで静観されたし! このペルセウスが伏して願い奉る」

 ペルセウスの清澄な祈祷が大空に轟く。しかし、返答はない。

 いや、あるいはそれこそが答えなのかもしれない。

 ヘラの側からすれば自分の手を汚すことなく、敵対者双方が勝手に争い合い疲弊してくれるのだ。かの女神にとっては実に都合がよい展開ではないか。これでは異論などある筈がない。

 にも拘らず、返答はあった。

 ただし、それは「肉声」ではなく、「行動」によって示された。

 巨大な神樹の上層付近――その一部に突如として数多の枝と葉が蠢き合い、絡み合いつつ一つの大規模な円形の地形(フィールド)を形成していった。まさにそれは、ローマのコロッセオさながらの広さを有する闘技場というべきものだった。

 それを見て取ったペルセウスは、真紅の瞳を輝かせると、顔を宗一郎に向けて腕をソコに差し向ける。

「おお、ヘラよ。御身にしては、まことに珍しくも気の利いたなされようではないか!

 ならばこそ神殺しよ、あそこを決闘の場にするとしようではないか。私についてくるがいい!」

 朗らかに笑うと、ペルセウスは愛馬を叱咤し、神話の霊獣は主の意を受け、優雅な所作で滑り降りていく。

 宗一郎もとくに異論はないのか、無言で虚空を蹴り下りる。

 ヘラが創り出した闘技場は、地上から2、30メートルの高度にある。なかなかの広さを確保されているとはいえ、無論落下防止用の柵などが設けられているはずもなく、ここで決闘を試みるのは、あまり適した空間とはいえまい。

 これではチャンバラの素人同士ならば、剣で決着がつく前に誤って足を踏み出し、真っ逆さまに転落するのがオチだろう。

 もちろん、ここで戦い合う宗一郎とペルセウスは、両者ともに傑出した戦士である。そのような無さまを晒すまいし、何より空を征する超権の持ち主たちである。落下が即死に繋がるわけではない。

 とはいえ、落下する心配とは無縁であったとしても、わざわざそんな悪環境で決闘を敢行するよりは、あのまま対峙し合った末に、空中戦に移った方が自然だっただろう。

 あるいは、文字通り地に足を付けた状況下での戦闘が好みなら、地上にまで降りていけばすむ話である。

 にも拘らず、なぜペルセウスは樹上で戦う選択をしたのだろうか? そして、宗一郎はそれにまったく逡巡することなく同意したのか?

 静かに樹上に蹄を鳴らした愛馬の上でペルセウスは、遥か彼方である地上を眼下に見下ろし、心底愉しげに笑った。

「ハハハ、あらためて見ればなかなか壮観な景色だな、この場所は! 下界の民たちもさぞや賛嘆と畏怖の念をもって神々の力を讃えながら、我々を見上げているに違いあるまい」

 このときおそらくナポリの住人たちが懐いている思いは、驚愕と恐怖の感情であっただろうし、そもそもナポリに突如出現したこの神樹は、ペルセウス自身が創造したものではなかった。

 だと言うのに、まるで自らのモノだといわんばかりの厚顔無恥なその口上。

 美しき天馬の背に跨り、人間の世界を遠望する鋼の勇士にとって、それらの道理なぞどうでもいいのだろう。

 己が思い描く心象のみが世界の理であり、それ以外のこまごまとしたことなど一顧だにしない。

 ヘラの眷属たるこの神樹の上を決闘の場と定めたのも、深謀遠慮の末などではない。このポイントがもっとも下界にいる民たちの視線が集約されるからという単純なものに過ぎない。

 だが、時刻は深夜。それも上空2、30メートルの樹上にて繰り広げられる決闘を観戦できる人間は皆無だろう。とはいえ、そんな小さな道理を斟酌するペルセウスではない。

 その理不尽な程の無頓着さと傲岸さこそが、彼が『まつろわぬ神』たる由縁であった。

「そんなことはどうでもいいでしょう。さっそく始めましょう」

 そして、無頓着さと傲岸さにかけては、カンピオーネとて負けてはいない。

 宗一郎が樹上での決闘に応じたのは、地上まで降りるほんの僅かな時間を惜しんだからである。一刻も早く地母神を狩りたい彼には、これ以上の時間のロスは耐え難い。

 また、若き神殺しなりの計算も働いた。

 宗一郎はクー・フリンから『跳躍の奥義』を簒奪したことにより、宙を自在に翔け巡ることが可能になった。が、掌握してから日が浅いこともあって、本格的な空中戦の経験はいまだない。

 そんな彼にとって、曲がりなりにも確たる「足場」が存在する樹上での戦闘は、むしろ願ったり叶ったりな状況であったのだ。これが、宗一郎がペルセウスの提案に即答した理由であった。

 そんな宗一郎を見やると、ペルセウスは嘆かわしいと言わんばかりにかぶりを振る。

「やれやれ、昨今の神殺しは、景色を愛でる愉しさを知らぬようだな。それは如何ぞ。多方面の好奇心を満たすことは、男としても、戦士としても、より成熟させてくれるものだぞ、少年」

 先輩風を吹かせて人生の訓戒らしきものを述べてくる狂えし流浪の神。

 宗一郎はそれを鼻で笑い、

「僕の好奇心は、神を屠ることで十分満足しています。何より、これから武神を一柱ほど手にかけるつもりなんですからね。これ以上愉しいことは今のところ思いつきません」

 そう言って涼やかに笑った。

「ハハハ、言うではないか。よかろう、そろそろ始めるとしようか、神殺し!」

 ペルセウスは呵呵大笑しながら、天馬の鞍から飛び降りて、軽やかに樹上へと着地する。

 それを見て眉を顰める宗一郎。

「……なぜ、馬上の有利を自ら捨てるのですか?」

 若き神殺しの言葉尻には明らかな不快さが混じっていた。侮られていると感じたのだろう。

「ほう、それが気になるか。神殺しとは、形振り構わぬ戦い方をする者たちで有名の上、間違いなく君もその系譜に連なる者だ。にも拘らず、君は何やらこだわりがあるようだな」

 神殺しらしからぬ宗一郎の態度を小馬鹿にするようにペルセウスは嗤う。

「ええ、そうですが。何か問題でも?」

 宗一郎は昂然と胸を張って言い返す。文句があるのなら言ってみよと。

「ふふ、別段悪くはない。ただ君は先の神殺しとは違い己の性分を受け入れていない分、随分とウブであるようだな。しかし、私はそちらの方が好ましい。君たちの本性ときたら、まったく美しくないにもほどがあるのでな」

 ペルセウスは何か嫌な記憶でも思い返したのか不快げに顔をしかめた。が、すぐに人をからかうような笑みを浮かべ、真紅の瞳は宗一郎を挑発するように危険な光を灯す。

「とはいえ、君の殊勝な思いがホンモノであるかどうか、この私が確かめてやるとしよう。我が剣でもってな!」

 言下にペルセウスは、湾刀(ハルペー)を宗一郎へと向けて突き付けた。

「いいでしょう。剣士としての格の違いをはっきりとつけることで、貴方が何の憂いもなく愛馬に跨り騎兵となって駆けられるようにして差し上げます」

 宗一郎は静かな闘志をむき出しにして、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能を封じ込めた灼刀を正眼に構えた。

「面白い、それが出来るものならば、やってみるがいい!」

 勇ましいペルセウスの言葉は、だがすでに後方へと置き去りになっていた。なぜなら、彼は白い流星と化して宗一郎へと殺到してきたからだ。

 ――その速度、神速の如し。

 大地を征する勇者とは皆こうあらねば務まらないのか。眼前の鋼の勇士もまた恐るべき『脚』の持ち主だった。

 だが、その程度で怯む宗一郎ではない。過去幾度もの『まつろわぬ神』との戦いに思いを馳せれば、むしろこのくらい当然のことと弁えている。

 超スピードで躍り込み、仕掛けてくるペルセウスの真っ向唐竹割を、灼刀の切っ先を湾刀の峰にそっと添えるように差し向けて――撃ち落とした。

 ベクトルを狂わされた湾刀は、あらぬ方へと流れていく。すかさず宗一郎は刀身を跳ね上げ、ペルセウスの首へと奔らせる。

 達人の域に達した武人でさえも瞬時に仕留められる技の冴え。とはいえ、宗一郎はこれで終わるとは思っていない。

 当然だ。今とまったく同じ状況で彼の同族たるサルバドーレ・ドニは、躱して魅せた。ならば、古代ギリシアの勇者ペルセウスにおいては言わずもがなだろう。

 だが-――鋼の勇士の行動はそんな若き神殺しの想定を遥かに上回るものだった。

 ペルセウスは後退して躱すどころか、なんと白刃の前に身を晒し、前進したのである(、、、、、、、、)

 斬撃は腰を沈めて下に潜ることで回避、宗一郎の左脇を通り抜ける勢いで疾走する。無論、ただ駆け去るだけではない。

 ペルセウスの手には、湾刀が再度構えられている。ならば、すれ違いざまに胴体を撫で斬りにする算段なのだろう。

 そうはさせじと、宗一郎は右半身を退くことで湾刀の切っ先を避ける。即座に追撃を仕掛ける――ことなく、宗一郎はなぜか踵を返して正面へと向き直る。

 するとそこには、なんと宗一郎の背後(、、)を駆け去ったはずのペルセウスが、眼前に現れて猛然と斬りかかってきたではないか!

 それは先程の攻防の焼き直し。まるで数秒前に時間が巻戻ったかのような、あり得ざる光景だった。

 だが、そんな不条理な現実を目にしてなお、宗一郎の顔に動揺の色はない。それもそのはず、若き神殺しにはすべてが()えていた。

 ペルセウスが駆け去ると見せかけて後方へ大きく跳躍し、宙に身を躍らせる光景も。そして宗一郎の頭上を越えてくるりと旋転、彼の背後で華麗に着地を決めつつ、間髪入れず襲い掛かってくる様も。

 宗一郎はこうしたペルセウスの挙動を、完全に捕捉していたのである。

 だがそんな宗一郎を以ってしても驚嘆するのは、一連のアクションがすべて刹那の内の出来事だったことだろう。

 まさに神業――武神のみに成し得る所業である。

 もし宗一郎がペルセウスを追撃することに少しでも拘泥していたなら、鋼の勇士の神速に対応できず、愚かにも背面から斬り伏せられていたに違いない。

 それを救ったのは、瞬時の判断力と若き神殺しが体得した“心眼”の妙技に他ならない。

 そして、火花を散らし合う長刀と湾刀。

 迫り来るペルセウスを宗一郎は、真っ向から受け止めた。だが、初演と違い剣戟を撃ち流せなかったのは、ペルセウスの戦闘速度があまりに迅すぎたためだろう。

「やるではないかッ。どうやら大言壮語を口にするだけはあるようだな!」

 莞爾とペルセウスは笑う。

 磨き上げた技を真っ当に競い合える雄敵に心から悦んでいるらしい。

 それは宗一郎とて同じだ。涼しげな面持ちとは裏腹に、魂の内では歓喜に震えていた。

 これ(、、)なのだ。

 やはり宗一郎が求め欲していたのは、『まつろわぬ神』との死合に他ならない。ましてや『鋼』の系譜に連なる英雄たちとの立会いは、神殺したる己の血を一層猛らせる。同じ剣の撃ち合いであっても、同族との間ではこれ程の昂揚は得られない。

 何よりいま宗一郎を喜ばしているのは、この闘いですらまだ「前菜」に過ぎないということである。

 そう、今日の宗一郎の「主菜」は刃を交えている眼前の鋼の勇士ではなく、何処かに控えている地母神なのである。

 その現実を想うだけで血が滾る、魂が吼える。

 今宵は善き日である。二匹ものご馳走にあり付けるのだから。ならば、最初の獲物を早く平らげなければならない。後がつっかえているのだから。

 宗一郎は猛狂う魂を勢威に変えて、鍔迫り合いを強引に押し潰さんと力を込める。

「ぬ!?」

 ペルセウスの秀麗な美貌が僅かに曇る。

 拮抗していた鍔迫り合いの天秤が、明らかに宗一郎に傾き出した。

 それを見て取った宗一郎はココが勝負所と即断、一気に畳みかけるべく踏み込む足に力を込める。

 ドンと枝と葉で創られた闘技場が激しく振動する。大地を踏む両脚を起点に生じた運動エネルギーが螺旋を描くように体内で上昇し、腰の回転、肩のひねりで増幅されて、両の腕から長刀へと伝達されていく。

 これぞ中華武術における妙技『発勁』。

 その要諦は下半身――足で地面を強く踏み付けて発生する(エネルギー)を両腕へと集積させることによって生じる爆発的な力の解放にある。

 なにより、今の宗一郎はクー・フリンから簒奪した『跳躍の奥義』により脚力が超強化されている。故にソコから生み出されるパワーたるや、瞬間的な出力ならば怪力無双な神さえをも凌駕していよう。

 堪らず弾き飛ばされるペルセウス。――否、違う。ペルセウスは自ら後方へと流れたのだ。

 力負けを喫したのならば、そのまま両断されていたであろうし、力が互角ならば鍔迫り合いは、依然拮抗したままであっただろう。

 しかし、現実はそうではない。

 ペルセウスは宗一郎の剣勢に無理に逆らわず、どころかその勢いに巧みに乗ることによって、鍔迫り合いから引き剥がれたのだ。

 もちろん、宗一郎が権能まで駆使し、繰り出す絶技から逃れるなど容易いことではない。神域に座す勇士ならではの離れ業である。

 だがペルセウスは自らの業で稼いだ距離で満足せず、さらに後ろに大きく跳躍した。おそらく戦いを仕切り直すつもりなのだろう。

「大した力だな、神殺し! それも異郷の誉れ高き勇士を倒して得た権能と見たがどうかな……何ッ!?」

 一時とはいえ、追い詰められたことなどまるでなかったかのように余裕綽々の態度で振る舞うペルセウスが、唐突に驚愕の声を漏らす。

 それも当然。若き神殺しはペルセウスが開いた間合いを僅か一歩で詰め寄ったのだから。

 路面すれすれで滑空するようにペルセウスの領域を侵犯する白い影。着地と同時に左脚を轟然と跳ね上げる。続けて間髪入れず放たれた右蹴撃。

 そして、右蹴りの勢いを殺すことなく、そのままのスピードで身体を独楽のように旋回させ、必殺の横薙ぎの斬撃を見舞う。――が、ペルセウスはその悉くを余裕の笑みさえ浮かべて流麗で舞うかのように躱してのける。

 それを見咎めた宗一郎は、ならば、これでどうだとばかりに長刀を振りかざし、大上段から渾身の斬撃を打ち下ろす。

 そのあまりに見え透いた一撃にペルセウスは、失笑を含んだ笑いに口元を歪めつつ、一歩身を退く。

 ――そのすべてが若き神殺しの想定内であることを知る由もなく。

 

 

「オン クロダノウ ウンジャク――」

 

 

 宗一郎の口から言霊(しんごん)が響く。

 するとペルセウスの鼻先で、剣風のみを残して虚しく通り過ぎていく筈だった紅い刀身が、やおらカッと閃光を放つや、猛火の奔流を吐き出す。

 なまじ至近であったために応じる間もなく鋼の勇士は、激流の如き紅蓮の火炎によって瞬時に呑み込まれる羽目になった。

 辛うじて彼にできたのは、火炎に耐えるべくその場に踏み止まり、呪力抵抗を高めることだけだった。その必要がないにも拘わらず……

 そう、宗一郎が烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)から簒奪した『聖火』の権能は、破邪顕正の炎である。すべてを焼き尽くす破壊の炎ではない。不浄を焼き清める破邪の炎なのだ。

 それ故に、通常の物質にはうまく能力が働かない。ましてや絶大な呪力抵抗力を有する『まつろわぬ神』相手では、もろに浴びたところで火傷ひとつ負うことはあるまい。

 だが、宗一郎の権能の正体を知らないペルセウスは、呪力攻撃に対して最も汎用性の高い防御態勢――すなわち、呪力抵抗力を引き上げることで対処してしまった。

 結果として、それにより素早くしなやかな挙動は停滞を余儀なくされ、ペルセウスはまるで足が地面に縫い止められたかのようにピタリと動きを止める。

 のみならず、火炎が目くらましの役割を果たし、このときペルセウスは宗一郎の挙動を視覚で捉えることができないでいた。

 まさに宗一郎が意図していた通りに。

「はあッ!」

 踏み込む足とともに必勝を期すべく放たれた電光石火の突きは、燃え盛る火炎を切り裂き、ペルセウスへと肉薄する。視界を遮られた鋼の勇士に応じる術はない……はずだった。

 だが、ペルセウスは何事もなかったように業火の中を平然としながら背後へ跳躍する。

 おそらくは己の身を包む火炎に自らの生命を脅かす熱量がないものと即座に看破、と同時に迫る危機さえをも察知し、持ち前の神速の脚捌きを駆使して刃圏から逃れたのだろう。

 まったく冗談染みた話だが、いわんや『まつろわぬ神』なら何を仕出かしたところで驚くに値しない。

「神殺しにしては、珍しくも真っ当な武人らしき言葉を口にするものと感心していたものを、まったくその口の根も乾かぬうちにこの有様とはな! やはり君もまた勝ち汚い神殺しの系譜に連なる者ということか……ッ」

 ペルセウスは苦々しい口調で憤慨した。

 どうやら鋼の勇士は、宗一郎の戦い方に文句があるらしい。しかし、宗一郎はその非難に鼻で笑うことで応える。

 若き神殺しにしてみれば、正々堂々と戦い合うなどと宣誓した覚えなどない。ペルセウスの非難は的外れ甚だしい。

 確かに宗一郎は、本来有する己自身の力だけで戦いに臨む傾向があるものの、だからといって、戦略戦術の類を完全に否定するつもりは毛頭ない。それどころか、それが勝利に繋がるならば積極的に活用することに躊躇いなどない。

 おそらくは戦う前のやり取り――ペルセウスが馬上の有利を自ら捨てたことによる宗一郎の不満の声――で、あの鋼の勇士は妙な心得違いでも起こしたのだろう。

 あれは侮られたと感じたが故に発した言葉に過ぎない。神無月宗一郎は敵に軽んじられることを何よりも嫌うのだから。

「――聴く耳持たないか。だがそれが君の流儀だと言うのならば仕方あるまい。よかろう、神殺しよ。君に真の戦士とはどういうものか魅せてやるとしよう!」

 雄々しくペルセウスがそう口にして、不敵に微笑む。

「へえ……それは愉しみですね」

 宗一郎もまた静かに微笑む。

 一見して優しげに見えるこの笑みは、この若き神殺しにとって闘争を心底悦んでいる証に他ならない。

 開けた間合いで対峙する二人。火炎はすでに散り去り、熱で茹で上がった空気は上空に漂う冷気が瞬く間に冷まし、むしろ夏日ながら肌寒いくらいである。

 いや――果たしてそれは温度だけが原因であろうか。

 人外魔境の境地に達した戦士と神域に座す勇士。両雄の全身から漲る殺気と闘気が、物理現象にまで影響を及ぼしているのかもしれない。この両雄の間に生じることならば、何が起こったところで不思議はない。

 間違いなく次の激突は、先程とは比較にならぬほど熾烈を極めるものになるだろう。

 そういった予感を感じさせるほど、樹上の闘技場は激烈な緊張に包まれていた。

 空間に飽和した緊張が臨界まで達し、両者が再度ぶつかり合う――そう思われた刹那、樹上の闘技場、その無数の枝と葉で創られた足場が唐突に消失した。

「!?」

 驚愕する宗一郎とペルセウス。ともに揃って重力の束縛に絡め獲られ、なす術なく墜ちていく。

 やんぬるかな、足場が急に消え失せれば、いかに練達の勇士たちといえども、ただ驚くしか他にしようがあるまい。が、その最中であっても、いち早く立ち直ったのは、歴戦の勇士ペルセウスであった。

 主人の意思か、それとも下僕の忠義ゆえか、純白の天馬が舞い降りて器用にペルセウスを自らの背に乗せるや否や、優美な翼を羽ばたかせてこの空域から離脱した。

 遅れること半秒、宗一郎もまた自らに宿った跳躍の超権を駆使し、この場から退去しようとする。だが、どうやらそれは、遅きに逸したらしい。

 高度数十メートル上空から地上へ向かって滑り墜ちる宗一郎をまるで追うかのように緑の粒子が集うや、女性の姿を象る。

 女神ヘラである。そして、かの女神こそがこの状況を作り出した元凶に他あるまい。

 宗一郎とペルセウスの決闘の場を気前よく提供したかと思われたが、隙あらば漁夫の利を得るべく手ぐすねを引いて待ち構えていたのだろう。

 地母神は青緑の瞳を宗一郎に傾けると、

「愚かなエピメテウスの子、忌まわしき神殺しよ。約束していた褒美を今こそお前に与える時が来ました。さあ、『死』という名の祝福を受け取りなさい。英雄は等しく我が腕の内に還る宿命を持つのだから!」

 ヘラは白い腕を広げて、にっこりと笑顔を浮かべながら肉薄(ダイブ)してくる。

 突風が渦巻く中、その声が明瞭に聞こえてくる。

「戯れ言を……ッ!」

 怒声とともに、宗一郎は地上へと落下する不安定な体勢ながらも長刀を振りかざし、横へ一閃。

 血の飛沫が宙へと流れる。切っ先は、狙い違わず女神の首筋へと奔り、斬り裂いた。

「……!?」

 だがこの結果に驚いたのはむしろ宗一郎の方だった。

 無限の生命力を有する地母神に通常の物理攻撃はあまり意味をなさないのは、先の地上戦での顛末で証明済みである。

 実際、宗一郎はヘラに斬り付けても血一滴すら流させることは叶わなかったのだから。にも拘らず、斬撃が明らかな効果を示した。

 前回と今回、果たして何が違うのか。ふと宗一郎は、思い当たる節があった。

 地母神の無限の力の根源は、言うまでもなく『大地』そのものだ。ならば、大地からヘラを切り離してしまえば、その力は半減する――そこまでいかなくとも、力を減じざるを得ないことは確かだろう。

 だとするなら、いまの事態にも納得がいく。いまヘラは大地から遠く離れて、宙を墜ちているのだから。だが、

「ふふ、無駄な足掻きはおやめなさい。もうお前は何処にも逃げられないのです」

 ヘラはまったく痛痒を感じていなかった。

 たとえ再生力が完全でなくとも、たかが刀一本の一撃を見舞った程度では大地を司る女神には何ら決定打にはなり得ないのだろう。……だがまんざら無駄であったわけでもない。

 宗一郎は己の刀に神の血の雫を吸い込んだ感触をはっきりと得ていた。その意味するところを正確に理解しているのは、いまは宗一郎のみである。

 だがしかし、女神ヘラもいずれ知るだろう、今この瞬間こそが勝敗を分かつ分水嶺だったということを。

 だがそれは、所詮いまだ来ぬ未来の話に過ぎない。現在の窮地を乗り越えぬ限りただの意味なき空想に堕す。

 事実、ヘラは急所に斬撃を受けたと言うのに平然とし、宗一郎のすぐ目の前まで身を寄せてきた。すると彼女は白い腕を宗一郎の肩からするりと首へと絡め、まるで母親が我が子を優しく包み込むように抱き寄せ、あろうことかそのまま口づけを交わしてきた。

 その様は高所から落下中のため、むしろ恋人同士が世を儚んだあまり無理心中を図っているように見えただろう。が、内実は似たようなものかもしれない。

 ただし――死が若き神殺しの身にのみ降りてくるという点に関しては。

 それを示すように宗一郎の本能は、この時最音量の警鐘を鳴らしていた。

 『死』の冷気が唇から体内へと流れ込んでくる。急速に身体が冷えて、生命の火が掻き消されようとしている。

(この力は……ッ!)

 いまヘラは、地母神としてのもう一つの側面たる権能を行使しようとしている。

 彼女たち地母神は生命の賦与者にして豊穣を促すと同時に、自然の持つ破壊力として顕現する神でもあった。冬が来れば命を奪い、気まぐれに災いをもたらす凶神。

 すなわち、死を司る冥府の神としての力だ。ヘラはそれを解放していた。

 抗わねば死ぬしかない! 懸命に体内の呪力を振り絞り、冬の山で吹き荒れる嵐の如く押し寄せてくる『死』の冷気を押し留めようとする。しかし『死』の誘惑はあまりに強烈過ぎた。

 これ以上の抵抗は無意味だと判断した宗一郎は、戦術を切り替えた。

 抗うのではなく――逆に受け入れる。

 さりとて、宗一郎もカンピオーネの一人である。ただでは死んではやらない。そんな屈辱、死んでもやるものか! そのためには、宗一郎が死ぬほど嫌っている権能とて使用するのを厭わない。

 イメージするの『穀物』――黄金色に輝く大麦だ。そして、行使するのは自らに備わった第二の超権。忌まわしき復活の権能。

 それを最後に、宗一郎の意識は砕け散った。

 

 

 女神ヘラは自らが巡らした策謀が上首尾に終わったことを確信し、胸中で喝采を上げた。

 仇敵たる神殺しは、ついさっき死に絶えた後、彼女の腕の中から離れ、今は物言わぬ骸と化したまま、ヘラより先んじて地表目掛けて墜ちている。

 この高度から落下している以上、当然、遺骸も無残な状態へと成り果てるに違いない。その有様を想像して、ヘラは残忍な笑みを口元に刻んだ。

 下賤な男が偉大なる地母神たる自分に刃を向けたのだ。この程度の誅罰でも生易し過ぎる。が、それも致しかたあるまい。まだ罰しなければならない男がいるのだから。

 ペルセウス。自分の素性を偽る酔狂者。

 かの者を討ち滅ぼすことによって、この地で蔓延る己に歯向かうものどもは、当面、排除できるだろう。

 後はこの都市に住まう野蛮な心を持つ男だけを選別し、石くれに変えるとしよう。そして残った男と女たちには、古き大女神たる己を崇拝する儀式を催させるのだ。

 取りあえず満足がいく今後の予定を立てたヘラは、これが見納めとばかりに宗一郎に視線をやる。地上まで残すところ僅かばかり。そして、血肉飛び交う最高のショーの開演までもうすぐ!

 わくわくと期待に胸膨らませるヘラは――だがしかし、たちどころに驚愕の念を味わう羽目になった。

 確かに仕留めたはずの神殺しが地面に激突するかと思いきや、あろうことかそのまま大地がまるで水面と化したかのように宗一郎の身体を吸い込んでしまった。

 そのしばらく後、大地に着地を果たしたヘラは、呆然と宗一郎が消え失せた、何もない地面を眺めていた。

 そして――

「ハハハ、やはりそういうことであったか。勝ち汚い上に、生き汚い神殺しが不意を突かれたとはいえ、ああもあっさりと死んだのは妙だと思っていた」

 快活な声とともに、ペルセウスを背に乗せた天馬が地面に蹄を鳴らす。

「……ペルセウス、お前ですか」

 ヘラが忌々しげな眼差しで睨みつける。

「ふふ、ヘラよ。どうやら貴女も神殺しに一杯食わされたようですな」

 そう言ってペルセウスは、からかうように口の端を吊り上げた。

「黙りなさい、下郎! どうやらお前から誅罰されたいようですねっ!」

 ヘラは怒りに胸の内を燃え立たせた。

 屈辱だった。仕留めたと思っていた神殺しが実は生存しており、しかもその彼女の失敗をよりにもよってペルセウスに目撃されようとは!

 あまりの憤激と屈辱がマグマのように胸から吹き出し、際限のない破壊と暴虐の限りを尽くしたいと欲していた。

 鋼の勇士を睨み据えるヘラの青緑の瞳が、やおら危険な光を灯すのを見咎めたペルセウスは、天馬に無言の意を伝えるや、優美な霊獣はばさりと両翼を羽ばたかせて、旋風を巻き上げ、宙へと浮かび上がる。

「待たれよ、御身のお気持ちは解らぬではないが、いま我らが争うべき時ではあるまい。何しろお互い今日をもって神殺しどもとの逆縁がくっきりと結び合わさってしまったのだからな。ならば、我々が決着を付けるのは、彼らを討ち果たした後こそが相応しいと思われるが、いかがかな、ヘラよ」

 そう嘯くとペルセウスは、真剣な眼差しでヘラの真意を問うた。

「お前の言うことはもっともです、ペルセウスよ。確かにわたしたちが争っている場合ではないようですね。いいでしょう、お前の誅罰はあの神殺しの後にしましょう」

 かくして『まつろわぬ神』たちの間に再戦の誓いが果たされた。

 それを満足げな面持ちで見届けた鋼の勇士は、天馬に手綱を入れて高天へと舞い上がり、地母神は大地に溶けるように吸い込まれて消え失せた。

 超常の戦場と化した波止場に、静寂が訪れる。ナポリの街にようやくにして夜の眠りが舞い降りたのだ。

 


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