神殺しの刃   作:musa

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五話 収束する逆縁

「草薙さま、お久しぶりでございます」

 険しい眼差しで己の同族を睨みつける草薙護堂に、神無月佐久耶は声をかけた。

 当の神無月宗一郎はと言うと、最初に護堂に名を呼ばれた以後、チラリと彼を一瞥しただけで、すぐに視線をこの波止場において、一堂に会した三柱の『まつろわぬ神』に戻してしまった。が、それ以降如何なるリアクションも起こしていない。

 さしもの彼と言えども、三柱もの神々が集結してしまった現状、迂闊な行動を起こすわけにもいかないのだろう。

 そこにきて、新たに現れたカンピオーネの動向も気になるに違いない。

 だからこそ、状況の変転次第では、即座に割り込みを仕掛けるべく宗一郎は、無言で集中しているのだ。

 とはいえ、それを今ここに来たばかりの護堂に理解しろと言うのは、無理があり過ぎたらしい。彼は無視されたと勘違いしたのだろう。むっ不機嫌顔で宗一郎を鋭く睨んでいた。

 そこに佐久耶の柔らかな声がかかり、僅かとはいえ怒りを解きほぐしたのか、

「あ、ああ、君は確か神無月の妹の……佐久耶さんだったよな」

 護堂は視線を佐久耶へと転じて低く呟いた。

「草薙護堂! ひとつお伺いしておきたいのですが、あの女神をナポリに手引きしたのは、まさかあなたではないでしょうね……!」

 その期を逃さずリリアナ・クラニチャールは、鋭く問い質す。

 護堂は大きく目を見開き、「そうか、ここはナポリだったのか」とポツリと零すと、

「逆だよ。あいつ――アテナが俺をここに連れてきたんだ」

 なぜか諦観の混じった声色で静かに答えた。

 よりにもよって、アテナとは! あの少女神を女神ヘラに匹敵する神格と感じ取ったリリアナの直感は、やはり正しかったようだ。

 それにまつろわぬアテナと言えば、目の前の七人目のカンピオーネがこの春に戦った相手ではなかったか。

 ともあれ、リリアナは手早くこちらの状況を護堂に伝える。

 騎士と魔王が情報交換を交わす中、三柱の同郷の神々たちは、静かに対峙していた。

 かと言って、このままただの「同窓会」で済ませられるとは、この場にいる誰一人微塵も信じていなかった。

「これはこれは、御身は天空神(ゼウス)の姫子、戦女神アテナであらせられるのか。それにまたしても神殺しが一人。古の大女神二柱に当代の神殺し二人。かくも多くの仇敵たちが一堂に会する場に居合わせられるとは、今宵の私の星の導きは余程良いと見える」

 まず火蓋を切ったのはペルセウス。

 偉大な二柱の大女神を前にしても、まったく怯むことなく、昂然とした佇まいに変化は見られない。

 それもかの英雄神の来歴を顧みれば、当然と言うべきか。

 ペルセウスはギリシア神話に際しては、数多いる半神半人の英雄の一人に過ぎない。が、別の神話においては、最高神の座を与えられた神々の王でもある。

 その神格は「古さ」はともかく、「高さ」においては、二柱と比較して些かも劣るものではない。

「――然り。このような『会』が設けられようとは、運命も粋な計らいをするものよ。いや、これもまた、かのパンドラめの謀なのかも知れぬが……ふむ、しかし真実が奈辺にあれど、これはこれで悦ばしい事態には違いない」

 アテナは智慧の神らしい深い洞察を指し示し、眉を顰めるも、すぐさまそれを吹き飛ばす快活な微笑みを浮かべる。

 戦女神たる彼女もまた雄敵との力の競い合いは、むしろ臨むところなのだろう。

「……随分と愉しそうですね、古き同胞よ。どうもあなたは、男どもが勝手に押し付けた神格(やくわり)に馴染みすぎているようですね」

 ヘラは冷やかな眼差しを、戦女神へと向けて苦言を呈した。

「うむ、古き同胞たる女神ヘラよ。確かに貴女の言う通り、地母神であった頃の妾には、存在しなかった戦女神としての神格。妾は思いの外、気に入っておる」

 とアテナは何ら悪びれる様子もなく、そう放言した。

 その言葉と態度にヘラは、まじりを吊り上げ、さも不快げに鼻を鳴らす。

 『大地』を擬人化した存在――地母神には、本来戦神としての神格は与えられていない。

 彼女たちは、あくまでも多産、肥沃、豊穣をもたらす神で、大地の豊かなる体現である。

 古代世界において、農耕の民が信仰していた生産を司る女神なのだ。狩猟の民が信仰していた戦闘を司る神が有する神格とは、本来相いれないはずだ。

 にも拘らず、古代世界において、かつて至高の地位の座にあった地母神たるアテナが、戦神の神格を有しているのは、彼女もまた己が民を狩猟の民に征服されたからに他ならない。

 時代が降るに連れて、地母神の神格は征服民の神話に組み込まれ、習合されてしまったのだ。

 そのため、いまアテナが有している戦神の神格は、征服民たちのごり押しによる結果、据え置かれた座に過ぎない。

 故に、アテナと同種の神話の流れを汲むヘラとしては、古い同胞の現在の境遇を従容として受け入れているさまには、忸怩たる思いがあるのだろう。

 何よりかの女神は、地母神としての神格こそを誰よりも誇りとしているが故に。

「……ですが、今その件について問うのはやめましょう。そこの英雄神の言ではありませんが、あなたと今ここで顔を合わせるとは、誠に僥倖という他ありません。さあ、アテナよ。神々の女王として命じます。わたしと共に神と人――双方の勇者たちの誅罰を下すために力添えをしなさい!」

 ヘラは傲然とそう言い放った。

「なっ!?」

 ヘラの言葉にリリアナは顔色を蒼褪めさせる。

 てっきり五つ巴のバトルロワイヤルが開始されるものとばかりに決め込んでいたのだが、まさか『まつろわぬ神』同士がタッグを組んで他の敵勢力駆逐を企図しようなどとは完全に想定外である。

 狂えし流浪の神にそんな理性が働くとは、想像だにもしなかった。

 しかし、よくよく思い返して見れば、両女神ともに古代世界において、並び立つ者なき至高の地位に就いていた大女神たちである。

 その後の神話の変転と凋落もまた似通った道筋を辿り、現在に到っている。

 ならばこそ、両女神との間には共通理解が成り立ち、共闘もまた可能になり得ると言うことなのか? 

 もし万が一女神同盟なるものが結成されたとしたら、戦況は極めて深刻な事態へと推移していくことになるだろう。

 勢力関係を数字で取り上げるなら、2対3に過ぎない。

 しかしそれは、「3の勢力」――『まつろわぬ神』一柱にカンピオーネ二人もまた共闘関係が成立していればの話。

 いわんや『まつろわぬ神』とカンピオーネとの間に協力関係を構築できる筈もない上、同族であるカンピオーネたちですら難事ときている。

 ならば、勢力関係としては、2対1対1対1――とする方が正しいだろう。

 こうなると、後はチーム・地母神相手に碌な連携も取れないまま、互い互いに足を引っ張り合った挙げ句、各個撃破されていく光景しか目に浮かばない。

 ギリシア神話における最も力を有する神々たち――すなわち、オリンポス12神。

 その中でも、最高神に匹敵する権限を与えられし神々の女王ヘラの提案、否、命令に自身もまたオリンポスの神々の一柱に数えられる女神アテナは、果たしてどう応じるのか?

 固唾を呑んで見守る中――

「古き同胞よ、貴女はどうやら思い違いをしているようだな」

 ――アテナは静かな面持ちのまま、そう答えた。

「……思い違い? アテナよ、それはどういう意味ですか?」

 アテナの言葉の意味を解しかねたのかヘラは、訝しげな眼差しを向ける。

「言葉通りの意味だ。確かに、この地に根付いている神話によれば、忌々しいことに妾は貴女の下位者に属する。神々の女王直々の命とあれば、従うのが道理。

 しかし、貴女も存じておろうが、そもそも妾の神話を遡れば、最も古き女神の一柱――すなわち、貴女と同格の神々の女王に当たる。そして、妾はすでにその神性を取り戻している。

 ならば、もはや貴女の命に服する義務はない。神々の女王たる妾に命じられる存在は、ただ妾のみよ!」

 地母神にして戦女神は、その幼い美貌に猛々しさを宿して吼えた。

 それを見たヘラは、忌々しそうに顔をしかめさせ、

「男どもが用意した戦神の椅子に満足げに座っているかと思えばこそ、かのおぞましい神話により与えれた『女王』の権限にて命じて見れば、今度は古き地母神の神格を楯にしてそれを突っぱねる。状況次第でコロコロと己の在り方を変えるとは、恥を知りなさい!」

 そう吐き捨てた。が、アテナはか細い体躯に女王の威厳を纏わせ、泰然自若の態でヘラの糾弾を撥ね退けた。

 とはいえ、かくいうヘラとて口ではギリシア神話をおぞましいと罵りつつも、その神話上の立場を利用して、ちゃっかりとアテナを自陣に引き込もうと試みているのだから、アテナを一方的に非難する資格はないと思われるのだが、どうにもかの女神にはその自覚はないらしい。

 もとより、狂神たる彼女たちの言動と行動に合理性を期待する方が間違っているのだろう。

 両女神はしばしそのまま睨み合いを続けていたものの、先に折れたのはヘラだった。

 女神は視線をアテナから逸らし、不機嫌そうに低く呟く。

「……アテナよ、確かに今の貴女からわたしと同格の神々の女王としての神格を感じます。ならば、その貴女に命を下した非礼は詫びましょう」

 が、すぐさま険しい眼差しをアテナへと戻す。

「ですが、わたしの味方に加わらないと言うのならまだしも、よもや古き同胞たるわたしと敵対するつもりではないでしょうね」

 それだけは、決して赦さぬと青緑(エメラルドグリーン)の双眸が冷やかに輝いた。

 これには、アテナも硬い相貌を崩して、苦笑を溢した。

「それもまた一興……と言ってしまうのは、あまりに不義理に過ぎような。この身は貴女の命に従う義務はないが、古き同胞を尊重する義理はあろう。まして、この場には地母神の仇敵どもが揃っているのだから、妾たちがいがみ合う理由はない」

 そう言ってアテナは、ぐるりと首を巡らし、周囲を見回した。宗一郎を、護堂を、ペルセウスを視界に収めると、最後に眼差しをヘラに戻す。

「しかし、あらためて見れば、どうにも神殺しどもの数に比べて、妾たち神の数は一柱あぶれるようだ。古き同胞たるヘラは、妾以上に猛っている様子。英雄神に到っては言わずもがな。となれば、ここは妾から身を引いた方が、ちょうど良い塩梅になりそうであるな」

 とアテナは殊勝にもそう呟いた。

「ほう、アテナよ。御身はこの場から退去するおつもりか? ここでこのペルセウスと神話の因縁に決着をつける絶好の機会だというのに?」

 アテナの言葉を聞き咎めたペルセウスは、口元を歪めて、挑発する。

「ペルセウスだと? ……ふん、この派手好みが。その名をわざわざ持ち出すとは、ふざけた男よ」

 忌々しげに吐き捨てたアテナであったが、不意に愉しいことでも思いついたのか、口元の端を吊り上げて、双眸は草薙護堂を射る。

「神殺しの魔王どもと英雄の軍勢は古来、決して相容れぬ逆縁の宿命を背負っているのであったな。……そこの鋼の勇士は、妾と古き因縁を持つ相手故、妾は自らの手で討ち取りたかったが、そうすれば、古き同胞が二人の神殺しどもの危険に晒される。となれば、妾が取り得る選択はひとつだけよな。――草薙護堂よ。思えば、貴方をちょうど鍛えるつもりであったところだ。喜ぶがいい。かの勇士は貴方に譲ってやろう。思う存分に戦うが良い!」

 戦女神アテナは、厳かにそう告げた。

「か、勝手に決めるなっ。俺は戦わないぞ……!」

 女神さまのお告げを、断固拒否する護堂。

 アテナはそんな護堂をじろりと睨みつけ、口元を歪めて嘲弄する。

「相も変わらず火付けの悪い男よ。だが良いのか、草薙護堂よ。妾は覚えているぞ。貴方は人間どもの都に塁が及ぶ事を酷く嫌っておったな? このまま妾と鋼の勇士が戦うとするなら、さぞやこの都に巨大な被害がもたらされることであろうな。貴方はそれを黙って見過ごすと言うのだな?」

 アテナは智慧の神らしい慧眼ぶりを発揮して、護堂の急所を抉る。

「くそ、滅茶苦茶言いやがって……」

 これには苦い呻き声を上げるしかない護堂。

 こう言われてしまっては、護堂には戦う以外の選択肢がない。彼は拳を怒りで握りしめて、強くアテナを睨み返す。

「草薙護堂よ。王として戦い、己の同胞らを見事守護してみせよ! これは未熟な貴方に妾が授ける試練と心得るがいい……!」

 護堂の戦う意志が固まったと見て取ったアテナは、満足げな面持ちで神々の女王の威を以って命じてきた。

「フフ、大女神たるアテナがこうまで目を掛けるとは、君はさぞや有望な戦士なのだろうな。――よかろう、ここは女神アテナに従い、この場における最初の標的は、君に定めよう!」

 ペルセウスは挑発するように、湾刀(ハルペー)の切っ先を護堂へと突き出した。

 嫌々ながら護堂もまたペルセウス相手に身構える。

 一連の顛末を黙して見守っていたヘラは、静かに呟く。

「古き同胞は去る決断を下し、英雄神は敵を見定めた。ならば。わたしの相手は……」

「――当然、僕と言うわけですね。地母神さん」

 ヘラの言葉に被せるように、同じく沈黙を守ったまま経緯を眺めていた宗一郎が言葉を発した。のみならず、ペルセウスと同じく長刀の切っ先をピタリと敵へと掲げる。

「……無礼な。神であれ人であれ、男という存在は、やはり野蛮に出来ているようですね」

 ヘラはすっと目を細めて、宗一郎を冷やかに見据える。

 と同時に瀕死の巨竜が唐突にその巨躯を解きほぐす。青緑色(エメラルドグリーン)に輝く粒子と化して、地母神の身体へと吸い込まれていく。

「思い出しました。お前はわたしの祭具の前にて戯れていた神殺しの一人ですね。

 ――良いでしょう、約束通り褒美を与えましょう。『死』と言う名の永遠の眠りを!」

 その言葉と共にヘラの全身から殺意が漲り、爆発的な神気が立ち昇る。

「くそっ。もう始めるつもりかよ!」

 それを見た護堂は、焦ったような表情を浮かべる。

 それも当然だった。護堂にとって、今のような予期せぬ遭遇戦ほど嫌なものはなかった。

 元捕手の経験からか、敵の戦力情報の蓄積が不十分なままの状況で、全力で敵とぶつかり合うのは、何としても避けたいところだった。

 それは効果的な対応策が練れないこともあるが、それ以上に護堂が簒奪した権能の特性上、より慎重を期した戦い方をせざるを得ないのである。

「……悪い、いろいろあって俺はここを離れる。俺がいなければ君たちは安全なはずだから、どうにかして逃げてくれ」

 護堂の言葉を聞いてリリアナは、しばし黙考する。

 ふと傍らを見れば神無月佐久耶は、すでに姿を消していた。無論、必要に応じて何時でも兄を援護できるよう静かに待機しているのだろう。

 ならば、いま自分の為すべきことは、草薙護堂の助勢に入ることか。

 彼の話を聞く限り、七人目のカンピオーネの騎士たるエリカ・ブラデッリは、今この場にはいないらしい。

 不本意であるが、どうやら自分があの女の代わりを務めねばならないようだ。そうしなければ、草薙護堂はあの強大な力を有する英雄神相手に孤立無援のまま、戦う羽目になる。

(仕方がない。戦いの最中で隙を見つけて、エリカに連絡をしてやるか)

 行動力旺盛なあの女のことだ。連絡が入りさえすれば、明日の朝一にはナポリの地面を踏んでいるに違いない。

 叶う事ならその時までには、この大騒動が円満に解決してくれていることを、切に願うばかりである。

 そう決めるや否や、リリアナは護堂の身体に身を寄せて、呪文を口ずさむ。

 どうやら彼は一先ず退いて、迎撃の態勢を整えたいらしい。ならば、そのための有効な魔術をリリアナは、ひとつばかり心得があった。

 戸惑う護堂を無視して、リリアナは素早く魔術を完成させる。

 瞬く間に、騎士と魔王は青白く輝く光に包まれ、波止場から天高く舞い上がり、街中へと姿を消していった。

 

 

              †          ☯

 

 

 リリアナと護堂が上空へ跳び去り、ペルセウスが天馬を従えて追撃、それらを見届けたアテナが闇を纏うと共に宣言通りこの場から退去していく。

 直後――宗一郎は一足飛びに間合いを詰めて、女神ヘラの胴体を両断した。

 それは至極順当な結果だったと言えよう。

 何しろヘラという存在は、アテナと違いギリシア神話に習合された以後も古の地母神の神格を強く残したまま信仰され続けた女神である。

 当然、武術の心得などあろう筈もない。にも拘らず、剣の達人である宗一郎の刃圏へと不用意に足を踏み入れたのである。

 勿論、その隙を見逃す宗一郎ではなかった。

 軽功飛翔の奥義を以って、瞬時に間合いを消失させ、轟、と風を切り、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能を封じ込めた灼刀を奔らせた。

 これがアテナならば、宗一郎の一撃を闇色の大鎌を召喚して、難なく弾き返しただろう。だが戦神ならぬヘラには、到底叶わぬ話だった。

 宗一郎の手には、会心の手応えが伝わってくる。間違いなく、敵の腹を叩き割ったという確信があった。

 カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いとは、とても思えないあまりにもあっけなさ過ぎる決着。

 だが――

「無駄なことです。無限の生命を宿すわたしたち地母神に、お前たちの貧弱な武具など利く筈がないでしょう」

 口元を歪めて、嘲弄の声を響かせるヘラ。

 胴を薙ぎ払われてなお、濃い生気を湛えた青緑の双眸に、酷薄な色を宿してギロリと宗一郎を射抜いく。

 古き地母神の肉体はまったくの無傷だった。

 宗一郎の渾身の斬撃は、何の効果も及ぼしていない。若き神殺しの剣が期待通りの威力を発揮し得なかったのは、今夜で二度目である。

 ただし、ヘラはサルバトーレ・ドニのように肉体を硬化させたのではない。かの女神は大地から無限のエネルギーを汲み上げて、瞬時に肉体を再生させたのだ。

 この驚異的な生命力こそ、地母神たちが総じて不死なる神と謳われる所以である。

 さりとて、一度ならず地母神と相対した経験のある宗一郎にとって、この程度のことはむろん想定内。

 故に、宗一郎は微塵も動揺を見せることなく、流れるような動作で長刀を後方へと引き、刺突を繰り出さんとする。

 灼刀を突き刺して、封じ込めていた『聖火』を解放、敵を内部から焼き尽くす腹である。 

「愚か者! 如何に利かぬとはいえ、これ以上お前の穢らわしい手で、わたしの身体に触れることを赦すと思いましたか!」

 青緑の瞳が憤怒に燃え立ちヘラは、片腕を宗一郎に向かって突き出した。

「……っ!?」

 警鐘を鳴らす本能に従うがまま宗一郎は、技を中断し、大きく後方へと身を翻す。

 同時に長刀の柄を口元へと持っていくや、しっかりと噛む。それで空いた両の手は、素早く結印。結界を展開する。

 直後――閃光が迸る。

 雷撃だ。深夜の海辺のしじまをバリバリバリッと鳴る轟音が切り裂き、稲妻が天上から地上に降り落ちるのでなく、地表から水平へと駆け抜けていった。

 雷撃が宗一郎の展開した結界に激突。彼を結界ごと、ずざざざと後方へと押し流す。だがわずか数秒の内に、外圧に耐えきれず、結界が軋むや否や――突き抜けた。

 やはり神が振るう神威を人間の術法で対抗するには、無理があり過ぎたらしい。それでも、宗一郎にとってこの数秒は、千金に値する価値があった。

「我は力より生まれたる不死者。我は清き炎の腕を以って人類を守護せし庇護者。我はすべての邪悪を焼き滅ぼす殺戮者――!」

 宗一郎は、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)――炎神アグニの聖句を唱える。

 呪力抵抗力を最大まで引き上げて、雷撃を耐え抜く準備を整える。

 次の瞬間――稲妻が宗一郎に直撃した。

「ぐ……っ!」

 衝撃と激痛に咬んでいた長刀の柄を思わず、ぎりっと強く噛み締める宗一郎。それでも、多少痺れは残るものの、行動に支障はなさそうである。身体は十全に動く。

 宗一郎は口元に手をやるや、柄を握り直し、長刀を構える。

「地母神が雷法を扱うとは知りませんでした。神鳴りは天空神の神通力だとばかり思っていましたよ」

 感嘆を滲ませた声色で宗一郎は言った。

「……アテナがそうであるように、わたしも新たな神話に組み込まれることによって、与えられた力があるのです」

「それが雷法――稲妻を操る神通力ですか」

「その通りです。天空神の妻の座に据えられた故に揮うことを許された力です」

 宗一郎の賛嘆の声にヘラは表情を歪ませ、そう吐き捨てると、地母神は若き神殺しを睥睨した。

「わたしの神話(過去)の傷を抉る忌々しい力ですが、お前のような無礼者を打擲するには適しています。……どうやらお前はアレスの使徒だけでなく、ヘルメスの使徒でもあるようですね。道理で小癪な芸を使います。ですが、所詮は人間の卑小な力。わたしたち神々の神威には、抗えるはずがない。身の程を弁えなさい、人間!」

 言下に再び雷撃が迸る。

 宗一郎へと殺到する稲妻。迫りくる雷光の洪水を前に宗一郎は、臆することなく呪文を紡ぐ。

「東方、阿迦陀(あかだ)! 西方、須多光(しゅたこう)! 南方、刹帝魯(さつていろ)! 北方、蘇陀摩抳(そだまに)!」

 陰陽術における雷避けの呪法。

 今度もまた宗一郎が行使するのは、神威の具現たる権能に恃むのではなく、卑小なる人間の術法だった。

 ヘラは言った――人間の力では、神々の力には抗えないのだと。それは事実だろう。だがそれも、『まつろわぬ神』が本気で戦えばの話である。

 神としてのプライド故か、神殺しの魔王との戦いの最中にも拘わらず、女神ヘラはいまだ全力を出し切っていないことを、宗一郎は明敏に感じ取っていた。

 だがそれは別段、奇異なことではない。

 人間相手に最初から本気で戦う神などいない。それは相手が神殺しの魔王といえども、例外ではなかった。

 ――そこに脆弱な人間が強大である神に付け入る余地がある。

 神狩りを家業に持つ宗一郎である。わざわざ獲物が晒してくれる隙を見逃す道理がない。

 故に、この結果は必然だったと言えよう。

 避ける! 割ける! 裂ける!

 いまこの場にあり得ざる光景が具現化した。

 なんと宗一郎を呑み込まんと押し寄せてきた雷光の洪水が、やおらその寸前で真っ二つに引き裂かれたのである。まさに海面を割る神話の如く。

 やはりヘラの力の行使には、手抜かりがあったのだろう。雷避けの呪法がその妖しき効能を遺憾なく発揮した。

 すると宗一郎の眼前には、なんと若き神殺しをヘラの許へと誘う道筋が切り拓かれているではないか!

 両端には尚も荒れ狂う雷の海。いつ閉じてもおかしくない、あまりにも細く険しい隘路(あいろ)。だがそれでも、宗一郎は迷うことなく白い衣を翻し、突き進む。

 予期せぬ事態に、双眸を見開き、驚愕するヘラ。そこに白い矢と化し、拓かれた道を一気に踏破した宗一郎が躍り込む。

 今度こそ串刺しにせんと刃をヘラの胴体へと突き入れる。

 だが切っ先が女神の柔肌を貫くのに先んじて、ヘラの身体はその場から「消失」した。

「!?」

 虚しく空を撃った突き技を放った体勢のまま宗一郎は、驚愕と当惑の入り混じった視線を左右に走らせた。しかし、そこには、ただ静かな波止場を映し出すだけである。

 静寂と夜気に支配されていたこの場を、轟音と雷光を以って蹂躙していた稲妻もヘラ同様綺麗さっぱりと消え失せていた。周囲に漂う濃密な残留呪力のみを残して。

 

 

「一度ならず二度までも。本当に小癪な真似をする輩ですね! 大人しく神罰に伏すればいいものを……ッ」

 

 

 宗一郎の背後から唐突に苛立たしげな声が響いた。

 凝然と振り返る宗一郎の瞳には、五メートルの距離を空けて気炎を上げて彼を睨み付けるヘラの姿があった。

(瞬間移動……まさか地母神が?)

 瞬間移動の術は、魔術において超高等難易度を誇る大呪法である。

 魔術の神ならともかく、大地の神に可能だとは思われないが。それも呪文などの諸々の予備動作を一切行わずに。

 はっきりと不可能だと断言できる。だがもし可能だとするならば、それは魔術を超えた条理によって成されたに違いない。

 そこまで思い至れば、敵の移動法を特定するのに難はない。

 おそらく大地を介した瞬間移動。地母神ならば、大地を通じて何処にでも移動できたところで何の不思議もない。

 この事実に宗一郎は、胸中で舌打つ。

 もっと早く気付いて然るべきことであった。なぜなら、いま思い返すとあの地母神がこの波止場に顕れたときも、その能力に依るものだったのだから。

 肉体だけではない、頭脳の方もより一層鍛えなければ。さもなくば、神無月家が奉じる神仏必滅の大望は、遠退くばかりであろう。

 何よりあの地母神は、是が非でも今この場で仕留めたい。

 そうしなければならない理由が宗一郎にはあった。そのためには、僅かな失敗も許されない。

 更なる戦意を燃え立たせる宗一郎。それを見て取ったヘラは、怒りを露わにする。

「どうやらわたしが戯れで振るった力を退けた程度で調子づいているようですね。良いでしょう、ここからはわたしの真なる力を以って相手をしましょう!」

 ヘラの憤慨は完全な誤解である。

 宗一郎がいま心の奥底から昂揚しているのは、ヘラが言うような些細な戦果によるものなどでは決してない。

 女神ヘラという古き地母神が、己の眼前に立っている事実に改めて悦びを噛み締めているのだ。

 それは生命の象徴たる地母神こそが、宗一郎が追い求めている、現代の医学では癒すことが叶わない死病に侵されている妹を、唯一救うことが可能かもしれない奇跡を所持しているからに他ならない。

 その奇跡の力を奪い取ることは、宗一郎にとって家業に匹敵するほど重要な使命であった。

 だが、そんなことなど知る由もないヘラは、宗一郎の素振りを己に対しの軽侮と受け取ったらしい。

 烈火の如く怒り狂いヘラは、今までにない莫大な呪力を解き放つ。

 瞬く間に、天高く駆け昇っていく神力。それを目に入れた宗一郎は、ヘラが本格的に雷霆の権能を行使するつもりなのかと身構える。

 正面のヘラを警戒しつつ、宗一郎は上空へと視線を転じた。

 そこには闇夜の中でもくっきりした輪郭が浮かび上がっている、巨大な「何か」が凄まじいスピードで地上に迫ってくる。

 雷霆を孕んだ雲か? ――いや、違う。

 闇に閉ざされた世界であっても、宗一郎の視力は何の支障もなく見渡せる。だから、彼の視界のなかで巨大な「何か」の正体を詳らかにしていた。

 蟲だ。それも数十万にも及ぼうかという蟲の軍団だった。

 今の宗一郎には知る由もないことであるが、あの蟲の軍団の正体は、女神ヘラの神話において、夫神(ゼウス)の憎き浮気相手を追い立てるために、ヘラが解き放った(あぶ)――蚊の群であった。

 神話に曰く、そのゼウスに見初められた哀れな女は、散々虻に追い回された挙げ句、這う這うの体で単身地中海を縦断し、国境を越えてエジプトの地にまで至ったと言う。

 現代では、その神話に因んで女――イオが渡った海域をイオニア海と称されている。

 エジプトの地を踏んで以後イオは、かの地で女神の地位にまで上り詰めたと言われているが、まあこれは余談である。

 それは兎も角、あの数十万匹にも達するヘラの眷属である吸血蟲どもに集られでもしたなら、宗一郎の身体には血の一滴たりとも残されることなく、貪り殺されるだろう。

 そんな凄惨極まる未来を是としないのであれば、何としてでも抗わなくてはならない。

「清き炎よ、我のために邪悪を討ち滅ぼせ! 世に正義を知らしめよ!」

 宗一郎は高らかに謳い上げる。

 密教における明王の一尊――烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を倒して得た『聖火』の権能。浄化の炎で以って汚らわしい蟲どもを一匹残らず焼き滅ぼす!

「オン クロダノウ ウンジャク……!」

 烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の真言を唱えて、宗一郎は天に向かって、灼刀を横に一閃。爆発的な炎の奔流が解き放たれる。

 轟と唸る猛火の噴流が、天上から来襲してくる毒蟲の軍団を呑み込まんと突き進む。数千の毒蟲たちが一瞬で焼滅。それでもなお些かも勢いを減じることなく、怒涛の勢いで殺到する毒蟲の軍勢。

 飛んで火に入る夏の虫とはこの事を言うのか。

 毒蟲たちは自ら進んで猛火の中へと飛び込んでいく。そのたびに火炎は吸血蟲のエネルギーを食らい尽し、ますます火の勢いを増していく。

 まさに燎原の火の如し。夜のナポリの上空は、炎の海と化して下界の街並みを昼のように煌々と照らしていた。

 宗一郎が召び出した業火は、吸血蟲どもを一匹残らず焼き滅ぼすのにさほどの時間を要しなかった。

 いかにヘラの眷属といえども、蟲の軍団にも拘わらず、炎相手に何の策も弄さずに馬鹿正直に突っ込ませるだけであったのは、流石に無謀に過ぎた。

 とはいえ、ヘラはギリシア神話においても地母神の性格を色濃く残している結婚と出産を司る神である。母なる神なのだ。アテナと違い、戦神や軍神の性格などまったくない。

 そんな女神に的確な戦術指揮を揮えというのが、土台無理な話だったのだろう。夜のナポリは、再び闇の戸張に包まれ、波止場もまた静寂が戻ってくる。

 否――

「……おのれ、この下郎が。よくもわたしの眷属たちを燃やし尽くしてくれましたね!」

 ヘラの怨嗟の声が波止場の静寂を、再び引き裂く。

「ご安心を。そんなにあの蟲たちが可愛いのなら、僕が直ぐにでも同じところに送って差しあげますよ」

「口の減らぬ輩め! 何処かの炎神から掠め取った権能を、余程恃みにしていると見えます。ですがわたしは、大地と水の化身。お前の炎などすぐに掻き消してくれます!」

 宗一郎とヘラは苛烈な挑発を交し合いつつ、闘志を剥き出しにして睨み合う。

 両者の高まり合う呪力に呼応して大気が震え、海面が騒めく。張り詰めた緊張の度合いは、一秒毎に倍増し、硬質化していく。心なしか空気の密度すら圧縮され、時間すらそれに引き込まれ、刹那の時間がさらに拡大されていくかのようだった。

 そんな極限の緊迫した最中、突如、日輪の如き眩い輝きが波止場を燦然と照らし出す。

 はっと頭上を仰ぐ宗一郎とヘラ。輝きの正体は、なんと深夜の街の上空にて、突如立ち昇った純白の太陽だった。

 夜の闇に塗り潰された波止場を、昼の光が燦々と白く染め上げる。

「!?」

 両者は、奇怪なる光景に揃って驚愕する。

 純白の太陽――いや、そう見えた光り輝く翼持つ勇壮な駿馬。ソレはこちらを目掛けて一直線に駆け抜けてくる。

 いまこの都にあれ程の怪異を実行でき得る存在は限られている。……では、まさか向こうの戦いは、もう決着を見たというのか?

 宗一郎は緊張の面持ちで迫りくる天翔ける霊獣を鋭く睨む。

 純白の天馬は、宗一郎とヘラの上空を悠々と旋回すると、対峙し合う両者のちょうど真ん中の位置へと滑るように降り立った。

「ハハハ。どうやらこちらは、まだまだ盛り上がっている最中のようだな。ならば、是非ともこの私も混ぜてもらうとしようか!」

 着地と同時に天馬の背に跨る金髪の美青年が 居丈高にそう告げた。

 極東の魔王と南欧の女神の死闘は、更なる展開へと発展しようとしていた。

 


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