神殺しの刃   作:musa

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四話 ギリシアの神々と日本の魔王たち

 視界に陸地と街の明かりを見出したとき、草薙護堂は心底安堵した。

 夜の海は終始穏やかであったものの、いま護堂が搭乗しているヨットの操縦者の文字通り妖しすぎる操縦方法を目撃してから、乗船中、常に気を揉んでいたのである。

 今このヨットは動力に風力や専用エンジンの助けを借りることなく、同乗者兼操縦者でもある女神アテナのスーパーパワーによって、稼働していていた。

 素人目にもはっきりと解るほどに、このヨットの設計最高速度を超過しているだろう常識外れのスピードで航行するものだから、護堂は乗り込んだ当初から肌が粟立ち、引きつった笑みを浮かべて棒立ちになることしかできなかった。

 何はともあれ、夜も更けていたためか、幸いなことに他の船舶に出くわすこともなく、平穏無事に航旅を終えられそうである。

 この分なら新しい都市伝説の類が創られる心配は、ひとまずないだろう。

 そのすべての元凶であるアテナといえば、相変わらず操舵輪など見向きもせず、昂然と胸を張って甲板に直立して、何やら思案気な面持ちで陸地の街を見据えている。

 それを見た護堂は安心するのはまだ早すぎたと、己を戒めた。

 どうやら女神さまの目的地は、あの陸地に見える港街であるらしい。遠くから目にする限りでも、かなりの規模の大都市であることが察せられた。

 断じて災厄の化身たる女神アテナを上陸させていいわけがない。それは、二ヵ月前の東京の騒動に思いを馳せれば、火を見るよりも明らかだろう。

 とはいえ、現状護堂が取り得る選択肢といえば、こうして女神アテナと大人しく呉越同舟を決め込むしかない。

 と言うのも、現時点での草薙護堂とまつろわぬアテナの戦闘能力の比較を試みれば、彼が圧倒的に劣勢であるからだ。

 それを誰よりも弁えている護堂は、常時填めている偽善の仮面の内側にある本当の貌、その冷徹な獣の部分が、いまは静観を決め込むべし、と言う主張に、彼は忠実に従っていた。

 残念ながら我が内なる声は、今こそ戦え、とはやはり言ってはくれないらしい。

 かつて少年野球界の勝負師のひとりに数えられたこともある護堂である。その誇りにかけて絶対に勝てない戦いを仕掛けるつもりはない。

 となれば、現状維持という結論に為らざるを得ない。深い嘆息とともに、護堂は思考を切り替えた。勝負を挑まないのなら、とりあえず、いまは『敵』の目的を探ることから始めるべきだろう。

「……でさ、あそこは一体どんな場所なんだよ? 何てところだ?」

「ふむ? さて、どこであろうな。知らぬ」

 と、あっさりと切って返されてしまった。

 嘘や韜晦の類でないことは、そのぞんざいな言葉使いで容易に察された。

「妾に訊くな、草薙護堂よ。妾はただ風の導きに任せて船を走らせたに過ぎぬ。そもそも旅とはそういうものではないか。吹きゆく風に身をゆだね、足の向いた方角に進み、気まぐれと言う天啓に従うのみ。雲が天を往くがごとくにな……」

 女神さまは何やら風流な言葉を口にしていらっしゃるが、護堂の心には少しも響かない。現代日本人である護堂の感性から見れば、そんな人生観の持ち主など只の暇人しかいないのである。だが――

 状況が変わったのは、そのときだった。

 港の一隅から、青緑色(エメラルドグリーン)の煌めきが天に向かって伸びていく。

「何なんだ、あれ?」

「ほう。何者かが大地の霊脈を不用意に刺激したものと見える」

 護堂とアテナがヨットの上で見守る中、青緑色の光の塊は、見る見るうちに凝固していき、果てには……竜の姿を象っていく。翼長数十メートルの巨大な怪獣が、大都市の上空を悠々と飛行している。

「……やっぱり、あれも何かの神さまなのか?」

「いや、あれは神獣の類であろうな。ただあの場から何やら懐かしい気配がするが……」

 アテナは怪訝な眼差しを青緑色の鱗を持つ巨竜に向けた直後――今度は雷光にも似た煌めきが何処からより飛来して、街中へと舞い降りていく。

 護堂の視覚野に誤作動が生じていないのなら、あの謎の飛行体は、まるで巨竜を追い求めるような軌道を描いていたように見えたのだが。

「……俺、すごくイヤな予感がしてたまんないぞ」

「どうやら妾の予感は当たったと見える。少々厄介な神が今、地上に降臨したようだな。……いや、そればかりではないようだ。ふふ、喜ぶがいい、草薙護堂よ。どうやら、あなたの同胞があの地にいるようだぞ。そして妾の懐かしい同胞の存在も、な」

 「えっ!?」と驚く護堂を尻目に、アテナは面白いことになりそうだと、呟くと神力を振るいヨットを、物凄い速さで陸地へと近寄せていく。

 

 

             †          ☯

 

 

 ズブン、と神無月宗一郎が海中に埋没した自分の身体を、なんと海面の上で踵を打ち鳴らしながら引き上げてくれた。『跳躍』の権能を有する彼にとって、どんな悪路といえども、歩を踏み鳴らす路と化すのだろう。

「あ、ありがとうございます。神無月宗一郎」

 ずぶ濡れで呆然としながらも、リリアナ・クラニチャールは礼を口にした。

「いえ、お気になさらないでください、リリアナさん」

 そう言って、宗一郎はリリアナの細い腰にするりと腕を回して、まるで荷物を携えるように彼女の身体を、ひょいと抱え上げた。

「ちょ、ちょっと待ってください。わたしなら大丈夫ですからっ」

 驚愕と羞恥に頬を赤らめつつも、リリアナは精一杯抗議する。

 どうやらかなり沖まで流された感があるものの、彼女の心には一切の不安の念はない。自然干渉の魔術行使は魔女たるリリアナの専売特許である。独力でもナポリへの帰還は可能だ。

「だから、気にしないでくださいと言ったでしょう。それに僕の方が速いですよ」

 そう断じて宗一郎は、水面を長靴(ブーツ)で蹴る。

 瞬く間に、途方もないスピードで疾走する。彼が海を踏み締めるたびに、水面に波紋を刻み、飛沫が散る。

 この力は間違いなく、二ヵ月前にクー・フリンから簒奪した権能によるものだろう。

 <水上歩行>の魔女術はリリアナとて心得があるものの、これ程の速度で水面の上を駆けることなど、流石の彼女でも不可能だ。

 おそらくは時速百キロを上回るスピードで疾走しているのではあるまいか。それに、この速度域でもまだマックススピードには程遠い、と魔女の直感が告げていた。最高速度ともなれば、この五、六倍増しは出そうである。

 紆余曲折を経たものの、神無月宗一郎が神を弑逆する現場に居合わせ、少なからず……いや、乙女として多大に貢献を果たし得た成果の結晶をこうして目の当たりにすると、何やら不思議な感慨が胸中に去来する。

 過去、神殺しの戦士に助勢して、『まつろわぬ神』討伐を成し遂げた偉大な先達たちもまた、いまリリアナが感じている思いを味わったのだろうか。

 とはいえ、その特別な感慨も荷物のように身体を小脇に抱えられ、持ち運びされている現状を鑑みれば、そんな思いも何処かに吹き飛んでしまいそうであるが。

 そうは言っても、別段お姫さま抱っこを切望しているわけでは決してない。

 しかし、窮状に喘ぐヒロインの許へと颯爽と現れて、快刀乱麻の如く彼女を救い出し、最後にはお姫さま抱っこで締めくくるヒーロー。それが様式美というものではないか。

 少なくとも、ヒロインがまるで荷物のように抱えられながら終わるストーリーなどあり得る筈がない。

 ……いや、もう現実逃避は止めにしよう。リリアナとて本当は解っている。何も終わってなどいないことを。

 そもそも宗一郎が彼女の身体に対して、こんなアバウト過ぎる扱いを敢行するのは、必ずしも宗一郎のデリカシーの欠如だけに起因するわけでないことを、リリアナは理解していた。

 敵がいるのだ。剣士ならばひとたび戦場に身を晒した以上、最低でも利き腕の自由を確保して置くのは、当然の作法である。

 事実、宗一郎の右手には、刀身を燦然と紅蓮に輝かせる灼刀が握られていた。襲撃を警戒している証である。

「……神無月宗一郎。サルバトーレ卿はどうなりましたか。それとあの竜は?」

 ようやく現状認識が追い付いたリリアナは、イタリア魔術界の盟主の安否確認と彼女たちが地下遺跡に安置していた神具から出現した神獣の動向について問うた。

「サルバトーレさんだったら、津波に呑み込まれた隙に、僕が蹴り(、、)……いえ、あっさりとそのまま海の底へと沈んでいかれましたよ。その後のことは生憎と知りません。あなたと違って助ける義理もありませんし。あの神獣なら……それはご自分の目で確かめた方がきっと理解しやすいでしょうね」

 蹴り……とは、何のことなのだろうか。ひょっとすると、神無月宗一郎はサルバトーレ卿に何か仕掛けたのだろうか? もっとも、あの“剣の王”のことである。そうそう一方的にやられっぱなしで終わるような男ではあるまいが。

 ――これは余談であるが、実のところ、宗一郎は竜に海中へと叩き落とされた直後、青い騎士ではなくサルバトーレ・ドニの許へと海水を蹴りつけながら真っ先に駆け寄った。

 それを目にした金髪の神殺しは、“親友”の献身に感動に打ち震え満面の笑みを浮かべて両手を差し伸べた。――が、宗一郎はそんな子供のような無邪気な顔をした同族の腹に、無情にも全力全開の蹴撃を食らわせたのである。

 理由は、もちろん、邪魔者の排除のため――である。瞬時の内に魚雷よろしく吹っ飛んでいったドニは、おそらくナポリ近海を抜け出して何処かの海流に乗って、あらぬ場所へと漂着することになるだろう。

 閑話休題――

 何はともあれ、いまはサルバドーレ・ドニの安否――どうせ心配するだけ無駄である――より、あの神獣の動向である。

 何より宗一郎の愉快気な語り口にリリアナは、訳も分からず背筋が凍りついていた。

 カンピオーネたちが戦場でこういう笑い方をするということは、リリアナたち一般人にとっては、碌でもない展開になっているということだろう。

 本音を言えば微塵も見たくなどなかったが、そんなわけにもいくまい。リリアナは意志力と背筋力を総動員して、宗一郎の腕の中から恐る恐る顔を上げた。

 すると、まず視界に飛び込んできたのは、あの竜の巨体。依然として、ナポリ上空に居座ったまま動く様子を見せない。

 ――いや、違う。動けないのだ(、、、、、、)

 夜の闇の中で煌めく稲妻が、巨竜を逃がさぬとばかりに取り囲んでいる。のみならず、雷光が青緑の鱗を持つドラゴンを打ち据える度に、怨嗟と苦悶の咆哮を上げる。

 巨竜が何者かの襲撃を受けている! 

 しかも、かなりの劣勢を強いられているようだ。リリアナの動体視力では、相手の動きがあまりに速すぎて風貌を把握できない。が、神獣を相手取り、一方的に蹂躙している以上、アレが『まつろわぬ神』の一柱であることは、間違いあるまい。

 一体、何処の神なのか?

「あの神は、陸地の街からちょうど東側の方角からやってきたようです」

 腕の内のリリアナの疑念を察したのか、宗一郎が少し前に目にしたことを話す。

(ナポリの東……ヴェスヴィオ火山か!)

 あの『まつろわぬ神』が、ここイタリアの地で『生と不死の境界』から直接降臨したのなら、ギリシア・ローマ神群由来の神である公算が高いが。

 あれこれと思案していると、再びサンタ・ルチア地区の波止場をはっきりと視認できた。宗一郎もそれに気づいたのか、ダン、と今までになく水面を強く踏み切ると、宙を滑空して、一足飛びで波止場の石畳の上へと着陸を果たす。すかさずリリアナは、宗一郎の腕の中から脱出して、自分の両足で地面に直立する。

 ほっと安堵する彼女と同時に、上空の巨竜はひと際甲高い絶叫を響かせて、波止場へ墜落してくる。

 大きな地響きを立て、墜ちる竜の巨躯。片翼は千切れ飛び、首は半ばまで断ち切られていた。まさに満身創痍の呈である。

 つい先刻、リリアナが目の当たりにした雄々しい勇姿など見る影もない。

 かくも短い攻防の末に、これほどまでに神獣を追い詰めるとは、果たしてどのような強大な力を有する神なのか。想像するだに彼女は戦慄を禁じ得なかった。

 そのとき――

「ハハハハ! 流石は大地の精だな、なかなかにしぶとい!」

 波止場に落雷が見舞う。

 激しい轟音と共に眩い閃光は、次第に人の姿を象り始めた。

 美しい青年だ。

 堂々たる長身に、純白の装束を纏わせている。右手には、刃渡り一メートルほどの刀身が鎌のように大きく湾曲した豪刀(ハルパー)

 王者の冠を思わせる豪奢な金髪と、端麗な美貌をさらに彩るように、双眸には紅玉の如き真紅の瞳が填まっていた。

 その眼差しが不意に炯々と輝き、こちらを鋭く睨む。

「ほう……少年――君は当代の神殺しだな。ふふ、それに何やら美しい乙女を伴っている様子。……ふむ、ひょっとすると其処な神殺しに拐かされでもしたのかな? 

 それはいかんな。だとするならば、私は英雄として振る舞い、是が非でも乙女を救わねばならん! 乙女よ、しばし待つが良い! かの『蛇』を滅ぼして後に、すぐさま駆けつけ、其処な『魔王』を打ち果たし、必ずや其方を救出して見せよう! その後は、我が侍女として召し抱えてやろう。古の我が妻、アンドロメダの故事に倣ってな!」

 そう高らかに青年神が嘯いた。

(我が妻、アンドロメダ……? では、あの『まつろわぬ神』の名は、ペルセウス!)

 ギリシア神話の蛇妖メドゥサを打ち倒し、その帰郷の途上において、エチオピアの王女アンドロメダを生贄に求めた怪物とも海辺で戦い、その首級を上げて、美姫を救った勇者。

 ヘライオン――地母神の聖なる印から溢れ出た神力が、仇敵である彼を呼んだのか。

 だがそれにしても、あの英雄神の支離滅裂な物言いはなんだ? まったく無茶苦茶にも程がある。

 無論、リリアナは宗一郎に誘拐などされていない。……いや、彼女の意思に反して強引にここまで連れて来られたのは事実であるが。これは誘拐とは言うまい、多分。

「――と言うわけだ、竜よ。後が控えているゆえ、手早く済ませようではないか!」

 やおら決然とそう宣告するや、青年神――ペルセウスは湾刀の切っ先を神獣へと傾ける。巨竜もまた地に伏せながら、それに応じるように、鎌首をもたげて仇敵を睥睨する。

 超常の者同士の戦いが再び勃発されようとする段に到って、リリアナは焦燥感に駆られる。

 あの竜はナポリ一帯の霊脈が凝り固まり、具象化した存在だ。

 万が一、あの神獣が滅ぼされようものなら、ナポリは都市としての命脈を失い、不毛の大地と死の海だけが残ることになるだろう。

 魔女の直感により、それを誰よりも痛感しているリリアナである。だがしかし、もはやあの英雄神の前で風前の灯火に等しい竜の命運を救い上げる力はない。

 ……いや、ある。それも自分のすぐ傍らに!

「神無月宗一郎、どうかお願いします。あの竜を助けてください! あれなる竜はこの土地の精から生まれた神獣。不用意に倒されてしまえば、この地の霊気が枯れ果ててしまうかもしれません!」

 騎士は必死に懇願する。

 そう、『まつろわぬ神』に唯一対抗できる存在に。

 そのカンピオーネたる宗一郎は英雄神の登場以来、ますます闘志を掻き立てられたのか、漆黒の瞳を爛々と輝かせ、ペルセウスを見詰めていた。だがその唐突な隣人の声に虚を衝かれ、驚いて顔を彼女へと向けた。

 交錯する漆黒の瞳と深青の瞳。一瞬の間。そこに、

「良いではないですか、兄さま。リリアナさまの『願い』、聞き容れてお上げなさっても」

 と宗一郎の真横から、まるで湧いて出たかのように、巫女装束の娘が現れた。

 彼の妹、神無月佐久耶だ。

 いきなりの出現に驚きつつも、リリアナは、警戒も露わに身構え、糾弾する。

「な、何のつもりですか、神無月佐久耶……っ!」

 二ヵ月前、この巫女の砂糖菓子のような甘い言葉に謀られ、痛い目にあわせられたリリアナとしては、彼女の思わぬ助勢には、警戒せざるを得ない。

「まあ、そのように仰られるとは、実に心外です。我ら神無月家の“盟友”たるリリアナさまは何やらお困りの様子。ならばこそ、貴方さまをお救いして差し上げたい。そのように思うのはごく自然なことではありませんか」

 清楚可憐な巫女、いや女狐は、穏やかにそう口にして微笑んだ。

 何が盟友だ! 白々しいにも程がある。カンピオーネの親族からそんな風に呼ばれて、歓喜するのは自分の祖父だけだ。

 リリアナにとっては、少しも嬉しい話ではない。

 もう騙されないぞ、とリリアナは険しい眼差しで佐久耶を射る。それを微笑みひとつでいなし、次いで巫女の双眸は、いまだ立ち尽したままの兄を映し出す。

「兄さま、先程から何を黙ったまま、突っ立ておいでなのですか。疾くリリアナさまの『願い』を叶えてきてください。……それとも、二ヵ月前にリリアナさまから受けられた『大恩』、よもや忘れたわけではないでしょうね」

 巫女は厳しい語り口で兄を叱咤した。

 宗一郎は、妹の言葉に心外だとばかりにかぶりを振る。

「もちろん、忘れてなどいません。ええ、解りましたとも。リリアナさん、あの竜を助ければいいんですね。……もっとも、その必要があるとも思えませんが」

 含みのある微笑を浮かべ、宗一郎はいまだ対峙したまま、動きのない竜と神へと視線を転じた。

「……確かにそうかもしれませんね。それにしても、兄さま。わたくしが少し目を離した間に、よくもまたこれ程の騒動を引き起こされましたね。どうして一か所に留まり、事態の推移を黙して待つ、たったこれだけのことが出来ないのですか?」

 巫女は何故かナポリ湾の方角を見詰めつつ、呆れたとばかりに深い吐息をついた。

「佐久耶、それは誤解です。僕は何もやましいことなどしていません!」

 と宗一郎は堂々とそうのたまう。

 嘘だ、サルバトーレ卿と決闘をしていたではないか。それも、神具の前で!

 その言葉が喉元まで迫上がってきたが、リリアナはぐっと何とか呑み干した。

 どうやら神無月宗一郎は、リリアナの懇願を聞き遂げてくれるらしい。ならば、下手な言葉をとって彼にへそを曲げられては困る。

 とはいえ、あの竜は間違いなく、仇敵たるカンピオーネたちの激烈な呪力と闘気の迸りに地母神の神具が刺激された結果、生じた神獣だ。

 そして、その神力に触発されて顕れた神こそ蛇殺しの英雄神ペルセウス。

 これら神話の住人たる『神獣』と『まつろわぬ神』が現出した原因は、議論の余地なく、極東と南欧のカンピオーネたちの馬鹿騒ぎによるものに他ならない。

 にも拘らず白々しく、しらばっくれる宗一郎(当の馬鹿の一人)を前にして、リリアナの胸の内では、憤懣やるかたない思いで煮えたぎっていたものの、まさかそれを(おもて)に噴き出すわけにもいかない。

 彼女はやるせない思いを、そのまま心中に仕舞い込み、それでもしかし、双眸は非難の色を多分に含んだ眼差しを向けることだけが、リリアナのできる唯一の身の処し方であった。

 そんな騎士の様子を見つめて佐久耶は、だいたいの事情を把握し、呆れた風にかぶりを振った。

「……兄さま、英雄神さまがそろそろ痺れを切らす頃合いでありましょう。あの神獣を救出するのなら、お早くなされてはいかがですか」

 確かにペルセウスは短期決戦を宣言するかのような勇ましい言動を嘯きながら、何かを警戒するように、いまだ竜と睨み合いを続けている。

 だがあの英雄神の性格を思えば、この膠着状態が長く続かないのは、明白だろう。

 宗一郎も同感だったのか、ひとつ頷くと長刀を握り締め、一歩進み出ようとした。

 その瞬間――

 

 

『そやつはわたしの僕です。それ以上の狼藉は赦しませんよ、忌まわしき英雄神!』

 

 

 凛然とした美しい女性の声が戦場に響き渡る。

 と同時に巨竜の足元――その石畳みが、ぐにゃりとまるで粘土のように歪み、噴き出しつつ、形を成し、女性の像を形取る。すると、青緑色の眩い閃光に包まれるや、ひとりの女性が、否――1柱の女神が神獣を英雄神から庇おうとするようにして現界する。

 髪は麦の穂の如き黄金色。瞳は豊穣と大地を想起させる青緑色(エメラルドグリーン)。鼻梁は高く、長身を純白のドレスで身を包み、清らかでありながら、威厳高い貴婦人である。

「ほう……この地に満ちていた荘厳な神気。その神獣のモノではないとは解っておりましたが、よもや御身であられたとは! 神々の女王――ヘラよ!」

 ペルセウスは高らかに女神の神名を謳い上げた。

(ヘラ……!)

 リリアナは心中で唸る。

 どうやら神具に祀られていた当の神が直接降臨したらしい。ともあれ、またしても厄介な存在が顕れたものである。

「いま私は、ペルセウスと名乗っております。ですから、御身のことを、『お義母上』とお呼び立てしてもよろしいですかな?」

 秀麗な美貌を不敵な笑みで刻みながら、ペルセウスはそう揶揄する。 

 ギリシア神話において、ペルセウスは最高神ゼウスとアラゴン王国の王女ダナエとの間に儲けられた半神半人の英雄として綴られている。

 一方、女神ヘラはそのゼウスの妻に当たる。

 なるほど一見ペルセウスは、ヘラを「義母」と呼ぶことに何ら不思議なことではないように思われるが……

「――無礼者! そのような戯言を、このわたしが赦すと思いましたか……!」

 ペルセウスの言葉によほど悋気を掻き立てたらしい。ヘラは柳眉を逆立てて、咆哮する。

 女神の怒りは当然だ。

 正妻が夫の不逞の末に住まれ堕ちた不義の仔を、認知することなどそうそうあるまい。

 ましてや、女神ヘラと言えば、ギリシア神話において、夫神の不逞を嗅ぎ付けるたびに、憎悪と嫉妬を浮気相手に或いはその不義の仔に振り撒いてきた、怨讐の神である。

 その不義の仔の一人たるペルセウス如きに、まかり間違っても「義母」などと呼ばせる筈がないし、それ以前に存在そのものが赦し難いに違いない。

「ハハハ! これは手厳しい。しかし神話のように、御身の僕を直接遣わし、敵対する者悉くを陥れ、苦しませる。それを高みの見物より、眺め愉しまれる。その陰惨なご気性は、些かもお変わりないご様子にこのペルセウス、たいへん喜ばしく思っております。――何と言っても、たおやかな乙女の首を刎ねるより、御身のような女人を斬り捨てる方が、遥かに心が痛みませぬからな!」

 神獣を放ったまま、一向に姿を晒さなかったヘラを、神話に喩えて嘲笑うペルセウス。

「神々に女王たるわたしに向かって、そのような侮辱……相も変わらずお前たち英雄は、野卑な連中です!」

 ヘラは軽蔑も露わに吐き捨てる。

 邂逅するや否や、罵詈雑言の応酬。おそろしく仲が悪い。

 だがそれは、当然なのだ。

 両者は――正確を期するならば、女神ヘラ、いや、ギリシア神群女神とギリシア神群男神に関しての確執は、ギリシア神話創造にも影響を及ぼすほど根が深い。

 それを識るリリアナは、両者の和解はあり得ず、敵対するしかないと解っていた。

 そして、彼女の傍らには更なる『まつろわぬ神』出現にますます闘志を滾らせる独りの神殺し。

 二柱『まつろわぬ神』と一人のカンピオーネ。

 今すぐにでも勃発しそうな風である三つ巴の超常の戦いを、どうすれば被害を最小限に済ませられるのか、騎士は背に冷や汗を掻きながら、必死に思考を巡らせる。

 だが、リリアナの現状認識はこの時点でもまだ見積もりが甘過ぎた。

 

 

「善き哉、善き哉――宴もたけなわというには、まだまだ早い頃合いと見える。どうやら妾たちは、間に合ったようだな」

 

 

 穏やかで威厳に満ちた、しかし明らかに幼い少女の声が割り込んできた。

 リリアナは反射的に声が聞こえた方角へと首を傾ける。そこには、波止場の一角から、こちらへと赴いてくる十代前半と思しき少女の姿があった。

 運悪く戦場と化した波止場に迷い込んでしまった場違いな女の子――ではあるまい。

 リリアナは彼女もまた『まつろわぬ神』だと確信した。

 月の雫で染め上げたような銀色に輝く髪に、夜を凝縮したかの如き深い闇色の瞳。強力な大地と闇の神性を感じる。

 地母神。それも、おそらくは女神ヘラに匹敵するほどの強大な神格の所有者だ。

 リリアナは新たに参戦してきた女神の背後にふと目をやれば、居心地悪そうにしている旧知の人物に気がついた。

「……草薙護堂? あなたがなぜ、こんなところにいるのですか!?」

「君はエリカの友達の……リリアナさん、だよな?」

 そう言って、草薙護堂は眼差しを彷徨わせると騎士の傍らにいた自らの同類の姿を見出し、驚愕する。

「お前は、神無月……!? 俺の同族ってお前のことだったのかよ!」

 二柱『まつろわぬ神』と一人のカンピオーネ? とんでもない勘違いだった。

 正しくは、三柱『まつろわぬ神』と二人のカンピオーネだ!

 いずれも劣らぬ超武力の所有者たち。五発の核爆弾が一か所に持ち込まれたようなものだ。ひょっとすると、ナポリは今夜、本当に灰燼に帰してしまうかもしれない。

 リリアナはあまりの絶望的な状況に押し潰され、悄然と肩を落とした。

 


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