神殺しの刃   作:musa

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一話  邂逅の調べ

 アイルランド共和国首都ダブリン。

 アイルランドの全人口の三分の一がダブリン首都圏に集中する、アイルランド共和国最大の都市である。もともとはバイキングが興した国家で、過去において野蛮な国と印象を持たれもしたものの、現在では清楚で美しい国に成熟している。

 夜が明けることのない不夜城は、大都市の常でダブリンとて例外ではない。日が落ちると一層賑わい、レストランからアイルランドの伝統的な音楽が漏れ聞こえてくる。

 その心地よい旋律を切り裂くようにリリアナ・クラニチャールは、夜のダブリンを駆け抜けていった。

 とはいえ、リリアナに夜遊びの習慣があるわけではない。むしろ苦手な部類に入る。

 過剰なまでの酒気を帯びた通行人や、露出度の高い女性を見ると眉を顰めるし、そこまで行かなくとも、如何わしい歓楽街のネオンの灯りを見るだけで嫌悪感が沸く潔癖症故に、夜間は屋内に居る方が落ち着く性分であった。

 そんなわけで、普段のこの時間なら机に向って趣味の創作物に没頭しているか、剣技を磨くか、魔道書を紐解いて自己鍛錬に費やしていただろう。あるいは、月が心地よい夜ならば月光欲もいい。

 そんな自らの信条を曲げてまで夜の街に繰り出しているのは、もちろん、理由在ってのことである。

 リリアナがタブリンに滞在しているのは、《青銅黒十字》の任務の一環であった。それも幸い大過なく終了しており、後は一泊して明日にでも帰国の途上に着くはずだった。が、ホテルの部屋でくつろいでいたリリアナの元に凶報が舞い込んで来たのである。

 ここタブリンで『まつろわぬ神』の降臨が確認された。

 その知らせを受け取ったリリアナは、居ても立ってもいられず矢のように部屋を飛び出し、タブリンの夜に身を晒したのである。

 ここは《青銅黒十字》の本部を置くイタリアではない。《青銅黒十字》の威光が及ばない異国の地である。

 たとえ『まつろわぬ神』が顕れようとも、タブリンの魔術結社が独自で対処するだろうと、頭では解っていても、何もせずに部屋で大人しくしていることなど彼女には出来なかった。

 まずリリアナがタブリンの街に身を晒して安堵したのは、都市機能が正常に運行されていることであった。人々も平静そのもので、和気藹々と日常を謳歌している。パニックの兆候など、微塵も感じ取れない。

 これは吉報である。神々が現出すれば、天災クラスの異常災害が起こるなど、ざらにあるからだ。どうやら『まつろわぬ神』は、まだ派手に暴れまわっていないらしい。

 理由は不明だが好都合だと判断して、リリアナはさらに足を速める。

 妖精の如き細い体躯を翻し、人々の隙間を縫うように走り回るリリアナの姿は、傍目には異様に目立つはずだが誰も見咎めた様子はない。まるで周囲の人々には青い騎士の姿が目に映っていないかのような態である。

 魔女や妖精が得意とする≪隠れ身≫の術の効果である。これと併用して『まつろわぬ神』を探索するための術を起動しているが、まだそれらしい反応はない。

 タブリンの夜の街を奔走すると共に、リリアナは『まつろわぬ神』の正体について思案していた。

 この地はアイルランド。ならば、この国土に根付いた神話体系から抜け出た神である公算が高いだろう。

 アイルランド神話――アイルランド人の祖先である古代ケルト人は文字を書き残す習慣がなかったため、一神教の導入によって異国の文明に触れたことで変遷を余儀なくされた歴史がある。

 その過程で散逸した神話郡もあるが、現在まで継承された神話は大別して四つの物語に分かれる。

 一、来冠神話――アイルランドの地に渡来した神々の興亡を描いたアイルランド神話の代表ともいえる物語。

 二、アルスター伝説――赤枝の騎士団の活躍を描いた英雄神話。

 三、フェニアン伝説――フィン・マックールと彼の率いるフィアナ騎士団を中心とした英雄神話。

 四、歴史物語――歴代のアイルランド君主を扱う物語。

 まず、失われた神話についてだが、これは考えずとも良いであろう。

『まつろわぬ神』は現在に伝わる神話から誕生する。例外はあるものの、歴史の霧の中に消えた神話からは生れることはあり得ない。

 ならば、アイルランド神話を構成する四つの物語に登場する神・英雄たちからか。若干地域は逸れるがウェールズ神話の神々の可能性も捨てきれない。

 あるいは、『まつろわぬ神』の名の通り、アイルランドとはまったく関係のない神からの来襲も考慮するべきだろう。

 だが……そこまで考えてリリアナは、思考の坩堝に嵌っていることを自覚した。まだ遭遇してもいない神のことなど考えても意味はあるまい。

 故に会えば解る。そう、思い定めてリリアナは疑問を断ち切った。

 ―――だからこそ気付けた。その存在に。

 リリアナより前方五メートルほど。雑踏を異様な風体で闊歩する人物がいた。

 立首の円い襟で袖の広い白色の衣装は、アイルランドどころかこの時代にも明らかに即していない。リリアナはそれが日本の中世に着用された狩衣と呼ばれる衣装であることに気付いた。

 それも、リリアナが日本文化に造詣が深かったからこそ解ったことである。アイルランドの人々が知る由もあるまい。

 にも拘らず、それを誰も奇異とも思わないのか、何故か好機の視線を誰も注ぐことがない。後姿ゆえに性別を判断する確たる根拠はないが、ともすれば黒髪を後ろで結い上げた姿を見れば女性に見えなくもない。が、不思議とリリアナは男だと感じた。特に理由があるわけではない。ただの直感である。

 とはいえ、リリアナが殊更異様に映ったのは、装いではなく、性別でもなかった。その背に背負われた一振りの長剣であった。

 剣を収めている漆黒の鞘は、リリアナの愛剣であるサーベルよりも長く優美な曲線を描いている。その人物が身に纏っている衣装と同じく日本製の刀剣――太刀であろう。

 まず本物とみて間違いない。騎士たるリリアナである。たとえ鞘越しとはいえ刀剣の真贋ぐらい見極められる。

 異国の装いのみなら、店の催しの一環として説明も出来ようが、本物の長剣を背に吊るす人物が常人であろうはずもない。

 それも、これほど奇抜で危険な人物が誰にも気付かれた様子がない。我が物顔で市街を闊歩している。リリアナですら気付いたのは偶然に等しい。

 おそらく、リリアナとは系統の違う陰行の術。それも大騎士たるリリアナの目すら欺く凄腕である。

 現代にそぐわぬ奇抜な格好で、人界をさ迷い歩くのは、『まつろわぬ神』の特徴であるが、おそらくは彼らではあるまい。

 霊視能力に長けた魔女でもあるリリアナは、『まつろわぬ神』であるなら一目でそうと解かる。

 ならば、人間の魔術師に違いない。

 明らかな不審人物を前にしてリリアナは判断に迷った。

 目的は『まつろわぬ神』である。本来であれば余計な時間を割いている暇などない。だが凶器を携えた怪しい魔術師を放置しておくのは、騎士として正しい振る舞いではないのも事実。どうするべきか……

「止むを得ないな」

 ぼそりと呟くとリリアナは、相手と一定の距離を保って尾行を始めた。

 俄然、居場所が不明な神よりも、目前の魔術師を世にとっての脅威だとリリアナは判断したのである。

 実のところ、あの異国の術者がリリアナと同じ事情―――所属結社の任務中で偶然『まつろわぬ神』出現の報告を受けて、戦装束を纏った上で神との戦いに参戦するべく、市街に身を投じた可能性もないではない。むしろ、大いにあり得るだろう。

 その時は、素直に謝罪すればすむ話。けれど、そうでなかった場合こそ問題だ。

 リリアナのような秩序を奉じる“善”の魔術師ではなく、混沌を撒き散らす“悪”の邪術師であったとき、その目的は邪まな謀でしかあり得まい。

 そうであるならば、それを身と呈して阻むのが騎士たる己の本懐だとリリアナはそう定めていた。

 だが、そう決断したものの、このまま無策で相手に詰め寄るわけにもいかない。彼が邪術師であった際、逆上して反抗されては、周りに余計な被害が出る恐れもある。

 ここはまだ人通りが多い地域なのだ。相手の目的も力量も解らぬ内は、軽挙妄動は控えるべきだろう……

 結局、半時間ほど良案も浮かばず、無難に尾行を選択したリリアナを尻目に、男はまるで物珍しげにキョロキョロと周囲を眺め回しては、法則性など皆無なその場限りの好奇心としか思えないような動きで、唐突にその進路を変えてはリリアナを振り回す。

 帯剣をして術を使って姿を隠していなければ、ただの異装の観光客にしか見えない。

「くっ」

 だが男が断じて唯の観光客などではないことを知るリリアナからすれば、彼の観光客然とした態度はただ忌々しいだけだ。

 この奇行も最初は邪術師の企み事の一環かと勘ぐっていたリリアナであるが、今では自分の考えが正しいかどうか疑わしく思えてきた。

 帯剣して姿を消して市街を徘徊する男――邪術師でなければただの阿呆ではないか。そんな男を警戒していたリリアナは、まさに間の抜けた道化もいいところだ。

 もう我慢なるものかと、リリアナは走る速度を上げた。男を拘束するためである。

 本来こんな不審人物に付き合う暇などないのである。

『まつろわぬ神』の動向も気にかかる。無用な手間は、早急に終わらせ、とっとと本道に立ち返るべきだろう。だが―――

「……?」

 はっとリリアナは違和感を覚えた。その感覚に導かれるまま、彼女は周囲を見回す。

 ……そして、違和感の正体を諒解した。

 人影が徐々に少なくなっている。人々で混雑する大通りを外れて随分経つが、まだ人通りは多かったはずである。

 それが今では―――皆無である。誰もいない。街路に立つのは、青い騎士と異装の男のみ。

「ッ!?」

 本能的な危険を感じ、リリアナは足を止めて魔術でサーベルを虚空より召喚した。

 イル・マエストロ―――『匠』の名を持つリリアナの愛剣である。騎士は剣を構えて油断なく男を厳しい面持ちで見つめる。

「―――やはり、貴方には僕が視えているのですね。やれやれ、僕もまだまだ未熟ということですか……」

 長刀を背に吊るした異国の装束を身に纏った男は、そう言ってリリアナに向き直った。

 男、いや少年と呼ぶべきだろう。年の頃はリリアナとさして変わらなさそうだ。

 顔立ちは整っており、気品すら感じさせる典雅な美貌。背丈もリリアナと同じくらい。この時代の男性にしては小柄な部類に入る。これでもう少し背が高ければ、凛々しい若者と映っただろうが、全体的に矮躯な優男という脆弱な印象を少年に与えていた。

 さらに微笑むとますますその傾向が強くなる。とはいえ、これだけならば、どこにでもいるティーンエイジャーに過ぎない。異国の術者装束と背に長剣をさえ背負っていなければ。

「何者だ……」

 リリアナは短く誰何の声を上げるも、返答は期待していなかった。

 最早疑うまい。眼前の少年は只者ではない。ただ魔術を扱えるというだけに止まらない。

 リリアナですら寸前まで気付かせない陰行術に加えて、人払いの結界までいつ使ったの

か解らなかったのだ。そんな存在がただの魔術師であろう筈がない。

「そうですね。問われたのなら答えない訳にはいきませんか。僕の名は、神無月宗一郎と申します。そういう貴方のお名前は? 異国の術者の方」

「……」

 これには戸惑った。偶さか素直に応じるとは思わなかったのである。が、いつまで動揺もしていられない。相手の言ではないが、名を問われれば騎士として答えないわけにはいかない。もとより、隠し立てすることでもない。

「リリアナ・クラ二チャールだ。神無月宗一郎と言ったな。その様な身なりで市街を徘徊する、その目的は何だ?」

 リリアナは硬い面持ちで鋭く詰問した。

「目的と言われましても、ただ家の者が来るまで異国の街を散策していただけですが……。そもそも、あなたはどうして僕を尾行していたのですか?」

 心底不思議で仕方ないという風で異装の少年―――神無月宗一郎は言った。

「な――ッ!」

 リリアナの驚愕は当然だ。

 古今東西、如何なる魔術結社であろうとも、武器を携えた上に、術者の装束に身を纏って現代社会に出没することを奨励する組織はあるまい。

 とはいえ、緊急事態ならそれも止むを得ないだろうが、それが異国の地であるならば同輩たる魔術師の詰問を受ければ理由くらいは述べるのが普通である。それを意に反さぬ者など魔術界の常識に照らし合わせても、あり得ない異常である。

 それを強く意識しつつ、剣先を更に鋭く相手に向けてリリアナは再度問うた。

「もう一度問う。神無月宗一郎。貴様の目的は何だ。家の者とは誰の事だッ!?」

 リリアナの口調は、詰問を超えて恫喝の域に及んでいた。

 湖の如き深青の双眸は殺気という暴風に当てられて荒れに荒れていた。常人ならば顔色を青くして逃げ惑うほどの気当たり。

「それは……。ああ! 申し訳ありません。それは言わないようにと言い含まれておりました」

 それを―――少年はそう朗らかに笑うのみで、まったく堪えた様子がなかった。

 その笑みにおよそ邪気と呼ばれるものがなく、また剣先を向けられながら恐怖の色すらもない。無邪気そのものだ。

 リリアナの殺気を受け流しているのか。それともそうと気付かないほど鈍いのか……

 あるいは、リリアナ程度の殺気などまったく問題にしていない、強者の余裕の表れか。

 だがリリアナはこの問題を一々熟考する必要を感じなかった。どのような理由にせよ、その答えはすぐに解かる。

 事此処至って、埒の明かない会話に傾注して事態の停滞を望むのは悪手に過ぎる。今は積極的な行動こそが最善である。リリアナはそう判断した。

 もとより、少年を目にしたときから、そうするのべきであったのかもしれない。が、あのときの懸念事項であった一般人の配慮は最早必要ではない。この場を支配するのは二人のみ。

「ふ……」

 リリアナは、すぐさま動けるように体の隅々まで意識を伸ばす。

 彼我の距離五メートル。軽功飛翔は騎士の得意分野。リリアナにとってこの程度の距離など無に等しい。

 ―――事実、リリアナは僅か一歩の踏み込みで、少年の眼前に出現した。

 おそらく少年には、リリアナが瞬間移動したように見えたはずだ。必殺の速度で間合いを詰めたリリアナは、サーベルを相手の胴に躊躇なく叩き込む。

 無論、殺す意図はない。峰打ちである。だがまともに喰らえば肋骨は、ただではすまない程度には、その一撃に容赦と呼ばれるものがなかった。

 当たる。リリアナはそう確信した。この期に及んでも少年は棒立ちのまま立ち竦んでいる。リリアナの速さに対応出来ていない証拠だ。

 果たして、リリアナの薙ぎ払いは吸い込まれるように少年の胴へと直進して―――見事に空打った。

「ッ―――!」

「困りましたね。女性は傷つけてはならないと、アレに言い付けられているのですが……」

 その光景をリリアナは愕然と見た。少年の暢気な声など聞いている余裕はない。

 もし外から見ている者が居たならば、リリアナの驚愕の念こそ不思議だっただろう。少年は何も奇怪な異能を振るって斬撃を躱したのではない。

 ただ一歩後ろに引いただけ。それだけの所作でリリアナの必殺の一撃は無力化されたのである。

言うは易し、行うは難し、である。己の身どころか装束に傷一つなく、最小限の動きで完全に躱しきったということは、リリアナの動きが完璧で見切られたことに他ならない。

 ただの凡庸な剣士ならば兎も角、大騎士たるリリアナの渾身の一撃を初見で見切って躱せる者など、欧州でもどれだけいることか。リリアナの誇りにかけて、おそらくそれほど多くはないのは確かである。そして少年はその数少ない練達の剣士の一人。

 それを確信したリリアナは、警戒レベルを最大まで引き上げた。即ち、打つのではなく斬る。殺す気で相手をして丁度いい。

 故に、リリアナはイル・マエストロの封印を解き放つ。

 『匠』の鋼が新たな形を現す。

 曲線を描く刀身はそのままに、柄がぐんぐんと伸び―――次の瞬間、薙刀へと姿を変じた。リリアナは横に振り切った状態のサーベルから瞬時に薙刀へと変わった得物を持ち上げるや、袈裟斬りに振り下ろす。

 慎重を期して距離を取ろうとは考えない。一気呵成の勢威を駆り猪突する。

 それはリリアナが正面突破を好む剛剣の使い手だからではない。腐れ縁のあの女狐ではないのだ。こんな戦法は本来リリアナの流儀ではない。

 だが、それが必勝の戦法と理解していれば、流儀など二の次である。

 更に返しの逆袈裟の斬撃を変化、足を薙ぐ一撃を見舞う。そこから斬り上げて、返す刃で打ち下ろし、と見せかけて薙刀を手元に引き込んで突き技―――その悉くを回避される。

 虚と実が入り混じった高速の連撃は、大騎士たるに相応しき技の冴えだ。少女の齢にして既に達人の域。

 にも拘らず、少年は背の長刀を抜くでもなく、己が体捌きだけで応じて見せた。敵の見切の業はもはや神懸っているとしか思えない。だが―――

 ―――その神業を観てなおリリアナは会心の笑みを浮かべる。

 この状況こそリリアナの狙いなのだと、少年は気付くまい。たとえそれが解ったところで最早遅すぎる。

 リリアナが起こす太刀風に乗って、『匠』の名を持つ刃金がその真価を発揮する。

 ―――きぃぃん

 血で血を洗う争乱の場に、似つかわしくない玄妙な音が響いた。

 本職の音楽家すら恍惚とさせるであろう、妙なる調べ。その源泉が薙刀を振るうことで生じた刃風だと、彼らが知れば驚愕のあまり顎が落ちるだろう。だが、無論ただの美しいだけの調べなどであろう筈がない。

 その正体は、指揮者(イル・マエストロ)に秘められし力――『魔曲』。

 その玄妙な旋律は、ただ美しいだけでなく、聴く者の心を乱す妖しき曲と化す。さらに曲調を変えれば、呪力を減衰させる魔曲、体力を奪う魔曲など、怪異なる曲目が多岐に渡って揃っている。

 リリアナはそれらを惜しげもなく披露する。

 ―――今この場は妖しき指揮者が率いる演奏会と化していた。

 敵の精神を恍惚という牢獄に放り込み、処刑人の如く首を刈り取る。なんと美しくも残酷な力か! 薙刀が振るわれる度に、魔曲が少年に牙を剥いているのだ。

 リリアナは少年が魔曲の虜になっていることを疑わない。

 如何なる大剣士、大魔術師であろうとも逃れる術はない。練達者ならば抵抗も出来るだろうが、一時は必ず効果を及ぼす。

 そして、その一時さえあればリリアナには充分であった。薙刀を横に振るう。刃を返した峰打ち。獲物は違えど、初撃の再演である。だが、必勝の度合いはそれ以上。

 故に―――

 

 

「―――無駄です。その調べ、僕には効きません」

 

 

「!?」

 それを躱された衝撃もそれ以上であった。

 リリアナは心中で言葉にならない悲鳴を上げた。

 少年は先と同じくすっと後退しただけ。その自然な体捌きは魔曲の呪力の影響を受けているようには見受けられなかった。

 だが、それはあり得ないのだ。抗魔術の呪文を唱えた様子も、護符を使用した形跡もない。にも拘わらず、魔曲の効果を無に帰すとはいったい……

 ―――唐突に、恐るべき考えがリリアナの内に滑り落ちてきた。

(まさか……そんな……)

 ―――在る。如何なる魔術も受け付けない埒外の存在が。これなら全て説明が付く。

 魔術も護符も用いずに、魔曲を無力化する方法も。

 リリアナ級の剣士の攻撃を無手で軽々と躱す理由も。

 少なくとも、イタリアの魔術結社が盟主と奉じるあの方ならば、これと同程度のことなど笑いながらやってのけるだろう。

 だが、あり得るのか? 目の前の少年が『八人目』などという可能性が!

 ここは冷静に検討してみるべきだ。

 カンピオーネであるか否かを疑うべき要素は三つ。

 一、魔曲の呪力は大魔術師であろうとも容易には防げない。

 異国の呪術体系の中には幻惑の調べを封じる手段がある可能性は、あり得ないともいいきれない。

 だが、少年がカンピオーネであるならば、魔曲が効かないのも道理である。

 彼らは体内にあらゆる魔術師を凌駕する呪力を宿すが故に、ほぼすべての魔術に対して絶対的な耐性を誇る。

 二、リリアナ・クラニチャールは天才剣士である。

 事実である。されど、最強の剣士にはほど遠い。欧州にはリリアナが到底及ぶべくもない大剣士が数人居る。

 とはいえ、同世代でリリアナに比肩する剣士はただ一人。七人目のカンピオーネの愛人になったと噂されるエリカ・ブランデッリのみである。

 と言っても、リリアナたちが同世代で最強かといえばそれも違う。中華には更に凄腕の天才少年がいると聴く。

 ならば、この少年が日本のただの天才剣士である可能性も否定できない。

 だが、少年がカンピオーネであるならば、リリアナが彼に及ばないのも当然だ。

 一振りの剣で神々を打倒した、天才を超える鬼才の持ち主ならば、ただの天才に過ぎないリリアナに勝てる道理がない。

 三、異国の地で故郷の民族衣装を着込んで大都市を徘徊する人物。

 これは深く考えるまでもないだろう。変人はどこにでもいるものだ。

 だが、少年がカンピオーネであるならば、……当然である。彼らの多くは、奇行が目立つ性格をしているのだから。

 考えれば考えるほど疑惑は確信に変わる。該当するのがどれか一つだけなら兎も角、すべてとなると否定する方が難しい。

 或いは、少年は本当に『八人目』なのかもしれない。

「だが、それでもッ!」

 同世代の人間を相手に一太刀も浴びせられないどころか、剣すら抜かせられないのではあまりに情けない。

 この際、相手がカンピオーネであるかどうかは問題ではない。剣士としての意地の問題である。

(せめて一太刀なりともくれてやる……!)

 リリアナはそう意気込むや、鋭気が全身を満たし、更なる攻勢を仕掛ける。

「はああああ……!」

 裂帛の気合のもと、踏み込む速度はかつてなく迅く、頭部をかち割るべく振り下ろされた薙刀の一撃は雷光に等しい。

 にも拘らず、相手はあっさり躱してのける。少年の漆黒の瞳は無意味な攻撃を続けるリリアナに対しての嘲弄の念はなく、これからどうするするべきか解らない困惑に揺れていた。

 相変わらず、闘気も無ければ殺気も無い。リリアナとの技量の差を思えば、すでに決着がついて当然のはずだ。

 どうしてそれをしないのか。理由など解らない。知る必要も感じない。はっきりと解るのは、それは少年が見せている唯一の隙であるという一点のみ。

(ならば、それを突かせてもらう!)

 激烈な闘気の迸りと共に、リリアナは手首を返した。瞬間、くるりと刃が翻るや逆袈裟斬りへと形を変えて襲いにかかる。

 先の一撃が雷速ならば、こちらは神速に達していよう。

 それもそのはず、先の一撃は誘いであった。敢えて躱されるように意図したものだ。だがこれだけならば相手は今までのように対応してのけただろう。

 だからこそ、必勝を期した第二撃は相手の意表を突くほど、必殺の速度でなければならない。

 故に―――神速。この瞬間のみにおいて、リリアナは天才を超えた鬼才、入神の域に足を踏み入れた!

 これを見た少年の顔付きが、にわかに真剣身を帯びる。かっと目を見開くと同時に、銀光が奔った。背中から抜き放たれた剣閃が雷光すら置き去りにせんばかりの速さで打ち落とされる。

 瞬間、腕に骨髄に染み渡るほどの衝撃が走った。

 そうと気付いたときには、敵の長刀によって薙刀がリリアナの手から叩き出されていた。薙刀が地面に落下するより前に、少年は素早く距離を詰める。

 止めを刺す気か――リリアナはそう思ったが、不思議と恐怖を感じなかった。

 このまま無力感を与えられて弄られ続けるよりは、一矢報いて手打ちにされた方が、ずっとマシに思われたからだ。

「がはッ」

 腹部に激震。抗いきれずリリアナは後ろに吹き飛んだ。五臓六腑が軋みを上げる強烈な痛撃だが、予想した灼熱感が伴った痛みではなかった。

 地面に倒れ付して、体内で荒れ狂う激痛に耐えながら、どういうことか、と強引に目をこじ開けて敵を睨み据えた。

 そして、理解した。この身は敵の凶刃に斬られたのではなく、その柄頭によって殴りつけられたのだと。

「見事な腕前です。特に最後の一太刀にはひやりとさせられました。そのおかげで手が出てしまったわけですが……後で、アレに何を言われることか……」

 そう言いながら、少年は悠然とリリアナを見下ろす。

 何かを言い返そうにも、痛みのあまりに声も出ない。その代わりに、リリアナは取り落とした自分の得物を探して、暗澹とした。薙刀は少年のちょうど足元にあったのだ。

 取り返すのは不可能だ。召喚の術を使えば一瞬だが、その時間を少年が与えてくるかどうか。それに今は、痛みのせいでその術すら使える自信がない。

 状況の改善のために必死に頭を巡らす。

「安心してください。これ以上危害は加えるつもりはありません。ただ、先刻までの事を忘れてもらうだけです」

 そう言うや、その双眸が、妖しく輝く。呪力が少年の眼に収束する。

 間違いなく何らかの魔術を行使しようとしている。そして、口結を唱えずして、視覚に呪力を集めるのならば、リリアナの知る限りその術は一つ。

(魔眼……!?)

 西洋においては、魔眼、邪視とも称されるそれは、東洋では瞳術と呼ばれる。言葉の表し方は違えどもその術理は共通している。

 つまりは、視覚を介した魔術であるということだ。呪文の詠唱などの複雑な工程を経ることなく、ただ視るだけで術を行使する。

 神々ともなれば、その視線だけで静謐極まる石塊の世界に変える事も出来る。あるいは、世界を塩の柱へと変える地獄の如き光景も創り出せる。

 それらは、如何なる大魔術師とて為しえる業ではなく、人が到達し得る領域の話ではない。だが、人でありながら神の領域に踏み込んだカンピオーネならば可能である。

 だが、幸いにして少年の行使する力は、権能ではないようだ。流石に間近で権能を使われればそうと解る。そして、魔術であればその目的はすでに相手は明らかにしていた。

 ――先刻までの事を忘れてもらうだけです

 その言葉を信じるならば、記憶操作か、あるいは記憶消去を試みる積もりなのだろう。無論、その記憶とはリリアナが少年と接触した間の事を言っているのは明らかだ。

 前者なら容易である。特定の記憶を思い出さないように暗示をかければいいだけ。魔術としては初歩の術に相当する。

 後者の記憶消去は、精神の深い領域に干渉する術であるため、単純な工程の術しか扱えない魔眼では為しえないはずだが。

 たとえどちらの術理であったとしても、傷つき倒れ伏した今のリリアナに対抗する方法は一つしかない。最も簡単な抗魔術。体内の呪力を高めて抵抗するのだ!

「ぐ……、う……」

 途端、激しい頭痛が襲った。頭の中身を掻き乱されたような腹部の痛みよりも酷い激痛だった。頭部に侵入した敵の呪力に自分の呪力で抗ったためだ。

「抵抗は無意味です。ただ痛みが続くだけですよ」

 少年の優しさを湛えた声に、より一層奮起してリリアナは精一杯に抗う。リリアナにはもうそれ以外に出来ることがなかった。

 抵抗を止めてしまったら本当にただの負け犬でしかなくなる。これが最後の抵抗だとばかりに、痛み無視して必死に抗い続けた。

 すると少年はリリアナとの戦闘中には見せたこともない焦りの表情を見せた。よほどリリアナの徹底抗戦が意表をついたらしい。

なんだかそれはこの戦いでリリアナが挙げた唯一の戦果のような気がした。あまりに小さすぎる勝利。

(ザマアミロ・・・・・・)

 その結果に多少の溜飲を下げて、普段は決して口にしない言葉を胸中で吐き、リリアナの意識は砕けた。

 


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