神殺しの刃   作:musa

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十話  後悔

 円柱闘技場の程近くに聳え立つ小山、その頂にひとりの男の姿があった。

 英国の魔王―――アレクサンドル・ガスコインである。

 黒王子は遮蔽物が何もない見通しがいいこの位置で、赤い決闘場を窺っていた。近いと言ってもまだそれなりに距離があるものの、魔術で視力を強化しているアレクにとって見通すのはさして難はなかった。とはいえ、赤い輝きに阻まれて場内の様子を見ることは叶わなかったが。

 だからと言って、黒王子の基本戦略に変更はない。

 アレクが知る由もないことであるが、神無月佐久耶が看破したように彼の方針とは、あの決闘場から意気揚々と出てくるであろう勝利者と、アレクが迷宮の権能で捕縛している『まつろわぬ神』とを噛みあわせることにある。

 上手く噛みあうかどうかは運次第であるが、別段そうならなかったとしても構わない。重要なのは核爆弾みたいな連中が、アレクと何の関係もない土地で爆発してくれさえすればいいのである。

 その後のことは黒王子の知った話ではない。

 そして、都合よくお互いに喰らい合ってくれるのなら、後は生き残った方を対処すればすむ話だ。あるいは、幸運が味方をすれば荒事にならないまま片付くかも知れない。

 これが真の文明人の戦いというものだ。何が面白くて斬るだの殴るだのといった野蛮な戦いを好んでやる必要がある? 

 戦いは少し頭を使うだけでかくもスマートに終わらせることが出来るのである。だと言うのにあの野蛮人どもはそのことがまったく理解できないのだ。

 アレクはあんな大袈裟な決闘場を造ってまでチャンバラごっこに興じる連中の気がしれなかった。

「―――相変わらず、大魔王の癖に小利口なことを考える人ですね!」

 そんな呆れたような声がアレクの真横から聴こえてきた。黒王子が目をやるとそこにふっとひとりの女性が現れた。

「フン、出歯亀女め。やはり来たか」

 女性―――プリンセス・アリスはそんな失礼極まる言動をあっさりと無視し、にっこりと微笑んで、

「まったく、あなたときたら、災厄をまき散らすことに関しては行動的なくせに、どうして災厄を刈り取ることに関しては非行動的なのでしょうね! 本来カンピオーネの役割はそこでしょうに」

 毒舌をまき散らした。

「それは貴様ら魔術師どもが勝手に決めた役割だろうが! 俺は一度もそんなものに同意した覚えはない!」

 とはいえ、隣の巫女姫に中途半端な正義感の持ち主と酷評されるように、流石のアレクも目の届く範囲で神々に暴れ回られては、無関心ではいられない。

 だからこそ、隣国まで文字通りに跳んできたのだが、そこに自分の同類がいたのなら、話が変わってくるのは当然の成り行きというものだろう。

 あの同類は見る限り、イタリアの剣術馬鹿や中華の怪力女の同類だ。ならば、『まつろわぬ神』を二柱ほど噛み合せ(プレゼント)したところで、喜ばれこそすれ非難などされまい。ましてや、内一柱は迷宮(包装紙)に包んだ上で、後日解放(はいそう)の準備までこちらが整えてやるのだ。至れり尽くせりとはこのことを言うのである。

 アレクはあらためて己の作戦に満足しつつ、ふと隣が静かなのに気が付いた。あの喧しい姫君にしては大人しくなるのが早すぎる。文句が後十や二十はあってもおかしくはない筈なのだが。

「……アレクサンドル。どうやら決着が付いたようです」

 赤い結界を厳しい眼差しで見据えながら、白き巫女姫は低い声で呟いた。アレクもすっと目を細めて、結界を見る。

 すると、地球に突き刺さったかのような超巨大石柱型結界。それを構成する無数の文字列が飛沫の如く四散した。赤い粒子を残して消えていく結界。

 巨大な構造物が一瞬で消失するさまは確かに異様であったが、その内から現れたモノはそれに輪をかけて異常だった。

 巨大な真紅の獣。それが天に向かって咆哮するかのように背をのけ反らせて立ち尽くしていた。

「あれは何だ? ……狼か?」

 常人には魁偉極まる光景でも、カンピオーネたる黒王子には日常の景色だ。アレクはさして驚いた風もなく、瞳を輝かせて食い入るように見る。

 果たしてクー・フリンの伝説で狼に変身するような逸話があっただろうか?

「いいえ、狼ではなく、冥界に住まう獣……『狗』でしょう。憤怒と狂気を孕んだ『狂奔』の気配を感じます。おそらくアレは……」

「ああ、ピンチになると何処からともなく力が湧いてきて、敵を皆殺しにするという逸話の再現か」

 アリスの発言を乗っ取りアレクはそう宣った。

「……身も蓋もない上に、神秘性がまったく感じ取れない説明ですけれど、概ねその通りでしょうね。となれば」

「ああ、決まりだ。勝者はクー・フリンだな」

 そう言って、アレクは目を凝らす。そして見咎めた。赤い巨犬の顎に喰いつかれた人影の姿を。

 彫像のように静止していた赤い巨犬は、ようやく己が生物であることを思い出したのか、頭を軽く振るい、ぺっと唾を吐き出すように歯に挟まったモノを吐き捨てた。

 墜ちていく全身を紅に染まった人影。あの高さから墜落しては唯ではすむまいが、アレはもはやそんなことを気にする必要はあるまい。アレクの同類だったモノは既に事切れている。

「……やはり、最も若いカンピオーネの方では、まつろわぬクー・フリン相手では厳しかったようですね」

 アリスが沈痛な面持ちで呟く。

「そのようだな。流石はアルスター神群最強の戦士といったところか。……だが見てみろ。奴は相当善戦したみたいだぞ」

 アレクの視界は真紅の獣の巨体が徐々に萎んでいき、やがて美貌の青年の姿を象るさまを映していた。

 純白のマントを風に靡かせて、泰然と佇む男―――クー・フリンに疲弊の色は見受けられない。だが、アレクはクー・フリンの呪力は枯渇寸前だと見切った。

 あれではせいぜい生命維持が限界で、戦闘能力など残っていまい。先程の強壮な獣の姿が嘘のように脆弱な有様であった。これではあらたな挑戦者が乱入して来ようものなら、一溜りもないであろう。

 だからといって、アレクが捕虜を拘留し続けても意味はない。自分で処置する気がない以上、解き放つしかないのだ。どうせ放置していても、向こうは自力で脱獄してしまうのである。使い時は今しかない。

 起動中の迷宮の権能に働きかけようとした、そのとき―――ふと大地に横臥した骸が目に留まった。

「……」

 途端、アレクに罪悪感めいた感情が沸き起こる。

(罪悪感だと……)

 アレクは自らの心を分析する。果たしてあの少年の死に自分の責任があっただろうか?

 ―――いや、ない。

 あの少年が戦死する羽目に陥ったのは、ただ彼の武運が拙かったからに過ぎない。そこにアレクサンドル・ガスコインが責任を負うべき理由などない。

 そもそもあの少年のようなタイプに共闘を持ちかけたところで、鼻で嗤われるか、斬りかかられるかのどちらかであったろう。最初からやるだけだけ無駄であることは明白だ。

 あの連中と健全に付き合うには適度な距離感を保っていた方が上手くいく。と言うよりは、出来る限り距離を置いて付き合う方がいいというべきか。

 自身の行動を分析してみたところ、自分に不手際がないことはあらためて確認する。

 このあたりが隣の姫君に、中途半端な正義感と揶揄される所以なのだが、アレクは気づいた風もなく己が権能を行使せんと精神を集中させ、

「アレクサンドル、待って下さい。……どうやらまだ終わっていないかもしれません」

 ―――ようとして、プリンセス・アリスに止められた。

「なに?」

 黒王子はもう一度戦場を注視して、そこに驚くべき光景に大きく目を見開いた。

 ……なるほど、確かにまだ終わってはいないらしい。

 

 

               ×          ×

 

 

 自分の責任だ。横臥する王の亡骸を見詰めながら、地に伏してわなわなと肩を震わせて、リリアナ・クラニチャールは悔恨に臍噛んだ。

 自分が足手まといにならなければ、神無月宗一郎は死ななかった筈である。カンピオーネを―――『まつろわぬ神』に唯一対抗できる人類の救世主を死なせてしまったのだ!

 そもそもどうしてリリアナ・クラニチャールなどが神と魔王の戦いに介入出来るなどと思い上がったのか。

『まつろわぬ神』相手に自分では力不足であると先のカラティンの妖女との戦いで思い知らされたではないか。ならばなぜ? そう、確かあれは「彼女」に言われて……

「……解せんな。確かに仕留めた筈だが、なぜかそんな気がしねえ」

 リリアナが懊悩していると、唐突に声が彼女の鼓膜を刺激した。顔を向けるとそこにはいつの間にか人間形態に戻っているクー・フリンの姿があった。

 敵を滅ぼしたことによって自動で変身が解けたのだろう。確かそんな伝承があった筈だ。

 リリアナが無事だったのは「敵」の設定をまだ正気であったクー・フリンが定めていたからに違いない。神として正常な精神性を有していたなら、人間如きを敵とは定めまい。

「しかし、『分かれた枝の浅瀬(アトゴウラ)』が消えている以上、間違いなく仕留めた筈だが……まあ、いい。細かいことは後だ。今は約束通り神殺しの首級―――頂くとするか」

 そう言うとクー・フリンは指先を閃かせ、一振りの長剣を呼び出し、悠然と歩を進める。

「な……っ!?」

 英雄神ともあろう者が、まさか死体を辱めるつもりなのか! だが思い返せば、古代ケルト人には首狩りの風習があったではないか。

 古代人は人間の頭部には人の心である強さ、意志、精神などの“生の躍動”が宿っていると考えていた。敵を殺してその雄々しい力と精神を己の内に取り込むことで、さらに強靭な戦士に至れると信じてきたのだ。

 つまり、古代の戦士にとって首狩りは戦士としてより高みに至らんとする神聖な儀式なのである。

 とはいえ、古代人にとって首狩りが聖なる行いであったとしても、現代人であるリリアナからすれば赦し難い蛮行だ。

 自分は神無月宗一郎の生命を守れなかった。だが人間の尊厳だけは守ってみせる!

 五体に喝を入れて、リリアナは跳ね起きる。イル・マエストロを召喚し、青い衣を翻し、カンピオーネの亡骸とクー・フリンの間に割って入った。

「……おい、お嬢ちゃん、何のつもりだ? 返答次第では只ではすまさんぞ!」

 クー・フリンは目を細めて、殺気を孕んだ低い声で問いかける。

「……っ!」

 英雄神の威圧に心胆が凍り付く。

 クー・フリンの怒りは当然だ。アルスターの戦士にとって神聖な儀式を邪魔としているのだから。だからと言って、リリアナにも引けぬ理由がある。

「……」

 騎士は無言でサーベルを構える。

 これが、どんな諫言、説得より効果があると判断したが故に。言葉ではなく武力で以って阻んで退ける。

 リリアナの目から見てもクー・フリンは、フェニックス公園で遭遇した時とは比べ物にならないほど疲弊していることが解る。だがそれでも、依然リリアナを滅ぼすには充分すぎる力は有している。

 ―――戦えば勝てない。

 たとえどんな状況であろうともリリアナ・クラニチャールに神を打倒する器量はない。

 それを理解してなお、青き騎士に退く意志はない。

「……それが貴様の答えか。女伊達らに見上げた奴―――よかろう、ならば、一撃で貴様の主の下に送ってや…………な……何――――!?」

 クー・フリンは凝然とリリアナを注視する。―――いや、違う。その虹色の眼差しはリリアナを超えて背後のある一点に収束していた。

「!!」

 そのことに気付いたリリアナは敵と正面で向き合いながら、思わず背後を振り返ってしまう。

 そこには驚くべき光景が拡がっていた。

 なんと神無月宗一郎の亡骸がずぶりと大地に沈むように呑み込まれていくではないか! 大地は貪欲に啜り上げるように、若き神殺しの体を吸い込んでしまった。

 リリアナはこの怪現象に見覚えがあったが、魔女の直感が“彼”ではないことを告げていた。同じ大地に属する神力のようだが、別の神話群の神から簒奪した権能だろう。おそらく行使したのは……

「わっははははは! そうか、そういう事か! 冥界に渡ることで死の災厄より護身する不死の加護。それが貴様の切り札か、神殺し!

 確かにオレと言えど、冥界に逃げられては手も足もだせん。ク―――見事だ!」

 そう言ってさらに豪快に笑うとクー・フリンはあらためて対峙するリリアナと向き直る。

「おい、お嬢ちゃん。神殺しが復活するにはまだしばらく時間がかかるだろう。オレもその間に休ませてもらうとしよう。……そうさな、今日の日が沈む夕暮れ時、もう一度ここで再戦と洒落込もうや。奴にそれを伝えてくれ。じゃあ、頼んだぜ」

 あっけらかんと、さっきまで殺害しようとしていた人間(リリアナ)に伝言を託すと、クー・フリンは地を蹴って跳び上がり、大空の中へと消えていった。

 後に残るのは、決死の覚悟で神に挑まんとし、肩すかしを喰らって呆然とするリリアナのみ。

 ―――いや、あとひとり、いた。

「どうやら、無事、終わったようですね」

 声と共に騎士の傍らに現れたのは神無月佐久耶の幽体である。はっと振り向いたリリアナは双眸に憤怒の灯を込めて、巫女を睨み付ける。

「無事終わっただとっ。あなたは神無月宗一郎がこうなることを知っていた筈だ! だと言うのに、なぜわたしを援軍に行かせたのだ!」

 そう、神無月宗一郎が不死に権能を有していたのなら、リリアナの援軍など何の意味もない。独力で切り抜けられたはずである。

 リリアナの激昂にもどこ吹く風の佐久耶は、ゆったりと漆黒の眼差しを猛る騎士に向ける。

「先に申し上げたとおり、兄はときより羅刹の君らしからぬ奇行を仕出かすことがあります。その中でも極め付けなのが、簒奪した権能の使用を躊躇することです。それも余程追い詰められなければ出し渋ると言う有様。

 特に第二の権能は兄のお気に召さなかったようで、必要になった状況で使用してくれるのだろうかと常々心配しておりました」

「……その話とわたしの件がどう関わりがあるのか解らないが、少なくともその心配は杞憂だったようだな。彼は立派に難局を乗り越えられたではないか」

 口角を吊り上げてリリアナらしからぬ皮肉気な口調で言った。

「はい。これもリリアナさまのお蔭です。誠にありがとうございました」

 そう言って神無月家の巫女は深々と頭を下げた。

「……どういう意味だ?」

 不吉な予感に身を固くするリリアナ。佐久耶はゆっくりと頭を上げ、穏やかな木漏れ日のような微笑を浮かべて、

「それは勿論―――リリアナさまが足手纏いになって頂けたからですよ」

 そう言い放った。

「!!」

 その言葉は刃となって防御したはずのリリアナの心を抉り取る。あまりの屈辱に全身を震わせる。

 つまるところ、神無月佐久耶がリリアナを必要としたのは、彼女の騎士の技でもなく、魔女の能でもなかったのである。騎士の使命感に理解を示してくれたわけでもない。ただカンピオーネの足を引っ張るひとりの無能者(どうけ)を欲していただけだった。

 能力を使いあぐねる兄に踏ん切りをつかせるためだけに。

「兄はあれでも女性には甘い性格をしています。リリアナさまが危急に陥ったならば必ずや身を挺して庇うだろうと思っていました。男子にとって女性を庇い命落とすのは名誉なこと。ですが神殺しの戦士にとっては不名誉の極み。となればやむを得ず使用に踏み切るだろうと確信していました」

「だとしても神無月宗一郎は神殺しを成し遂げた方だろう! こんな回りくどいことなどしなくとも、最後にはなりふり構わずに勝利の道を選んだはずだ!」

「ええ、そうかもしれません。ですからまあ、リリアナさまの存在はあくまで念のための保険……みたいなものでした」

 巫女のあっさりと語るその言葉がリリアナのなけなしの誇りを木端微塵に粉砕した。

「………………」

 憤怒の怒号も、抗議の言葉も出てこない。

 リリアナは肩を落とし、悄然と項垂れた。なんと滑稽な話か。世の秩序を守護するためカンピオーネの剣たらんと望んだものの、そもそも相手はそんなことなど求めてはいなかったのだ。ただリリアナひとり意気込んでいただけ。まさに道化である。

 ……帰ろう。ここに騎士の居場所はない。

 踵を返し、背を向けたそのとき、

「どちらに行かれるおつもりですか?」

 雌狐の声が聴こえたが、リリアナは無視し、歩き出す。

「そうですか。お逃げになられるおつもりなのですね。騎士さまともあろうお方がなんとも情けない」

 聴くな、無視しろ、そう解っているにも拘らず、侮辱に耐えらずにリリアナは足を止めてしまった。

「……よくも抜けぬけと、この期に及んでまだわたしに何の用があるのだ? また必要もない道化を演じろとっ?」

 そんなことは御免だ、とリリアナは振り返ることなく吐き捨てた。

「しかし、リリアナさま。このままお国に帰られたとして、その後どうなるかなどきちんとお考えになられましたか?」

 リリアナの感情などまったく考慮せずに、佐久耶は言葉を紡ぐ。

「……なんのことだ?」

 ついに我慢できずに体を巫女の方に向けてしまうリリアナ。またもや不吉な予感に迫られて背筋を凍らせる。

「そうですね、このままではこの戦いの後、神無月家がリリアナさまのお家であるクラニチャール家に抗議文などを送らせてもらう事になるかもしれません」

「な……っ!?」

 リリアナの驚愕は当然だ。カンピオーネを擁した魔術組織の抗議文がただの定例通りの苦情(クレーム)であるはずがない。恫喝を孕んだ事実上の宣誓布告に他ならない。

「あ、あなたはわたしを脅迫するつもりか!」

 もしそんな物が送り付けられようものなら、クラニチャール家は激震に見舞わられるに違いない。

 おそらくクラニチャール家当主である祖父は顔を青褪め、ついで頬を紅潮させて、リリアナを激しく叱責するだろう。―――いや、それだけではすむまい。最悪リリアナはクラニチャール家から放逐されかねない。

 クラニチャール家は東欧の魔王と縁を築いてあるものの、完全に信頼に足るほどではない。そんな情勢下では祖父はまかり間違ってもカンピオーネの不興など買いたくはあるまい。そのために孫娘とはいえ、組織のために切り捨てる可能性は充分にあった。

「脅迫? ふふっ、人聞きの悪いことを仰らないでください。それにわたくしどもが何もしなくとも、やはりリリアナさまは困ったお立場に追い込まれるのですから」

 今度は何だ? まだ何かあるのか? あまりに混乱が激しく上手く考えが纏まらない。心臓は狂ったように血液を吐き出している。そんな中、雌狐の言葉だけが明瞭に頭の中に響いてくるのが腹立たしい。いっそこのまま完全に混乱状態になりたかった。

「分かりませんか? リリアナさまが羅刹の君である兄さまと共闘して、まつろわぬクー・フリンと戦われたのは動かし難い事実。この事はこの地の呪術組織はもとより隣国にまで伝わっているでしょう。

 ならば、当然わが身可愛さに任務を放棄した、敵前逃亡の不名誉な出来事もまた瞬く間に世界中にまで響き渡りましょう」

「あ…………」

 リリアナは慄然として手足が竦む。胃がぎゅと縮み、足元が消失したような浮遊感に襲われる。

 もしそんな事態になれば、リリアナは破滅だ。≪青銅黒十字≫の信用も失墜するだろう。そうなれば、やはり祖父は自分を切り捨てざるを得まい。

「あなたは何処まで……」

 卑劣なのだ、という語尾をリリアナは口内で飲み込んだ。

 そんな非難に何の意味もない。リリアナ自らがこの戦いに足を踏み入れた時点でリリアナに逃げ道など何処にも残されていなかったのだ。つまりは、自業自得。

 神と魔王の戦いがどんな形で決着が付くことになったとしても、リリアナは両の足で大地を踏みしめて、両の眼で事の顛末をしっかりと見届けなければならないのである。

「くっ……。だとしても今さらわたしに何が出来ると言うのだ?」

 それは逃れられない現実を前にした青い騎士の最後の足掻きだ。

 事実、リリアナに神と対抗する手段は少ない。その唯一の呪文もクー・フリンと相性が悪すぎる。リリアナでは一秒の隙すら作ることも叶うまい。

「もちろん、ありますとも。リリアナさまにしか出来ないお役目が……」

 だと言うのに、神無月佐久耶はそう簡単に言ってのける。

 信用できぬとばかりに胡乱げに睨み付けるリリアナ。それに笑みを受けべて、佐久耶はある「作戦」を伝える。

 聴くにつれ、リリアナの相貌がにわかに真剣味を帯び始め、それから、なぜか顔を真っ赤にして怒号を迸らせた。

 

 

               ×          ×

 

 

 それから六時間後。

 大地から黄金色の穀物―――『大麦』がまるで季節を、時間を早送りしたかのように、急速に伸び生えてくる。

 刈り入れ時の秋の季節まで成熟するや否や、ぱっと虚空に溶けるように消え失せた。すると、大麦と入れ替わるように、染みひとつない白地の衣を纏った少年が眠っているように横たわった姿勢で現れ出でた。 

 


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