神殺しの刃   作:musa

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九話  紅い死

 全身に叩き付けられる風圧の揺さ振りで、神無月宗一郎は目を醒ました。どうやら気絶していたらしい。

 変身態は解除されて、人間体に戻っている。重力に引っ張られるような落下感で自分が相当な高度から落ち続けていることが解った。

 しかし、宗一郎はその事実に疑問はない。

 天上で舞う敵を射止めるために、己もまた天を突き進む道を選んだのだ。目的を完遂した以上、墜落するのは自明の理。宗一郎の脳内に記されている行動予定表には、そのことが事前に書き込まれていた。

 だから、宗一郎は慌てることなく瞳を閉じて引力に身を任せた。くるくると舞い落ちる若き神殺し。

 とにかく眠かった。全能力を駆使した反動で体が悲鳴を上げている。ここがどんな劣悪な休息環境だろうと、休んでいたかった。だがそんな小さな望みさえも、自分には贅沢であったらしい。

 疲労もさることながら、宗一郎は絶えず襲ってくる激痛に苦しんでいた。若き神殺しの体には傷ひとつない。にも拘らず、幻痛のような痛みが体を苛んでいた。

 精神にまで打撃を与える呪いの傷である。本来なら浄化の権能で焼き祓ってしまえばいいのだが、今はそれが出来ない。

 『慈悲の焔』は一度発動してしまうと、半日ほど権能が使用不可能になってしまうのだ。まさに一度限りの切り札であった。

 幸い創傷が増殖する様子はない。槍の操法次第で顕れる能力には、差異が出てくるのだろう。痛みだけなら、耐えさえすれば魔王の肉体が治癒してくれる。

 そうしている間にも、体はぐんぐんと地面へと引っ張られていた。

 宗一郎は魔女たちとは違い、宙を飛ぶことは出来ない。だが自由落下を制御するくらいなら可能だ。そのレベルの慣性制御術式なら高度数千メートルからの墜落中でもしくじることはない。

 だがそれも、この上空に敵がいなかったらの話である。

 宗一郎はクー・フリンを仕留めきれてないと感じていた。何より目蓋を閉じてなお、脳裏に焼き付く赤く輝く光が健在なのがその証明だ。そう、あの結界はいまだ解けてはいないのだ。

 周囲に敵影は見当たらないものの、のろのろと飛んでいては、クー・フリンのいい的になりかねない。

「つばくらめ飛ぶかと見れば消え去りて空あをあをとはるかなるかな」

 故に宗一郎は目を見開いて呪を紡ぐ。自由落下を減速させるのではなく、むしろ加速させた。

 天空はクー・フリンの領域である。一刻も早く大地へと帰還しなければならない。

 宗一郎は落下速度がぐんと上がったのを体感したあと、もう一度目を瞑る。今度は休息のためではない。僅かとはいえ、気を抜いたのが功を奏したのか、徐々に痛みが引いている。

 だから、宗一郎が瞳を閉じたのは、粘性を帯びて質量を感じさせる大気に閉口したからだ。数千メートルの高度をこれ程の速度で垂直降下するのは、神殺しであっても難儀であるらしい。

 それに休んでいる暇などない。感覚により後十秒ほどで地上に到達することが解る。油断は、そく墜落死を招く。流石にこのスピードで地面に激突すれば、魔王の肉体とはいえ即死だろう。おそらくは……

 どちらにしても、試してみる気はない。そうこうするうちに、地上がものすごい速さで近づいてきた。にも拘らず、宗一郎は瞳を閉じ、錐揉みしながら頭から地面に突っ込んでいく!

 地面に激突する寸前、宗一郎はかッと目を見開き、

三山神三魂(さんさんじんさんこん)を守り通して、山精参軍狗賓(さんせいさんぐんぐひん)去る――――」

 呪文を詠唱した。

 宗一郎が地面と頭から熱い抱擁(ダイブ)する直前、全身がふわりとした浮遊感に包まれ、体がゆっくりと回転すると、彼は両足で地面に着地した。

 完全に物理法則を逸脱した、あり得ない動き。まるで地上そのものが彼を拒絶したかのようだ。

 宗一郎が唱えた呪文は、山での災難を避ける陰陽術である。その術式を独自に変更(アレンジ)させて、「落下」により重点を置いて書き換えることによって、高度数千メートルからの「墜落」という災難を免れ得たのである。

 宗一郎はふと周りを見渡すと、森の広場は凄惨な様相を呈していた。

 草地は焼き払われ、禿げ出た地面は焼け焦げて黒ずみ、紅い雷撃の暴行を喰らってあちこちデコボコに凹んでいた。小川に流れていた湧き水は蒸発し干上がり、露出した岩はこちらも稲妻の洗礼を受けて粉々に砕け散っていた。

 探検家の憩いの場は神と魔王の激突に巻き込まれ、無残なまでに破戒し尽されてしまっていた。

とはいえ、自然環境保護精神が皆無の宗一郎は、顔色一つ変えることはない。彼の関心事はただひとつのみ。

 宗一郎は気配を感じて、顔を上向ける。すると宙より舞い降りてくる魔槍の英雄の姿を見出した。だが、彼の英雄神の手には、真紅の大盾はもとより、彼の象徴ともいうべき魔槍すらも、手の中には存在していなかった。

「ハーッハハハハ! よくもヤッてくれたな、神殺し! 貴様との戦いはチョットした八つ当たりのつもりだったが、ここまで愉しめるとは思わなかったぞ!」

 危な気なく地に降り立って、クー・フリンは莞爾と笑う。

 ぱっと見たところ、クー・フリンは以前と変わっていない。派手な服装に乱れはなく、豪奢な装身具には煤ひとつとて付いていない。異常な点は、常に携えていた赤槍がないことのみである。それ以外はまったくの無傷に見えた。

 だが、そんなことはあり得ない。

 紅き雷霆との鬩ぎ合いで幾分威力が削がれたとはいえ、慈悲の焔は確実にクー・フリンをミディアムどころか黒焦げにしていても不思議はない。

 事実、宗一郎はクー・フリンの姿は見せ掛けに過ぎないことを看破していた。英雄神の呪力量は明らかに衰えがみられた。

 アレは見栄えを整えただけの、中身が伴っていない伽藍堂に過ぎない。あの状態を維持するだけで、クー・フリンは死にかけている。

 あれなら外見など二の次にして、ボロボロの状態であったとしても、呪力の恢復を優先させた方が戦術的に理に叶っているだろう。

 だが宗一郎はそれを愚かな行為であると笑いはしない。むしろ当然と受け取った。

 武人は美しく華麗に、そして壮絶に散ってこそ、余人の記憶に残るのである。無様な悪足掻きなどするべきではない。宗一郎は英雄神の行動を自ら死に逝く様を魅せるために、身支度を整えたのだと解釈した。

 そう考えるのは当然だった。もはやクー・フリンには戦う力は残されていない。

 あれ程の威力を解き放ったのである。間違いなく『魔槍』の権能はしばらく行使できないだろう。『神速』と『隠蔽』の戦車は、御者もろ共完全に消滅した。呪力が枯渇寸前では、碌に魔術も唱えられまい。

 対して、宗一郎は唯一の攻撃用の権能である浄化の神力こそ失ったものの、長刀はいまだ彼の手の中にある。宗一郎は自らの愛刀を眺め、刀身が周囲の結界が放つ光を反射して、赤く輝くのを目にして、凄絶な笑みを浮かべた。

 コレさえあれば、権能などなくとも神と戦うには充分すぎる。ましてや、死に損ないの神など、一刀のもと生命魂魄もろ共薙ぎ払えよう!

 宗一郎とて呪力の消耗は激しい。が、体は十全に動かせる。そのように訓練を積んである。そう、すべてはこの瞬間―――神を屠るために。

 歓喜に全身が沸き立つ。それも当然だ。散々手古摺らされてきた獲物が、身を小奇麗にして、狩られる時を待っているのだ。狩人ならばこれに興奮せずにはいられまい! 

 これまでの労苦がついに報われる時が来たのである。狩人にとっては、まさに至極の時間。それを宗一郎は全身で味わい尽くす。

「クク。オイ、どうした神殺し。澄ました顔を取り繕うのはもう止めたのか? 折角隠していたテメエの醜い本性が丸出しだぞ!」

 クー・フリンの揶揄に宗一郎は答えない。

 追い込んだ獲物を前にして戯れる狩人などいやしない。宗一郎は無言でじりじりと、まるで獲物に飛び掛からんとする獣のようにクー・フリンへとにじり寄る。

 一気に仕留めに掛からないのは、相打ち覚悟の罠を警戒しているためだ。慎重に慎重を重ねて、罠がないと解ると、直ちに討ち取るつもりであった。

「ったく、無視かよ。あ~あ、傷つくじゃねえか。これが最後の会話だっていうのによ。終わりくらいは愉しくお喋りでもしようぜ」

 飄々とクー・フリンはそんな言葉を口にする。

「―――クー・フリン。それは敗北宣言ですか?」

 宗一郎は我慢できずに狩人にあるまじき、まだ仕留めてきれていない獲物と戯れるという不作法を仕出かしてしまう。だが構うまい。クー・フリンが敗北を認めるのなら、遺言を聴く時間程度設けても許されよう。だが―――

 

 

「はあ? オレの? はははッ! まさか、違うに決まっているだろう! 

終わるのは―――テメエの方さ、神無月宗一郎」

 

 

 どこか弛緩していた空気が、その言葉で塗り潰される。

 英雄神から放射される極低温の殺気に、宗一郎とクー・フリンの権能の激突の余波で熱せられた大気が凍り付く。

 ―――だが、それだけである。

 魔槍を召喚したわけでもなく、二頭立て戦車が復活したわけでもない、無論魔力が急激に恢復したわけでもない。

 クー・フリンの窮状は何ひとつ改善されていない。にも拘らず、間合いを詰めていた宗一郎の両脚が何かを感じ取ったようにピタリと止まる。

 ―――馬鹿な、英雄神にそんな力は残っていない、と宗一郎は己を叱咤する。

 クー・フリンは死を前にして恐怖のあまり錯乱しているのだ。そうでなければ、やはり相討ち狙いか。それとも、言葉巧みに惑わせて、呪力を恢復する時間を稼ぐつもりなのだろう。

「……いいでしょう。何をするつもりなのかは知りませんが、好きにすればいい。それが僕の刀より速いことを祈りながらね!」

 クー・フリンとの距離は七メートル。宗一郎が慎重さを捨て、一目散に踏み込むなら一歩で事足りる。

「ああ、好きにするとも―――む……ほう、見てみろ、神殺し。貴様のお仲間のご来場だ」

 唐突に口を閉ざしたクー・フリンは、おもむろに顎でくいっと結界のある一点を指し示す。仲間? その聞き捨てならない言葉に宗一郎は慌てて応じる。

 すると、英雄神の示した箇所の結界の放つ輝きが、明滅を繰り返し、徐々に失われていく。後には人間が何とか潜り抜けられる程度の穴が開いていた。

 すかさずそこに頭から突っ込んでくる青い人影。彼女(、、)は華麗に飛び込み前転を決め、その反動を利用して素早く立ち上がると、

「神無月宗一郎、ご無事ですか!?」

 リリアナ・クラニチャールは声を大にして叫んだ。

「リ、リリアナさん……!」

 宗一郎は驚愕に呻く。どうやってここに来て、いや、まさか佐久耶も来るのではと、もう一度結界に目を向けるが、開口部はすでに閉じられてしまっていた。その周辺に妹の姿がないことから、まだ結界外にいるのだろう。

 どうやら、もう一柱の『まつろわぬ神』は無事に対処できたようだが、いったい佐久耶は何を考えてあの女騎士を寄越したのか?

「おい神殺し、貴様の配下は優秀だな。まさか『分かれた枝の浅瀬』を一部だけとはいえ解呪しやがる人間がいるとはな! とはいえ、さすがにひとり送り込むだけで限界だったみてえだが。

だが真に驚くべきは、この局面で援軍を派遣してきたってことだ。……これは偶然か?それとも必然なのか。だとすれば、小娘ひとり寄越した程度で何ができるのか。フフン、まさかまだ愉しませてくれるってのか?」

 そう嘯いてクー・フリンは、宗一郎の傍まで駆けつけてくるリリアナを興味深げに眺める。

 宗一郎としては本来援軍など迷惑千万な話であるが、青い騎士にそれを伝える余裕がなかった。

 宗一郎の胸中にはさっきまであった身を焦がすような狩りの興奮は、もはや火の粉すら残っていない。ただあるのは、凄まじい焦燥感だけ。

 魔王の本能は、いま自分が死地にいることを、はっきりと告げていた。

 だがいまのクー・フリンに一体何ができるというのか? たとえまだ晒していない権能があったとしても、そもそも呪力がなければ発動させることすら叶うまい……

「フ―――神殺しよ。貴様はオレにもう戦う手段がないと思っているな? 確かに兄弟たちはすべて失い、我が魔槍も暫く還ってはこない。呪力の貯蓄も不十分だ。

だがな、これからオレがすることに、呪力なんぞ要らないのさ……」

 風に乗ってクー・フリンから獣臭が漂ってくる。

 事ここに至って、宗一郎は対峙する敵が、死にぞこないであるという事実を頭から締め出す。何をするつもりなのか見当もつかないが、それが出される前に斬り捨てる。でなければ死ぬのは自分の方だと、本能が告げていた!

 一瞬で間合いを詰めようと、前に出る宗一郎。だが―――

「出来るならコイツだけは使いたくなかったぜ。だが負けるよりはなんぼかマシだ。

……盟友と息子と殺し合ってまで勝ち取ってきた最強の称号、不敗の伝説。それをどこの馬の骨とも解らねえヤツなんぞに、黙って呉れてやる気はねえよ。

 ―――もはや言葉を交し合う機会なぞあるまい。だからこそ、言っておくぜ、神殺し。かなり愉しめた、あばよ」

 それを最後にクー・フリンの額から真紅の光が迸る。

「額に輝く英雄光!? いけません、神無月宗一郎! 一刻も早くクー・フリンを止めなければ……!」

 騎士に言われるまでもなく、それを誰よりも理解している筈の宗一郎は、だが踏み込むのを放棄して、脇にいるリリアナの腰を抱えて跳んだ。もう間に合わない、と直感したが故に。

 そして、それは正しかった。

 真紅の輝きがクー・フリンの全身を飲み込むや否や、なんとそこから巨大なモノが跳び出してくるではないか!

 神無月家に伝わる体術“縮地”を駆使し、人間離れした大跳躍で遥か後方に逃れる途上(くうちゅう)で宗一郎は見た。太陽もかくやと輝いていた真紅の光が消え去り、そこから現れ出でる巨大で獰猛な真紅の獣の威容を!

 それは真紅の巨大な犬だった。体長三十メートルはあるだろう。宗一郎が飼っている黒犬とは、巨大さ、存在感、内包する力の総量、すべてが比べ物にならない。真なる神の獣。

 故に、振り下ろされる力もまた壊滅的だった。

 さっきまで二人がいた空間に天より鉄槌の如く叩き付けてきたのは巨犬の前右肢だ。その一撃は大地を爆散させ、粉砕した。衝撃は地盤を震わし、なお威力は衰えずに貫通、巨犬の周りの地面が崩落していく。

 沈む大地。沈下に呑み込まれ、怒りの咆哮を上げて、圧倒的な土砂と共に堕ちていく真紅の獣。

「……!?」

 その彼らしくない無様な姿に、宗一郎は眉を顰める。が、十数メートルの距離を一気に跳び退いて、無事な地面に着地した宗一郎はリリアナの腰から手を放し、

「リリアナさん、あなたは後ろに下がっていてください」

 と素っ気なく告げた。なぜ来たのか、邪魔をするな、などと無用な問答はしない。そんな暇もない。

 リリアナも白兵戦では足手まといであると解っていたのか、素直に応じる。

「わ、わかりました。神無月宗一郎……おそらくアレは、狂奔の権能だと思われます。ならば、あの獣に理性は残っていないかもしれません。どうかお気をつけ下さい」

 そう告げると、リリアナは地を蹴って跳び上がった。

「え……」

 理性がない? 改めて問おうにも、“縮地”と同等の術技を用いたのか、リリアナはすでに空の上だ。

 それに下方から響き渡る怨嗟の咆哮が、そんな時間がないことを告げていた。

 もうもうと立ち込める砂埃を突き破り、自らが造り上げた斜面を駆け登ってくる赤い巨犬。その正体がクー・フリンの変身した姿であることは、間違いあるまい。

 この変身態こそがクー・フリンの真の切り札。だが、大怪獣に襲い掛かられようとも、宗一郎に心に怖じる気持ちなど起こり得ない。自らの剣が通じる限り、如何なる敵といえど、倒せぬ道理がない!

 巨犬は紅色の体毛をなびかせて疾駆する。まるで生まれながらの獣の如く四肢を巧みに動かし迫りくる真紅の獣は、宗一郎の刃圏に侵入する直前、なんと大きく跳躍した。

 狙いは体重と位置エネルギーをもって、宗一郎を押し潰す腹か?

「……いや、違うっ。狙いは僕ではなく彼女か!?」

 そう、赤い巨犬はぱっくりと裂けた口を開いて、そのおどろおどろしい牙の群れを見せびらかし、リリアナ目掛けて跳んでいく。

 まさか、『まつろわぬ神』ともあろう者が魔王との戦いの最中に、あろうことか宿敵を無視して、人間に過ぎないリリアナを狙うとは!

 そのあり得ない光景に、宗一郎は愕然と目を見開く。

「くっ!?」

 だが驚きならばリリアナの方が増さったであろう。足手まといを避けるべく、一気に結界近くまで退避しようとしたのがクー・フリンの関心を引いたのか、気が付けば空の上で巨獣のつまみになろうとしている。

 だがリリアナとて大騎士の端くれ。ただ黙って食われてやる気は毛頭ない。

 もう目前まで押し寄せる開かれた巨大な顎。ずらりと並ぶ大牙の群は、まるで剣の墓標のようだ。過去幾人もの戦士があの中で朽ちて逝ったのだろう。

 それを前にして、リリアナは臆することなく呪文を唱え、虚空を蹴る。さながら妖精のように天に舞い上がる青い騎士。

 間一髪、さっきまでリリアナがいた空間は大口に呑み込まれる。だが巨体の勢いはまったく衰えることなく尚も宙を突き進み、己の毛並と似た色をした結界に頭から激突し、背中から地面に墜落する。

 地響きを立てて仰向けに寝る巨体。くぅんと哀れっぽく啼く赤い巨犬。それをリリアナは地面に降り立ち唖然と言葉もなく見つめる。

 対して、宗一郎は、

「―――!」

 倒れ伏す巨犬目指して疾走を始めた。

 狙うは急所一点突破による敵の絶命のみ。本来あの巨体相手では急所を突くなど困難を極めるも、今ならそれも容易い。

 なぜなら、仰向けで倒れることで頭部が地表にほど近い高さまで堕ちてきている。ならば、長刀でもって頭蓋を破壊することも可能。

 問題は宗一郎が如何にしてそれを成し遂げるのか。いわんや頭蓋は生物にとって最も堅牢を誇る器官だ。それが神獣となった『まつろわぬ神』のものなら、その硬度は推して知るべしである。

 その難問に宗一郎は、刃を寝かせることで答える。

 突き技―――突進力をすべて貫通力に変換せしめ、巨犬の頭蓋を食い破り、脳髄を突き抉る。如何に神と言えど、頭を破壊されれば、ダメージは無視できまい。『不死』の能力を宿していなければ、間違いなく即死する。

 狩衣が翻し、白き矢と化して宗一郎は突き進み、死の一閃を放つ!

 その間、真紅の獣はぴくりとも動かなかった。巨体故の鈍重さか、激突のダメージが思いのほか酷いのか。どちらにしても、宗一郎は躊躇なく渾身の刺突を敵の右側頭部に向けて繰り出す!

 白刃は吸い込まれるように、紅い毛皮の中へと消えていく。だが―――

「―――手ごたえが、ない!?」

 手元に肉を、骨を、脳を貫通した感触が一切ない。まるで何もない虚空を貫いたかのような違和感。

 すると、巨犬の体躯が唐突に(カタチ)を失うや否や、紅い濃霧が辺り一面に充満した。まるで一斉に何百人もの血をぶちまけたかのような鮮血の霧海。

 それが津波の如く宗一郎に向けて押し寄せるや、神殺しの矮躯をすり抜けて背後に収束、実体化。真紅の獣と化す!

「―――!!」

 愕然と背後に顔向ける宗一郎。

 そして、咆哮とともに再度振り下ろされる巨腕の一撃。激震、粉砕、崩落、またもや大地の渦に呑み込まれる赤い巨犬。

 宗一郎はそのすべてをいち早く前方に飛び退いた宙の上で見て取る。硬い地面に降り立つや宗一郎は、真紅の獣と化したあとのクー・フリンに感じていた違和感の正体を理解した。

 リリアナ・クラニチャールが言っていたように、あの赤い巨犬には理性がない。あったとしてもせいぜい獣並。あのクー・フリンは完全に狂っているのだ。

 それ故にあの真紅の獣には、精密な力量配分が執れずに過剰なまでの力を発散させて部様を晒す羽目になっている。また明確な戦術行動・判断を行えないが故に、愚直に同じ行為を繰り返す。

 本来これらを統制制御する筈の知性が致命的にまで欠落しているのだ。

 だが誰に信じられようか、精密極まる秘技で、周到極まる知略で戦場を縦横無尽に駆け抜けていた戦争の神の真の切り札が、よりにもよって暴威に恃むだけの知性のないケダモノに成り果てることだとは!

 とはいえ、あの変身態になることに利点がない訳でもないのだろう。枯渇しかけていた筈のクー・フリンの呪力が完全に恢復している。いや、以前より強壮であるかもしれない。それはあの巨犬の動きのキレを見ていれば明白だ。

 通常の変身能力にこんな力はない。どんな怪異なる姿になろうとも、呪力量に変動はない。減ることはあっても増えることなどあり得ない。おそらくはあの変身態と化した状態のみに有効な能力であろう。人間形態に戻れば瀕死のままに違いない。

 それに加えて、人間形態で発動していなかった能力まで獲得しているようだ。

 クー・フリンは痩身ながらかなりの剛力の持ち主であったが、大地を砕くほど法外ではなかった。自らの身を真紅の獣と化さしめることによって、その本来の能力を解放できるのだろう。

 だがこれだけならば、宗一郎に恐れる必要などない。

 その身にどれほどの大怪獣に変身しようが、その身にどれほどの金剛力を宿そうが、知性のないケダモノなど狩人にとって所詮狩るだけの獲物に過ぎない。まったく脅威になり得ない。

 そう、クー・フリンにあの『不死』の権能さえ持ち得なかったのなら、宗一郎の勝利は揺るがなかったであろう。

 濃霧に紛れることで災厄から免れ得る霧の加護。

 剣士たる宗一郎にとって、これ程の天敵とでもいうべき能力は他にあるまい。これなら『鋼の加護』の方がまだいいほうだ。

 確かに鋼鉄の肉体は宗一郎の渾身の一撃すら易々と弾き反すだろう。さらに十撃、百撃加えたところで無効化するに違いない。他の者なら、これだけやれば自ずと斬撃打撃を行使し続ける無意味さを悟り、別の手段を模索するだろう。あるいは、賢いものならもっと前に気付いている。

 だが、宗一郎はそうしない。

 神無月宗一郎は剣士である。必要とあらば、愚直に刀を振り下ろし続ける。たとえ幾千幾万の斬撃を繰り出して、なお無効化されたとしても、宗一郎の心にはひびさえ入ることはあるまい。

 なぜなら、如何に硬くとも鋼鉄はいずれ壊れることを宿命づけられているからだ。カタチあるものが壊れるのは世の必定。超常の力で産み落とされた鋼とて例外ではない。

 ならば、己の鍛え上げた業を放ち続ければ、いずれ光明も見えてこよう。

 だが、霧が相手ではそれが不可能なのである。

 そもそも霧は刀で斬り払うことはできても、斬り壊すことはできない。カタチが定まっていないモノが相手では、宗一郎の刀とて斬り捨てることは不可能だ。

 故に、宗一郎が霧を斬るには業ではなく、能を用いるしか他にない。

 浄化の神力を以って、霧を灼き斬るのである。霧の天敵たる火炎で焼き払ってしまえば、『霧の加護』とて無意味に化さしめることもできよう。

 そう、宗一郎が烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)の権能をまだ行使できたのなら、若き神殺しの勝利はやはり揺るがなかっただろう。

 だが宗一郎は、聖火の権能の切り札である『慈悲の焔』を行使してしまっていた。この代償に半日ほどは浄化の神力は使用できないのである。

 ―――勝てない。つまるところ、現状どうあがいたところで宗一郎に勝機はない。

 ならば、撤退しかないのだが……それもできない。

『分かれた枝の浅瀬』―――周囲には赤い結界が張り巡らされているからだ。

 クー・フリンは何人にも邪魔されることがない一騎打ちのための結界だと口にしていたが、その言葉は半分だけ正解だった。

 確かにあの結界は外部からの侵入を妨害する役割が設けられているが、同時に内部からの脱出を阻害する(、、、、、、、、、、、、)用途も付属されているのだ。

 赤い結界は外からの侵入を防ぐ防壁であり、中からの脱出を防ぐ牢獄だった。

 これこそが、クー・フリンの遺した窮余の策。

 神無月宗一郎を破滅させる最後の陥穽であった。

「―――ッ」

 ぎりっと奥歯を噛み締め、宗一郎は前方を睨み据えた。もうもうと立ち上る土煙には依然何も動く気配はない。彼の数メートル後方には、奇しくもリリアナが控えていた。偶然同じ方向に退避してしまったらしい。

 もはや勝敗は決した。宗一郎には勝利の道はなく、撤退する道もない。

 これから待っているのはただの敗残処理に過ぎない。宗一郎にはそれを覆す力もなければ、回避する策もない。

 当然の帰結である。宗一郎の敗因は、浄化の神力を失ったことではなく、あの赤い結界を張らせてしまったことにある。

 アレさえなければ、佐久耶と協力すれば撤退するくらいなら出来たかもしれない。一騎打ちの誓約に応じたのは、妹や騎士を守るためだった、などと言い訳にもならない。

 すべては己の無能非才ゆえのことである。だから、後はこの結果を粛々と受け入れるのみである……

 ―――にも拘らず、どうして自分はいまだ長刀などを構えているのか? 精神は敗北を受け入れているというのに、肉体がまるでそんなことなど知らぬとばかりに動いていた。

 だがそれは、明らかに宗一郎の美学に反している。武人とは勝敗が決したのなら、潔く敗北を認め、ただ黙して散るべきなのだ。

 そのはずだと言うのに、本能が全身全霊で―――否、と叫んでいた。

 神無月宗一郎にはまだ“切り札”がある。それを使え、としきりに訴えている。

 ……確かに宗一郎には、未だ行使していない第二の権能がある。

 だからといって、それを駆使したところで都合よく勝敗が覆るわけではない。宗一郎の「敗死」は確定している。単に完全に敗北を喫しないと言うだけに過ぎない。

 それにあの能力はどうしても宗一郎の神経を逆なでする。

 戦士の誇りを汚すあの能力が憎い。生命の唯一性を脅かすあの能力が恐ろしい。

 ―――だが使わねば完全に死ぬ。神無月宗一郎の固有技能ではこの戦況を覆せない。第一の超権は使用不可。ならば、第二の超権に望みを託すしかない!

「くッ!」

 誇り高い栄光の死を選ぶか。泥すすって無様な生を得るか。宗一郎は選択を迫られた。

 だが宗一郎が決断を下す前に、真紅の獣が動き出す。

 ―――獣は実にシンプルに生きている。彼らは自らがなす行為に一切疑問を差し挟まことはない。己の欲するがままに、いっそ冷徹とも言うべき決断を躊躇なく下す。

 赤い巨犬―――かつて誇り高き戦神だったケダモノには、もはや神としての精神性など欠片も残っていない。

 真の神なれば人間相手に意識して力を振るうことなどあり得ない。人間が蟻一匹に全力を出さないように、神が人間相手に本気になることはない。

 ―――だが真紅の獣は違う。

 赤い巨犬は己の狩猟範囲に存在するあらゆる獲物を神人魔などと差別しない。すべて喰らうべき餌に過ぎない。

 獣が唯一獲物を区別するのなら、それは強者か弱者のみであろう。なぜなら自然界では常に弱き者から淘汰されていくのだから。

 故に、宗一郎がそうと気付いたときにはすべてが遅かった。

 紅の濃霧が雪崩打って―――青い騎士(じゃくしゃ)の方へと流れ込んでいく! 

 真紅の獣がいまこの場で、リリアナ・クラニチャールこそが一番の弱敵であると嗅ぎ分けたが故に。

「……う。あ……」

 リリアナの背後で実体化した赤い巨犬。低い唸り声と飢えでぎらつく双眸が騎士を見下ろしていた。まるで蛇に睨まれた蛙のようにリリアナは指一本とて動かせない。

それも当然だ。如何に大騎士といえど全長三十メートルの大怪獣に至近で睥睨されたなら、声すら出せずに恐怖に屈服する他ない。

 だが真紅の獣にとり、獲物の窮状など知ったことではない。獲物に動きがないと解るや、これ幸いにとばかりに凶悪な口を開いて―――リリアナ・クラニチャールの天上から紅い死を振り下ろしてきた!

 リリアナにこれを回避する術はない。そもそも躱すも何もない。騎士はいまだに指一本とて動かすことも叶わないのだから。彼女に出来るのは、ただ恐怖に戦慄き、瞳を大きく見開いて己の死を眺めることだけ。

 

 

 ―――そこに白い人影が跳び込んで来なければ、間違いなくそうなっていたであろう。

 

 

「……え? ぐッ――!」

 横から来た衝撃で彼女の小柄な体は簡単に吹き飛んでいく。地に五転六転してようやく体が止まっても、リリアナは起き上がれない。まったく現状認識が出来ていない彼女は、呆けたように、むくりと顔だけを上げて―――そこで見てはならないものを見てしまった。

「…………神無月宗一郎…………?」

 唇を震わせてリリアナは掠れた声で呟く。

 リリアナの瞳には神無月宗一郎が、なんと赤い巨犬に頭からがぶりと喰いつかれた光景が映っていた!

 真紅の獣は、まるで思わぬカタチで早々に難敵を仕留めたことに歓喜したかのように、若き神殺しの肉体に噛み付いたまま、巨大な頭部を天高く持ち上げて、勝利の美酒()を喉の奥に流し込む。

「がァ……。フゥ――!!」 

 自分の体外へと流れ出す血液をゴクゴクと呑み干していく異音を聴きながら、宗一郎が思ったのは、獣の口の中はあまり臭くないのだな、という心底どうでもいい感想だった。

 赤い巨犬の口腔に生えた剣山は、宗一郎の五臓六腑を完全に破壊していた。

 無論、問答無用の致命傷である。むしろ、心臓まで貫かれて息があるどころか、思考能力まで正常を保っていることの方が異常であった。

 おそらく魔王の肉体は心臓を破壊されたとしても、また首を斬り落されたとしても、即死に至ることはないのだろう。神殺しを即死に至らしめるのには、脳を完全に破壊する他ないらしい。

 と言っても、あとせいぜい数秒の寿命(いのち)に過ぎない。今も物凄い勢いで生命の砂時計が滑り落ちていくのを、宗一郎は感じ取っていた。

“どうして……!?”

 ふと宗一郎はそんな言葉を聴いた気がした。一瞬幻聴か、と思ったが違うだろう。おそらくはあの女騎士の声だ。どうやら彼女には宗一郎の献身に異論があるらしい。

 残り少ない血を溢しながら、宗一郎は苦笑する。とはいえ、純粋な善意に満ちた献身とは程遠いが。

 宗一郎がリリアナを庇ったのは、無力な少女を救うための英雄的行為、無私の献身ではない。魔王が騎士を救ったのは、ひとえに第二の超権を行使するための理由づけ。こうする必要があっただけに過ぎない。

 決断力を欠く宗一郎でも、事ここに至っては、胸の奥深くに埋めていた手札を晒すことに躊躇いはない。

 ああ―――そうだとも、こんな結末など断じて認めるわけにはいかない。クー・フリンとはもっと相応しい決着の付け方がある筈だ。

 何よりも宗一郎にはすべての神々を打倒するという悲願がある。こんな処で死んでいる暇はない。

 ごふっと咳き込む宗一郎。が、もうあまり血も出てこない。意識も徐々に薄れつつあるようだ。どうやら最期のときが来たらしい。こんなおぞまし経験をあと何度経験する羽目になるのだろうか。

 奇しくもクー・フリンが呟いたように、宗一郎も胸中で思う。このままおめおめと敗北を認めてしまうよりはいい、と。

 戦士であることを捨て理性なきケダモノと化してまで勝利を求めたクー・フリンと同じく、宗一郎もまた勝利のために戦士の誇りを捨てる。

 すべては勝利を手にするために。

 死の間際、宗一郎の脳裏によぎるのは妹である佐久耶のことではなく、命を救ったリリアナのことでもなかった。

 黄金色に輝く大麦―――『穀物』のイメージが胸に満たされる。それを最後に宗一郎の魂魄は闇へと沈んでいった。

 


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