「酷い雨ですね」
叩きつける雨が降る夜、ファーレンハイトはオーディンを発つので、挨拶にやってきた。今回の出陣に使用する艦隊が駐留している軍港は、オーディンの中心である新無憂宮の裏側なので時差がある。
「はい。明日の朝には、こちらは晴れるとのことです」
「そうですか」
「軍港まで行って、見送りをしたかったのですが」
彼女としては付いて行くつもりで、暗紫色のクラシカルなドレスに、真珠のネックレスを身につけ、グレーの雨傘まで揃えていたのだが、雨足が強く、また軍港近辺の天気も優れないため、見送りは取りやめとなった。
「お気持ちだけで充分です」
「せっかく着替えたのに」
ほどけてしまった髪を結い直す前に見送り取りやめとなったので、かっちりとしたドレス姿とは対照的に、黒髪は濡れ、名残を僅かに残していた。
「お手数をおかけしてしまいました」
「いいのですけれど」
ならば玄関まで見送ると ―― 廊下の先に広々とした天井の高い入り口ホールが見えてきたところで、彼女は足を止めた。
半歩後ろを歩いていたファーレンハイトは、前へと回り膝を折り差し出された手を取って、軽く口づける。
「気をつけなさい」
「はい」
彼女は膝を折り、頭を下げているファーレンハイトを残し、部屋へと戻っていった。
**********
リッテンハイム侯が起こした内乱は、原作よりも規模が小さかったこともあり、半年も経たずに終わりを迎えた。
ヤンが出てこなければ、もっと早くに決着がついたかもしれないが。
そのヤンだがケンプを討ったあとは、すぐにイゼルローンへと戻った。あまり突出して、イゼルローンを落とされてしまっては、敵中で孤立するので当然の判断である。
ともかく、内乱に関してはラインハルトが勝利を収めた。
リッテンハイム侯に与した貴族たちは軒並み処刑、類縁も処罰対象となる。
門閥貴族は約四千家だけで、婚姻を結んでいるような状態なので、ほとんどが処罰の対象となる。
カタリナも前当主(爵位を剥奪された)が、リッテンハイム侯と行動を共にしたため、通常ならば処罰対象となるのだが、ラインハルトに対して表面上は協力したこともあり、門閥貴族の中では珍しく、処罰されることはなかった。
そんな中、オーベルシュタインはラインハルトと交渉し、財産や地位の確保をしなくてはならない家があった。
扱いが難しい家であったが、交渉の末、命と財産、そして爵位を守ることができた。
その勝因は当人にそれらの交渉をさせず、結果だけを伝えたことであろう。
当事者を挟むと話が拗れるのは、わかりきっていたことなので ―― オーベルシュタインは報告のため、ブラウンシュヴァイク公に連絡を入れ、単刀直入に処遇を告げた。
『私がオーディンに戻れぬとは、どういうことだ』
「言葉通りです、ブラウンシュヴァイク公」
『私を誰だと思っておる!』
「オットー・フォン・ブラウンシュヴァイク。ブラウンシュヴァイク公爵家の現当主です」
『きさ……』
激高しやすいブラウンシュヴァイク公は、オーベルシュタインの無機質さを覚える表情に、一層怒りを募らせた。
そこに割って入ったのが、アンスバッハ。
『ブラウンシュヴァイク公、話を聞きましょう』
『こんなやつと、話す必要はない』
『お怒りをお納め下さい』
アンスバッハが必死に宥める。
その間、オーベルシュタインは無表情のまま、画面の前で待ち続けていた。
椅子かなにかが蹴られた音が響き ――
「説明してもよろしいか」
アンスバッハが画面の前に現れた。
『お願いいたします』
ブラウンシュヴァイク公は部屋から去ったわけではなく、オーベルシュタインの顔など見たくないので、画面前から離れただけ。代わりにアンスバッハが話を聞くことになった。
「エッシェンバッハ侯が賊軍に勝利した。これにより、彼の軍権はさらに強大なものとなった」
『それは分かっている』
「今回の賊軍に与した者たちの処分は、類縁にまで及ぶ。首謀者であるリッテンハイム侯の妻と、閣下の奥方は姉妹。よって処分対象となる」
ラインハルトは皇帝に即位した後、連座は廃止したが、いまはまだゴールデンバウム王朝の法律に従っているので。
その主たる理由は、連座を用いたほうが門閥貴族たちを速やかに、そして大量に排除することが上げられる。
『通常、帝室の血統は連座対象外だ!』
画面から消えたブラウンシュヴァイク公が、すぐさま戻ってきて、画面に向かって怒鳴りつける。その公を抑えながら、アンスバッハは賊軍に与した者たちのリストから、連座に該当する一門の名を挙げた。
『先代皇后陛下の血筋ですな?』
「その通りです、アンスバッハ准将」
リッテンハイム侯が起こした内乱の、表の理由は「サビーネを女帝に就ける」というもの。となれば、血縁の多くは協力することになる。
サビーネの祖母は皇后。故に実家は、賊軍となる。
もともと帝室に入り込むために、地球教はこの皇后の実家を利用していたこともあり ―― 賊軍として処分するのが妥当であった。
唯一の問題は、ブラウンシュヴァイク公夫妻が巻き添えになること。
彼女と血はつながっていないが、十年ちかく親族として暮らしてきた公爵夫妻を失うのは辛かろうと考えての処置。
妻の母親の実家が賊軍に与していたことは知っていたし、連座も重々理解していたはずのブラウンシュヴァイク公だが、改めて聞かされると、
「閣下も厳しい処分を下されるところでしたが……」
『私に厳しい処分だと? あの成り上がりが!』
ますます怒りのボルテージが上がっていった。
ついこの間まで、寵姫の弟だった男に処分を下さるなど、選民意識の塊と称されている公には耐えられるものではない。
「はい。彼はその権力を手中にいたしました」
『……きさっ』
オーベルシュタインは相手を慮るようなしゃべり方はしない。
悪い人ではないが、尊大である公を怒らせないように説明するような努力は、最初からするつもりもなかった。
その一貫した姿勢にアンスバッハは、感心しつつ公を宥める。
『続きを聞いたほうが、よろしいかと』
『……そうだなアンスバッハ。続けろ』
「では。厳しい処分を下されるところでしたが、ジークリンデさまの元身内ということで、オーディンへの立ち入り禁止だけで済みました。財産や地位などは、今まで通り保証されるそうです」
『オーベルシュタイン准将、いくつか質問があるのだが、よろしいだろうか?』
「本官に答えられることでしたら」
『本来であれば、どのような処分が下されるはずだったか、分かるか?』
「ステファン・フォン・バルトバッフェルの末路と言えば分かりますか」
フリードリヒ三世の異母弟で、元は侯爵であったが、進言したことで皇帝の怒りを買い、領地を没収され、爵位を男爵に落とされ、オーディンへの立ち入りをも禁止された ―― 晴眼帝の一応叔父にあたる人物である。
『それに比べたら、随分と寛大な処置だな』
彼に下された処罰に比べれば、オーディンへの立ち入りが禁止されるだけで済んだのは、喜ぶべきことであった。
「はい。他にご質問は?」
『この処分を得るために、ジークリンデさまが、エッシェンバッハ侯と取引をしたりしたのだろうか?』
「侯からの連絡は、公爵夫人に一切取り次いでおりません」
『ではジークリンデさまが、取りなしたわけではないのだな?』
「そのような屈辱的なことは、ありません。ですが、いずれブラウンシュヴァイク公への温情が耳に入れば、感謝することでしょう」
『温情? なにが温情だというのだ!』
「閣下は温情だとは思われなくとも、紛れもなく温情です」
他の貴族達の処置に比べれば、近い親族が賊軍に入っていたにも関わらず、この処分は緩いといっても過言ではない。
『……』
後々彼女がこの処分内容を知れば、確実に感謝をする。
実際彼女は、これらのことを知った後、感謝を述べた。
誰もそれは望んではいなかったが、誰よりも望んでいなかったのが、この処分を下したラインハルトであったため、彼らは止めようとはしなかった。
世の中には恨まれたほうが楽な場合もある。その時のラインハルトの心境は、まさにそれであった ――
『エッシェンバッハ侯は、ジークリンデさまを、どうするつもりだ?』
「侯は離婚するつもりはないようです」
『そうなのか』
「親族がいない高貴の出となれば、皇后には最適ですから、易々とは手放さないでしょう」
アンスバッハは彼には珍しく不快さをあらわにし、
『皇后だと?』
ブラウンシュヴァイク公はまたも黙っていられず、声を上げた。
「侯の最終目的は新帝国の皇帝となることです。お気づきではありませんでしたか?」
『そのような、大それたことを』
「実際に手が届く範囲ですので、そう遠くないうちに彼は手に入れることでしょう」
『ジークリンデが皇后なのは喜ぶべきことだが、あの下級貴族が皇帝など』
「遠からず、そうなることでしょう」
在位だけは長いが何もしなかったフリードリヒ四世。皇帝の権威と地位はじりじりと下がっていたところに、なんの権力もない子爵家の幼児が女帝に推戴された。
それを推した宰相は死に、復権を望む貴族たちは内乱に夢を託して、永遠に夢を見続けることになった。
もはやゴールデンバウムは滅びるしかなく ――
『ジークリンデを連れてこい』
「はい?」
だが、そんな状況にあって、ブラウンシュヴァイク公の指示は、まことに彼らしいものであった。
『アンスバッハ。今すぐ、ジークリンデを領地へと連れてこい』
「落ち着いてください、ブラウンシュヴァイク公」
彼女はオーディンに残してくるべきではなかった! ブラウンシュヴァイク公はアンスバッハを怒鳴りつけ、彼女を連れて来いと無茶を言う。
―― 収拾がつかなそうだな。通信を切るか
ブラウンシュヴァイク公がどれほど騒ごうが、この処分は変更されることはない。これを不服と感じ、感情にまかせて軍事行動を起こせば、ラインハルトに潰される。
また、彼女を無断で連れ出せば同じこと。
ラインハルトが彼女に感謝して欲しくなかったのは、これら、ブラウンシュヴァイク一族を排除することができる条件付きの処分であったため。門閥貴族を嫌っている彼は、排除できるよう罠を仕掛けていた。
感謝した彼女に、排除する用意があると告げ ―― だが彼女は「それでも充分です」と再び頭を下げた。
後日の両者の会話と、それに関連するいくつかの出来事はともかく、今は、それを理解しているアンスバッハが必死にブラウンシュヴァイク公を説得していた。
オーベルシュタインは、必要なことは全て伝えたので、通信を切ろうとしたのだが、
『あなた』
意外な人物の登場に、手を止めた。
通信室にやってきたのは、金糸で刺繍が施されたミントグリーンのガウンを羽織った、ブラウンシュヴァイク公の妻。
『アマーリエ』
妹の訃報に接し、もともと優れなかった体調が、悪化してしまったアマーリエ。
アマーリエは空席になっている、通信画面前の椅子に腰を下ろし、オーベルシュタインに夫にした報告を、自分にもするよう命じた。
「かしこまりました」
オーベルシュタインはもう一度、最初から説明を始める。
公とは違い黙って最後まで聞いていたアマーリエは、血の気の悪い唇を開き、やや震える声で嫁いだ家を救えないものかと、提案してきた。
『では、わたくしと公が離婚をすれば、ブラウンシュヴァイク家に対する、このような屈辱的な処罰は無効となりますか』
だがその提案は、一顧だにされなかった。
「無意味です」
尊い血筋に生まれつき、そのような突き放した物言いをされたことがなかったアマーリエは怯んだが、同時に画面に映っている男は、真実しか言わぬ男だと感じ取り、先ほどよりも、もっと震えた声を絞り出すようにして答えを求めた。
『なぜですか?』
「ブラウンシュヴァイク公爵夫人とエッシェンバッハ侯では、考え方が根本から違うのです」
『根本の違いとはなんですか?』
「エッシェンバッハ侯がなによりも憎いのは、フリードリヒ四世です」
門閥貴族たちはラインハルトが、フリードリヒ四世を憎んでいるとは考えたこともなかった。
彼らにとってラインハルトは、フリードリヒ四世から地位や権力をもらい、増長した金髪の孺子であったが、その彼が権力の地盤を作って”やった”皇帝を恨んでいるなどとは、まさに青天の霹靂であった。
『父上が、あれほど良くしてやったのに?』
アマーリエの後ろにいた公も驚愕の表情を浮かべる。
「侯の感性では、姉は奪われたことになっております」
『寵姫だったのに?』
これはアマーリエが変わった考え方をしているのではなく、帝国の半数以上はアマーリエと同じような疑問を持つ。
要はラインハルトにとっては、姉を奪われた行為だが、皇帝の寵愛を受けて、身内を取り立ててもらった ―― 世間ではそのように取る人も多い。
「はい。彼にとって、フリードリヒ四世は姉を奪った憎むべき敵であり、そのような社会は一度壊して、再生されるべきだと考えております」
『帝国を滅亡させるのですか?』
「ゴールデンバウム王朝は潰え、彼が新しい皇帝となるつもりのようです」
ラインハルトにとって、ゴールデンバウムの世界は間違っているが、長きにわたりその世界の枠組みで生きてきた者たちからすると、ラインハルトの異端ぶりは、理解しがたいものであった。
それは門閥貴族だけではなく、平民にとっても同じ。
また、長い間かけて培われた帝国に対する忠誠は、そう簡単には消えない。
メルカッツなどが好例だろう。
ラインハルトはキルヒアイスの忠誠を疑わない。だが、他者の帝国や皇帝に対する忠誠は、いとも容易く霧散すると信じている。
それは自らが一個の人間の全てを捧げるに値する人間だと思っているのか、はたまた、何も考えていないのか。
『なぜ恨まれるのか、わたくしには分かりません』
ただ、アマーリエにしてみれば、まさに恩を仇で返されたようなものである。
「だからこそ侯は、あなた方を排除し、新しい国家を作ろうとしています」
『わたくしは間違っているのですか?』
「善悪ではありません。考え方が違うだけです」
ラインハルトにとってゴールデンバウムは悪だが、それは彼の尺度でしかない。
『そうですか……それにしても、エッシェンバッハが父上のことを、恨んでいたとは知りませんでした』
アマーリエはハンカチを、固く握りしめる。
深いため息をついて、アマーリエは俯いた。
そんな妻の肩に、肉厚な手を置き、命じる。
『ジークリンデと会わせろ』
妻を元気づけるため、そして自分も安心したいと、彼女との面会を求めたが、オーベルシュタインは首を振る。
「いまはお控えください」
『なぜだ』
「公爵夫人の立場が悪くなります」
付け入る隙を与えないためにも、オーベルシュタインは半罪人となった夫妻を彼女を会わせるわけにはいかなかった。
自分たちとつながっていることが、彼女の立場を悪くすると ―― だが分かっていても、公は会わせろと言って聞かなかった。
『諦めましょう、あなた』
『アマーリエ』
アマーリエ皇女は夫を振り返ることなく、
『オーベルシュタインと言いましたね』
「はい」
『あの子のこと、頼みましたよ』
もはや自分たちはなにも出来ぬことを理解して、皇女の父が彼女にくれてやった義眼の男に、全てを託した。
「全力でお守りいたします」
『貴様になにができる!』
「まずはブラウンシュヴァイク公爵夫妻と、連絡を取れぬようにいたします」
『そうですか。では、頼みますよ』
「かしこまりました」
生きていたらまた会える ―― そう思っていた彼女だが、ブラウンシュヴァイク公とは、二度と会うことはできなかった。