黒絹の皇妃   作:朱緒

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第97話

 車中でフェルナーとの会話を終えた彼女は、

「キスリング」

「はい」

「空腹が我慢できないから、近くでなにか買ってきてくれませんか?」

 本当は帰るまで我慢しようとしたのだが、今にも空腹を示す音が鳴りそうで、顔を赤くして腹部を抱き込み頼んだ。

「……気がつきませんでした。お待ち下さい」

 キスリングは少し車を走らせ、路上販売の車を見つけて、地上車を止めさせ、

「リュッケ、任せたぞ!」

「中佐、銃、銃」

 急ぐあまり小銃を抱えたまま降りようとしていた。

 明るい色合いの店に、小銃を持って血相を変えた中佐が駆けてきたら ――

「そうだな」

 ベルトを外し小銃をリュッケに預け、ブラスターを確認して駆けていった。

 

「ありがとう」

 店は偶然にも彼女が以前、キスリングと立ち寄ったクレープ店で、

「次は塩味を食べたいと仰っていた記憶がありましたので……」

 野菜やハムなどを挟んだものを四種類と、飲み物を購入し戻ってきた。

「どれにしましょう」

 チーズと野菜を包んだ、そば粉生地のものを選び、彼女は口に運んだ。口の中に広がる、懐かしいような味に、自然と笑みがこぼれた。

「美味しい」

 以前見た花が綻ぶような表情を前にして、キスリングは自害や、知らぬ間の死を阻止して、本当に良かったと顔を覆って微かなうめき声を漏らした。

「元気になられて、本当に……」

 彼女はクレープを膝におき、キスリングをのぞき込む。

「心配かけて、ごめんなさいね」

「いいえ」

「これからも心配かけると思うけれど、側にいてくれるかしら」

「喜んで!」

「リュッケも、お願いね」

「はい」

 

 その日から彼女は、自分で洋服を選び、髪も解いているか一本にまとめるかではなく、派手ではないが手が込んだまとめ髪にするようにした。

 

**********

 

 元帥府に到着した彼女は、残っている三つのクレープのうち、もう一つ食べようと、自分で紅茶を淹れた。

 温かいのを料理人に作らせますと言われたのだが、これが良いと彼女は言い張り、ゆっくりと時間を楽しんだ。

 

 そして部屋へと戻り、その足でウォークインクローゼットへと向かった。

 クローゼットには袖口や襟に白いレースが使われている黒い喪服や、喪の後期に着用するグレーや紺、暗紫色や紫色などが取りそろえられていた。

 無難という名の同一デザイン(ローブ・モンタント)が半分で、残りの半分は控えめながら、やや遊びがあり、華やかさを感じさせる部分のあるドレスが揃えられていた。

 彼女は大きなウォークインクローゼットに収められている、それら大量のドレスを一着一着確認していたところ、

―― 明日から、着るものは自分で選びましょう………………え? 紛れ込んだ……とかじゃないですよね

 

 中将の階級章が付けられた、彼女だけが着る女性将官用の軍服を何着も見つけて、手が止まった。

 

 自分が知らぬ間に、中将に昇進したことは分かったが、彼女には状況が全く分からない。事情説明を求めるべくオーベルシュタインを呼んだのだが、彼は軍務省で貴族が残した動物の回収作業を取り仕切っていたため、彼女の呼び出しに応えることができなかった。

 ファーレンハイトは出撃前の、様々な微調整があり、はやり元帥府にはおらず ――

「私は公爵夫人になっていたのですか……」

「あまり帝国の慣習には詳しくないので、理由などは詳しくご説明できませんが、手続きはすでに済んでおります」

 一番大人で、貴族事情や慣習は詳しくなくとも、うまく説明できそうということで、キャゼルヌが彼女の元に派遣されてきた。

 キャゼルヌは良い機会だと、彼女に継いだ爵位のリストと、それに伴いローエングラム公爵夫人になったことも告げる。

「よくやってくれました」

 並べられたリストを前にして彼女は、父親を含めた”先代たち”の顔が思い浮かんできて、胸の去来するものがあったが、涙を落とすようなことはなかった。

―― これだけの爵位を継ぐとなると、陞爵もやむなしですね。なんの功績もあげていませんが

「これが仕事ですので、お気になさらないでください。それで中将の件ですが、公爵となられたので少将では地位が低すぎるとなり中将に。ゆくゆくは大将か上級大将とか言ってましたが、俺はちょっとそっちは分からないので」

 この線が細い若い公爵夫人に、あまり地位を与えるのは良くないのでは? キャゼルヌは思う。彼女が間違ったことをするとは思ってのことではなく、むしろしっかりと仕事をこそうと、疲労してしまうのではないかと心配してのこと。

「理由は分かりました。でも上級大将は……どうでしょうね」

 力のある公爵であれば予備役元帥もありえるが、彼女は”公爵夫人”である。

 彼女には、およそ男性社会に割って入るような気持ちなどない。

「あいつら軍人ですから、公爵夫人を上司にしたいんでしょう」

 女性の社会進出 ―― などという言葉など、過去のものとなっているフェザーンから来たキャゼルヌは、女性上司というものに抵抗はない。

 だからこそ、彼女に仕える彼らと上手くいっている。女性から指示を出されるのを嫌う者と仕事をするのは、彼としては”御免”であった。

「でも私が上級大将など、お飾り以外の何者でもありませんね」

「お飾りでもいいのでは? あいつら、才能は余るほどありますけれど、個性的で我が強い。まとめる上司がいないので、才能や能力を発揮しきれていないように見えます。あいつらを一致団結させるには、やっぱり公爵夫人が必要かなと……思う時が往々にしてあります」

 

―― あなた達、キャゼルヌ先輩にまで、問題児って言われてますよ……でもキャゼルヌ先輩は、問題児好きですよね……面倒見が良いと言いますか

 

 作中の登場人物たちが「先輩」とつけていた関係で、彼女はキャゼルヌには無条件で「先輩」を付けてしまう。

「公爵夫人はトップになられたら、なられたで、うまく部下を使いこなすでしょう。そこは心配する必要はありません」

 自分が彼女に内心「先輩」付けされているとは、当然しらないキャゼルヌは、彼女の不安を取り除こうと、かなり丁寧に受け答えをする。

「そう、上手くはいかないと思うのですが」

「生まれついての貴族は、やはり違いますよ。人を支配するために生まれてきて、そのように教育されてきただけあります。公爵夫人はお若いころから苦もなく、多くの召使いたちを使役できていたかと思いますが、普通はそうはいきません」

 困窮している貴族でもない限り、邸には多数の召使いがおり、それらを上手く使うのは、女主人の大事な仕事。

 ゆえに貴族は幼少期から、人に指示を出す教育がなされる。

「とくに難しいことはしていないのですけれど……母が早くに亡くなったのも理由でしょうけれど、子供のころから内向きの采配は教えられましたね」

 親族の女性たちがリヒテンラーデ公の命を受けて、彼女に女性ならではの采配を教えた ―― 中には後妻の地位を狙っていた者もいたようだが、伯爵は相手にしなかった。

「皇帝の後宮のを取り仕切った女官長の能力は、誇るべきものだと思いますよ」

 彼女には自分が支配者であるという認識はないが、生まれも育ちも紛うことなく、支配者であった。

「……褒めてもらえて、嬉しいですわ」

 自覚はないが人を使う側にいる彼女。その使い方は決して悪くはない。

「出過ぎた口を利いてしまいました」

「いいえ。キャゼルヌにそう言ってもらえて、自信が持てました。この自信を糧に、継いだ家と領地とその領民を、しっかりと守っていきます。……で、キャゼルヌに、事務関係を頼んでいいかしら?」

「新領地に関する情報は、ただいま集めております」

「貴族の名が解決しそうな場合は、すぐに言ってちょうだい」

「御意」

 

―― やるべきことが多すぎて、なにから手を付けて良いのか……

 ”しなければならないこと”が分かっているので、その量の多さに辟易しながら、必死に順序付けをする。

 

「お呼びと」

 そうこうしている間に、呼び出されたオーベルシュタインが大急ぎで現場から戻ってきた。

「おお、パウル」

「お呼び出しにすぐに応えられず、まことに申し訳ございません」

「いいのよ。それで、どうなりました?」

「フェルナー少将から通報があった地区の制圧は終わりました」

 

―― え……もう? たしか二、三時間前の話よね

 

 原作で新帝国の後方を預かっていたオーベルシュタインの能力を持ってすれば、一惑星の一地区の動物駆除など数時間もあれば充分。

「制圧ということは、殺処分ですか?」

 オーベルシュタインの能力の高さに改めて感心し、動物たちの処遇について尋ねた。

「できる限り生け捕りにしましたが、何匹かはやむを得ず小官が撃ち殺しました」

「現場に行ってたの?」

「はい」

「そう。撃ち殺したことに関しては気にしなくていいし、なにかあったとしても守るので安心なさい」

―― 三十半ばの男性を守るというのも変ですが……権力さえあればオーベルシュタインは自分で、どうにかできそうですが……

「ありがたきお言葉。調査隊を派遣したところ、領地に逃げ帰った貴族の屋敷がある地区は、ほとんど被害が出ております」

「そうですか……ちなみに、捕獲部隊の人員はどこから?」

 いまは動物の捕獲について……と、オーベルシュタインの出世は後回しにし、人員の出所について尋ねる。

 当然のことながら、階級ではなく役職で部下の数が決まるので、彼女は中将だが部下そのものは数名しかいない。

「軍務尚書閣下からお借りしました」

「軍務尚書がですか」

 礼状を書かねばと文面を脳裏に思い浮かべていたのだが、

「申し遅れましたが、エーレンベルク軍務尚書閣下は、お亡くなりになられ、あらたにメルカッツ提督が元帥となり軍務尚書に就任いたしました」

 すぐに必要がなくなり、新たにお悔やみを考える羽目になった。

「そうでしたか……故人の死を悼みたいのは山々ですが、今は臣民の生活を守ることを優先しましょうか」

 いつ頃死亡したのか? 理由は……など、聞きたいことは山ほどあったが、彼女はそれらを後回しにした。

「それがよろしいかと」

「オーベルシュタイン、全ての責任は私が負いますけれど、現場は分からないので、あなたに任せていいかしら?」

「光栄です」

 オーベルシュタインは部隊を借りる前に、メルカッツより彼女の代理を任されてるので、公的な意味はないが、彼女から個別に頼まれるというのは、また格別である。

「ところでオーベルシュタイン、捕獲した動物たちはどのように?」

「一時的に動物園に預ける手配を」

 放棄していたとしても殺処分する場合には、持ち主である貴族に問い合わせる必要があり、それまでは保護しておかなくてはならない。

「動物園も困るでしょうね……宮内省にかけあいましょう」

「宮内省ですか? 典礼省ではなく?」

 貴族の揉めごとなどを解決するのは典礼省の役割。宮内省は皇統に関する事案を扱う省庁である。

「新無憂宮の北苑を一時預かりの場所にします。狩猟場なので、貴族が放置した動物の飼育にはもっとも適しているでしょう」

 新無憂宮の北苑ほどの広さがあれば、オーディン全土で放置されている動物たちを回収し飼育することも可能である。

 むろん人員なども必要だが、

「借りられるものなのですか?」

 キャゼルヌがそう尋ねるのも、当然といえる場所。

「前例はありませんけれど、大軍を所持している元帥の妻である公爵夫人からの”お願いという名の命令”には、宮内尚書も拒否はできないかと。それに尚書は知らないお方ではありませ……亡くなったり、別の方が就任していたりしていませんよね? オーベルシュタイン」

 虚ろに過ごしていた間に、随分と世界が変わったことを、先ほどのエーレンベルクの死で実感した彼女は、高齢の尚書の姿を思い出しつつ尋ねた。

「変わりはありません」

―― 時代の変革についていけそうになく、倒れそうですが

 相次ぐ混乱からの、凋落の兆しを直視することができず、宮内尚書は半ば職務を放棄していた。

「そうですか、ならば大丈夫でしょう。放置して逃げ帰った貴族たちとの交渉は……」

「私がいたします」

 彼女としては”そのくらい”は自分で……と考えていたのだが、オーベルシュタインに止められた。

「オーベルシュタイン?」

「もちろんジークリンデさまのお名前を借りることになりますが。現時点では、他の貴族とあまり接触なさらないでください。できれば宮内尚書との交渉も、任せていただきたいのですが」

「……」

「まだ内乱の最中ですので。ジークリンデさまと連絡を取った貴族が、万が一にでも反旗を翻せば、厄介なことになります。勝ち負けではなく、混乱が長引くという意味で。ゆえに交渉の類いも、間に人を挟んでいただきたい」

 ふと自分を置かれている環境、接触が最小限に抑えられている状況に気付き ―― 精神的に復帰し人と会話するのも苦ではなくなった彼女だが、状況がそれを許さないことを理解し、”精力的に内側にこもり”出来ることをすることに決めた。

「分かりました。現場はあなたに任せると言ったのは私です。自由にその手腕を振るいなさい。尚書との交渉もあなたに任せます。賄賂に関しては私に聞いてね。さすがに、そちら方面は私のほうが得意でしょうから」

 

―― 私が口を挟むより、オーベルシュタインが最初から最後までやったほうが、上手くいくでしょうね。きっと最良な状況になるでしょう

 

「公爵夫人や充分やっていけると思いますよ」

 やり取りを見ていたキャゼルヌが、上司になっても大丈夫ですよと背中を押す。

「補佐してくれる人が、あなたを含めて一流などという陳腐な言葉では言い表せない程の、能力を持っている者ばかりだからでしょうね」

―― 私なにもしてないから。あなた達が、やたらと有能なだけです。宇宙の大局に関わる戦いの後方を完璧にすることができる、あなた達がいるから

 

**********

 

 ”二人に任せておけば、なにも心配することはありませんね”と安心しながら、動物の処理について話し合っている場面から、少々時を遡り ――

 

「了解した。あとは私に任せて、少将はリハビリに全力を」

 フェルナーから事情を聞いたオーベルシュタインは、用事を終えて退出したばかりの、軍務尚書の執務室に戻り、門閥貴族たちが逃げる際に置き去りにした動物たちによる、被害についてメルカッツに告げた。

「かなりの被害が出ている模様です」

 メルカッツは黙って話を聞き、

「だが殺処分するというわけにもいくまい。卿はどのように処理しようと考えているのだ」

 どのように処理するのかを、オーベルシュタインに尋ねた。メルカッツは艦隊司令が専門であって、このような事態に対しては、単純に危険を排除するというくらいしか思い浮かばない。

「ローエングラム公爵夫人が、お名前を貸してくださるそうです」

「門閥貴族の財産は、門閥貴族である公爵夫人が保護するということか?」

「はい」

 事態を早急にまとめるには、彼女の名を使うのが最適。

 他に策が思いつくかと ―― 控えている副官のシュナイダーに視線をおくるが、彼も首を振るのみ。

「分かった。この件はローエングラム中将に一任しよう。代理の指揮官は卿でよいか?」

「はい。では閣下。まずは人員をお借りしたい」

「必要な隊を持っていくがいい」

 オーベルシュタインは徴兵された飼育員や、動物に接していた職業の者たちと、射撃が得意な者を集め、近隣住民に被害を及ぼしている害獣の駆除・捕獲へと向かった。

 

 邸にも立ち入り、骨だけになった動物や、まだ肉が残り蛆がわいている死骸を脇目に、家捜しをし、体毛が抜け落ち、眼球が濁り、死を待つだけになってしまった動物たちは、オーベルシュタインが自ら射殺する。

 死骸を回収させ、どこで処分しようかと考えていたところ、彼女から「時間があったら、ちょっと来て欲しいのですけれど」との連絡が入り ――

 

 メルカッツは調査の結果に目を通し、

「訴えがないのが、問題だな」

 被害が広範囲に広がっていたことを知る。

「下手に訴えて、貴族に睨まれては元も子もありませんので。泣き寝入りが、染みついてしまっているのでしょう。第一、訴える部署もありませんし」

 情報をまとめたシュナイダーは、対処方法のなさに憤りを感じ、それらを抑えながら、病院から手に入れた負傷者の写真をメルカッツの前に置く。

 貴族が飼っている動物に、家族が噛み殺されたとしても訴える場所はない。

「儂らができることは、被害がこれ以上拡大せぬよう、放棄された動物たちを全て捕らえることだ。追加の人員は確保できたか? シュナイダー」

「ただいま、編成を行っております」

 

 とりあえず、当面の問題はすぐに収拾がついたが、リッテンハイム侯の敗北により、賊軍に与した貴族たちの全財産が没収となり ―― 再び、動物問題が浮上することになる。

 彼女はこれらの問題にも関わることになるが、それは随分と後のこと。

 


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