黒絹の皇妃   作:朱緒

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第95話

 二人を困らせている彼女だが、二度も眠りを妨げられ、睡魔も別の誰かを眠らせるために旅だってしまったため目が冴えてしまい、彼らを困らせることになる。

 

「……(困った)」

「……(どうしたものか)」

 

 彼女のベッドの下にいる二人は、彼女が眠る気配がないので、出るに出られず困っていた。

 もちろん、何事もなかったかのようにベッドの下から這い出て、一礼して部屋を出ることもできるが”私のベッドの下で、何をしていたのでしょう”と、彼女に不審に思われるのは、両者とも耐えがたいので、絶対に気取られず、部屋を去ろうと ―― 言葉は交わしていないが、視線だけで、互いの意思を読み取り合意した。

 通じ合ったあと、これほど義眼がものを語れるとは……オーベルシュタイン自身、驚愕するほどに。

 そんな義眼と黄玉を思わせる瞳とのアイコンタクトはともかく、二人はカーペットの上で身じろぎ一つせず、彼女が部屋から出て行くのを待った。

 ……が、彼女が出て行く気配はない。

 ここは彼女の寝室で、彼女は体調を崩しているのだから、当然のことなのだが。

 運が悪いというか、彼女のベッドはいわゆるキングサイズで、高さもかなりあるので、男性二人が潜んでも余裕があり、体勢としては楽に潜める。そのため、二人はためらいなく、潜伏を選んでしまった。

 

 時間が経てば経つほど出づらくなる ――

 

 二人がベッドの下で必死に気配を消していると、点滴を外すために医者がベルタと共に訪れた。

 新たな訪問者はベッドの下に軍人二名が這いつくばっている姿に気付いたが、キスリングが口元に人差し指を縦に置き”黙っていて下さい”のジェスチャーをする。

 医師もベルタも、彼女がいつも誘拐など、危険な状況に晒されていることを知らされていたので、キスリングとオーベルシュタインが、なにか重要な任に就いているのであろうと ―― 勝手に解釈してくれた。

 普段の真面目な行いに助けられた、とも言える。

 だが医師もベルタも警備に関する秘密事項なのだろうと考えたため、二人の真の望みには気付かず。

「もうしばらく、ここでお休みください」

「夜は別の部屋でお休みください。用意しておきますので」

 むしろ、二人がベッドの下で張っているので、彼女を移動させてはいけないだろうと考え、新しいシーツが敷かれたベッドへ移動させることもせず、部屋から出ることも勧めず、

「分かりました」

「お飲み物などはいかがですか?」

「もらいます」

「なになさいます?」

「ベルタが選んでください」

「かしこまりました。すぐにお持ちいたしますので」

 むしろ彼女がここに留まるように動いた。

 

 結局、ベッドの下の二人が彼女に気付かれず、部屋から脱出できたのは、日が傾いてから。

 

 各自の前にあるのはアイスバインとザワークラウトが盛られた皿。脇には黒パンが入ったバスケットが置かれ、両者の間には大きなバター。

 

「焦りましたよ」

「悪かった」

 彼女の部屋から脱出を果たした二人は、元帥府の食堂で、夕食を取りながら互いの状況を話し合った。

 

 キスリングはオーベルシュタインが点滴中の彼女の寝室に入ったと聞き、凶行を疑って駆けつけた。

 すると怪しげな薬瓶を持ったオーベルシュタインが、彼女の側にいたので、とかく身柄を確保して、彼女の安全を図ろうと飛びかかった。

 その際に大きな音がして、彼女が目を覚ます。

 彼女の声と、オーベルシュタインが手に持っていた薬物の瓶に未使用の封がついていることを確認したキスリングは、ひとまず胸をなで下ろし ―― そして今に至る。

 

 オーベルシュタインは落とした薬物を拾ったところで、全身に強い衝撃を覚えて、抵抗しようとしたが、キスリングであることに気付き、自分が持っている薬物を視界に捕らえていることも分かったので、彼が彼女を救うために突進してきたのだと理解し、一切の抵抗を止めた。

 彼女を殺そうとした自分が攻撃されることは、当然のことと考えていたので。

 ただし絶対譲れない条件があった。それは、彼女がいない場所での殺害。

 

 不穏な空気を漂わせながら、食事を取る二人を、ラインハルトの部下たちは遠巻きに見ていた。

 

「気持ちが分かるなどとは言いません。俺にはそちらが考えていることは全く分かりません。だからはっきりいいます。止めましょう」

「分かった」

「え?」

 オーベルシュタインがあっさりと認めたので、キスリングはまさに虚を衝かれ、二の句がつなげなかった。

「私は二度と行動にうつさないと誓おう……もっとも、私がなにもかけずに誓ったところで、信頼もなければ価値もないが」

「……信じますが、突然どうして考えを変えられたんですか?」

「ジークリンデさまがお美しいから……で、納得してもらえると助かるのだが」

「今更ですか」

「ああ」

「これ以上ない理由です……あ、そうだ。ミュラー……中将から、個人的にジークリンデさまのご様子を聞きたいという通信が入ってるんですが、駄目ですよね」

「むろん」

「諦めろって伝えます」

 

**********

 

彼女の死因は『毒物の経口摂取による、限りなく自殺にちかい他殺』と、されている ―― 誰がどのような毒を飲ませたのか? それを知るわずかな者たちは黙して語らず。ただ一人だけ語った者がいた。その者は皇帝の伴侶で、死の間際に皇帝に伝えた。これも、彼女の死と同じく「と、されている」で締められる類いの話となっている

 

**********

 

 彼女が睡魔の訪れを待ちながらホットミルクを飲み、ベッドの下で軍人二名が息を殺していた頃、彼女に来客があった。

 事務室と応接室、そして待機場所を兼ねている部屋に、

「ジークリンデの様子は?」

「ランズベルク伯」

 強制的に彼女ができたシューマッハを連れて、かの詩人伯爵はやってきた。

 出兵の準備中であったファーレンハイトが立ち上がり、ソファーにどうぞと勧めるが、ランズベルク伯は必要はないと手で制する。

 彼は長居をするつもりはなかった。

「少しばかり体調を崩されて、お休みになっております」

「そうか……新無憂宮に足を運んだと聞いたので、大丈夫かと思って誘いにきたのだが、遠出は無理か」

「どちらへ?」

「我が友レオンハルトの墓参りに」

 墓にたどり着くまで、かなり歩かなくてならないので、いまの彼女の体調と体力では、かなりの重労働となる。

「気分転換になりそうですが」

「体調が悪いジークリンデを連れていくなど、できるわけないだろう」

 ”無理はさせられない”意を込めて頭を振ると、フェルナー曰く「不必要にさらさら」と言われている髪が空を舞う。

「そうですね」

 ちなみにランズベルク伯の髪が美しいのは、十代皇帝エーリッヒ一世の時代、先代のアウグスト一世が残した髪の美しい寵姫をもらい受けたのが始まりだと。

 皇帝の寵姫をもらい受けることには、定評のあるランズベルク伯爵家らしいが、その頃からすでに十七代も下っているので、血など残っていないような ―― フェルナーは思ったが、その時は黙っていた。

 

 彼らしからぬ態度だが、その時は口を開けるような余裕はなかった。それというのも ――

 

 髪がさらさらなランズベルク伯は、シューマッハに手を差し出す。

 シューマッハはその手に、青い革表紙の本を乗せた。

「それで、これなのだが」

 シューマッハの表情を見て、それがなにか? ファーレンハイトはすぐにわかった。

「……詩集、ですね」

「ああ。仕事の合間に編んだ詩をまとめたのだよ」

―― 詩を編んでいる合間に仕事していた……の間違いではないのだろうか。まあ、良いが

「まだ字を読んだりできるほどまでは回復しておりませんので、お部屋に置いておくだけでいいでしょうか?」

 彼女は自分から何かすることができない状態なので、手渡すわけにはいかない。

「もちろんだ」

 裏表がないに等しい伯は、彼らが彼女のことを丁重に扱っていることに、非常に満足した。

「ジークリンデのことは任せたぞ。それでは行こうか、シューマッハ大佐」

「はい。閣下」

 シューマッハがやや困ったような、だが決して悪くはない笑みを浮かべ会釈をし、伯の後をついていった。

 ”墓前に捧げる花を買わねばな” ”手配しております” ”我が友に捧ぐ詩の朗読もせねば” ”それは、お好きになさってください”

 そんな会話をしながら、彼らは部屋から遠ざかって行く。

「……仕事に戻るとするか」

 ファーレンハイトは脇に立っているザンデルスから書類を受け取った。

 

**********

 

 日がな一日、天井を見て過ごすこと四日。

 彼女の熱は二日で下がったが、体力が落ちており怠さが抜けず、それから二日ほどベッドの上で過ごすことになった。

―― 天蓋を見ているのも……飽きました

 いままで靄がかかっていた意識が、理由は分からないが、徐々にはっきりとしてきたことに気付き、ベッドから降りて窓に近づく。

 窓の桟に指をかけ中庭を見ると、すでに新緑の頃を迎えていた ――

 泣いているうちに、冬も春も過ぎていったことを惜しいと感じ、今からでも外の空気を吸い、柔らかな緑の中を歩きたいと考えて、キスリングに声をかけた。

「キスリング」

「なんでしょう」

「一人で庭を散歩してきてもいいかしら?」

「……はい」

 彼女が自分から何かをしたいと言ったのは、葬儀が終わった日以来のことで、キスリングは咄嗟に返事をすることができなかった。

「靴を用意して」

 そんなキスリングを余所に、彼女は喪服のドレスを少しばかりつまみ、室内用のヒールも飾りもない黒い靴のつま先をあらわにする。

「お待ちください」

 ベルタが衣装部屋から彼女の靴と、日傘を持って大急ぎで戻ってきた。

 ひもの部分が幅の広いサテンリボンが特徴の、ふくらはぎの中程までの黒のレースアップブーツ。

 ベルタが靴を履かせ、その仕事を終えるとキスリングが、縁が黒いレースで覆われ、黒い布地に黒い糸で、風景が刺繍されている日傘を差し出す。

「日傘をお持ちください」

 彼女は微笑んで頷き、日傘を受け取り中庭へとつながる大きな窓へと近づく。

 窓の前、室内で傘を開き、窓が開くのを待ち ―― 室内に風が舞い込み、重い天鵞絨のカーテンの端がかすかに揺れ、眉のあたりで切りそろえられた、彼女の前髪が風に遊ばれる。

「気持ちの良い風ですね」

 彼女はそう言い、誰にも手を引かれず自らの意思で部屋から出た。

「ごゆっくりと」

 キスリングの声を背に、中軸を右肩に乗せ、空の広さを仰ぎ見て ―― 日傘があまり日傘の意味をなさない差し方で、芝生の上を歩き出した。

 

 通り抜ける風が日傘のレースをはためかせ、喪服の裾を踊らせる。

 彼女はひたすら歩き、立ち止まった。

「……」

―― 疲れた……でも、部屋からまだ出てすぐで、帰るのには……ちょっと

 約三か月、出歩かなかったどころか、何もしていなかったため、筋力も体力も落ち、足が動かなくなった。

 無理をして、もう少し進んでみたものの、膝が笑い出し、耐えられなくなり、日傘を手放して芝生に崩れ落ちた。

「もう、無理……どうやって、部屋に戻ろう……」

 一人で出てきたことを悔いていると、また風が吹き、日傘がどこかへと転がってゆく。

 まとめていない黒髪が彼女の視界を遮った。

―― 髪、けっこう伸びましたね……もうじき、レオンハルトが死んでから一年か……私はこれからどうしたら良いのかしら。……聞く相手もいませんが

 地面についている手を見つめていると、軍靴のつま先が視界の端に入り込んできた。誰なのか? 確認しようと頭を上げようとしたが、

「お嬢さま」

 相手の動きのほうが早く ―― 膝を折り声をかけてきたのはケスラー。

「……ウルリッヒ?」

 閉じた彼女の日傘を持ったケスラーが、片方の膝を地面について、できる限り視線の高さを合わせるようにして。

「大丈夫ですか? お嬢さま」

 彼女が幼かった頃、ケスラーはこうやって、足を折り腰をかがめて彼女の話を聞いていた。

「ウルリッヒ……」

 顔を持ち上げた彼女は、思っていたよりも近くにあったケスラーの顔を、まじまじと見つめる。

「なんでしょう、お嬢さま」

「ずっと近くにいてくれたの?」

「はい。呼んで下さるのを待っておりましたが、お呼びが掛からず……我慢できず、こうして勝手に近寄らせていただきました」

 精神的に不安定であった彼女は、顔を見せてくれる相手を除き、多くの親しい人の存在が、曖昧模糊になっていた。ケスラーもその一人。

「だってウルリッヒは、オーディンにいないと思ってたから。あなたは、エッシェンバッハ侯の部下ではありませんか」

「まことに……」

 彼女の精神と記憶の状態を知らないケスラーは、心底困ったといった表情を浮かべたそんな彼にに向かって、彼女は両手を広げる。

「歩けないから、抱き上げて。そして部屋まで連れていって」

「仰せのままに」

 彼女はケスラーの首に腕を回し、ケスラーは彼女の腰に腕を回して引き起こし、膝裏に腕を通して座らせるようにして抱き上げた。

 彼女は空を見上げ ―― ほんの少しだけだが、空が近くなった。そのことに、彼女の心は子供の時のように弾んだ。

 腕に日傘の持ち手をかけて、ケスラーは歩き出す。

「ウルリッヒ」

「はい」

「私は処刑されたり、流刑になったりはしないのですか?」

「なりませんよ」

「私はエッシェンバッハ侯の敵の門閥貴族ですよ。然るべき処置をするのが妥当だと思いますが?」

「そのようなことには、決してなりません。生活は今まで通りですので、ご安心ください」

 彼女は多くのものを失ったが、二十年来の望みが叶ったことを知った。

 苦労が実を結び、死ぬまで自由に生きられる権利を得られたのに、喜びなど一切存在しない、まさに虚ろなる勝利。

 そして、次の目的も決まった。

―― 次はいつ、どのようにして死ぬべきかを……考えなくては

 生き延びたことを後悔しないよう生きて、実のある敗北を持って死のうと。

「安心できないわ」

「私の言葉は、信用なりませんか?」

「ええ」

 ケスラーが信用できることは、彼女はよく知っているが、少しばかり困らせたかったので、そう耳元で囁いた。

「今までの私の至らなさを省みれば、それも致し方ありません」

 ケスラーは気を悪くするわけでもなく ―― 自分自身、そう考えていた節もあったので ―― 彼女の囁きにむしろ気分が高揚した。

「条件次第では、信じてあげてもいいわ」

「なんでございましょう」

「聞きたい?」

「ええ。是非とも」

「本当に?」

「はい」

 彼女はケスラーを困らせるつもりで、はにかみながら、

「ウルリッヒ、一生独身で、私に仕えてくれたら信じてあげる」

 幼い頃のように……まではいかないが、できる限り元気な声で。

 むろん、冗談のつもりだったのだが、

「それだけで、よろしいのですか?」

 ケスラーにとってその条件は、条件でもなんでもないため、笑みと呆然が入り交じり、落ち着いた雰囲気が漂う彼らしからぬ表情に。

「そうよ。……どうしたの? その顔」

「あまりのも簡単な条件で、少々拍子抜けしてしまいまして」

 まさか簡単と言われるとは思っていなかった彼女は、年上の余裕に少々腹を立て、かなり厳しい条件を提示したのだが、

「好きな人ができても、結婚も許さないし、内縁関係になることも許さないという意味なんだからね」

「まったく問題ございません」

 ケスラーには無意味で、それどころか、肩を震わせて笑われる始末。

「私が死ぬまで、自由はないということなのよ」

 なにがそれほど楽しいのか? 彼女には分からなかったが、

「それは光栄でございます」

―― 拍子抜けはこっちです。少しは困って欲しかったのに……なんでこんなに機嫌がいいのでしょう

 

 ケスラーとしては独身で側に仕えろというのは、幸せ以外のなにものでもない。

 

 これ以上、何を言っても余裕でかわされてしまうような気がした彼女は、話題を無理矢理変える。

「重いでしょう」

「五つの頃のお嬢さまに比べたら重みはありますが、重いという程ではありません。むしろ軽い位です」

「信用してあげる」

「希望を言わせていただきますと、もう少し重みがあったほうが、安心できます」

「安心……ですか?」

「いまのお嬢さまは、風吹かれると、倒れてしまいそうですので」

「そんなこと、ありませんよ……多分」

 

 先ほど歩いている時、風にあおられてバランスを崩した覚えがある彼女は、視線をそらしてやや早口で言い返して、つかまっている腕に力を込めて ―― 自分が幸せであることを実感した。

 


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