黒絹の皇妃   作:朱緒

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第94話

 ケンプの戦死はヤン・ウェンリーの出撃が早まったことにより生じた出来事である ――

 

**********

 

 元帥府にキスリングをつけた影武者を置き、彼女はリュッケと共に新無憂宮へと向かった。

 久しぶりに訪れた帝国の中心は、彼女が覚えている時と比較する必要もないほどに閑散としていた。

 多くの門閥貴族が新無憂宮に出入りするのを控えたため、なにに対してもほとんど興味を持たず、反応が鈍くなっていた彼女ですら感じるほどの、寒々しく裏寂れた墓所のような空間となっていた。

 久しぶりに出かけた彼女は、体力が落ちていたためリュッケの手を借りて、やっとの思いで南苑へとたどり着いた。

 皇帝一家の住居である南苑は、在りし日の華やかさは失われているものの、新無憂宮のなかでは、もっともかつての姿をとどめていた。

「ジークリンデ」

 南苑入り口で出迎えてくれたカタリナと抱き合い、久しぶりの再会を喜ぶ。

「なにも言わなくていいのよ、ジークリンデ」

 直接会うのは、あの二月の日以来。

「カタリナ……」

 二人の周囲は随分と変わり、彼女たち自身の立場も変わったが、それらを語り合うよりも、とりあえずは生きていることを喜び合うのが先。

 しばし抱き合って、カタリナは彼女のベールを持ち上げて、引き込まれるような神秘的な翡翠色の瞳をのぞき込む。

「さあ、陛下が待ってるわ」

 そしてまた歩き出す ―― だが、この時点ですでに一人では歩けなくなっていたので、リュッケが彼女を抱き上げた。

「自分で歩けない人は、新無憂宮に来る資格はないのですけれど」

 リュッケにつかまりながら、久しぶりの新無憂宮なので、香り玉を含んだ吐息が頬にかかるような位置で囁く。

 リュッケは聞こえなかったふりをして、彼女を抱いたまま、日差しが差し込んでいるのに、位雰囲気が漂う廊下を進んだ。

 しばらく進み、大きな扉の前に到着する。

「ここからは歩きましょう、ジークリンデ」

「そうですね」

 側にカザリン・ケートヘン一世がいる部屋の扉の前で、彼女は下ろしてもらった。

「あ……」

 黒檀の床に足をつけたのだが、力が入らず崩れ落ちそうになる。それらのことを予測していたリュッケは、彼女の胸の下に腕を通して倒れるのを防いだ。

「立てそう? ジークリンデ」

「大丈夫だと、思う……」

 今までにないほど、足に意識を集中して立ち上がる。

 少しばかり目眩がし、リュッケにつかまったまま固く目蓋を閉じて、

「歩けそう?」

 心配げなカタリナの問いかけに頷き、手を離した。

 躓かぬよう注意深く歩き ―― ラベンダー色の絨毯に座り、積み木で遊んでいるカザリン・ケートヘン一世の元へ。

「陛下。お約束どおり、あなたのカタリナが、陛下のジークリンデを連れてきましたよ」

 三角の積み木を持ったままカザリン・ケートヘン一世が、カタリナの声に反応して振り返る。

「……」

 彼女が久しぶりに見た皇帝は、かなり大きくなっていた。

 癖の強い髪はまだ短いが、両サイドをアクアマリンで飾られているピンで留められ、額がより一層はっきりとしている。

 やや下ぶくれ気味だった頬は、少しその膨らみが消えて、子供の成長を早さを彼女に感じさせた。

「お久しぶりです、陛下。忘れられてしまったかも知れませんが、ローエングラム……」

「じくー!」

 積み木を投げ捨て、子供特有の甲高い声で「じくー」と叫びながら、彼女へと駆け寄り ―― 彼女はバランスを崩し仰向けに倒れそうになったが、リュッケが支えて事なきを得た。

「陛下、覚えていてくださったのですね」

「忘れるはずないじゃないの。ねえ、陛下」

「じくー、じく!」

 しがみついて離れない皇帝と、しばらく体を動かしていなかったこともあり、あまり体に力が入らない彼女。

 ソファーに移動することもできず、その場に座り込み、

「陛下。よろしかったら」

 ”こちらへどうぞ”と太ももの辺りを軽く叩いて招く。

 待っていたとばかりに、皇帝は黒い布を上り、彼女が叩いた辺りに腰を下ろして抱きつき、顔を上げる。

「じくー」

「陛下」

「かざりん」

「陛下、ご自分のお名前を?」

「かざりん」

 彼女が喜ぶので、皇帝は自分の名を何度も大きな声で叫び、その都度彼女が褒めるを繰り返す。それのやり取りを見ているリュッケは、感心しながら見守っていた。

―― すごい忍耐力……違うか

 満面の笑みに自慢げな声で名乗り続ける皇帝と、素敵ですと手を叩きながら賞賛する彼女。会いたくてたまらなかった寵臣との再会に、皇帝は興奮しすぎ、テンションが高くなり……それから一時間ほどして彼女の膝の上で眠りに落ちた皇帝を、乳母が移動させにやってきた。

 喪服を小さな手で”ぎゅっ”と掴んだままの皇帝を起こさぬよう移動させるには、細心の注意を払う必要があり、かなりの時間を要して彼女の膝から引きはがした。

 重みが消えた部分に触れ、喪服から消えてゆく暖かみに爪を立てる。

「ジークリンデさま、そろそろお時間です」

「そうですね」

「体調が良くなったら、また来てね、ジークリンデ」

「ええ、カタリナ」

 リュッケの手を借りて彼女は立ち上がった。

―― ずっと座っていたのに、足が……背中も……

 全身を覆う怠さを堪え、彼女は歩こうとするが、足は僅かほども上がらなかった。

「リュッケ。抱きかかえなさい」

 もはや歩くことはできないであろう彼女を運ぶように、カタリナが命じる。

「は、はい。では、失礼させていただきます」

「お願いするわ、リュッケ」

 体を預けられたリュッケは、先ほどもそうだが、彼女のあまりの軽さに不安を覚えつつ、世に言うお姫さま抱きをする。

「見送りはいいわ、カタリナ」

「そう? でも正面入り口まで別口の護衛が必要よね。リューネブルクをつけてやって」

 カタリナが侍従に命じる。

 若い侍従は心得ましたと頭を下げて、早足で部屋を出て行った。

「トマホークもって、後ろをついていくでしょう」

 ”では失礼いたします”

 彼女を抱き上げたまま、リュッケが頭を下げると、軽い足音が近づいてくる。

「じくー!」

 皇帝は短い眠りから元気に目覚め、彼女を捜し求めて引き返してきた。

「……失礼いたします!」

 皇帝の灰色の瞳が見開かれ、意味不明な声を上げながら追ってくる。

 おそらく”わらわのジークリンデを返せ! この賊臣め! 返せー!”叫んでいるのであろう。

 リュッケは全力で皇帝の前を辞し、

「……」

 ある程度泣いた皇帝は、虫の居所が悪いのが一目で分かる、眉間に微かに皺を寄せ、唇をきゅっと引き締め「あの賊臣に、いつの日か」 ―― テオドール・フォン・リュッケ。皇帝カザリン・ケートヘン一世に敵と認定された日であった。

 

**********

 

 リュッケが皇帝カザリン・ケートヘン一世に、銀河帝国の敵認定されたとき、キスリングは元帥府で、彼女の影武者を務めている女性の警護についていた。

 彼女の部屋で静かに座っている女性の側に立ち、彼女が帰ってくるのを待つ。

「あの……」

「なんでございましょう」

 打ち合わせでは、原則無言(声の誤魔化しがきかないため)と決められていたが、喋ることを禁止しているわけではない。なにか異変や、困ったことがあった場合は、速やかに告げるよう ―― オーベルシュタインが影武者たちの説明をしていたので、その類いのことだろうと考え「彼女に対するように」キスリングは返事をかえした。

「フェルナーさんへのお見舞い、受け取ってもらえますか?」

「はいとは言えませんが、お預かりはいたします」

「ありがとうございます」

 元側室たちは見舞いの品を考えたが、これといった品が思い浮かばず。

 それなりにフェルナーのことを知っているつもりであったが、彼の好きなものなど「彼女」以外、思い当たらず、結局「無粋な上にお手数をおかけしますが、このお金でフェルナーさんのお好きなものを買って、見舞いにしてください」と手紙を添えて”同僚の軍人さん”に渡すことに。

 彼女が帰ってきて、影武者の任を終えた元側室を送り届けたあと、手紙に目を通したキスリングは、どうしたものかと悩んだが ――

「フェルナーの好きなものなあ」

「キャゼルヌさん、なにか心当たりありますか?」

 背後からのぞき込んできた相手に尋ねた。

「現金そのままで、いいんじゃないか」

「俺もそんな気はしたんですけれど」

「見舞いは解禁になったんだよな?」

 フェルナーは入院していることが知られたので、見舞いを受け入れる方針に切り替えた。

「はい」

「じゃあ、好き嫌いはこの際気にせず、見舞いの品に含まれていないのにしたらどうだ?」

 キャゼルヌの意見は普通の入院患者ならば良かったのだが、現時点でのフェルナーには適さなかった。

「あー。見舞いは許可されてますけど、見舞いの品は受け付けてませんから」

 彼女を誘拐する者たちが、もっとも警戒する男の一人であり、某貴婦人に狙われている身の上なので、見舞いに来る者たちのボディチェックは丹念に行われ、病室には護衛も増やされ、爆発物や毒物の危険を回避するために、見舞い品は受け付けていない。

「なるほどねえ。貴人の警護や、重要人物の入院とか、経験したことがないから、分からなかった。話を聞けば、当然だろうとは思うが、なかなか思い浮かばないものだな」

「専門外のことですから、仕方ないことかと」

「かもな」

「それにしても、女性の見舞、多いですね」

 厳重な警備の元、見舞いに来た者たちの、名簿が作成されていた。

 その名簿を見て、キスリングはつくづくと頷く。

 フェルナーの入院を知った知人たちが、軍病院に見舞いに訪れていた。

 男性の見舞客は、ほとんど軍人なのだが、女性の見舞客は多種多様。

 年齢から見た目まで、その範囲の広さに護衛が不審の表情を浮かべてしまうくらいに、まさに色とりどりであった。

「だな。まあ、顔といい声といい雰囲気といい、女に好かれそうな要素を、ほとんど兼ね備えているからな。当たり前ちゃあ、当たり前だ」

「ですよね」

 

 二人は悩んだ末、無難に暇つぶし用の本を何冊か買い、余剰分は自由に使ってもらうことに決め ―― 比較的時間のあるキャゼルヌが届けに行った。

 

**********

 

 新無憂宮へと出向いた翌日、彼女は高熱を出して寝込んだ。

 久しぶりの外出が、思いの外、負担になった ―― 体をまったく動かしておらず、体力が著しく低下していたのだから当然とも言える。

 動くのは億劫だが、冷たいシーツを求めて体を移動させる……を、繰り返していた。

 熱が引く気配もなく、喉の痛みから水分を取ろうともしないので、医師は彼女に点滴を打った。

 帝国の点滴は動き回っても外れはしないし、問題はないのだが、彼女の記憶のなかには、点滴と言えば動かない……という認識があるので、なんとなく動けなくなってしまう。

 彼女の記憶にある大昔と変わらず、口内に広がる薬品の味に、やや辟易するも、熱が僅かばかり下がり、いつの間にか眠りに落ちた。

 昼間の日差しが入り込んでいる明るい室内での、浅い眠りであったので、人の気配を感じ、重い目蓋を開いて、誰が側にいるのかを確認した。

「……オーベ……ルシュタイン?」

 そこには、管の部分をなにやら触っているオーベルシュタインがいた。

 彼女はオーベルシュタインが何をしようとしているのか? 当たり前のことだが、見当もつかなかった。

「お休みのところ、お邪魔してしまい、申し訳ございません」

 彼女が目覚めたことに驚いたオーベルシュタインだが、できる限り平静を装い、混入しようとしていた薬物を握り込む。彼がしようとしていたのは、当然ながら彼女の点滴に薬物を混入し、永久に眠ったままにすること。

「起こしてくれる」

 彼女は自由が利くほうの手を差し出し、体を起こすのを手伝ってくれと微笑を浮かべて頼む。

 久方ぶりに見た彼女の笑顔に、オーベルシュタインは握り込んでいた薬物の入った瓶を落とした。

 瓶が割れることはなかったが、固い音を響かせて転がる。

「なにか落ちた? みたいですけれど……」

「気になさる必要はございません」

「そうですか」

 オーベルシュタインは彼女の希望通り、上体を起こそうとほっそりとした手首に触れる。そこから伝わってくる脈。

「背中に手を添えてもよろしいでしょうか?」

 オーベルシュタインが今、止めようとしたものでもあった。

「ええ」

 肩胛骨がはっきりと分かる背中に手をあてて、注意深く体を起こし、クッションを天板との間につめる。

「いかがでしょう?」

「丁度いいわ」

 上気し色づいた頬と唇。熱で潤んだ瞳。扇情的に見えそうなものだが、今の彼女の体調のせいか、儚いものにしか見えなかった。

 オーベルシュタインは床に落ちた瓶に視線を移す。拾い上げ、混入させようかと ――

「なにか用事でもあったの?」

「あの……」

 なんと答えるべきか悩んだオーベルシュタインは、言葉を濁した。

「ご容態が気になりまして。様子をうかがいにきて、お休みを妨げてしまうという、本末転倒なことをしでかしてしまい……」

「わざわざ様子を見にきてくれたの」

「”わざわざ”は必要ありません」

「そう。じゃあ、オーベルシュタインも私が目を覚ましたこと、気にすることはないわ」

 彼女は相変わらず、疑いもせず。

 オーベルシュタインは自分に向けられる信頼に好意を持っているが、それは同時に鈍くどこが痛んでいるのか分からない痛みをも伴う。

「かしこまりました。なにか足りないものなどは、ございませんか?」

「足りないものはありませんが……」

 彼女は首に掛かる黒髪を一纏めにし、眠る前に外し枕元においていた、白いサテン地にラピスラズリがアクセントになっているシュシュを手にとって、緩くまとめる。

「なんでも言いつけてください」

 彼女はオーベルシュタインから視線を外し、うつむき加減になりベースコートだけ塗っている自分の爪を見て尋ねた。

「エッシェンバッハ侯は、ご無事ですか?」

 ラインハルトが戦死することはないと、彼女も知ってはいるが ―― それでも気になった。今の今まで、全く気にしてはいなかったが、ふとあの豪奢な金髪の青年が思い浮かんだ。

「ご無事です。かの戦争の天才を、心配する必要はないと存じます」

「そうですか」

「侯の戦死をお望みですか?」

 望むのならば、これから殺してきますと言わんばかりのオーベルシュタインの問いかけに、彼女は首を振る。

「……いいえ。信じてもらえるかどうか分かりませんけれど、そんなこと望んではおりません」

 緩くまとめた髪の幾筋かがこぼれ、僅かに汗ばんでいる白い肌に吸い付く。

 その黒髪はネックレスなどで飾られるよりも、ずっと美しい装飾品となった。

「失礼いたしました」

 ただ少しだけ疲れたような表情を浮かべた彼女を前に、オーベルシュタインはラインハルトに対するわだかまりが大きくなる。

 そのオーベルシュタインの内心が分からない彼女は、一つだけ頼みごとをした。

「でも……まだしばらくは会いたくないと言いますか、もう少し時間が欲しい」

「かしこまりました。その際は、私が取り次がせていただきます」

「頼みますね」

 

 会話には齟齬がつきもの。特に「あまり会いたくはない彼女」と「彼女に会わせたくはないオーベルシュタイン」の間では、解釈に隔たりがあって然るべしこと。

 

 彼女はラインハルトが帰還したら教えて欲しいと言ったつもりであったが、あくまでも”つもり”であって、実際そんな台詞にはなっていない。

 だからオーベルシュタインは彼女の台詞を聞き「自分が会いたいと言うまでは、排除してくれ」と解釈。

 結果として彼女はラインハルトの帰還を知らぬまま、三ヶ月も過ごすことになる。

 

 オーベルシュタインが本気を出して情報を統制したら、彼女に知る術などない ――

 

 近い将来起こる、夫ラインハルトとの彼女だけが知らなかった、驚きの再会。

 彼女には分かるはずもなく。

「オーベルシュタイン、手を触ってもいいかしら?」

「右手でしょうか? 左手でしょうか?」

「どちらでも良いのですけれど」

 オーベルシュタインは右手を左の二の腕で拭いて差し出した。

 彼らしからぬ行動のようだが、彼らしい行動にも見え、彼女はなんとなく微笑ましい気分になった。

 差し出されたやや骨張ったオーベルシュタインの手を、彼女は撫でる。

「貴族らしい手ね」

「さほどでもないと思いますが」

 彼女の繊細な手とは比べようもない手だが、たしかに手入れが行き届いていた。

「なんか、眠くなってきました」

 やや冷たいオーベルシュタインの手に触れていると、不意に眠気が訪れた。

「お休みのところ、お騒がせして申し訳ございませんでした」

「眠るまで、手を握っていてもいいかしら」

「私の手などでよろしければ」

 クッションが外され、平らになったベッドで彼女は目を閉じる。

 彼女のやや熱を持った手の力が徐々に弱まり、微かな寝息が聞こえだす。

 彼女は髪をほどかずに寝てしまったので、寝苦しくはないだろうかと、彼女が握っている自分の手をするりと引き抜く。艶やかな髪が白い枕の上にこぼれ広がる。

「……」

 

 オーベルシュタインは彼女に深々と礼をして、落とした薬物の瓶を拾い上げ ――

 

「な、何事ですか?」

 間近の轟音に驚き、彼女は目を覚まし、体をひねって起き上がった。

「え……」

 周りを見回すが、なにも変わったところはなく、外から小鳥のさえずりが聞こえてくるくらいに、室内は静かであった。

「夢? ……ですか」

 納得はいかないものの、熱に浮かされて、異音を作り出してしまったのだろうと自分に言い聞かせ、彼女は枕に頭を乗せて目を閉じる。

 

 彼女が眠っている、高さのあるベッドの下には薬物の瓶を持ったオーベルシュタインと、彼を取り押さえているキスリングの姿があった。

 


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