あちらこちらから包帯がのぞく、五分丈の水色のチュニックの入院服を着用し、ベッドを起こして背もたれにして、報告書を読んでいたフェルナーの元に、ファーレンハイトが近況報告へとやってきた。
「フェルナー。喉の調子はどうだ?」
感染症の恐れもなくなったので、一般病棟に移動した。
フェルナーが移動した病室は個室で、かなりの広さがある。
部屋の調度品類は彼女が入院していた特別室とは比べようもないが、安っぽくはない来客用の椅子やテーブルに机などが備え付けられている。
壁や天井などは、やや青みがかった白で統一されており、リネン類は白味が強いモスグリーンで統一されていた。
ベッド脇に置かれている天板付きの小さなチェスト。
トレイの上には、ストローが挿された水の入ったコップが。
フェルナーはそのコップを手に取り、少しばかり水を飲み、喉を潤す。
「ファーレンハイト。まだ違和感はありますけれど、痛みなどはないので平気です」
左目の治療も行われており、黒いアイパッチを装着していた。
「そうか。ところで、お前の入院がばれた経緯、分かったぞ」
椅子をベッド脇まで引き、腰を下ろしたファーレンハイトの顔色は冴えなかった。
―― もともと顔色が良い時はない人ですが、それにしても酷い……
「説明は聞きたいのですが、その前に。随分やつれましたね、ファーレンハイト」
「ああ……カタリナさまが……」
やつれ方から、それ以外はないだろうと思ったフェルナーだが”それにしても酷い”と……。そして負傷しているいま、出来ることは、話を聞くことだけだろうと、書類が映っている画面を消して端末をチェストに置き、目を見て話せるように、ベッドをもう少し起こして体勢を整える。
「そうだとは思いましたが……語りやすい方からお願いします」
「お前がジークリンデさまの忠臣なのが原因だった。あと、無類のふてぶてしさも」
「……はい?」
自分がふてぶてしいことは、自覚しているフェルナーだが、彼女の忠臣と他者に評価されるのは、喜ばしさはあれど、それを上回る恥ずかしさがある。
「エーレンベルクの死亡発表と同時に、軍法会議所の爆破で死亡した者たちなど、テロに巻き込まれて死んだ軍人たちが一斉に発表された。お前はそのリストに載っていなかった」
フェルナーがエリザベートに襲われたのは、エーレンベルクの死亡が確定してからなのは、これが関係していた。
「一応、死んでませんので」
「テロに巻き込まれた軍人の死亡者リストに載っていない、フライリヒラート家で葬儀を出してもらってもいない。だがジークリンデさまの側にいない。だから入院している……リューネブルク夫人は、そのような消去法で軍病院にたどり着いた。それと、リューネブルク夫人だけではなく、広く知られたので、もはや秘密にしておくのは意味なしということで、お前の実家にも連絡を入れた。父君から、息子のことよろしくお願いしますと頼まれた」
「実家に連絡はどうでもいいんですが、広く知られたって? どういうことです。誰かが漏らしたんですか?」
ファーレンハイトは頷いて肯定し、手で口元を隠しながら、先日、彼女の影武者候補たちと妹とカタリナたちの茶会で語られた話を、かいつまんで説明する。
「漏らしたのは、エッシェンバッハ侯の部下だ。侯がいくら高潔であろうが、侯にいくら心酔していようが、人間性は簡単には変わらん」
「誰がどうやって聞き出したんですか?」
「西苑の元側室たちだ。彼女たち、巻き込まれたジークリンデさまのことを心配していたところ、お前の姿が見えないのが気になったんだそうだ。死亡リストにも載っていない、元帥府に出入りしている姿も見えない。だから入院だろうと判断したそうだ」
貴族の使用人は、一家で住み込みで働いている者も多かった。
彼らは事件に巻き込まれ、殺害されてしまったのだが、全員が一箇所に住んでいたため、家族全員殺害され、葬儀を上げる身内も、遺体を引き取る親族も見当たらないものが多く、伯爵家でまとめて葬儀を出し、埋葬場所も確保した。
長引く戦争で血縁は途絶えるが、門閥貴族の使用人同士は、それなりに交流がある。
顔見知りが死ねば花の一つも手向けたくなるもの。
伯爵家は賊軍には与していないこともあって、埋葬地を訪れる者は、途絶えることはなかった。(使用人はほとんど、オーディンに埋葬。貴族は領地の墓所へ埋葬される)
墓参りに来た者たちに、死亡した伯爵家の使用人のリストを配っていたのだが ―― そこには当然ながら、フェルナーの名前はない。
伯爵家の使用人ではないから当たり前なのだが、死んだら葬儀を出してもらえるのではないか? 使用人たちが考える程、フェルナーは伯爵に気に入られていた。
なにせ「娘の再婚相手になって、伯爵家を継がないかね?」そう言われていたほどなのだから、使用人たちがそのように考えても仕方はない。
では何故みんな、死んだと考えたのか? ―― リヒテンラーデ公の国葬の際、彼女の近くにいなかったのが理由であった。
「えっと……」
「あの状態のジークリンデさまの側にいないから、死んだんだろうと。不思議なことに、誰もお前が怪我をして入院しているとは、考えなかったらしい。抜け目ない、というイメージがあるんだろうな」
フェルナーを知っている人たちは、多かれ少なかれ”入院はしていない”という、先入観のようなものがあった。
「イメージ崩して済みませんって、謝ったほうがいいでしょうかね」
「要らんだろ。それで、伯爵家では葬儀は出さなかったが、軍の合同葬儀に回されたに違いないと考え、お前のために合同葬儀に出席しようと考えてくれた人が多数いたのだが、入り口で軍の死亡者リストを確認しても載っていない。では、生きているのだろう。だが、元帥府に出入りしていない。じゃあ入院だということで知られた」
「元帥府に出入りしていないって、どうして知られたんですか? 誰か張り込んでいたりしたんですか?」
「治安や客層の良さを考えて、エッシェンバッハ侯の元帥府の周囲で、サンドイッチの路上販売店のアルバイトしていた元側室がいてな。毎日通っているうちに、俺たち……というか、その元側室は俺に気付いて、ジークリンデさまが元帥府にいることを確信した。だが、お前が元帥府に足を運ばないことが気になって、今でも連絡を取り合っている元側室たちに連絡を取った。話を聞いた元側室たちも気になっていたらしく、共に捜し初めて……リーゼロッテ・ボルツマンにたどり着いた」
元側室たちにとって西苑での生活は、楽しくもなければ、華やかなものではなかったが、戦争で裏寂れてしまった生まれ故郷に帰る気持ちにもなれず、オーディンに留まった者も多かった。
そんな側室たちは、頼りにするわけではないが、連絡先を知っていたら寂しさも少し紛れると、アドレスを交換しており ――
「シューマッハ好きな、リーゼロッテ嬢?」
「そうだ。ボルツマンも保証人になってくれたお前のことを心配していて、知人から連絡が来た際に一緒に捜すことを約束して、伝手を頼ったら、リューネブルク夫人にたどり着いた。リューネブルク夫人とリーゼロッテ・ボルツマンは、側室だった時期が被ってるからな」
「……」
傷口すら残っていないのだが、その名を聞くとフェルナーの左脇腹が疼く。
「とにかくお前の忠臣ぶりは、側室の間では有名で、ジークリンデさまのお優しさ、お前がグントラムさまに気に入られていたことも知られていたから、伯爵家で葬儀を出していないのなら、生きているに違い。だが側にいないということは、なんらかの事情があるはず……そこからは、本気出した女は強かった」
雑な扱いをされていた側室たちだが、皇帝の趣味ではなかったので、寵愛を受けなかっただけ。
百億以上の民の中から選ばれた側室たちは、市井にあってはなかなかの美貌の持ち主である。
娼婦になった知り合いや、金持ちに囲われている者たちとも連絡を取り、その美しさを武器に、酒が提供される場所に潜り込み、酒精の力を借り、元帥府の軍人たちの口をなめらかにさせ、フェルナーが大火傷を負って入院したという情報を掴んだ。
「すごい……でも、なんで私のこと調べるんですか?」
「死んでたら、ジークリンデさまを残して死んだ馬鹿と、墓前で全力で罵ってやろうと考えていたそうだ。大火傷を負ったと聞き、全員矛先を収めてくれたが。とにかく、”ご家族を失ったジークリンデさまの側に、フェルナーさんがいない筈がない!”なる大前提で動いた結果、秘密を暴露されたといったところだ」
どれほど規律を正しても、酒が入ると口が軽くなる者は大勢いる。
全ての部下が自制心や誠実さ、真面目さを持ち合わせているわけではなく、生涯、一兵卒で終わるであろう彼らの性質では、美少女を前に口を滑らせても致し方ないというものだ。
「そして残念な報告がある」
「なんですか? これ以上、残念なことがあるんですか?」
「側室たちは真実にたどり着き、お前の居場所を突き止めたわけではないので、負傷理由を想像で補った。そのせいで、世間では、お前はジークリンデさまを守って、重傷を負ったことになってしまった」
伯爵家にいた召使いたちは、あの日、フェルナーを見かけていないと、誰に聞かれても正直に答える。
だが大火傷を負った ―― となると、きっと彼女を救い出して大火傷を負ったのだと、側室たちは推測し、多分そうに違いないと言い合って、結果、真実となりつつあった。
「……」
「ジークリンデさまが一命を取り留めたのは、お前が身を挺し守った結果だと。現状では否定できないので、諦めて姫君を守った一兵卒として賞賛を浴びていろ」
危機的状況の時に、彼女の側にいないような役立たずだと思われていないことは、嬉しいのだが、その思い込みによる賞賛は、いまのフェルナーにとって、罪状を並べ立てられ、白眼視されるよりも辛い状況であった。
「最悪だ」
肩を落とし、やっと皮膚が馴染んできた手を固く握りしめる。
「これが、お前の入院が知られた経緯だ。……で、カタリナさまなんだが……影武者の話はしたな」
ファーレンハイトは慰めることはせず、話を続ける。
「聞いてますよ」
「シュテファニーも影武者にと、連れていったんだ」
「そうですか」
「……そしてカタリナさまだ」
―― カタリナさまですよね
「なにが、あったんですか?」
俯いたまま心の中で合いの手を入れながら、カタリナが取りそうな行動を思い描いた。
「シュテファニーのことを気に入ってくださったようで”私のところに、行儀見習いにきなさい”と、畏れ多いお言葉をいただいた。お断りしたかったのだが、勘当家長の俺にできるはずもなく」
うちひしがれていたフェルナーが頭を上げると、ファーレンハイトが頭を抱えて俯いていた。
「勘当されてて、良かったですね」
妹がカタリナから多大な影響を受けたら、手に負えないと ―― 物語っている肩を慰めるようにフェルナーは叩く。
「そうだな。俺は二度と実家に帰らん」
「カタリナさまの邸に呼び出されたら、どうするんですか?」
ファーレンハイトが宣言し実行しようとも、カタリナには関係のないこと。
「……ついてきてくれないか? アントン」
「いいですよ、アーダルベルト。そのかわり、私が呼び出された時には同行してくださいね」
「ああ、もちろんだ。出征している可能性もあるが、その時は……許せ」
「カタリナさまのことですから、立派な淑女のマナーを教えてくださいますよ。それと比例して、気も強くなりそうですが……」
ファーレンハイトとフェルナーは、二人で訪問すればカタリナの猛攻が二分の一になるかのような勘違いをしているが、実際は二乗されるだけのことである。二人がそれに気づけないのは、そこに彼女がいることで、猛攻の何割かを自身でうまく中和しているだけのこと。
「ところで、ジークリンデさまのご様子は?」
そして最も重要な話題である、彼女の様子について。
「儚いとしか言いようはないが、それでも笑われるようにはなった」
「良かった……だいぶ落ち着かれたわけですね」
「まあな。だがこの辺りが、最も目を離せない時期だ」
「どういうことです?」
「無気力な時期は自殺もしないが、少し立ち直ると、ふとした瞬間に自殺を図ることがある」
彼女の自殺について話が及ぶ。
「自殺なさるような素振り、あったんですか?」
「俺が確認していないだけで、二、三度くらいは自殺未遂している可能性はある。ただの勘だが」
「分かるものなのですか?」
「お前もお側にいたら、分かるはずだ」
ファーレンハイトは”勘”と称したが、キスリングが誤魔化した彼女の入水未遂。その日、彼女の様子をうかがいに部屋へと入り ―― まだ起きていた彼女に、メルカッツの言葉を念頭に置いて話し掛けた。
彼女は最初少し驚いたような表情を浮かべ、そして、はらはらと涙を落とし「ごめんなさい。もう少し自分は強いと思っていた」俯いた。
泣いている彼女を抱きしめて落ち着かせ、その言葉の意味に気付いたが、問いただすことはしなかった。
「私にそれほど脱走させたいのですか?」
「いいや」
「室内は自殺できないよう、危険は遠ざけているのでしょう?」
「完璧に近いはずだ」
飛び降り自殺などができないように、部屋は当然一階。
室内には刃物はもちろん、先端が尖っているものは全て排除されている。
鏡やガラスは簡単に割ることができない加工が施され、シーツなども簡単に引き裂けないよう強度を上げたものを使用している。
着衣はさすがにそのような加工をしたものを使用できないので、ノブの類いは全て力をかけるとすぐに外れるよう、細工がなされている。
「ジークリンデさまが自殺しようとしたら、止めますか?」
「難しいな」
そこまでしておきながら、自殺を止めるとはっきり言い切れないのは、様々な葛藤があるからこそ。
「そうですか」
「ところでフェルナー。お前左目が完治していなくとも、ジークリンデさまの護衛は可能か?」
「できますよ。今すぐ退院して、護衛に付けと命じてくれてもいいですよ」
「今すぐではないが、エッシェンバッハ侯の賊軍討伐が、最終局面に突入した」
ラインハルトが勝てばファーレンハイトたちはオーディンを離れる。
現在、彼女の護衛は足りているが、当然彼らは、彼女を支える者ではない。
「予想より早くに終わりそうですね」
「ああ。だが、リッテンハイム侯は随分と持ちこたえた、反乱軍の助けがあったにしても」
「助け? ……主だった将官に、戦死者が出ましたか」
「ケンプが戦死した」
ヤンの出撃が早まり、そしてケンプの戦死も早まった。
「反乱軍の指揮官は、ヤン・ウェンリーでしたっけ?」
「そうだ」
「厄介な相手ですね」
「そうだな」
―― そういえば、あの下手くそな帝国語の手紙も、焼失したのか
ケーフェンヒラーの家族宛に届いた、ヤンからの手紙。
彼女は実家で保管していたので、当然、焼けてなくなってしまった。
それをフェルナーは惜しいとは思わない。今ままで思い出しもしなかったのだから ―― だが彼女は残念がるだろうなと思うと、心が痛んだ。
「……ところで、ジークリンデさまが笑われたって言いましたけど、なにかきっかけになることが、あったんですか?」
「リュッケの怖ろしく似合わない女装を見て”くすり”となさったそうだ。警護のユンゲルスも、ベルタ殿も確認した」
「なんでまた、女装などを」
「若い連中は、リュッケを影武者にするつもりだったらしい」
「あ……ジークリンデさまが笑ったなら、無駄ではなかったってことですね」
「ああ。それを聞いて、俺も女装して部屋へお邪魔したら、笑って下さるのではないかと思い実行しようとしたのだが、室内にいた全員に止められた」
カタリナたちが帰り、リュッケが女装を解いたあと「服を貸せ、リュッケ。ザンデルス、かつらを寄こせ」と言ったファーレンハイトを、副官のザンデルス以下、全員が全力で止めた。
その時ばかりは、平民も下級貴族もフェザーン人も、自殺反対派も自殺推奨派も、
―― 十年来の忠臣が、笑わせるためだけに女装したら、ジークリンデさま泣きますから
同じ意見であった。
「なぜでしょうね?」
台詞だけ聞いていると、含みがありそうだが、今のフェルナーに毒は一切ない。
「分からん。似合わない自信はあるから、きっと笑っていただけると」
「ですね。なんで止めたんでしょうね。隙を見て、女装してみたらどうですか?」
ただ、毒はないが、やはりフェルナーはフェルナーであった。