黒絹の皇妃   作:朱緒

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第90話

 メルカッツの尚書就任から数日後 ――

 

 夜半過ぎにキスリングからヴィジフォンが入った。

『フェルナー少将。お時間をいただきたいのですが、よろしいでしょうか』

 眠っていたフェルナーは着信音で目を覚まし、すぐに通信をつないだ。

[それは構わないが。ジークリンデさまの警護は?]

 私的な連絡を寄こすには非常識な時間だが、そんなことはないだろうと、フェルナーは眠気をすぐさま払い、文字を打ち込む。

『交代です。いまはユンゲルスが付いています。メールでやり取りしたいのですが、よろしいでしょうか?』

[いいぞ]

 そろそろ声を出しても大丈夫と、医師に言われたフェルナーは、喉のあたりを触る。

[それで?]

 顔は見ているが、文字での会話という、手間のかかる状態で、話は始まった。

<あのですね。……貴族って、簡単に自殺したり、させたりするものなんですか?>

 本人が本当に自害できるかどうかは別として、面倒が起きると殺害し「自害」として処理し、名誉を守ろうとするのは、貴族社会では決して珍しいことではない。

[なんの話だ]

 名誉を守るために自害、死刑は不名誉だから自裁 ――  だが平民にはそれらは、理解しがたいものであった。

<パウルさんが”ジークリンデさまが苦しそうなので、これ以上苦しませないために、点滴に薬物を混入させて眠るように、ご家族の元へ送るべきだ”と、二週間くらい前から言ってまして>

[あ……それで?]

<持ちかけられた提督は”それはあくまでも、ジークリンデさまのご意志によって決めるべきだ。お望みならば、止めはしない。だが門閥貴族の当主である以上、家臣が点滴に薬物を混入させて、知らぬままに、などという手段はよくない。ご自身の決断で自裁なさるべきであろう”と>

[なるほど……お前は、二人の話を聞いて、どう思った?]

<俺の正直な気持ちを言わせてもらいますと、貴族おかしい。なんで自殺させたり、殺したりに、あれほど抵抗がないんですか? 俺も敵を殺すのには抵抗は感じませんが、これはそれとは違います>

 キスリングは白兵戦を得意とし、同盟の前線基地を襲撃することもままあった。

 同盟の前線基地には女性兵士もいるが、一瞬たりとも躊躇わずに殺害することができる。そんな彼だが、前線でもない場所で、毒を盛るというのは、耐えがたいものがあった。

[その二人は、下級だとか、貧乏だとか、農奴のほうがまだマシな生活しているとか、色々言っても、根は貴族だから、どうしても貴族的な考えになるんだ]

 貧乏と農奴のほうがマシに関しては、オーベルシュタインは関係ないのはさておき、貴族はやはり貴族であり、根本的なところで、考え方が平民とは全く異なる。

 帝国騎士である自分たちは、貴族の矜持などないと彼らは言うが、彼らの矜持自体が貴族のそれであり、有爵貴族と差はない。

 むしろ余分なものを持っていないせいで、研ぎ澄まされているほど。

<フェルナー少将はジークリンデさまの自殺に関しては、どのようにお考えですか?>

[二人を足したようなところだな。ジークリンデさまが希望するなら、毒は用意するが、自ら口に運ぶのではなく、眠っている間に……といったところだ。でも、今のジークリンデさまは、まともな判断ができるような状態ではないだろう。だから、お前と同じく、自殺は反対だな]

 キスリングはフェルナーが彼女の父親を撃ち殺した場面 ―― あの場面ならば、自殺を選んでも仕方ないとは思うのだが、彼らが彼女に対して自殺を勧めようとしているのには、同意できなかった。

 

 その自殺推奨派とでもいうべき彼らが、最後の一歩を踏み出さないのは、彼女の意思がはっきりと分からないため。

 彼女が死にたいと言わないからである。

 

<実は、メルカッツ提督の尚書就任を祝うパーティーに、提督とパウルさん参加した日、ジークリンデさま自殺未遂っぽいことをなさったんですよ>

[聞いていないが]

 だが彼女が自殺未遂をしたとなると、事態は急変する。

<提督もパウルさんも知りません。喋ったら、提督やパウルさんが、殺害に向けて本格的に動き出しそうで。そうなったら、止めようがありません>

 その日、自殺に否定的なキスリングが警備についていたのは彼女にとって、”おそらく”幸いであった。

[主治医にも隠したのか?]

<はい。幸いすぐに発見することができましたので。それに主治医はパウルさんから、毒の種類だとか、どのような状態で点滴に混ぜたら良いかなど聞かれているのですが、止めるような素振りもなくて……あの主治医も貴族ですから、どちらかというと二人寄りに見えるんですよ>

[それで、ジークリンデさまの自殺未遂とは、どのような方法をとったのだ?]

<明確に自殺しようとした……とは言い切れないんですが、蛇口を最大にして、水があふれ出すバスタブに着衣のまま沈みかかっていました>

[湯ではなくて、水なのか?]

<はい。引き上げたら、すぐに目を開かれました。体は冷え切っていらっしゃいましたが、後日風邪をひくこともありませんでした>

[そうか]

―― 微熱は三日ほど続きましたが……それは、フェルナーさんには言わないように命じられているので

 日々病院を抜けだそうとしているフェルナーに、彼女が発熱しているなどと告げたら、面倒になるということで、報告はなされなかった。

 微熱そのものは、彼女はもともと気管支が弱く、微熱も珍しいことではない上に、最近はずっと体調が優れていなかったので、あまり問題視されなかった。

<俺が警備についている時はいいんですが、ジークリンデさまの周囲は、当たり前ですけど、貴族が多くて。貴族が警備についているときに、また自殺未遂らしいことをして、知られたらと思うと>

[前回の自殺未遂については、完全に隠し通せたのか?]

<それは……多分>

[自信なさげだな]

<俺、その手の工作、苦手なんですよ>

 キスリングは情けない苦笑いを浮かべて、あげている髪を乱暴にかきむしる。

[分かってる]

 白兵戦を得意とするキスリングが、できるような仕事ではないことは、経歴を見て吟味したフェルナーにはよく分かっていた。だからこそ、尋ねたのだが。

<提督とパウルさん、戻ってくるの早くて。あの類いのパーティーに出席したら、日付が完全に変わってから会場を後にするのが普通でしょうに、二人とも日付変わる前に帰ってきましたからね>

[それはな……だが、予想できたことだろう?]

<たしかに予想通りでしたけれども。自殺未遂の痕跡を消せたかどうかですが、まずは服を脱いでもらって、温かい湯を張った湯船で体を温めてもらい、その間に濡れた着衣をキャゼルヌさんに頼んで、自宅の乾燥機にかけてもらいました>

 キャゼルヌは自宅に誰もいないので、キスリングたち同様、元帥府で寝泊まりしていた。

 その日は仕事が早く終わり、眠ろうと思いベッドに入ったところで、部屋に飛び込んできたキスリングに寝入りばなから妨害された。

[キャゼルヌに言ったのか]

 手に持っていた黒い布が彼女の喪服であることを知り、乾かしてくれるよう依頼されると、事情はあとで聞かせろと言い、自宅へと急いで引き返した。

 上質な生地なので、自宅の乾燥機にかけてはいけないだろうとは思ったが、ずぶ濡れになった服を、事情も説明せずクリーニングに出すわけにもいかないので、仕方なく乾燥機を回した。

<はい。一人では無理だと思ったので。キャゼルヌさんは、自殺や自殺幇助には反対気味なので巻き込みました>

[良い判断だ]

<提督とパウルさんが帰ってきたので、警備を交代して、その間にキャゼルヌさんと話をしましたが、あまり良い案が浮かばなくて>

[そうだろうな]

<出来ることと言えば、自殺反対の人間を増やすこと……なんですが、見回したらジークリンデさまの周囲って、貴族ばかりで。昨日、元帥府にシューマッハ大佐が来たので、打ち明けたところ、協力するとの返事とともに、フェルナー少将に連絡を取れと言われたので、連絡させてもらいました>

 彼女の周囲にいるのは、ほぼ貴族。

 生まれを鑑みれば当然のことなのだが、彼女を守ることを使命としているキスリングにとって、身内の自殺肯定派は、まさに強敵揃いであった。

 ロイエンタールに協力を求めなかったのは、彼が貴族であることもそうだが、なによりも破滅を望んでるような空気を、キスリングが感じ取ったため。

[なるほど。とりあえず、自殺を阻止することを優先しよう。……そうだ、ケスラー中将だ。中将の部下は平民が多い]

 元帥府はベルリン王宮に似た構造で、上から見ると「日」のような形になっており、中心を分ける通路を挟んだ西側で、彼女は現在生活している。

 線に囲まれた白い部分は中庭で、東側とも接しているので、ここの警備はケスラーが指揮を執っていた。

<信用できるのですか?>

 彼女の家族を誰一人守れなかったことを悔い、彼女に姿を見せぬよう、遠くから、だが確実に守るとオーベルシュタインに頼み、中庭の警備を任せてもらった。

[他のことは知らないが、ジークリンデさまのことに関しては、信用できる]

<信用はできるかもしれませんが、協力してもらえるでしょうか?>

[平民だから、問題はないだろう]

<でもあの人、パウルさんと仲良いですよ>

 だが上記の通り、警備ができるのはオーベルシュタインとのつながりによるものが大きい。

[確かにな。だが、ケスラー中将の協力は絶対に必要だ]

 だが彼女の近くで、地位があり、部下を持っている平民で、もっとも地位が高いのはケスラーなので、彼を頼るしかない。

<分かりました。これから、事情を話してきます>

 最悪、協力はしてくれなくとも、キスリングの考えを、他者に漏らすこともないだろうとフェルナーは踏んだ。

[話し合いが終わったら、すぐに連絡を]

<はい。では失礼します>

 通信が切れ電源が落ちて、黒い画面が現れる。

 その黒い画面に映り込む、包帯を巻かれた自分の姿を眺めながら、彼女の部屋にあるヴィジフォンにつながるコードを打ち込む。

「……」

―― 自害か……

 彼女が自殺したいと言ったら、口では止めるが、自分は願いを叶えてしまうだろう、自信と恐れがあった。

―― ジークリンデさま、連絡下さらないな……私のこと薄情って言いますけど、あなたも随分と薄情な方ですよ。こうして待っているのに、お声を聞かせて下さらないのですから

 フェルナーは直通のコードを知っているし、回線を開けば、繋いでもらえるのだが、彼女は身分の低い男の側から、私的な連絡を入れてよい相手ではない。

 彼女はそのようなことは気にしないと言うものの、する側は気になる。

―― 変なこと、なさってないかな。心配だ、やはり……巡回はしばらくこないし

 フェルナーは入院してもはや何度目か? 誰も分からない脱走を試みる。

 ベッドを降りて、まだ包帯が巻かれている足で、殺菌室を抜けて、扉を開こうとしたところ、外側からの操作で扉が開いた。

 咄嗟に身構えると、いつもはしっかりと上げている髪が、洗って乾かしただけの無造作な状態のリューネブルクが立っていた。

「私の妻を知らんか?」

―― またか……

「知りませんよ、リューネブ……ごほっ」

 フェルナーが入院しているのは、まだ公になってはいないのだが、

「妻が行方不明になったので、お前の病室の前で張っていたらきっと会えると」

「入院は、まだ秘密……」

 なにがあったのかはフェルナーには分からないが、とにかく、もっとも知られてはならない相手に居場所と、おそらく入院した経緯が知られてしまったことは、こうして責任者がやってきたことで明らかだった。

「色々あってな。なにかあると困るので、そうなる前に連れて帰る。お前は早く治療室に戻れ」

―― ……意外に愛妻家め

 久しぶりの会話が深夜にリューネブルクからの警告という、陰鬱な気分にさらに追い打ちをかけられる始末。

「失礼します」

 身分も階級も戦闘能力も上のリューネブルクを前に、フェルナーは引き下がるしかなく ―― 結局、今日も彼女の元へと行くことはできず、なにも写らぬ端末を持ち、時が過ぎるのを待った。

 

「フェルナー少将。ケスラー中将が協力を約束……あの、変な音が混じるんですが、そちらでなにか?」

「いつものことだ、気に、するな、キスリング」

「声、出るようになったんですか! 良かったですね……あの、本当に大丈夫なんですか?」

 治療室の扉前で、激しい攻防が行われている音である。

「ああ……ジークリンデさまは、お目覚めになったか?」

 

**********

 

 連日泊まり込み、もはや元帥府が自宅になりつつある面子の一人ケスラーは、キスリングから話を聞いて、協力を快諾した。

「打ち明けてくれたこと、感謝する」

「協力したいただけますか?」

「もちろんだ」

 同じく元帥府に泊まり込み組で、キスリングやユンゲルスと同じく、自殺反対のキャゼルヌも同席していた。

「良かったな、キスリング」

「はい」

「俺も協力はするが、いかんせん、帝国人の感性が足りなくて、良いアドバイスなどは出来んから、指示を出してくれ」

 彼は協力する意思もあれば、バックアップする気持ちもあるが、何分、思考回路が帝国人ではないので、あまり良い案を出すことができない。

 二人に”なにかあったのですか?”なる気持ちを隠さない表情を向けられたキャゼルヌは、先日の自分の提案と、その結果を聞かせた。

「いやな。パウルに、公爵夫人にフェルナーの見舞いに行くよう勧めたらどうだ? と言ったら……そう、いまのお前たちみたいな顔になった。お前たちの感性だと、自分たちが公爵夫人に平民の見舞いに行くよう勧めるというのは、タブーなんだろ」

 キャゼルヌにとっては、珍しい発想ではないのだが、階級がはっきりと分けられている世界で生きてきた彼らにとって、それは考えてもみないことであった。

「タブーといいますか……考えたこともないですね」

「まあ、してはならないというか、立場的な問題というか」

 自害が名誉と思わないところはキャゼルヌと同じ平民組だが、これに関しては自殺推奨側の貴族とほぼ同じ感覚を持つ。

「俺はそれが今ひとつ分からなくてな。公爵夫人ほどお優しい方なら、部下の見舞いに喜んで行くとしか思わないんだ」

 定期検診を病院で行って(現在は、医師常駐で検診)ついでに見舞い ―― 言われたオーベルシュタインは目を見開き硬直し、そばで聞いていた軍医もほぼ同じ。

「きっと、いつものジークリンデさまなら、お見舞いに行かれるでしょう」

「お嬢さまならば、当然そうするであろう。だがそれは、あくまでも、お嬢さまご自身からの意見であって、こちらから促すようなものでは」

「パウルも全く同じことを言っていた。フェルナーの奴も公爵夫人のこと心配してるくせに、周りの奴らに連絡を入れてばかり。自分から公爵夫人に連絡を取らないのも、それが理由だろ?」

 キャゼルヌにしてみれば、病院を抜けだそうとするほど心配ならば「礼儀知らず」な行動であろうとも、自分から通信を入れ、本人と直接話せば良いのではないかと考える。

「あ……はあ。私的な回線は……え、まあ」

 だが長らく帝国で生きてきた者たちからすると、それは取るべき行動ではない。

「報告があるなら、別だろうが……フェルナー少将とお嬢さまでは……」

 それは支配者と被支配者、共通の認識。

 彼女が受け入れるのはもちろん、周囲の者たちも異心はないことを知っている、それらを咎める立場の者はオーディンにいない。

 だが当人の心の内こそが最大の障壁となり、決して自分から連絡を入れない。

 それが彼らにとって、普通であり、忠誠心である。

「俺なら公爵夫人が心配だったら、直通コード知っているんだから、自分から連絡を入れる。まあ、そのくらい考え方が違うってことだ」

「そうですね」

「フェルナーなんて、普段は決まりごとなんぞ適当に流すくせに、公爵夫人相手の場合、口では普段と同じようなことを言っても、行動は誠実そのもので、忠実な家臣やってるんだから」

 

 忠実で誠実な家臣 ―― キャゼルヌの意見は正しいが、誠実が過ぎて過激になることもままあった。

 


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