ファーレンハイトがフェルナーの元を訪れていた頃、カタリナは、ロイエンタールの執務室へと足を運んでいた。
「私のこと、待った」
彼女と秘書よろしく付き従っているフェルデベルトを案内した従者が、一礼して部屋から出てゆく。
「待っているはずないだろう。お前が話しをしたいというから、時間を空けただけだ」
万年筆を置いてロイエンタールが視線を上げると、毒舌を隠している赤く塗った唇に、楽しげな笑みを浮かべていた。
「失礼いたします」
仕事とはいえ、こんな空間に来たくはなかったであろう従者は、非礼にあたらぬ程度に急ぎ、茶を淹れて立ち去る。
ロイエンタールはカタリナに、来客用のソファーに座るよう促す。
オレンジがかったブラウン色の、フリルが目立つドレスを優雅にさばき、貴族には見慣れたバロック調のソファーに腰を下ろし、盛金にプラチナを重ねて繊細な模様が描かれているカップを手に取り口に運ぶ。
「あなたのところで飲めるお茶なんて、この程度でしょうけれどね」
一口飲んで、誰もが予想したとおりの感想を、笑いを含んだ口調で。だが暗いところがないため、悪くは取られなかった。
「ジークリンデが淹れたものと比較するな」
それにカタリナの感想は事実。―― もっとも、ロイエンタールは彼女が淹れたお茶を飲んだことがないので、比べようもないのだが。
「比較したって良いじゃない。あなたには分からないでしょうけれどね」
―― 意図して、これほどまで優雅に勝ち誇った表情を作れることだけは、尊敬する
冷笑家のロイエンタールは、自分と似て非なるものなのか、全くと言っていいほど同じものなのか? 判断がつかないカタリナの仮面を、賞賛した。ただし、内心だけで。
「……お前、俺に突っかかって楽しいか?」
本人を前にして、褒めるような男ではない。
カタリナもロイエンタールに褒められて、頬を赤らめて服を脱ぎ出すような女でもない。
「突っかかってる訳じゃないわ。憂さ晴らししているだけよ」
文句をつけた茶を、ゆったりを飲みながら、ロイエンタールにとっては、はなはだ迷惑なことを、悪びれもせずに答えた。
「なぜその対象に、俺を選んだ」
ロイエンタールの茶はテーブルの上に戻されて、手が付けられるような気配はない。
「本来なら瀕死になるまで吊し上げたいフェルナーは、残念なことに重傷で入院。しでかしたファーレンハイトを殴りたいけれど、ジークリンデの代わりに出向いて、方々に死亡報告しては責められてるから、これ以上責めたら、吐血するか喀血しそうじゃない。あの貧乏で幸薄な病人面が血を吐いたら、死相になっちゃうでしょう。だからあんたで憂さ晴らし」
ひどい言いようだが、カタリナらしく、ファーレンハイト本人の目の前で、同じような発言したこともある。
聞かされた当人もあの通り、おそろしく良い表情で微笑み「私のような者の体調にまで気をかけていただけるとは、まことに光栄です」相も変わらぬ返答をして流した。
「俺が血を吐いたらどうする?」
カタリナの向かい側のソファーにロイエンタールは腰を下ろして、長い足をやや崩し気味に組む。
「あんたの場合、血尿じゃない。うん、きっと血尿よ。血を吐いたって構いはしないけれど、我慢に我慢を重ねて血尿。ところで、ファーレンハイトが死ぬときって、喀血だと思う? それとも吐血だと思う? 私は喀血だと思うわ。あの顔、肺炎とか肺病とか肺関連でいきそうな顔じゃない?」
そしてカタリナは、再びカップに口をつける。
―― たしかに呼吸器から出血しそうな顔……
危うく同意しかけて、ロイエンタールは秀麗な眉をひそめて頭を振る。
「それで、話とはなんだ? カタリナ」
「あなた、簒奪の野心を持っているの?」
ストレートな物言いに、ロイエンタールは”ほう……”と、驚きよりも先に感心した。
「持っている」
「そうなの。私は、それを確認しておきたかったのよ」
ロイエンタールが簒奪しようとしているのは、明確であった。
彼は尚書の座を手に入れたが、軍にも籍をおいたままで、中将へと昇進している。
帝国で政と軍の両方で、実権を手に入れた者は、簒奪を狙っていると取られる。リヒテンラーデ公がどれほど政治の世界で権力を握っても、僅かながらも軍の実権を欲しなかったのはこれが原因であり、強権を振るうリヒテンラーデ公が簒奪するなどと誰も考えなかったのも、これが理由であった。
「そうか。では確認して満足したか」
「満足とは言わないわね。簒奪自体はどうでもよくて、あなたが信頼できるかどうかを、今日までかかって見極めていたというのが正しいかもね、オスカー・フォン・ロイエンタール」
「いまは信用しているのか」
「信用というよりは、上手くやっていけそうってところかしら。私が知っていたあなたは、女と長続きしない、女性を下に見る傾向が強い、自分が生まれた日を呪われた日とのたまう、どうしようもないくらい、世界を斜めに見て過ごしている男だということくらい。要は私人の側面しか知らなかったのよ。それで司法尚書に就任してからのあなたを見て、公人として皇帝の位を乗っ取る際に、陛下を殺害しないということは分かったわ」
「……なるほど」
「私だって馬鹿じゃないわ。ゴールデンバウム王朝が末期なことは、認めているし受け入れる覚悟もあるわ。王朝が倒れた時、最後の皇帝がどのような扱いを受けるのか? 年長者なら心配して当然のことじゃない。子供だから、女の子だから殺されない……なんて、甘い考えは持ってないの。とくに保身のために皇帝の首を差し出す門閥貴族とか、容易に想像できちゃうでしょう」
カタリナは皇帝と一蓮托生するつもりはない。
忠誠心が低いからではなく、むしろ篤いからこそ、結果がどうなろうとも最後まで付き従うのではなく、カザリンが生き延びる道を考えなくてはならない。
「考えておくべきことだな」
「きっとあなたや、エッシェンバッハ侯は、そんな保身をはかった相手を許さず、処刑するでしょうけれど、処刑したところで陛下は生き返りはしないじゃない。規律を正すという意味では必要でしょうけれど、保身のために殺されるほうにしてみたら、まあ嫌よねえ。だから、だから陛下を守りつつ生活を保証し、泥沼にならず、速やかに主権を奪う。それができることが最低条件だったの。あ、もう一つ追加で、やるなら早めに成功させてね。それこそ、陛下に物心がつく前に」
「了承した」
カタリナはソーサーにカップを戻して、立ち上がった。
「帰るわよ、フェルデベルト」
「はい」
カタリナが腰をかけていたソファーの後ろに控えていたフェルデベルトは、すぐさま扉を開けるために駆け寄る。
「見送らせてもらおうか」
ロイエンタールもカタリナを見送るために、ソファーから立ち上がり、光沢ある廊下を二人は並んで歩き、玄関へと向かう。
開庁時は扉が開かれているままになっている出入り口と続くホールが見えてきたとき、カタリナは足を止めて、声は大きくはないが”高らか”というのが相応しい口調で宣言した。
「私はどんな手段を使ってでも生き延びるわ。日和見で結構。売女も上等。あなた達が高みで御位を争っている時、地を這いうごめいて精一杯生き延びるの」
ゴールデンバウム王朝が滅びれば、いままでと同じ生活ができないことは、カタリナもよく分かっている。そして自分自身のことも。今の権力構造がなくなり、自力で稼げと言われたら、できることは身を売ることくらい ―― カタリナにとって、過去も未来もほとんど変わりはない。
「……」
性を生活の糧にしていない今こそが幸せなのだが、それを守る術はない。必死に主張したところで、聞き入れてくれないことも、悲しいことに分かっていた。
「支配者が有能な人物に替わったからといって、被支配者の能力が何もせずに上がるわけじゃないんだから。今まで身を売ってきた奴隷の娘が、支配者が変わったからといって、突然才能に目覚めて役人になれるはずもない。そうでしょう? でも気にしなくていいわ。あなた達は好きにするといいのよ。私も好きにするから。そのかわり、最後までやり遂げなさいよ。途中で死んだら許さない。あなたには死を選ぶ自由はないの。覚えておきなさい」
背筋を伸ばし言い放ったカタリナの後ろ姿は、力強さに満ちていた。
出入り口を抜け、階下でベルゲングリューンが側に控えている地上車を見下ろし ―― 何者かが走り寄ってきた。
その手に光るものを確認したベルゲングリューンは、ブラスターを構えた。
「撃つ必要はない」
刃物を持った腕を強く握ったロイエンタールが制止する。
フェルデベルトは体を張ってカタリナの盾となった。突然の出来事で、軍人でもないカタリナは、なにが起こったのか? 理解できなかったが、庇われている肩越しに、捕らえている男と捕らえられた女を見て、事情も分からず臨戦態勢になった彼らとは違い、すぐに事情を理解した。
「あなた、人妻には手を出さないと思ってたのに、見損なったわ」
カタリナは取り押さえられた女性を見て、心底楽しそうな声で”女性問題”にすり替えた。
「そういえば、あなた、ずっとジークリンデに手を出そうとしていたわね。意外と人妻好き? いやねえ」
カタリナは手を”ひらひら”とさせ、ドレスを掴み階段を早足で降りる。やや強めの風が下から吹き上げ、ドレスの裾が大きく広がり、映画の一場面のような空間を作り上げた。
ベルゲングリューンが地上車のドアを開け、カタリナは振り返る。
「黒真珠の間で待ってるわ……頑張って来なさい」
カタリナを乗せた地上車は、走り出した。
体を張ってカタリナを守ったフェルデベルトは、また同じようなことがあってはならないと、カタリナに襲撃者の名を尋ねた。
「あの方をご存じなのですか」
「エリザベート・フォン・リューネブルクよ。ジークリンデのことが大好きで、自らにジークリンデの害虫駆除という任務を課した、ハルテンベルク家の令嬢」
「ああ……あの、お噂の」
フェルナーの脇腹を刺し抜いた元側室だと聞き、フェルデベルトは得心した。
フェルデベルトも顔は知っていたのだが、狂気に満ちた表情と、普通の状態で撮影された顔写真とでは、まるで別人にしか見えなく、同一人物であることに気づけなかったのだ。
「そう、噂のね。フェルデベルト、ファーレンハイトに話があるから、通信をつないで」
女は化粧で変わると言われている通りで、その上髪を振り乱して、本気らしく無言で襲いかかってきたら、顔見知りであろうとも簡単に判別はつかない。
「かしこまりました」
手のひらに収まるサイズの通信機を取り出して、副官のザンデルスに取り次いでもらい、通話を替わった。
「挨拶はいいわ。マールバッハ……いいえ、ロイエンタールがリューネブルク夫人に襲われてたわよ。へえ……情報漏洩してなくて良かったわね。回収しないと、司法尚書閣下がメルカッツの親任式欠席になるかもね。あんたはちゃんと来なさいよ」
”お優しいお言葉、ありがとうございます”
―― 提督、落ち着いたいい声なのに、冷たい感じが……いい声だから冷たい感じになるのか
漏れ聞こえてきたファーレンハイトの喋りを聞きながら、よくカタリナ相手にこんなしゃべり方ができるな……と、妙なところでフェルデベルトは感心していた。
通話がきれた通信機を受け取り、しまい込む。
「エリザベート・エルフリーデにまで手を出したのかと噂されるんでしょうね。エリザベートは綺麗だから、噂にも真実味が出るし、楽しみだわー」
―― 噂の出所は間違いなくあなた様で……エリザベート・エルフリーデ?
「どうしたの? フェルデベルト」
「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「なにを聞きたいの?」
「エリザベート・エルフリーデとは、どちらのご婦人で?」
会話の流れからするとリューネブルク夫人なのは明らかだが、あやふやなまま、思い込みで流して、実は別人であったら、あとで痛い目を見るのは自分なので、カタリナが意図する「エリザベート・エルフリーデ」が誰なのか? 聞いておくことにした。
「リューネブルク夫人のこと。全名がエリザベート・エルフリーデ。彼女も以前は、私と同じく側室だったから、その関係でフルネームを覚えてたのよ」
エリザベートは多いので、名前を覚えようとすると、必然的にもう一つの、あまり使用されない名前も覚えることになる。
「そうでしたか」
仲良くなると愛称などで呼びかけることもあるが、後宮の側室同士は、それほど仲良くなったりはしないので、そのような近しい呼び名を使うことはない。
「全名なんて、覚える必要はないけれど。ちなみに私はカタリナ・アウグステ」
「肝に銘じておきます」
忘れたり間違ったりしたら、きっと命はないのだろうと、フェルデベルトは奥歯をかみしめて、その名を脳裏に刻み込んだ。
「ジークリンデの全名は覚えてる?」
「ジークリンデ・ツィタ・フェオドラと記憶しております」
「正解よ。良く出来ました。良い子ね、フェルデベルト」
カタリナの全名を間違うより、こちらを間違った、あるいは覚えていないほうが命が危うくなるところだったが、無事に回避することができた ―― 筈だったのだが、
「光栄です! 女王さま!」
思わず口が滑って、カタリナのことを「女王」とよんでしまい……
全名が「ジークリンデ・ツィタ・フェオドラ」である彼女。
自身の全名を見て思ったことは「……長い」だけ。
十一歳の時に結婚する際、公式の書類には、全ての名を書く必要があると教えられ、ジークリンデ以外はほとんど使っていなかったことと、エリザベートやマルガレータとは違い、ジークリンデは門閥貴族ではあまり見ない名前なので、他の名前は必要ないのではないか? と考えて、結婚を機に「ジークリンデ」一つに絞ってはどうだろうか? 父親に提案したことがあった。
だが「フェオドラ」がリヒテンラーデ公から贈られたもので、「ツィタ」は皇帝の庶子であった高祖母の名なので「要らない」で捨てられるものではないよと諭され、いまでもジークリンデ・ツィタ・フェオドラなる名のままである。
もっとも誰も彼女のことをツィタともフェオドラとも認識しておらず、彼女自身認識してもいない。
彼女の名はさておき、間違って本心をうっかり口にしてしまったフェルデベルトは、彼にとって良い意味でも悪い意味でも女王であるカタリナを前にして、
「誰が女王ですって、フェルデベルト」
「……(俺、死んだ)」
とりあえず全てを諦めてみた。