黒絹の皇妃   作:朱緒

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第87話

 いたたまれない空気の中、神経の図太さには定評があるキャゼルヌは、ずっと作業を続け――

「ベルゲングリューン、戻りました」

 重苦しいではなく、張り詰めた空気が支配する部屋へ、ベルゲングリューンが彼女からの手紙を手に戻ってきた。

「意外と早かったわね」

 ベルゲングリューンがカタリナに、薄い水色の封筒を差し出す。

「こちらがローエングラム伯爵夫人からの、お手紙になります」

「字が震えてるわね。きっと、泣きながら書いたんでしょうね」

「必死に泣くのを堪えていらっしゃいましたが」

 カタリナからの手紙を読み、返信を書くも、何度も涙が便せんに落ち、文字が滲んで……を繰り返し、最後は周りの者たちが「文字が滲んでいても、ノイエ=シュタウフェン公爵夫人は許してくださいますよ」と言い含めて、やっと手紙が完成した。

「一人で読ませてもらうわ……ところで、あなた」

 憂いを帯びた瞳と優しげな表情に、思わず回りの男たちは”ほうっ”となる。

 それくらいカタリナは美しい。

 喋らなければ特に ―― ギャップが大きくて、逆に美しさが際立っているのかもしれないが。

「ベルゲングリューンと申します」

「私の護衛を務めなさい」

「小官は、ローエングラム伯爵夫人の警護を命じられておりまして」

「誰から?」

「キルヒアイス提督より、直接命じられました」

「リヒテンラーデ一族が全滅してから?」

「そうです」

「取り返しがつかない、失態よね。でも、私を守ることで、ある程度は挽回できるわよ。私が死んだら、ジークリンデ悲しむわ」

 勝ち誇ったカタリナの表情と、泣いている彼女の表情を脳裏に描き、

「ベルゲングリューン少将、カタリナの護衛につけ」

「ロイエンタール閣下」

 ロイエンタールは仕方ない……と、カタリナの意見に従うよう指示を出す。

「お前の上司は俺が説得する。殺しても死ななそうな女だが、これが死ぬとジークリンデは本当に悲しむからな」

 新無憂宮の警備はオフレッサーたちが担当しているのだが、それはあくまでも皇帝を守るためのものであって、カタリナは二の次。

 それにカタリナも不満はないが、死ぬのは嫌。だが周りには頼りになるような人はいないので、自分で対処する必要があった。

「そうよ。この司法尚書が死んだ時より、私が死んだ時のほうが悲しむわ。そうよね、ファーレンハイト」

「もちろんにございます」

―― 提督、相変わらず……口悪いなあ。多分真実だけど

 ベルゲングリューンと共に戻ってきたザンデルスは、口が悪いファーレンハイトの返答を、内心で更に補強していた。

 その後色々と手続きをし、ベルゲングリューンとフェルデベルトを連れて帰っていったカタリナ。

 室内は、やっと平穏を取り戻した。

「あいつは美人なのだから、黙っていればいいものを」

 あれだけ言われても、まだそれだけ言えるか! と、誰もが思うようなことを、ロイエンタールがこぼす。

 だがファーレンハイトは力なく頭を振り、

「俺は図らずも付き合いが長いせいで、大人しいカタリナさまというのは、もはや想像できん。たとえ偉大な幻想作家なみの想像力を持っていたとしても無理だ」

 傷の深さを物語る。

「ファーレンハイト提督……」

 義眼を手で覆い隠すようにして、オーベルシュタインは視線をそらした。

 

 そんな中、書類の束をまとめて、机に軽くたたき付けて端を整えていたキャゼルヌが、

「まあ、あのくらいなら、お可愛らしいものだ。独身にはきついかもしれないがな。結婚したら、公爵夫人が可愛らしく思えるぞ」

 軽く、そう言ってのけた。

 全員”は?”という表情を浮かべ、

「なぜ卿は、結婚したのだ? いや、結婚したのは構わんが、なぜ結婚生活を続けているのだ?」

 ”それはないだろう”とばかりに、ロイエンタールが追求する。

「俺がなぜ結婚したかって? それは、独身のお前たちに説明しても分からんだろうよ。結婚したら、説明されずとも理解できるだろうな。何故結婚生活を続けているかって? 結婚したら分かるさ。しなければ、一生分からんな」

 至言のような、そうでもなさそうなキャゼルヌの台詞を聞いて、全員顔を見合わせた。

 ただキャゼルヌの台詞を聞いて、結婚したいと思ったものは、この場には一人もいなかった。

 

**********

 

 一般病棟に移動するまで、まだ時間を必要とするフェルナーの元に、ファーレンハイトが報告にやってきた。

[少し痩せました?]

 まだ声を出すことはできないので、画面に文字を打ち出す方式での会話。

 背もたれのある椅子を、画面が良く見える位置へと移動させ腰を下ろす。

「いいや」

 リュッケが手配して、外部と連絡を取ることができるようになってはいるので、ファーレンハイトがわざわざ治療室まで足を運ばずとも、会話は可能だが、直接会って話したい時もある。

[じゃあ、老けました?]

「否定はしない」

[そこは否定しましょう]

「事実だからな。ところで、話は変わるが、お前の官舎に、俺の私物を運び込ませてもらった」

[なんで? ってかさ、普通は家主の許可をもらってからでしょう。鍵を持っているからって、横暴ですよ。実家に荷物を一時預けるって言ってたじゃないですか]

 ブラウンシュヴァイク公は領地に帰る際、人員を整理し、最低限の者しか残さなかった。事と次第によっては、二度とオーディンに戻れないことも考えられるための措置。

 ファーレンハイトはブラウンシュヴァイク邸の使用人棟に住んでいたが、上記の理由で閉鎖されたため、荷物をまとめて実家へと戻ったのだが拒否された。

「追い出された」

[はい?]

 ファーレンハイトの実家が手狭だというわけでもない。

 彼女に仕える以前は、手入れしても追いつかないほど痛みの激しい、小さな家に住んでいたが、いまは ”直属の部下の親族がぼろ家に住んでいると、私の沽券に関わる”と言い、フレーゲル男爵が買い与えたもので、大貴族に仕えている者に相応しい館に住んでいる。

「勘当……というべきか」

 実家の名義はむろんファーレンハイトで、家族を住ませてやっている形なのだが、追い出された。

[あなた、ファーレンハイト家の当主ですよね? 家長ですよね? 当主が勘当って……貴族には、ままあることなんですか?]

 帝国では当主の立場はかなり強く、家を追い出されるようなことはない ―― 普通は。

「俺も初めて聞いた」

[なんで、勘当されたんですか?]

「主に母親と妹にがなり立てられたのだが、要点をまとめると”大恩あるフレーゲル男爵夫妻を守れなかったことを恥じろ。ファーレンハイト家の面汚しめ。二度と帰ってくるな”ということらしい」

 借金の清算に、住居の提供。徴兵された弟たちは、安全な後方勤務に……等、さまざまな便宜を払ってくれた男爵夫妻を、守り切れなかった家長に対して「恩知らず! 死んで詫びろ! 残った命はジークリンデさまのために使え」叱責は絶えなかった。

 そして怒り狂った妹が、常温に戻していたバターの塊をぶつけてきたので退散し、そのままフェルナーの官舎へ自分の荷物を運び入れた。

 ファーレンハイトがフェルナーの自宅の鍵を持っているのは、入院中細々としたものが用意になったり、不必要になったものを持ち帰ったりするため。

 フェルナーの家族は別の惑星の地方都市に住んでおり、また負傷した経緯をおおっぴらにすることができないので、家族には入院したことすら伝えられていない。

 そのため、部下、もしくは知り合いが鍵を持ち世話をすることになる。

信頼がおける相手に鍵を預けた、つもりだったのだが、その結果、勝手に荷物置き場にされた。

[あー……そういうことなら、仕方ありませんね。……あなたのことですから、家を買うつもりはないのでしょう?]

 いまのファーレンハイトの稼ぎならば、もう一件家を購入、維持できるのだが、それは彼にとっては無駄でしかない。

「あるわけないだろう。寝に帰るだけ、官舎で充分だ。官舎には一応申請を出したが、回ってくることはないだろうし、家を買うといっても公爵夫人の後見人の立場に相応しい邸宅と言われると、俺には見当もつかん」

 上記の通り、ファーレンハイトの実家は、書面上ファーレンハイトが所有している。

 首都であるオーディン、それも勤務地近くに自宅を所有している者は、官舎に入ることはできない。正確には帝国は広くさまざまな惑星から人が集まり、集められるので、官舎はそのような者たちに優先的に振り分けられるので、順番が後回しになる。

 無論上級大将の地位をちらつかせれば、どうとでもなるが、ファーレンハイトはそのような性格ではない。

[住所不定。職業、帝国軍上級大将ですか]

 そのため”怪しいにもほどがある”といった状況に”なりかけた”のだが、無理矢理住所を得てそれは逃れることができた。

「俺としては、それでも構わんのだが、住所不定だと、ジークリンデさまの後見人としてまずい。実家を現住所にすることも考えたが、いろいろと面倒なので、一時的な措置として、お前の官舎に間借りすることで住所不定を回避した」

 先住者の意見をまったく聞かずだが、後見人を続けるために必要だということで、

[後見人の仕事に支障をきたさないようにするためなら、仕方ありませんね]

 フェルナーはその件に関しても、さっくりと受け入れた。

「それで、後見人の仕事の一つなんだが。フェルナー、お前、貴族になる気はあるか」

[ありません。なんでそんな話を? 順を追って説明してくださいよ]

 フライリヒラート伯爵の遺言状を預かっていた顧問弁護士がファーレンハイトのもとを訪れ、内容を開示し ――

「弁護士はケーフェンヒラー男爵の遺言状も預かっていた。この遺言状、ジークリンデさま宛だったこともあり、俺も内容を知ることができた。その内容なんだが、グントラムさまがお前のことを貴族にしたがっているから、貴族にならないかね? ……と。そんな内容だった」

[私はれっきとした平民ですよ。貴族の血なんて、微塵も流れてないんですけど]

「それがかえってよかったらしい。あの人も、ケーフェンヒラー男爵家の血なんて、一切引いていなかったからな」

[だからって、おかしい。あなたが継いだほうが、まだ納得できますよ。雰囲気侯爵さま]

 ファーレンハイトは遺言ではなく、添えられていたフェルナー宛の、ケーフェンヒラー直筆の手紙を差し出す。

 包帯で覆われた手でそれを掴み、目を通したフェルナーは、妙に納得してしまった。

[雰囲気が侯爵だから、男爵は継がせられないと]

 まともな理由を書かれるより、よほど納得できてしまったことに失笑がこぼれたが、それは呼吸用の管に消えてしまった。

「俺も、意味が分からん」

[そういうことでしたか……でも、お断りします]

「そうだな。アントン・フォン・ケーフェンヒラーという名前になったら、誰なのか分からんしな」

[本当に誰なのか分かりませんよ]

「愛称をフェルにして、名残を残すとかしないと、誰もが困るな」

[なんで姓を縮めて愛称にする]

「なんとなく。……では、ケーフェンヒラー男爵は返上手続きでいいんだな?」

 最初から受けるなどと、考えてもいなかったので、説得一つせずファーレンハイトは、爵位の返上に同意した。

 彼らに遺言を残したケーフェンヒラー男爵の本心は分からないが、きっと同じように考えていたことであろうと、些細な厄介ごとを片付けた。

[お願いします。そうだ、昨日のエーレンベルク元帥の葬儀、無事に終わりました?]

 キーボードから手を離し、自分宛の手紙をたたみ、枕元におく。

「つつがなく終了した」

 ファーレンハイトが一方的に喋っているかのような、いささか変わった会話が少しばかり途切れ、そして再開する。

[お待たせ。では、メルカッツ提督が正式に軍務尚書に任命されるのですね]

 リヒテンラーデ公と共に殺害されたと言われていたエーレンベルクの死亡が、先日やっと確認された。

 検視が行われ、生きている状態で爆発に巻き込まれたことは確認されたが「生きている」がどの程度のものであったのか? たとえば瀕死、あるいは死んでいると見間違うような惨状、もしくは生きていると一目で分かるような状態であったかまでは、さすがに判別がつかず ―― エーレンベルクは死んでいたと証言したロイエンタールは、再度憲兵に証言を求められ、先に述べた証言と寸分違わぬ発言をし”死んでいるように見えたのだろう”と、彼らを納得させた。

「そうだ。代理の字が取れる」

 軍務尚書の死亡が確認されたのを受けて、正式にメルカッツが就任する運びとなった。

[それは良かったですね。親任式は何時ですか?]

「今日の午後に執り行われる。小規模ながら夜には就任を祝うパーティーが開かれる。俺は今日の昼、それとは別口でメルカッツ提督と会食する」

[そうですか。でも、昼の会食なら、そろそろ向かわないといけないのでは?]

 画面の中央には時刻が表示されているので、時間を指さす。

「ああ、そろそろ向かう。ジークリンデさまだが……まだしばらく、泣き暮らしていると思われる」

 ファーレンハイトは立ち上がり、頭を下げて、する必要もないのに裾を手で払いながら、フェルナーの顔を見ないようにして、彼女の現状を告げた。

 先ほどと同じく、会話が途切れる。

 フェルナーの手が動き、そして止まるまで待ってから、顔を上げて画面を読む。

[そうですか……」

 

 ファーレンハイトはフェルナーの治療室を後にしたのだが、すぐに戻ってきた。 

「エリザベート・フォン・リューネブルクの所在が不明だそうだ。警備は増強するが、念のために持ってろ。自殺するのは止めないが、どうせ自殺するならエリザベートを道連れにしろ」

 自責の念にかられているフェルナーに、自殺に使用できる武器を預けるのは危険きわまりない行為だが、予防線を張ってブラスターを放り投げる。

[エリザベートって、知り合いだけでも、大勢いるんですけど]

「そうだな」

 ファーレンハイトが去ったあと、フェルナーは利き手でブラスターを握ってみたが、まだ皮膚が回復していない自分の手では、当てられる気がしなかった。

 

**********

 

 病院を出て移動中のファーレンハイトの元に、カタリナからロイエンタールがエリザベートに襲撃されたとの知らせた届いた。

―― 国葬の時に、ジークリンデさまの肩を抱いたのが怒りに触れたのか

 ロイエンタールは登庁中、刃物を持ったエリザベートに襲いかかられ、返り討ちとまでは言わないが、自ら捕らえて本人は無傷だとも。

―― ロイエンタールの護衛は、なにをしているのだ……構わんが

 賊を自ら取り押さえる尚書など、ファーレンハイトは聞いたこともない。

―― リューネブルク夫人が強すぎて、護衛をなぎ払って突撃したというのなら……考えないでおこう。カタリナさまでもあるまいし

 そんなことはないだろうと、分かってはいたが、深く悩んでも仕方ないとばかりに、

「よし、あとは司法尚書閣下にお任せしよう」

 自分は関わらなくて良いと判断を下し、報告してきたザンデルスに”あとは知らん”と ―― そしてファーレンハイトは久しぶりに、僅かながらだが晴れやかな気持ちで、メルカッツ提督との会食へと向かった。

 


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