黒絹の皇妃   作:朱緒

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第86話

 キャゼルヌを元帥府まで連れてきたシューマッハが、いそいそと帰っていったのには訳がある。

 彼はブラウンシュヴァイク邸の管理に、新無憂宮でランズベルク伯の仕事の手伝いなど、後方勤務が得意な彼には、うってつけの仕事を任されていた。

 それらの仕事が忙しいのはもちろんだが、新無憂宮で「今日、元帥府に行くわ」とカタリナが言っていたのを耳に挟んだため。

 これから、惨事とまではいかないが、ひどいことが起こるのは火を見るよりも明らかなので、早々に元帥府をあとにしたのだ。

 

「ジークリンデはどうなの?」

 

 フェルデベルトを連れて、元帥府にやってきたカタリナは、開口一番に彼女について尋ねる。

「三日前と変わりはありません。あまりお食事が進まず、夜もお休みになれていないようなので、医師のほうから、今日は睡眠導入剤入りの点滴を打つことを勧められております」

「そう。友人として早く元気になって欲しいのは当然なんだけど、国家的にも早く立ちなおらせてね」

「国家的……ですか?」

「陛下がジークリンデが来なくて、ふさぎ込んでるのよ。写真で我慢してもらってるのだけれど、その写真に頬ずりしながら”じく、じく……”って。それはもう、大変なんだから」

 ふっくらとした頬を押しつけて、寂しげに彼女の名を繰り返すカザリン・ケートヘン一世の姿は、多くの者の涙を誘った。

「それは……本当に大変ですね」

 多くの者に属さないオーベルシュタインは、皇帝が頬ずりしている写真とは、どのような写真なのだろうかと、そちらの方が気になったが、感情が現れない義眼が幸いして、気取られることはなかった。

「回復を急かす必要はないけれど……まあ、貴方たちだから、急かしたりしないでしょうけど、頭の片隅にはとどめておいてね」

「かしこまりました。他にご用件などございましたら、なんなりとお言いつけ下さい」

「用件はあるけれど……なんで司法尚書たる、ロイエンタールがここにいるの?」

「お前には関係ないことだろう、ノイエ=シュタウフェン公爵夫人」

「いちいち腹立たしい男よね」

「それはどうも」

「これで、女と別れる時は、円満だっていうんだから。世の中の女は、全て慈悲深いわよね。むろん、その中には私も含まれるけど」

「どの口で」

「愛撫はいつも右乳首開始な男に、言われたくないわ」

 宝石が埋め込まれた象牙の扇子を六分ほど開き、口元を半端に隠して、まさに爆弾のような発言を投下する。

「……」

 ロイエンタールは細く形のよい眉をひそめ、絶句する。

 数多くの女性と付き合ったことがあるロイエンタールだが、ほとんど女性側からアプローチされて付き合う形で、自分から告白したことは一度しかない。

 

 たった一度の告白は、みごとに振られてしまったが ――

 

 それはともかく、付き合った女性とは、ほぼ男女の関係となる。

 生来の才能というべきか、女性を満足させることはできるのだが、そこに真摯さはなく、どちらかといえば惰性に近い。そのことは、ロイエンタールも自身も認めるところ。

 また薄情といえば薄情とも取れるような、きっぱりとしている性格ゆえに、別れた女性を思い続けることもなければ、思い出すようなことも一切ない。

 女性の名前も覚えておらず、連絡先も抱いた記憶もすぐに消す。

 だからカタリナが言ったことを、咄嗟に否定できなかった。

「女は猥談しないとでも思ってるの?」

「……」

 ロイエンタールは女に興味を持たないので、女同士がどのような会話をするのかなど、考えたこともない。

「男が被ったら、そういう話の一つや二つ出てくるわよ」

「……」

 キャゼルヌの書類をめくる音が、とても場違いなものに思えるほど ―― 室内はまさに修羅場であった。

 これほど静かで、高笑いしていないのに、そのあざけるような笑い声が聞こえてくるような修羅場があるのだろうかと、誰もが思うほどに。

「……(提督。カタリナさまを、お止めしないと)」

 助けるつもりはないオーベルシュタインが、カタリナと付き合いの長いファーレンハイトに小声で、止めるように依頼する。

「……(俺に振るな、パウル)」

 ”ロイエンタールを助けてやろう”ではなく”カタリナを止めよう”という辺りに、オーベルシュタインのロイエンタールに対する感情が分かるというもの。

「……(私には無理です)」

「……(俺だって……)」

 オーベルシュタインに振られた方は”勘弁してくれ”と、空を仰ぎ、亡き人物に一人ごちる。

 

―― レオンハルトさま。だからベンドリングは連れて帰ってきましょうと、あれほど……

 

 ヘルクスハイマー伯爵令嬢マルガレータと共に亡命した、カタリナの元婚約者ベンドリング。あの亡命の際、ファーレンハイトは他の者をマルガレータに付けて、ベンドリングは連れ帰ろうとフレーゲル男爵に意見した。

”若いうちに、後宮から下がることも考えられます。その場合、婚約者がいたほうが”

 解き放たれたカタリナを、誰が引き取るのだと。

 その頃、まだカタリナのことを知らなかったフェルナーは、

”側室であらせられるのだから、容姿も優れていらっしゃるのでしょう? それに血筋も良いとなれば、多少性格に難があったとしても、引く手数多なのではないのですか”

 かなり無責任なことを言って、フレーゲル男爵の意見を後押しした。

”カタリナが後宮から下がったら、私が責任を持って結婚相手を捜してやろうではないか。もらい手がなかった場合は、ジークリンデの友人として我が家で引き取ろう”

 フレーゲル男爵は全ての責任を取ると言い、ベンドリングを送り出した。

 

―― 責任取ると言っておきながら、亡くなられてしまって……誰の手にも負えませんよ……それにしても……

 

 ちなみに、後日カタリナと遭遇したフェルナーは「本当に申し訳ございません。知らぬとはいえ無責任な発言をしてしまって……」本気でファーレンハイトに詫びた。

 詫びられたほうは、もうなにも言うなと肩を叩き、無言で”任せたぞ”と。

 ただファーレンハイトは考えが及ばぬようだが、たとえばこの場に、夫となったベンドリングがいようとも「カタリナさん。カタリナさん。カタリナさんってば! カタリナさーん!」と、名を呼ぶくらいのことしか出来ない。

 もう一人、責任を取るといっていたフレーゲル男爵がいたとしたら「もっとやれ! カタリナ! 攻撃の手を緩めるな!」と焚きつけるだけ。

 

 そういう訳で、ベンドリングを引き留めていようが、フレーゲル男爵が生きていようが、ロイエンタールへの”軽い”嫌がらせは、避けられなかったであろう。

 男たちから見ると、とても軽い嫌がらせには見えないのだが、カタリナ自身は、軽い嫌がらせ気分である。”からかっている”ではなく”嫌がらせ”という部分に、本気が見え隠れもするが。

 

「でも安心して。誰も悪口は言わなかったから。愛撫が右乳首からなのは、悪口じゃないもの」

 扇子をしゃらりと鳴らし閉じて、手首までの短い手袋で覆われた手のひらにたたき付ける

 不穏な台詞が飛び出しそうなので、ファーレンハイトはカタリナの背後に回り込み、

「悪口っていうのは、たとえば、短小かわ……」

「カタリナさま、そのくらいに。貴方さまは、名だたる名家を継がれた、貴婦人なのですから。そのような下品なことは、言ってはなりませんよ」

 無礼だとは分かっていながら、カタリナを羽交い締めにして口を手で覆う。

―― ああ、勇者がいる。上級大将は違う(フェルデベルト)

―― さすが提督。特攻野郎らしい見事な突撃ぶりです。最後までお供しますよ(ザンデルス)

 地雷を自ら踏んで撤去するかのような行動を取ったファーレンハイトに、

「素直に感謝させてもらおう」

 ロイエンタールが、前髪を払いのけ、話を無理矢理止めてくれたことに感謝する。

「気にするな。卿のためではない、一応、カタリナさまの名誉のためだ。カタリナさま、お願いします、お止めください」

 頼み込み、強く拘束していなかった腕をほどく。

「勝手に触らないでちょうだい」

「申し訳ございません」

 下級貴族が門閥貴族の女性に許可無く触れたら、罰せられるのは、当然下級貴族のほうである。

 ファーレンハイトの前髪をむしるように掴み、

「膝を折りなさい」

「はい」

 自分よりも目線が下になったファーレンハイトの横顔に、扇子をたたき付ける。

 象牙の扇子は大きな音を立てて壊れ、破片があちらこちらに散らばる。

 普段であれば人が殴られるのを見て、硬直するような面々ではないのだが、殴った相手が女性となると、それも迫力のある美女ともなれば、いささか事情が異なる。

 破片が音を立てるのを止めると、辺りは苦しいまでの静けさが満ちた。

 ファーレンハイトとしては、殴られた頬は痛くはないので構わないのだが、掴まれている髪が、何本か音を立てて抜け、カタリナの整えられている爪が、手袋越しに頭皮に食い込んでくるのには困っていた。

 こうなると分かっていたとはいえ、なかなかに辛い状態。

 周りの者たちもかなり苦しく、だがこのままではいけない、救出に向かおうと、

「壊れない鉄扇のようなものを、装備なさっているのだとばかり」

 フェルデベルトが、非常に勘違いしたことを尋ねた。

 カタリナはファーレンハイトの髪から手を離し、汚れを払うように手を叩き ―― 短い銀色の糸のようなものが数本落ちたが、

―― 義眼の調子が悪いので、見えていません。提督の髪が引き抜かれただなんて

 誰もが見なかったことにした。

 三十過ぎた男の頭髪をむしるという、悪魔の所行としかいいようのない行動を取ったカタリナ。

「馬鹿ねえ、フェルデベルト。鉄扇のような下品なもので殴ったら、相手を怪我させてしまうじゃないの。私は殴るけれど、怪我はさせないわ。殴った跡を残すような下品なまねはしないわよ。させるのは……散らばった宝石を拾いなさい、下民ども」

 生まれながらの支配者の言葉に、

「……」

「はい」

「はい」

 ロイエンタール以外はすぐに従った。

 プライドがないわけでも、気骨にかけているわけでもない。

 女の機嫌を損ねてはいけないこと、機嫌を取るためには従わなくてはならないことを、理解しているだけ。

 それに長いこと貴族に支配された社会で生きてきたので、彼ら自身は差別しなくとも、上位者から差別されることには鈍く、割と考えずに従ってしまうことがある。五百年の長きに渡る貴族制が敷かれた社会では、それらに疑問を持つほうが難しい。

 それは善悪ではなく、彼らの社会の常識なのだから。

 だが国を取ろうという覇気があり、女性の機嫌を取ったことのないロイエンタールだけは、動かなかった。

「……」

「……」

 カタリナとにらみ合い、

「拾いなさい」

「……ちっ」

 内心で「戦略的撤退の一種であって……暴走を止めてくれたファーレンハイトが拾い集めているからであって……」自分に言い訳しつつ、宝石を拾い出した。

 そんなひどい状況の部屋に、いままでカタリナとは無関係であった軍人が訪れる。その人物の名はベルゲングリューン。

 遅きに失したと、多くの者に呆れられそうだが、キルヒアイスは彼女の護衛のために、自分の部下であるベルゲングリューンをオーディンに残していった。

「失礼いたします。ベルゲングリューン……」

 本来ならば「少将」まで名乗りを上げるところだが、尚書や上級大将が、しゃがんでなにかを拾っている姿にあっけにとられ、足下にあった黒真珠に気付かず踏んでしまい ――

「グーデリアン男爵家に代々伝わっていた、黒真珠だったのよ」

「申し訳ございません!」

 平身低頭して詫びた。

 そんな大事な宝石で飾られた扇子で、殴りつけるのはいかがなものか? 部屋にいた者たちは思いはしたが、誰もなにも言わなかった。

「謝るだけなら、誰でもできるわ。あなた、弁償できる?」

「どれほどの品か、私には分かりませんが、誠心誠意弁償させていただきます」

 見事な髭を蓄えているベルゲングリューンが、床に額を押しつけたまま、腹からの声で弁償を誓う。

「俺が代わりに弁償してもいいが」

「一族の宝を買えるって思い上がってるあたり、本当に下品な物言いね。さすが成金下級貴族」

「……」

 見かねたロイエンタールが、本気で提案したが、これ以上ないというほど激しく拒否された。そのカタリナは、フェルデベルトに鞄を持ってこさせ、封筒を取り出して、

「顔を上げなさい。この手紙を、ジークリンデに届けて、返事をもらってくるように。今すぐよ」

 彼女に届けるよう命じた。

 いつもは手紙を検閲してから渡しているのだが、この場でそうすることもできず。

 ベルゲングリューンは恭しく受け取り、立ち上がる。

「かしこまりました。必ずやお届けし、返事を受け取ってまいります」

 彼女の部屋には許可された僅かな者しか立ち入ることができず、それ以外の者が訪れるためには、通行できる者を付けてやる必要があった。

「ザンデルス、案内してやれ」

 ベルゲングリューンが踏んで粉々にしてしまった黒真珠の破片を集めていたザンデルスに”それはもういい”とばかりに、ファーレンハイトが指示を出した。

「はっ」

 泣いている彼女の元へと行き、手紙を受け取ってくるという苦行を命じられた彼を、軍人たちは最敬礼して見送った。

「手紙の配達だけで許してやるのですか?」

 無事だった宝石をフェルデベルトが一纏めにし、集められていた黒真珠の破片をそれらとは別の袋に入れる作業に没頭している中、

「まさか。私がそんなつまらない女だと思っているの? ファーレンハイト」

―― そうだろうとは、思ったが。……ベルゲングリューン、ご愁傷様

「つまらなさとは、正反対にございます」

 ファーレンハイトはどうしようもないほどに、彼の真骨頂とも言える慇懃無礼な返事をしていた。

「お前は、俺になにか恨みでもあるのか? カタリナ」

「あんたに恨み? あるわけないでしょう。え、なに? この程度のことで、恨まれてると受け取るの? 情けない男ねえ。女の体は知っていても、女の生態には詳しくないみたいね」

 見つめられると女性は顔を赤らめてしまうほど秀麗な顔立ちと、見入ってしまう金銀妖瞳を持つロイエンタールだが、彼を男性として見ない女性も少なくはない。

「……」

 要は好みの問題なのだが、カタリナは後者であった。

「女の体に詳しいといっても、所詮二流よね。前の陛下に比べたら、抱いた女の数も種類も貧相なものよ。はん」

「数が多ければ良いというものではないだろう」

 ロイエンタールは一度たりとも、それを誇ったことはない。誇るようなことではないことを、理解しているためだ。

「なんでも極めた男はすごいと思うわよ。たとえそれが抱いた女の数であろうとも。大体あんたは、一流っぽいけれど、超一流にあと一歩届かない男よね。抱いた女の数しかり、成金だけど財産はフェザーンの黒狐に及ばず、身長とか脚の長さとかジークフリード・キルヒアイスには及ばない。若くして尚書に就任したけれど、歴史上最年少ってわけでもない。帰還したエッシェンバッハ侯が、尚書就任最年少記録を塗り替えるでしょう。なんていうの、つまらない一流男って感じ」

 

 カタリナが言っていることは、事実と言えば事実。だからこそ彼らは”誰か止めてやれ”と、他力本願しながら、彼女の手紙を携えてベルゲングリューンが戻ってくるのを、いまか、いまかと待ちわびる。

 

―― レオンハルトさま。貴方はご自身の母君とカタリナさまの性格は似ているから、平気だと言われていましたが……本当にこのような性格だったのですか? このような方が、二人も三人も四人も……門閥貴族ってなあ……

 

 そんな中、責任取ってカタリナを引き取るといった時の、フレーゲル男爵の言葉を思い出し、ファーレンハイトは全てのものから視線をそらした。


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