男爵位が欲しいと近寄ってきた親子が退場したあとは、そんなことを彼女に言ってくる者もおらず、午後八時を回った頃には会食も終了した。
全員を見送った彼女は、後片付けが始まった会場の片隅の椅子に腰を下ろし、撤収される様子を虚ろな瞳で見つめている。
彼女は葬儀が終わったことに安堵したが、すべてが終わり、あとは自分で自分の気持ちを整理し、自ら望んだ通り生き延びたのだから、立ち直らなくてはならないのだと ―― そう思うと気が重かった。
「ジークリンデさま」
地上車の用意が整ったとの連絡を受けたキスリングが、彼女に声をかける。
普段であればすぐに動く彼女だが、いまはそうはいかず。声をかけられても、反応を示すような素振りはまったくない。
「お手を失礼いたします」
指に数珠を絡めた彼女の手を取り”立って下さい”と引く。
彼女は黒いベールを掴み、優雅に立ち上がった。
「行きましょうか、キスリング」
「はい」
撤収作業をしていた者たちが、一斉に手を止めて頭を下げる。彼女はその中を、長い黒のベールとキスリングと共に抜けて、会場を後にした。
地上車に乗り込む前に、ファーレンハイトが彼女の元へと顔を出す。
「後のことはお任せください」
彼は会場の後片付けもそうだが、遺体の保管や埋葬についても、いろいろとしなくてはならないことがあった。
「ファーレンハイト」
領地の墓所に埋葬しなくてはならないのだが、
「なんでしょう」
「埋葬を後回しにして。側に居てちょうだいと言ったら……軽蔑しますか?」
そうなると当然ながら、ファーレンハイトはオーディンを離れなくてはならない。
他の者に任せることもできるが、彼女としては、信頼が置ける者に埋葬を取り仕切って欲しかった。同時にそこまで信頼している相手が、遠く離れるのは苦しい。
強がる気力が残っていない彼女は、その気持ちを包み隠さず伝えた。
「まさか。今すぐ埋葬してくるよう命じられなくて、安心しております」
すぐに埋葬するよう命じられた際には、理由をつけオーディンを離れないようにしようと考えていたので、彼女の望みは彼らとしても願ったり。
棺の管理や移動のために残るファーレンハイトに見送られ、キスリングと共に地上車に乗り込む。
警備の関係で、彼女の向かい側に座ったキスリングは、俯いている彼女の表情を盗み見る。一日で随分とやつれてしまったように感じられる彼女の面立ちを前に、声をかけなければならないような気持ちと、身分と立場をわきまえろという職務と社会構造に忠実であろうとする意思で板挟みになっていた。
「先ほどは、ありがとう。キスリング」
キスリングの気持ちを読み取ったわけではないが、彼女は顔を僅かに上げて、先ほどの行為に感謝した。
「いいえ。出過ぎたまねをして、申し訳ございませんでした」
「気にしないで」
本来であれば、叱責するなりしなくてはならないのだが、今の彼女にはキスリングの行為を咎めるような気力はなかった。感謝するだけで精一杯。
ベルリン王宮によく似た建物を使用している、ラインハルトの元帥府に到着する。下車した彼女は最初はゆっくりと歩いていたが、徐々に早足になった。
廊下に響く、軍靴とは異なる、華奢なヒールがたたき付けられる音。
ふわり、ふわりと舞う黒いベール。いままで彼女の顔を隠していたが、あおられ、彼女の顔があらわになる。
併走するキスリングは、彼女の目から涙があふれ出していることに気づき、私室の扉前に立っている兵士たちに大声で命じた。
「ドアを開けろ!」
走ってくる彼女とキスリングの声に、兵士たちは、弾かれたように急いで扉を開く。
部屋にたどり付く寸前に、靴が脱げて、部屋に転がり込むように倒れ込んだ彼女は、長いベールが廊下に残ったままので、声をあげて泣き出した。
「――――」
兵士たちはドアを閉めることなく下がり彼女は明かりがついていない部屋でひたすら泣き続けた。
悲しいのは当たり前だが、自分の中にある感情の全てを泣くことで吐き出し、楽になりたいという思いが強かった。
だがどれほど泣いても楽になることはなく、結局、日付が変わるまで泣き続け、失神にちかい形で意識を手放し、一時の微睡みを得ることしかできなかった。
泣き声が聞こえなくなったのを確認し、キスリングがまったく足音を立てずに彼女に近づき、注意深くマリアベールを取り外し、抱き上げてベッドへと運ぶ。その途中、長い睫に残っていたしずくが、頬を伝い落ちる。
葬儀を終えてから三日が経過し ――
「泣き止む気配はない」
彼女は泣き続けていた。
「泣き続けるのは、立ち直るのに必要だとしても、たびたび脳貧血を起こされるのは」
泣いているうちに脳貧血を起こし、意識を失うを繰り返していた。
座って泣いているので、倒れて頭を打つようなことはないのだが、頻繁に気を失われると、彼らとしても心配で落ち着かない。
「食事もあまり取られないし」
オーベルシュタインからの問題提起に対し、棺をいつでも領地に運べるよう、輸送艦に移す作業を終えたファーレンハイトが、料理の写真を撮影しながら答える。
「どうしたものか」
自分が食べる食事を撮影しているのではなく、彼女の「食前」「食後」を、いまにも病院を抜け出してきそうなフェルナーに送るため。
もっとも送ったところで、食事の減りが悪く、心配して、結局抜けだそうとしてしまうのだが。
「食後に料理を取り除いて、量を減らして撮影してみたらどうでしょう?」との提案もあったが、召使いたちでも料理の残り具合で主の好みを判断できるのだ。元諜報部の男にそれが通用するとは ―― だが試してみてもいいだろうと、彼女が食べ残した料理を減らし、撮影して送ってみた。結果は当然のごとく、簡単にばれた。
「よほどの貴婦人にでも頼まない限り、欺すのは難しい。俺たちが偽装すると、一目で下品な手が加わったと分かるそうだ」
そう答えたのはファーレンハイト。
どこがどう違うとは上手く表現できないが、まったく違うことはファーレンハイトにもよく分かっていた。
「よほどの貴婦人とは、ノイエ=シュタウフェン公爵夫人のようなお方か?」
”フェルナー少将の脱走を止めてください。移植した皮膚がまだ定着していないので、下手に触るとよじれるおそれが”と、護衛たちに頼まれたオーベルシュタインが、誤魔化せそうな人物の名をあげてみたが、ファーレンハイトは眉間に皺を寄せて首を振る。
「カタリナさまは、たしかに貴婦人だが、あの方の食事作法はフェルナーの頭の中に入っているから、すぐにばれる」
「そうか」
「ベーネミュンデ公爵夫人ならば、誤魔化せるかもしれないが、そんなことを依頼したら、なにを言われるか」
彼女が退院して以来、ベーネミュンデ公爵夫人からファーレンハイトとフェルナーに、日々「彼女を守れなかったことに関する、お叱りのメール」が届いていた。
そして、動けないフェルナーの代わりにファーレンハイトが二人分の頭を下げる日が続いている。
「この案は、無かったことにしよう」
ため息を吐くファーレンハイトに、フェルナーの警備に努力させようとオーベルシュタインは話を打ち切った。
彼女が食事を取らないことや、頻繁に意識を失うことに関して、彼らが取れることはほとんどない。
出来ることはいえば、地球教の聖地である地球に総攻撃をかけるための出兵準備など。
「予算だが」
半分乗っ取ったラインハルトの元帥府で、予算配分などについて話し合っていると、
「こういうのは俺に任せて、ほら、伯爵夫人の元へ行って慰めるなりなんなりしてこい」
ややフェザーン訛りはあるが、軽快な口調の男が突然話し掛け、彼らの目の前にあった書類を奪った。
「……キャゼルヌ?」
ミルクティーを思わせる頭髪が特徴のキャゼルヌが、彼らにとってはまさに”突如”現れた。
「なにびっくりしているんだ」
「居るはずがない人物がいたら、驚くのは当然だ」
誰が見ても驚いているようには見えないオーベルシュタインが”驚いているのだ”と言い返す。
「どうやって帰国したのだ? 入国は制限されているはずだが」
食料を輸入しなくてはならないので、完全封鎖はしていないが、内乱中のため一般人のオーディンの出入りは制限、監視されている。
「フェザーン商人の力ってやつだ」
キャゼルヌはそれをくぐり抜け、オーディンの首都機能を維持の一角を担う、ラインハルトの元帥府までやってきたのだ。驚かれて当然である。
「フェザーン商人がそこまでできるとは」
「女房が婦人会を通して、頼んだ」
キャゼルヌの口からその名が出ると、覚えのあるファーレンハイトと、キャゼルヌを元帥府まで連れてきたシューマッハの二人が、周囲が不思議に感じるほど、納得したと言った声を上げた。
「フェザーンの婦人会?」
オーベルシュタインの問いに、自治百十周年記念式典に出席する彼女に従いフェザーンへと赴き、婦人会長に会ったことのあるファーレンハイトが、思い出しながら、そのときに見たままのことを訥々と語る。
「フェザーンのご婦人が集まって……料理教室を開きながら情報交換、お茶をしながら情報交換、婦人会のメンバーで旅行にいき、宿で若い人たちの見合いを組んでみたりと。フェザーンの裏の顔とでもいうべきか」
「そんなものがあるのか」
「どこでも女性の噂話は、最大の情報源で一定の力を所持しているが……五年ほど前に訪れた際の婦人会会長は、それはそれはやり手の老婦人でな。どのくらいやり手かというと、息子をフェザーンでもっとも裕福な商人の一人娘の婿にしたほど。その息子は現自治領主だったりするわけだ」
「ルビンスキーの母親……」
あのフェザーンの黒狐ことアドリアン・ルビンスキーも、人の子である以上、母親がいて当然なのだが、彼の現在の存在が強烈過ぎて、幼少期など思いも付かず、それに伴い、彼の母親も想像できるものではなかった。
「黒狐の母親か。想像も付かんな」
いつの間にかやってきていたロイエンタールも話に混ざり、冷笑を口元に浮かべてそう言った。
「想像しないほうがいい。できんだろうしな」
ただファーレンハイトの答えは、
「え?」
「あ?」
オーベルシュタインや、ロイエンタールにとっても意外なものであった。
「俺は会ったことはなかったがな。写真も若い頃のしか見たことがない」
妻が婦人会に属しているフェザーン人のキャゼルヌも、ルビンスキーの母親であるルビンスカヤを見たことはなかった。
「用事があるので、失礼させていただく」
もう一人この場でその容貌を知っているシューマッハは、そそくさと帰っていった。
現在部屋で、泣いている彼女もその容姿を知っているのだが、聞かれたら困るであろう。口が悪くない彼女ですら、その姿を見た時『ジャバ・デシリジク・ティウレ……いえ、あの……』古い映画に登場した悪役が脳裏を過ぎって、思わず声を失ったほど。
なぜそのとき、記憶力が低い彼女の脳裏にジャバ・デシリジク・ティウレという名が思い浮かんだのか? 永遠の謎でもある。普通にジャバ・ザ・ハットと内心で呟けば良かったであろうに ―― 後日、彼女はこの他の誰とも共有し得ない、失われたアーカイブに属する類いの出来事を思い出し、一人で恥ずかしさにもだえていた。
ルビンスキーの亡き母(二年前に死亡・遺影は二十歳のものを使用)についての話題を強制的に終了させて、彼らは仕事に取りかかった。
「艦隊の事務処理は任せろ。ほら、お前らはさっさと伯爵夫人の元へ行って、慰めるなりなんなりしろ」
鉄の胃袋を持つと噂されていたユンゲルスが、彼女の涙に耐えきれず、そろそろ脱落しそうになっているほどに、彼らの精神にくるものがあった。
「……キャゼルヌ」
「なんだ? パウル」
「もう一つ仕事を頼んでもいいだろうか?」
「構わんぞ」
「ジークリンデさまの一族が、軒並み殺害されたのは知っているな?」
「ああ、もちろんだ。その凶報を聞いたからこそ、こうして急いで帰ってきたんだ」
もう少しでフェザーンというところで、キャゼルヌはその知らせを聞いた。
彼がなにか言うより先に、夫人はフェザーン銀行の通帳をキャゼルヌに手渡し、さっさとオーディン行きの旅券を手配して『帝国マルクより、フェザーンマルクのほうが融通きくでしょう』と。そして妻子に見送られて戻ってきたのだ。
「その結果、いくつもの爵位をジークリンデさまが継ぐことになった」
キャゼルヌは一族が絶えしまった彼女の行く末を心配していた。
フェザーンに行く前に聞いた代替わりの際の内乱の話を思い出して「こいつは、失脚ってやつだよな。もしかしたら、伯爵夫人のお側に誰もいないのでは……」などと考えて、商船で亡命も扱っている商人と連絡を取り、なにかあったら亡命させるつもりで帰ってきたのだが、到着してみたら夫の元帥府で厳重に守られていると知り、杞憂であったことを喜んだ。
一族が死に絶えてしまったことに関しては、
”元帥さまなんだから、ご家族も守ってくれたら良かったのにな”
正直な気持ちはそうであったが、まずキャゼルヌは彼女の無事と、彼女の周囲から人が全く離れていないことを前向きに取った。
「いくつも? フライリヒラート伯爵家と、リヒテンラーデ公爵家だけじゃないのか?」
「典礼省で調べたところ、ジークリンデさまは二公爵、一侯爵、八伯爵、七子爵、十一男爵の継承リストのトップに上がっておられる」
社交界には頻繁に顔を出していた、建国以来の名門伯爵家の生き残りである彼女は、両手にあまるほどの爵位を継ぐはめになっていた。
「二十九も継がれるのか?」
二つ程度だろうと考えていたキャゼルヌは、その数を聞いて、驚くよりも嫌な感覚が先にきた。
「それにローエングラムが加わり、合計で三十となる」
「陞爵とか、されるのか?」
貴族のしきたりには疎いキャゼルヌだが、その数を継ぐとなると伯爵では足りないであろうと予想はできた。
言い換えると、貴族の枠組みに関して門外漢であっても、想像できるほどの出来事。
「ローエングラム公爵夫人となられることは、確定している。それに伴い、中将にも昇進なされる」
「ほー。……って、感心している場合じゃないな。俺は、その手続きを担当すればいいのか?」
「それもあるが、その前に継ぐことになっている家の財政状況を調べて欲しい。借金をご自身の資産で清算させるようなことは、避けたい。借金のある家は、継がずに典礼省に返上しようと、ファーレンハイト提督と話し合っていたところだ」
通常であれば面倒なので返上したい……といって、簡単に返上できるものではないが、これほどの数を一人で継ぐとなると、典礼省のほうでも便宜の一つもはかるというもの。
たとえ、返上された爵位に借金が付随していても、予備費で精算くらいはするであろう。
「そういうことか。任せろ……しかし、三十なあ」
帝国四千家の中の三十を一人で独占することになる ―― キャゼルヌには、それが良いことには全く思えなかった。
「残念なことに、増える可能性がある」
「増える?」
「賊軍に与している者の中で何名か死亡すると、ジークリンデさまが継承最優先になりそうな家柄がある」
「おいおい。これ以上近親者が死んだら、お可哀想……って言っては駄目なのかもしれないが、返却したほうがいいんじゃないのか?」
きっと彼女は喜ばない。それどころか、悲しみを募らせるであろうと。
「たしかにな」