呼び止められた二人は彼女に向き直る。
「なんでございましょう?」
彼女は二人を見比べて、
「ファーレンハイトは下がって」
きっと彼女の希望を許してくれないであろうファーレンハイトに、下がるよう命じた。
「失礼いたします」
下がるよう命じられた方も、彼女が何を言おうとしているのか? 先ほどまでの虚ろさを微塵も感じさせぬ空気から、おおよそ察して、部屋を出て行った。
扉前に立っているキスリングがドアを閉める。
静かな空気が室内を満たし ―― 窓から望める元帥府の中庭には、雪が舞っている。
「明日、邸で死亡した者たち全員の死体を確認しに行かせて」
「それはお止めにやったほうが、よろしいかと」
オーベルシュタインがやんわりと、止めるように促す。
「焼死体だから?」
「はい」
あまりにも死体の破損が激しく、肉親による確認など意味をなさない。
「信じられないの。ファーレンハイトやあなたたちのことではなく、お父さまたちが死んでしまったことが」
「実感がないのは、致し方ないことかと」
だがそれは死者に対して。生きている者にとって、意味がある。
「私は往生際が悪い上に、現実を直視していない……辛いの」
「ジークリンデさま」
「もしかしたら、生きているのでは? という、期待を捨てることができないの」
昨日リュッケを見て、兄と見間違った自分の行動を思い出し、彼女は必死に訴える。
「……」
「遺体を見たら諦められる。あなた達が見せまいとするのだから、ひどい状況なのも分かります。確認したことを後悔するかも知れない……でも、諦めたいの。諦めてしまいたいの。希望を捨てきることができなくて、苦しいの」
遺体を確認するという行為に、恐ろしさがないわけではない。
「ジークリンデさま」
「あなた達が正しいのは確かよ。私が愚かなのも分かっている。でも……お願い。対面しないまま埋葬されてしまったら、私は皆が生きていると、永遠に希望を持ち続け、どこにいても彼らを捜してしまう」
それでもずっと希望を持ち続ける苦しさと比べたら、きっと終わらせるほうが楽だろうと ――
「かしこまりました。手配いたします」
「オーベルシュタイン、ありがとう」
「いいえ」
「ところでオーベルシュタイン。あなたも遺体の確認してくれたの?」
「はい」
「そう。あなたがしてくれたのだから、間違いは一つもないのも分かっている。代わりに嫌な仕事を引き受けてくれたというのに、私のわがままで……本当に、ごめんなさい」
「とくに私はなにも……ですが、ご無理をなさらないでください。埋葬はいくらでも先送りにすることはできます。まずはご体調を優先なさってください」
「大丈夫。私のわがままなのですから、一日で終わらせます。私自身、先送りにしたくはないので」
「失礼いたします」
彼女は頷き、オーベルシュタインは部屋を後にする。
廊下に出てすぐに、遺体の管理を担当しているミュラーへ連絡を入れ、明日、彼女の確認作業に同行するように伝えた。
周囲の者たちには命じているようにしか聞こえない、冷淡な口調であったが、ミュラーは立腹することもなく、むしろ自分を選んでくれたことに感謝を述べるほどであった。
話を付けて人気のない廊下を進み、角を曲がる。
「話はなんだった?」
下がるよう命じられたファーレンハイトが、色鮮やかなドレスを数着持ち、壁に背を預けて待機していた。
「提督……自ら遺体の確認をなさりたいとのこと」
「そうだろうとは思ったが……それで?」
「ご意志は揺るぎそうもなかったので、ご希望通りに」
「そうか。それで、誰を付ける?」
「ミュラー提督を」
ファーレンハイトは姿勢を直して彼女の部屋へと歩き出し、オーベルシュタインは反対側へ。
彼女はオーベルシュタインが去った時と、ほぼ変わらぬ体勢のまま。全身から喜怒哀楽が消え去っており、残っているのは抜け殻 ―― だがその抜け殻はとびきり美しい。
「ジークリンデさま、服をお持ちいたしました」
ファーレンハイトは彼女の前にドレスを並べる。
「ドレス」
「どのドレスがいいですか?」
彼女は手近にあった、シフォンのプリーツが目を引くドレスを手に取り、
「そうね。この桜色のドレスを着て、美術館に行きたいわ」
胸元に当てて見せる。そして一緒に笑顔も作る。
「それはよろしいですね。是非ともお供させてください」
ほとんど感情のない笑顔だが、それはそれで、愛おしくなるほど可憐で美しい。
彼女は桜色のドレスから手を離し、今度は一番離れたところに並べられた、水色のドレスを掴んで、また自分に合わせる。
「でも、この、いかにも貴族のお姫さまというデザインのドレス、大好きなの」
「私も好きなデザインです。とくにジークリンデさまが着ているのを拝見するのが」
彼女は何度もドレスを自分に当てては”好きなの”と繰り返し、ファーレンハイトがそれに丁寧に答える。
着たいと言いながら、一着も袖を通すことなく。
そのうち話し疲れたのか、気を失うように眠りに落ちた。
ファーレンハイトは彼女をベッドへと運び、注意を払い服を脱がせてから横たえた。小さいが規則正しい寝息を立てている、彼女の寝顔を、額からまぶた、そして唇へと撫でる。
最後に触れた柔らかな唇だけ、確認するかのように少しだけ押す。赤子と錯覚させるほど柔らかな唇に隠れている歯。
ファーレンハイトが彼女のことを、明確に「守らねばな」そう考えるようになったきっかけは、彼女の歯にあった。
どのような話の流れで、その話題が出たのかは、もはやファーレンハイトも覚えていないのだが「弟が多いから、ぐらついた乳歯を抜いてやるのは得意だ」そのようなことを語ったところ、彼女が笑顔で近づいてきて、口を開けて「ここ、触って」自分の歯に触れろと言い出した。
まさか彼女の口に指を突っ込むわけにもいかないので、事情を聞いたところ、
「ここ乳歯で、ぐらぐらしてるの」
「……」
十一歳の男爵夫人は、まだ何本も乳歯が残っていた。
全て永久歯に生え替わっていないような少女が、嫁がされた上に、なにやら面倒ごとまで背負わされて ―― 婚家で悪い扱いを受けてはいなかったし、元凶の帝国宰相も彼女のことを、丁重に扱ってはいたが。
「抜いて」
「いつもは、どうやって抜いていらっしゃるのですか?」
「歯科医です」
「では、いつも通りになさったほうがよろしいでしょう」
「えー。一度くらい」
”ここ、ここ”指さしながら笑う、年端もいかぬ彼女を見て、守らなければ ―― そう思ったのだ。
「おやすみなさい、ジークリンデさま。できることならば、幸せな夢を観てください」
桜色のドレスを着て美術館に行くことはなく、ペールオレンジのドレスを着てクルージングに出ることもなく、マゼンタのドレスを着てプラネタリウムへ立ち寄ることもなく ―― 翌日、彼女は喪服を着て遺体安置所へ。
**********
同盟でクーデターが起こらなかったため、ヤンはイゼルローン要塞から帝国へ向け出撃するという、彼女ですら「原作と違う」とはっきりと言い切れる出来事が発生した。
何事にも巻き込まれていなければ ”どうしてなのでしょう?” 頭を悩ませたかも知れないが、今の彼女にそんなことを報告する者はいない。
帝国はこの侵攻に対し、リッテンハイム侯の討伐を指揮しているラインハルトに、ヤン艦隊も一任した。
”ヤン艦隊”相手に随分と雑な対応にも思えるが、兵力差は歴然で、なによりヤン艦隊は魔術師が率いる不敗の艦隊ではなく、同盟の一艦隊でしかない。
ヤンはというと、不満はあれど上層部からの命令に逆らえるはずもなく、出撃することになる。
「できるだけ、被害を出さないように。だが、上層部を納得させるだけの結果を出す」
いつも通りの無理難題を、完遂すべく艦隊を率いてイゼルローン要塞を出た。
ヤンを討つよう(正確には反乱軍)命じられたラインハルトは、今のままでも勝利できると考えてはいたが、万全を期するために、オーディンの警備は、ミュッケンベルガーを捕らえて戻ってきたばかりのケスラーに一任させ、ミュラーを呼び寄せることにした。
**********
彼女に付き添い、遺体安置所へと向かう日に、ミュラーは本隊に至急合流するように命じられた。
早急に準備を整えて命令に従わなくてはならないのだが、ミュラーはぎりぎりまで地上に残り、彼女の案内を務めることにし、後を部下たちに任せる。
遺体安置所の前に到着した地上車に近づき、ドアを開けて ―― 降りてきた彼女の横顔は、当たり前のことだが寂しげで、心ここにあらず眼差しは、彼女の悲しみを感じさせた。
「こちらです、伯爵夫人」
喪服の黒を曖昧なものにしてしまう、光沢のある黒髪は、昨日とは異なり、しっかりとまとめられている。
「分かりました」
ミュラーの案内で、二週間以上前に殺された者たちの遺体が安置されている、静謐な空間にやってきた。
「壮観ね」
一人で確認するのには、多すぎる棺。そのあまりの数に、彼女の口から素直な気持ちがこぼれ落ちた。
「数が多すぎるので、近親者のみのご確認にとどめられた方が」
彼女の父や兄、エルフリーデたちは、黒こげではあるが、まだ人間の形が残っており ―― ここに並べられた焼死体の中で比較すると、かなり状態は良いほうであった。
むろん、悲惨な姿には変わりはないが。
「……まずは、お父さまたちのところへ連れていって、ミュラー」
「かしこまりました」
差し出された黒い手袋をはめた華奢な手を取り、ミュラーは彼女の父親が収められている棺へと連れてゆく。
「あ……」
棺に近づいたとき、ある物を撤去しておくよう命じることを忘れていたことに気づき、思わず声を上げた。
「どうしたの? ミュラー」
「あの……なんでもございません!」
彼女の父親の棺から一つ間をおいた棺。
その棺だけ、白い布がかけられ、白いブーケが乗せられている。
彼女はその棺の側で足を止め、布をつまみ、
「この棺は誰ですか?」
―― エルフリーデでしょうね
誰が誰のために用意したのか、予想できたが、あえて”当人”に尋ねた。
「エルフリーデ・フォン・コールラウシュ殿です」
棺の中に眠るのは、彼女が考えた通り、エルフリーデ。
「このベールを用意してくれたのはミュラー、あなたですね」
プレスブルクが彼女の実家を訪れ、ミュラーも一緒に夕食を取った際に、エルフリーデと兄が、二月に結婚することも話題にのぼったので、日付などはしっかりと覚えていた。
「いえ、あの……」
あと少しで花嫁になるはずであった、彼女が義姉と慕っていた女性に、同情であり自己満足であることを重々理解して、尚、ミュラーはベールを用意した。
これらは安置している時のみにとどめ、葬儀が始まる前には、撤去するように指示を出していたのだが、その前に彼女が訪れて知られてしまった。
あまりにも幸せそうに微笑む彼女を前に、ミュラーは本当のことが言えず、
「あの……提督です、提督! あの、ファーレンハイト提督が用意なされました」
なにも出来なかった自分が、こんなことをするのは ―― 他者にどう思われようと平気だが、他ならぬ彼女に軽蔑されるのは耐えられないと、全く関係がなく、このようなことをしてもきっと嫌われないであろう人物の名をあげた。
その名を聞いた彼女は、僅かに首を振り否定する。
「ミュラー。ファーレンハイトは、こういうベールは選びませんよ。あなたも分かっているでしょう。ファーレンハイトなら、もっと派手なものにするわ」
「……そうでした」
以前フェザーンで会ったとき、ほつれていると知らずに、彼女がミュラーのコートの袖を引っ張り、袖が取れかけたことがあった。
お詫びをかねて、新しいコートを選ばせた際、チャコールグレーで無難で面白みの欠片のない標準的なデザインの、膝丈までのコートを選んだ。
コートの他に小物も選ばせたところ、これも色も形も一切冒険はなく。ミュラーらしいと言えば”らしい”選択ではあった。
その際に同行していたフェルナーとファーレンハイトにも、好きなコートを選ばせたのだが、二人とも派手であったり、スタイリッシュであったりと。「随分個性が出るものなのですね」と、彼女は三人の買い物を楽しく眺めていた。
ミュラーとの付き合いはフェザーンで一時途絶えたが、ファーレンハイトとフェルナーはその後もずっと仕えていたので、大体趣味は分かるのだ。
ベールは安いものではないのは、一目で彼女にも分かった。
デザインは華美ではなく、レースも控えめ。長さは棺を覆い隠すためにロング。それと白のみのブーケとセットになると、ミュラーが選んだと考えるのがもっとも無難であった。
派手になりすぎないように、でも……と。
「オーベルシュタインが選んだのだと言われたら、少し悩みましたけれど。……義姉さまから確認させてもらうわ。開けてちょうだい」
ミュラーの配慮に感謝して、彼女は遺体と向き合った。
どの遺体も目を背けたくなるような状態だが、だからこそ、必死に生前の面影を必死に捜そうとし ―― 思うようにはいかなかった。
「閣下、お時間です」
半分ほど確認した段階で、オーディンを離れる刻限になったと、部下が告げにきた。
「申し訳ございません」
「どこかへ行くのですか?」
「エッシェンバッハ侯から前線に赴くよう命じられまして」
「そうでしたか。忙しいところ、私のわがままに付き合ってくださったのね」
「いいえ……できることならば、最後までお供したかったのですが。本当に……」
「……賊軍の討伐へ向かわれるのですね」
呼ばれた理由は同盟の侵攻だが、どちらに配属されるか? ミュラーには分からない。命じられた方を、全力で攻撃する。
「はい」
彼女はミュラーを見上げて、
「本来でしたら、ご武運を……と言わなくてはならないところなのですけれど……いいえ、やはり……ご武運を」
これからミュラーが討つ相手には、多くの顔見知りが含まれているので「ご武運を」は避けたかったが、
「伯爵夫人」
無事を願うには、武運を祈るしかなかった。
「そして……もう私には、エッシェンバッハ侯のことを、夫と呼ぶ資格はありはしませんが……あの人の無事を願うことは、まだ許されると信じて……ミュラー、エッシェンバッハ侯のこと、よろしくお願いいたします」
すっと伸ばした背筋のまま、彼女は腰を折る。
凜とした姿だが、それはミュラーには過ぎたもの。
「頭をお上げください……ジークリンデさま。あなたのような高貴なお方が、私のような者に頭を下げてはいけませんよ」
門閥貴族の伯爵夫人に頭を下げられる形となったミュラーは、頭を上げるように頼んだ。
ラインハルトのことを「夫と呼ぶ資格はない」と言った彼女の言葉に、人としてあらわにしてはならない喜びを感じ、そしてラインハルトのために彼女が頭を下げたことに対して、怒りを覚える。
愚かなほど彼女のことを愛している自分を自覚して、語尾を濁す。
「ジークリンデさま。必ずや……」
本来であれば「必ずや、お守りいたします」と言わねばならぬところなのだが、声が出なかった。
「行って参ります」
こうしてミュラーはオーディンを発った。