黒絹の皇妃   作:朱緒

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第82話

 消灯時間は等に過ぎ、すっかり静まり返っている病棟の一室。

[……で?]

 起こされたフェルナーは、やってきたファーレンハイトから彼女に事情を伝えたことを教えられた。そこまでは聞きたかったことなので良いのだが、

「ジークリンデさまが、お前に今すぐ会いたいと」

[私は会いたくないって言いましたよね]

 その後が問題であった。

「聞いたような気もするが、お前の希望とジークリンデさまのお望みなら、どちらを優先するか? 分かっていることだろう」

 皮膚を移植している最中のフェルナーの姿は、痛々しく、また見る人によっては不愉快さを感じる状態。

 薬品とにじみ出す体液が入り交じり、空気清浄機が働いていても、鼻につくにおいがあった。

[そうですけれどね]

 だから嫌だと言ったが ―― これが逆の立場であった場合、フェルナーも相手の意思や希望を無視して、彼女を優先するので言えた義理ではない。

「ジークリンデさまは、お前が別の奴に仕えたので、顔を見せなかったと思っておられた」

[私って、どんだけジークリンデさまに信頼されてないんですか]

 打ち込んだあと、キーボードではない部分を包帯で覆われている指で、こつこつと叩き、自分自身に対する不快感をあらわにする。

「居るなら絶対に顔を出してくれると思っていたからこそ、だから仕方なかろう」

 フェルナーは、彼女がそこまで不安を感じているとは思っていなかったのだ。

[じゃあ、なんですか。ジークリンデさまは、意識戻ってから今日まで”フェルナーの裏切り者”と思って過ごしておられたのですか]

 それはフェルナーだけではなく、他の者も同じ。フェルナーが彼女を見限って、他に自分を売り込みに行くとは、誰も考えていなかったので、彼女がそんなことを考えていると聞いたとき誰もが驚いた。

「そうなのではないか」

[そこは否定してくださいよ。ひどい男だな]

 彼女は今、治療室に入る前の消毒液に触れても大丈夫か? の、血液検査の結果待ちである。

「ジークリンデさまの精神の安定のためにも」

[分かりました。この怪我に関しては上手く誤魔化してくださいよ。なんなら、本当のこと言ってもいいんですよ]

 フェルナーはそのようにモニターに本心を吐露したのだが、

「ちなみに、お前が火傷した理由だが、グントラムさまとローデリヒさまをを助けに伯爵邸に行き、テロリストと遭遇、応戦、負傷の後、火災に巻き込まれたと説明した」

 ファーレンハイトはあっさりと、嘘をついていた。

 後で説明しようか? 説明しないままで誤魔化そうか? 悩んでいたフェルナーは、勝手に”いい人”にされてしまい、

[Ungaahhhh]

 訂正のハードルが上がったことに困り果て、感情にまかせてキーを押す意味し、意味のない文字が表示される。。

「なにを言いたいのか分からんが、まずは落ち着け。一応、お前はまだ意識が戻っていないことにしておいた。いま意識が戻ったことにして、事情を説明してもいいが」

[嫌です。意識不明でいいです]

「では、これは撤去して……お前は、黙って意識不明になっているんだな」

 右目からの恨みがましい視線を浴びつつ、ファーレンハイトは意思表示用のキーボードを取り上げて、フェルナーの足下に押し込み隠した。

 

 検査の結果、問題はないと診断された彼女は、キスリングとユンゲルスに伴われてやってきた。

「アントン……」

 包帯で至るところが巻かれ、ベッドに横たわっているフェルナーを見て言葉を失う。

「意識はまだ戻っておりませんが、ご心配なく。近日中に戻ると医師が断言いたしましたので」

 意識が戻るもなにも、現時点で意識はあるのだが、フェルナーは微動だにせず。

「私って薄情なのね」

 フェルナーは目を閉じたまま、彼女の声を聞く。

「どうなさいました?」

 衣擦れと踵のない靴が奏でる足音が、フェルナーに近づく。

「このベッドに横たわっている男性が、アントンだなんて……まったく分からない。五年も仕えてくれた相手なのに」

 フェルナーは見えるところも、見えないところも、包帯で巻かれている状態。

 彼女以外の者たちや、

―― 私も鏡でこの姿見ましたけれど、自分とは思えませんでしたよ。気になさらないでください

 フェルナー本人も、姿を見ただけでは”アントン・フェルナー”だとは分からない。むしろ分からなくて当然なのだが。

「この状態ですから、致し方ありません」

 彼女のまとめていない髪が、彼女の着衣のシルクに触れた時に奏でられる音が、微かにフェルナーに届く。

「でも、皆はアントンだと分かったのでしょう? 私は、ここにいる人がアントンだなんて思えない」

「私たちも、所持品やDNAで確認しただけですから」

「でも……でも……アントン、ごめんなさいね。私、あなたが怪我をしているなんて、思ってもいなかったの。だから……見舞いに来てくれないあなたは、きっと私のことを見捨てて、違う人のところに行ってしまったと……。お父さまやお兄さまを助けようとして、大やけどを負ったあなたに……」

 彼女は必死に謝った。謝って済むことではないと思いながらも。

―― 絶対、目開けないからな

 声から泣いていないことは分かったが、フェルナーにはその表情を見る勇気はなかった。

「ジークリンデさま、そろそろ病室に戻りましょう」

 ファーレンハイトが手を取り、できる限り優しく手を引くが、彼女はまだ離れたくないと。

「病室に戻りましょう」

 彼女は頭を振って拒否したが、ファーレンハイトが抱き上げると、抵抗はせず。

「アントン……アントン、ごめんなさいね。ごめんなさいね」

 治療室から連れ出されるまで、ずっと言い続けていた。

 

**********

 

 いつ眠りに落ちたのか、彼女自身覚えていないが ―― 翌朝目を覚ますと、すでに準備が整ったファーレンハイトが、椅子に座って彼女をいつも通り見つめていた。

「おはようございます、ジークリンデさま。お早いお目覚めですね」

「おはよう……」

 体を起こして、目元をこする。

「もう少し、お休みになられても」

「起きます」

「かしこまりました」

 すぐに医師がやってきて、最後の診察を終えて、退院に問題のないことを告げる。

 彼女は医師の言葉にほとんど反応は示さなかった。

 運ばれてきた朝食に自分から手をつけようとはせず。

「少しは食べませんと。お体が持ちませんよ」

 ファーレンハイトが薄く切ったドライフルーツが入ったライ麦パンを差し出した。

「そうですね」

 それを両手で受け取って、時間をかけて食べきった。

「もう、充分でしょうか?」

 足りていないのは一目瞭然だが、食べる意思がないのでこれ以上は無理だろうと、ファーレンハイトは食事を下げさせる。

「ええ」

 ベルタの手により喪服を着せられ、その姿が映る姿見に触れて、しゃがみ込んでしまった。

「喪服着てばかり。もうやだ……」

 ベルタはかける言葉が見つからず、背中を両手でさすることしかできない。

 彼女の髪をまとめるはずであった美容師が、とても結えるような状態ではないとファーレンハイトに伝えにゆく。

「そうか」

 ファーレンハイトは荷物の運び出し忘れがないかどうかを確認してから、彼女の元へ。必死に慰めてくれているベルタに会釈し、

「準備は整いましたか?」

「やだ……もう、やだ」

「そろそろ行きましょう」

 黒いベールが付いている帽子を、彼女にかぶせた。

「やだ、やだ……」

 それでも、彼女は縮こまったまま動こうとしないので、ファーレンハイトが抱き上げる。

 彼女は首に手を回してつかまり、

「喪服やだ、いや」

 譫言のように繰り返す。

「ザンデルス、コートを持て」

「はい」

 柔らかく重さをほとんど感じないコートを持ったザンデルスが後を付いていく。

「申し訳ございません。黒い服以外、持ってきておりませんでした」

「喪服いやなの……もう、いやなの……」

「反省しておりますので、お許し願えませんでしょうか。帰ったら着替えましょう。何をお召しになります?」

「喪服やだ、喪服やだ……」

「淡いレモンイエローのパフスリーブドレスにいたしましょうか? それとも、プラチナラベンダーのアメリカンスリーブドレスにしましょうか? ジークリンデさまのご希望は?」

「いや、いや……」

 どう話し掛けても「いや」としか言わない彼女に、ファーレンハイトは優しく語りかけながら駐車場へ。キスリングがドアの前に立っている、地上車に乗り込み軍病院を出た。

 

 彼女は目覚めたら全てが終わっていた ―― 外を見るのが怖ろしく、ファーレンハイトに抱きついたままであった。それでも、震えが止まらない状態。

 向かい側に座っているキスリングも、その震えがはっきりと分かるほど。

 しばらくすると震えが止まったが、それは意識を失ったため。

 ファーレンハイトは首に触れて脈を取る。

「異常はないようだが……」

「そうですね。提督、看護師だけではなく、医師も常駐させてはいかがですか?」

「その方がいいだろうな。ザンデルス、手配しておけ」

「はい。ジークリンデさまを担当していた、主治医でよろしいでしょうか?」

「それでいい」

 

**********

 

「ジークリンデさま、到着いたしました」

 肩を揺すられて声をかけられ、ゆっくりと意識を浮上させた彼女は、言葉の意味を考えてまぶたを強く閉じた。

「……実家ですか?」

 いつかは確認しなくてはならないと思っている”焼け跡”だが、今の自分に見ることができるだろうか? と。

「いいえ、違います。ブラウンシュヴァイク邸です」

 そう言われて彼女はやっと目を開けて、怯えながらも窓から外を見た。そこには、見覚えのある豪奢な白い門と、よく盛大なガーデン・パーティーが開かれていた庭があった。

 まったく変わらない景色に、彼女は安堵し、体の力が僅かに抜ける。

「公がどうしても会いたいと」

「分かりました。私もお会いしたいです」

 抱きついていた腕をほどき、先に降りたキスリングが差し出した手を取って、彼女は下車して出迎えの召使いたちの間を通り抜けて、ブラウンシュヴァイク公の元へと向かった。

 

 ”退院したらすぐに連れてこい”と連日、方々に連絡をしていたブラウンシュヴァイク公。

「まだか! アンスバッハ」

 軍病院を出る際に”これから向かいます”と連絡を受け、いまかいまかと待っていた。

「まだにございます」

「事件に巻き込まれているのではなかろうな?」

「装甲車四両を護衛につけ、邸にいたるまでの道に兵を配置しておりまする故、そのような心配はないかと」

「遅い!」

 彼女の到着は決して遅くはなかったのだが、ブラウンシュヴァイク公のいらだちは募った。

 それから十分もしないうちに、彼女が邸に到着したという報告を受けて、

「ブラウンシュヴァイク公。ジークリンデさまが」

「やっと来たか!」

 公の表情がやっと、穏やかさを取り戻した。

 久しぶりに会ったブラウンシュヴァイク公に、彼女は喪服をつまみ礼をする。長年培った礼儀作法には一切のよどみはなく、まさに流れるような美しさであった。

「伯父さま、お久しぶりにございます」

「ジークリンデ!」

 公は大股で足音を大きく鳴らして近づき、彼女の両肩に触れる。

「伯父さま」

「体調は良くなったか?」

「はい。ご心配をおかけいたしました」

「いやいや、なにも言わんでいいぞ。行くぞ!」

「伯父さま?」

 そして突如彼女の手首を掴むと、部屋を出て行こうとした。

「ブラウンシュヴァイク公、どちらへ?」

「なにを言っておる、アンスバッハ。領地へ行くに決まっているであろう。こんな危険なところに、ジークリンデをおいておけるか!」

 公は彼女と直接会って、無事でいることを確認したら領地に戻ることになっており、その準備は整っていた。

「お待ちください。ブラウンシュヴァイク公」 

 そこへ彼女も伴うと、突然言い出した。

「あーうるさい、うるさい! 儂はブラウンシュヴァイク公だぞ、分かっているのか、アンスバッハ」

 ブラウンシュヴァイク公としては、突然ではなく、彼女を連れて来るよう命じた日から、そうするつもりであったのだが、他の者たちにとっては、いきなりの出来事。

 だが現在の彼女は、ブラウンシュヴァイク公であっても、自由にどこへなりと連れて行くことはできない。

 夫の許可なく連れ出せば、誘拐扱いになってしまい、公は罪に問われることになる。

 後見人のファーレンハイトが許可を出すことも可能だが、

「退院はなされましたが、まだ医師の定期的な診察が必要です」

「医者など、いくらでも手配できるわ! さあ、行くぞ! もう、怖いことはないぞ、ジークリンデ」

 夫であるラインハルトと協議する必要もある。

 もっと協議したところで、移動の許可が下りる可能性は少ない。それは公の領地よりも、オーディンにいた方が格段に安全だからに他ならない。

 一度彼女を守りそびれたラインハルトは、今度は彼女を守るために、大量の兵を投入した。もう手遅れである感が否めないが、それでも ――

「伯父さま」

 腕を引かれていた彼女は立ち止まらず、そのまま公の胸へと倒れ込み抱きついた。

「なにも心配せずともいいぞ、ジークリンデ」

 公には全くと言っていいほど悪意はなく、自分が正しいことをしているとしか思っていない。

「あの……ですが」

「早く用意をしろ!」

「落ち着いてくださいませ。ローエングラム伯爵夫人を、許可なく連れ出せば、最悪エッシェンバッハ侯とことを構えることになりますぞ」

「それが、どうしたというのだ、アンスバッハ」

 抱きついていた彼女は、いまできる限りの笑顔を作って、公に懇願した。

「止めてください、伯父さま。お願いです、伯父さま。私から大切な人を奪わないでください。伯父さまが……夫に殺されたら、私はどうしたらいいのですか」

「ジークリンデ」

 もう少しで泣き出してしまいそうな笑顔を前に、公の動きが止まる。

「伯父さま、伯父さま。私は大切な伯父さまを失いたくないのです。ですから……お願いです」

 嫁いでからこの方、一度たりとも見せたことのなかった悲痛な面持ちに、

「ジークリンデや……」

「私は大丈夫ですから。伯父さま、伯父さま、お願いです」

 公は彼女を連れて行くことを諦めた。

 

 公に別れの挨拶をし、

「アイゼナッハ」

 領地まで同行し、その後も滞在し警備を担当してくれるアイゼナッハと会った。

「ご無事でなによりです、伯爵夫人。ブラウンシュヴァイク公のことは、お任せください」

 アイゼナッハが喋っていたのだが、それが珍しいことに気付くほど余裕もなく、

「お願いね、アイゼナッハ。私、これ以上悲しみたくないの」

 そう言い残してブラウンシュヴァイク邸を去った。

 

 病院を出てからブラウンシュヴァイク邸に向かう途中までよりは、幾分落ち着いた彼女は、一人で座席に座った。

「次に向かうのは、エッシェンバッハ侯の元帥府です」

「そうですか」

 次に向かう場所を聞いた彼女は、首を傾げた。

「警備の関係上、しばらく元帥府に滞在していただくことになります。家財道具などは、勝手ながらシュワルツェンの邸から移動させてもらいました」

「分かりました……私も狙われているの?」

 彼女はうつむき、黒い手袋で覆われた手で、喪服をぎゅっと掴み、肩を震わせる。

 ”せっかく、落ち着かれたのに”喋った本人であるファーレンハイトが、内心舌打ちしながら、

「念のためです」

「そう……ですか」

 心配ごとはないと、言い聞かせる。

「信用できませんか?」

「そんなことはないですよ」

 彼女は顔を上げてファーレンハイトに笑顔を向けて言ったのだが、瞳も声も虚ろであった。

 

 元帥府の西側、住居にすべく完全に隔離されたスペースに到着した彼女を、オーベルシュタインが出迎えた。

「お待ちしておりました」

「オーベルシュタイン」

「ジークリンデさまを身の危険にさらしてしまったこと、申し開きの言葉もございません」

「気にしなくていいわ。私は無事ですし」

 一階に設えられた彼女の部屋へ。窓や扉の位置は違うが、それ以外は、ほぼ以前と変わらない部屋に連れてこられた彼女は、ソファーに腰を下ろす。

 ファーレンハイトは彼女の背後に立ち、オーベルシュタインが説明をする。

「足りないものがありましたら、なんでもお申し付けください」

「分かりました」

「国葬の件についてですが」

「……」

「後にいたしましょうか?」

「いいえ。続けて」

「それでは。明後日、リヒテンラーデ公の国葬が執り行われます。その際、ジークリンデさまに、皇帝陛下の代理で出席して欲しいとのことです」

 色々と候補はいたのだが、もっとも”映え”、かつ相応しいのは彼女だということで、この人選になった。

「分かりました」

「事情により、マールバッハ伯も臨席しますが、大丈夫でしょうか?」

「…………」

「お嫌でしたら、遠慮なく言ってください」

「オーベルシュタイン」

「はい」

「准将になったの?」

 彼女自身、どうして質問に答えないで、こんなことを聞いているのか? 不思議なのだが、何故か話をそらすようなことを口にしてしまった。

「はい」

 だがオーベルシュタインも怒るわけでもなく、肉付きの薄い顔に、その雰囲気とはまるで違う優しげな表情を浮かべて返事をする。

「そう。良かったわね」

「ありがとうございます」

 彼女は一度後ろを振り返り、ファーレンハイトを見て、

「……マールバッハ伯のことは、気にしなくても良いわ」

 昨日”マールバッハ伯は殺していない”という言葉を信じることにした。

「然様ですか」

「お父さまやお兄さまの葬儀は?」

「その後、別の会場で執り行われるよう手配しております」

「オーベルシュタインが手配してくれたの?」

「僭越ながら」

「あなたが用意してくれたのなら、間違いはないでしょう」

「ありがたきお言葉」

「少し、一人きりになりたいわ」

 彼女がそう言ったので、二人は部屋を出ようとした。

 

「……待って」

 


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