「まずは、リヒテンラーデ公は凶弾に倒れました」
これに関しては彼女も分かっていたことだが、はっきりと告げられてしまうと、今までとは違う感情がわき上がってきた。
「そうですか」
「それと、リヒテンラーデ公を殺害したのは、マールバッハ伯ではありません」
「そう……でしたか」
「それに関しての詳細は、後日でもよろしいでしょうか?」
「ええ」
そのわき上がってきた感情は、いままで経験したことのないもので、彼女はひどく不安になった。そしてファーレンハイトの上着の裾を掴み、力の入らない手で、子供が親に訴えるかのように引っ張る。
それ以上言わないで ――
彼女が言外に頼んでいることは分かったが、避けては通れないと、
「これを」
自分が彼女の後見人であるという書類を、開いて渡した。彼女は片手は離さず、書類に目を通した。掴まれている部分から、彼女の震えがファーレンハイトに伝わってくる。
「……どうして、ファーレンハイトが私の後見人になっているの……どうして、どうして……」
書類見て震えているのは、理由がはっきりと分かっているから。
だが、それでも”どうして”としか、彼女には言えない。
「グントラムさまも、ローデリヒさまも」
彼女は覚悟していたつもりであったが、それはあまりにも薄くすぐに破れてしまうものであった。
「言わないで!」
両手でぶら下がるように服を掴み、強く揺すり拒否を全身で表したのだが、
「お亡くなりになられました」
ファーレンハイトは無視して彼女に告げた。
常日頃、柔らかな光をたたえている彼女の瞳から、全ての輝きが消える。
「言わないでと……言ったのに……」
瞳は潤むことなく、涙が伝うこともなかった。
「二月九日に伯爵邸が襲撃されまして、あの日、邸にいた者は、ほぼ殺害されました」
血の気が失われた彼女の唇から、か細い悲鳴が漏れる。
「だれ……に」
服を掴んでいた手は、握り縋る力すらなくなり、ソファーの上に力なく落ちた。
彼女が考えていた最悪の事態よりも悪い状況が語られる。
「地球教徒です。あの日、邸には伯爵家の近親者が集まっていたこともあり、ジークリンデさまの後見人になることができる方は、みな殺害されてしまいました」
「……使用人たちも?」
「四名ほど助かりましたが、あとは……」
ファーレンハイトはできるだけ表情を変えず、声も普段と変わらぬ落ち着いた状態を保っていた。
「義姉さまも?」
「残念ながら」
マーメードラインのドレスを試着したエルフリーデの美しかったこと。
「明日」ブーケの花を選ぼうと約束していた ―― 「明日」は二月十日であったこと。
「小さい子もいたでしょう」
生まれて半年たらずの息子を抱いていた親族もいた。
ベールガールを担当する、十歳と八歳の少女もいた。
「無差別でしたので」
「本当に……全員……」
「はい」
彼女は一族全員のことを一度に思い出し ―― それは瞬時に砕け、白い絵の具がなにかで塗りつぶされてしまい、エルフリーデの姿すら思い出せなくなってしまった。
声も仕草も、今までの会話も。彼女の記憶から逃げ出し、手からこぼれ落ち、呟く言葉
「お父さまのは、もう…………埋葬されてしまったの?」
ただ二人だけ、兄と父親だけは、混乱している中でも、忘れないでいた。
「二十六日に葬儀予定です」
「今日は何日……」
意識を取り戻してから、外部の情報から隔絶されていた彼女は、咄嗟に日付が思い浮かばず尋ねた。
「二月二十三日です」
震える手で指折り数え、そして再びファーレンハイトの服にしがみつき、遺体でもいいから会わせて欲しいと頼んだが、拒否された。
「お父さまに会わせて。今すぐに」
「残念ながら」
「どうして?」
「ご遺体の損傷が激しいので」
ファーレンハイトの口から”遺体”という言葉が出ると、彼女の手に力がこもる。
”信じてる! ……小指だして、指切りっていってね”
以前、自分の小指に絡めたとき、折れてしまうのではないかと焦ったほどに繊細な指。今も同じ思いに駆られ、ファーレンハイトは服の裾から丁寧に剥がして手のひらで包み込む。
「どういうこと」
凍えたような指先には、桜色のマニキュア。健康的な爪色と不似合いな冷たさは、痛々しさが増す。
「証拠隠滅のため、邸は火をかけられまして」
「焼けてしまったの」
「ご遺体は見つかりましたが……確認はご家族でも無理です」
涙は一切出てこなかった。全身水を被ったかのように冷たく、胸は締め付けられ、
「吐きそう」
なにも出来なかった自分に対する嫌悪感から、吐き気がこみ上げてくる。
「失礼いたします」
俯いた彼女を、ファーレンハイトが大人が幼い子を抱きかかえるようにして、洗面所へと連れていった。
暖色の光で映える、アイボリーの洗面台。楕円形の鏡、百合の香りがする石鹸に、アラバスターのコップ。銅古美のクラシカルなデザインの蛇口。
彼女は洗面台に全身を預け、排水溝に吸い込まれてゆく水を見ていた。
吐き気はすれども、なにも吐き出すことができなかった。それこそ、声すらも出ず、楽にはならなかった。
彼女は洗面所の縁につかまったまま、蛇口から流れる水の音を、しばし聞いていた。
「水を止めて」
背後に立っていた、ファーレンハイトが腕を伸ばして蛇口をひねり、水を止める。
彼女はそこから動けぬまま、
「お部屋に戻りましょう」
連れてきた時と同じように、ファーレンハイトが彼女を抱き上げ、寝室へと向かう。
彼女はひどく重く感じる腕を首に回し、額を肩に乗せて、
「ねえ」
「なんでございましょう」
「エッシェンバッハ侯はどちらへ」
夫に助けを求めた。
この時ほど、彼女は肌を重ねたいと願ったことはない。熱と共に何も考えず眠りたいと ――
「リッテンハイム侯の討伐に向かわれました」
だがそれは叶わなかった。
「そう……リッテンハイム侯、反乱を起こしたの」
居たとして彼女の望みを叶えてくれるかどうかは別だが、出来ることなら側にいて欲しかったのだ。
「はい」
自分に死をもたらす相手だと分かっているからこそ、抱いてそのまま殺してはくれないかと願うほどに。
「じゃあ、地上にいる筈がないわね」
「討伐命令が下りましたので」
ラインハルトの行動が正しいことは、彼女も理解している。
彼女はファーレンハイトの首に回していた腕から力を抜き、全てを預けた。
「側にいて」
そして自分が取ろうとしている行動が、過ちであることも。
「お望みのままに」
**********
ファーレンハイトはシーツに投げ出された、日に当たったことなどない、白磁にも似た染み一つない形の良い彼女の脚に口づけて寝室を後にする。
入り口のホールに放置していたスーツケースから、明日、退院の際に着る、黒一色ではなく、前腕の中程から手首の部分までは白い、あまり膨らみのない喪服と、黒のパニエ、袖と襟にファーがついているケープコートをハンガーに吊し、胸まで覆い隠すベールが付いているつばなし帽を台に乗せる。
そして彼女の着替えを持ち、寝室へ戻ろうとしたところ、
「提督」
リュッケがホールでうろついていた。
「どうした?」
寝室へ行くのは憚られ ―― 彼女を取り巻く状況から、伝えた後にどうなるか? 二十歳を過ぎているリュッケにも容易に想像は付いた。
ファーレンハイトが上着を脱ぎ白いシャツ姿で歩いているところから、それが想像だけではないことも分かる。
もう少し経験を経れば、表情を変えずに寝室をノックをすることも出来るのであろうが、そう動くには若すぎた。
「フェルナー少将の治療に関する書類にサインを」
ペンが付属している書類はさみを差し出す。
受け取ったファーレンハイトは、書類にざっと目を通して、サインをして返した。
書類を受け取ったリュッケは、病室を出ようと室内に背を向ける。
「お兄さま!」
リュッケが退出するより先に、別の部屋のドアが開き、彼女の叫び声がホールに響いた。
振り返ったリュッケと、シーツを羽織ってここまでやってきた彼女の目が合う。
”泣きそうな表情”になり、白いシーツが滑らかな肌から落ち、彼女は糸が切れた操り人形のように膝を折る。
「ごめんなさい。お兄さまなわけ、ないのに……」
似たような背格好に、貴族の雰囲気。そしてなにより、黒っぽい髪 ―― 彼女はリュッケの後ろ姿を、兄と見間違い叫んだのだ。
「ジークリンデさま」
銀髪のファーレンハイトは見間違いようはないのだが、年が近く髪型も似ていたリュッケの後ろ姿は、彼女に一瞬希望を与えて、
「嘘つくはずないのに……嘘言ってないって、知っているのに……」
すぐさま現実に突き落とした。
「失礼します」
リュッケが退出し、彼女はホールでネグリジェを着せられ、促されるまま、先ほどとは別の寝室へ。寝乱れのないベッドに彼女は腰を下ろした。
「何か用事があって、いらっしゃったのでは?」
裸のまま、シーツだけ羽織ってホールまで出てきた彼女に”どうしてですか?”と、ファーレンハイトが尋ねる。
「独りだったから。アーダルベルト、勝手にいなくなるんですもの」
目覚めた彼女は、豪奢な部屋に一人きりでいることに、僅かばかりも耐えられず、靴を履くのも忘れて駆けだし、ホールまで出てしまったのだ。
寂しさや怖いなどという分かりやすい感情ではなく、言いしれぬ焦燥感。
「ご無礼のほど、お詫びいたします」
足下に跪き、彼女の手を取り指先に口づけた。
普段であれば恥ずかしがるのだが、彼女は無反応。ファーレンハイトはその手を戻して、頭を下げる。
彼女はつま先から頭まで全く動かず、しばらく時が流れた。
通信機の呼び出し音が突然鳴り響いたが、彼女は全く反応を示さなかった。
「……部屋の前まで」
反応を示そうが、示すまいが、連絡を受けるのはファーレンハイトの役ではあるのだが。
連絡はベルタからのもので、昼食に手を付けなかった彼女を心配し、アフタヌーン・ティーを用意させたので部屋まで運んでも良いかというもの。
いまの彼女に食欲があるようには、とても思えなかったが、運んでもらうことにした。
ワゴンに乗ったティースタンドに揃いの茶器。中段には冷やされたシャンパンと、グラス。
ファーレンハイトはポットを手に取り、確認を取る。
「私が淹れてもよろしいでしょうか?」
「……ええ」
”他のことは自慢できないけれど、お茶を淹れるのだけは自信あるの。待ってて、いま淹れるから。飲んでくれるかしら?”
ファーレンハイトから紅茶を受け取り、彼女は何も言わずに、僅かずつ飲み、半分ほど飲んだところで顔を上げた。
「私ってすごく幸せなのよね。殺されなかったし、アーダルベルトとか側にいてくれる人もいる。……不幸だって言ったら、駄目……」
生き延びたい ―― その望みが叶ったことを理解したとき、彼女は自分自身に対する失望に直面した。
ファーレンハイトはカップとソーサーを遠ざけ、彼女を子供を膝に乗せるようにして、背中をさする。
「そのように言っていただけて、光栄です」
彼女は何も言わぬまま。そして、いつしか眠りに落ちていった。
**********
「ジークリンデさま」
夜中に彼女はファーレンハイトに声をかけられ、目を覚ました。
「……アーダルベルト?」
「お休みのところ、申し訳ございません。少しばかりお側を離れます」
眠っている彼女を起こしたくはなかったのだが、先ほどのこともあるので、不安がらせるよりならばと、彼女に声をかけた。
「……」
彼女の視線は窓の外。夜の帷が降り、なにも見えないに等しい景色を、なにかを追うように。
「すぐに戻って参りますので」
「分かりました。アーダルベルト、喉が渇きました」
「なにをお持ちいたしましょう」
「なんでも、いいです」
「冷たいものか、温かいものか、決めていただけますか」
「では冷たいもので」
特に問題のないいくつかの報告を受け取り、冷えた炭酸水とグラスをトレイに乗せて、早々に部屋へと戻った。
彼女はファーレンハイトが出ていった時と変わらぬ体勢で、外を見つめ続けていた。
「何か見えますか?」
「何もありません」
「そうですか」
会話が成立しているようで、していない。危うさしか感じられない彼女の声に、不安を押し殺しながら、いつも通りに接する。
ファーレンハイトはグラスに炭酸水を注ぎ、彼女の手を取ってグラスを握らせた。
きっと飲まないだろうと ―― 分かっていながらも。
予想通り炭酸水は一度も口に運ばれることなく、グラスは手から滑り落ちた。音もなく転がったグラスからこぼれた炭酸水が、シーツに広がってゆく。
「……フェルナーは?」
それを気にすることなく、彼女はやっとファーレンハイトに視線を合わせて、フェルナーについて尋ねた。
「フェルナー、ですか」
空になったグラスを拾い、濡れないように彼女を立たせて移動させる。
「正直に言ってくれていいのですよ」
「正直と言いますと?」
「別の人のところにはせ参じたとしても……」
「なぜ、そのように思われるのですか?」
「一度も病室に来てくれなかったから……」
「なるほど……実はですね」
”そう”思われていては、フェルナーが可哀想だろうと、火傷で入院していることを教え、
「会いに行きますか?」
「いいのですか? もう夜ですよ」
「意識がないので、夜も昼も関係ありません」
「……会いたいです」
彼女をフェルナーの元へ連れていくことにした。