黒絹の皇妃   作:朱緒

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第79話

 彼女の治療が始まってから、ファーレンハイトは彼女の側にいた。むろん、治療室に立ち入れるはずはなく、ただ黒との境界線が曖昧な濃紫に沈み、死の河の近くで微睡んでいる彼女を、分厚い窓ガラス越しに見つめているだけであったが。

 

 当然ながらそれだけではなく、様々な雑事もこなしていた。

 その一つが彼女の入院準備。

 治療器での治療が終了したのち、彼女は病室に移動することになる。

 個室なのは当然だが、どの個室に入院させるのか?

 彼女の夫は元帥ということもあり、その地位に相応しい、最上階の特別室を病院側から勧められた。

 病室の豪華さもあるが、なにより警備がしやすく、脱出経路が確保されていることが最大の要因。

 軍人が特別控除のある軍病院に入院しているのにも関わらず、費用は相当な額となるが、彼女の個人資産からすれば微々たるもの。

 だが、入院費用に関しては彼女の資産は使われなかった。

 後見人に指名されたファーレンハイトは、彼女の資産をある程度は自由に運用できるのだが、手を付けるはずもなく、入院費用はファーレンハイトが全額自前で支払った。

 

 彼女が入ることになる特別室は、専用エレベーターで降りると、ID承認が必要な扉が三つほどある廊下に降りることに。

 その扉の前には、兵士が二人ほど配置される。

 扉そのものは透明に近く、エレベーターを降りた時点で、全警備員が到着した人間の姿を目視で確認するような状態。承認とボディチェックが繰り返され、病室に入ることができる。

 これは原則、医師や看護師にも適応される。

 唯一の例外は主治医で、二つの扉は承認だけで通り抜けることができるように決められていた。

 廊下は殺菌もかねており、病室の扉を開く前に、余計な病原菌を持ち込まないようになっている。

 

 病室は高級ホテルさながらで、扉を開けると大理石床のホール。壁には名画が、部屋の中央には有名な彫刻家の像が飾られている。

 入り口から見て左側の扉を開けると応接室。その応接室の隣に食堂。

 無論寝室で食事を取っても問題はない。

 寝室は二つで、応接室と食堂から、各一部屋ずつ繋がっている。各寝室には、独立した広いバスルームとサニタリーも付随している。

 ホール右側の扉は、大容量のクローゼットと姿見、それに理容室。そして使用人用の部屋が用意されている。

 

「入院患者用のパジャマもありますが、持ち込みも可能です」

 付き添いを買って出てくれたメルカッツの妻と娘と、副官のザンデルスと共に、ファーレンハイトは病室の案内を受け、最後に用意する品についての説明を聞くことになった。

「デザインの指定は?」

「できれば前開きで。袖も八分丈くらいのものが好ましいです」

「色や素材は」

「特にありません」

 その後、病室は女性二人に任せて、彼女が眠っている治療室へと戻り、しばらく様子を見てから、院内の食堂へと移動した。

 ファーレンハイトは空いている席に腰を下ろし、オーベルシュタインに必要な品を用意するよう伝える。

 その間、ザンデルスは食事を注文する。

 ファーレンハイトは安ければ文句を言わないので、ザンデルスは最も安い品を注文した。この辺りは副官として当然の采配である。

『今日中に用意する』

「頼む」

『ところで、退院する際のお召し物はどうする?』

「それは……」 

 彼女が事実を知らないで過ごせるのは、退院直前まで。

 退院してしまえば隠しようはなく、また退院予定の二日後には、体調との兼ね合いもあるが、リヒテンラーデ公の国葬に親族代表として参列する予定になっている。

『……』

「喪服は退院前日に、報告する者が運び込む……で、どうだ?」

『そうしましょう』

 退院前日までは、告げない方針で一致した。誰が持参するのかは、まだ決まっていないのだが。

 

**********

 

 病院外での大きな出来事は、オッペンハイマー元憲兵総監が自白した。取り調べを担当したのは、ラングである。

 この自白により、テロ行為の全ては、リッテンハイム侯の所行となった。

 次に彼らがすべきは、賊軍を増やすこと。

 これはイゼルローン攻略作戦の一部として、実行に移された。

「ミュッケンベルガーを逮捕か。誰を向かわせるのだ?」

「ケスラー中将に任せる。ミュッケンベルガー子爵は、あくまでもエッシェンバッハ侯の敵として排除しなくてはならないからな」

 子爵位を得て退役し、オーディンから四日ほどの距離にある領地で、悠々自適な人生を送り、今回の内乱に際しては中立を表明しているミュッケンベルガー。

 だが捕らえられる ―― これにより、中立貴族たちの不安をあおり、リッテンハイム侯側に与するように仕向ける。

 でもそれは中立貴族たちの勘違い。

 全てが終わったあと、ミュッケンベルガーが何故逮捕されたのかが、明らかになる仕組み。

「長年帝国に尽くした退役元帥閣下を、国賊に仕立て上げるのか。心が痛むな」

 説明を聞いたロイエンタールは、心にもない言葉を吐く。

 ミュッケンベルガーは叛徒との内通による罪で、逮捕されたと発表されることが決まっている。

 彼が内通した相手はヤン・ウェンリー、というシナリオ。

 同盟の手に落ちたイゼルローン要塞を取り戻すために、あの策はヤンとミュッケンベルガーが結託した結果とするのだ。

 

 イゼルローン要塞を効率よく落とすためには、ヤンを要塞から遠ざける必要がある。これは衆目の一致するところであった。 

 

 血を一滴も流さないでイゼルローン要塞を落とした英雄は、その功績により政治家に疎まれ、軍内部でも嫉妬を買った。

 フォークは極端だが、誰もがヤンの偉業を手放しで褒めているわけではない。

 鬱屈とした感情を抱える者も多い。

 そこに「あの作戦は、帝国の元帥と密約した結果ですよ」と囁くのだ。

 亡命者で構成されているローゼンリッターを使ったこと、その隊長が皇帝の落胤らしくいとも ―― ヤンを追い落としたいと思う者たちは、その噂を喜んで受け入れることは想像に難くない。まして噂の元帥らしき人物が捕まっていると知ったら、歓喜に打ち震え、今が好機とばかりに、醜悪な笑みを浮かべて、前線から呼び寄せて査問会にかけるであろう。

 

「士官学校を主席で卒業、三十五年軍に属し、二千万人以上の兵士を死なせ、叛徒を殲滅できなかった程度の人物だがな」

 ミュッケンベルガーは”うってつけ”の人物であった。

「惜しむべき才能はないということか」

「いいや、無能ではない。だからこそ、この状況で生け贄にするのだ」

 天才であるラインハルトやロイエンタールに及ばないだけで、ミュッケンベルガーも軍事的才能はある。だからこそ、この役に選ばれたのだ。イゼルローン要塞を陥落させた、直接の責任者であるシュトックハウゼンでは、力不足であったがために。

「だが、どうやって情報を流す」

「噂はいつでもフェザーン経由だ。今回も精々、精力的に動き回ってもらおう」

「だが奴らは、自分たちが得をしないことには協力しないであろう」

「エッシェンバッハ侯から守ってやる、と言えば、従うであろう」

 ラインハルトの野心はルビンスキーも知るところ。彼がフェザーン航路を使わないという保証はない。

「自由惑星同盟とやらを征服するためには、どちらかの航路を使わなくてはならないが、イゼルローンよりもフェザーンのほうが攻めやすいとなると……なるほど、それならば黒狐も乗ってくるだろう。だが、奴らは確実である保証を求めてくるぞ」

「フェザーンと組むというよりは、ルビンスキーと組むといったところだ。厄介者の排除を手伝ってやると、卿から持ちかけてみてはどうだ?」

 ルビンスキーのとって厄介者とは地球教のこと。

 フェザーンの自治領主としてラインハルト軍を通過させず、ルビンスキー自身の野心のために、地球教徒排除に手を貸す。

「……それを取引の材料にした場合は、証拠が残るとまずいだろうな。よし、俺から持ちかけてみよう。足下を見られて買いたたかれるかも知れないがな」

 その対価としてヤンをイゼルローン要塞から引き離し、要塞を帝国の手に戻すための協力をする。

「卿が皇帝になった暁には、自治権を剥奪しないとでも言ってやったらどうだ?」

 オーベルシュタインの言葉は、むろん、本気ではない。

「それは断る。俺もフェザーンは嫌いでな。とくに地球教徒が裏から支配していた場所なぞ、放置してはおけん」

 

 オーベルシュタインはラインハルトに連絡を入れ、ケスラーにミュッケンベルガーを逮捕に向かわせることを提案した。

 冤罪でしかないこの逮捕に、ラインハルトは露骨に嫌悪感を表したものの、イゼルローン要塞奪還作戦は、彼にとっても確かに魅力的であった。

 キルヒアイスの死後、失策が多くなったとされるラインハルト。

 敗北しても地位を失うことはなく、責任を取る必要すらない。それでいて、大軍を思うがままに使えるような状態では、策や計画が杜撰になるのも、致し方ないのかも知れない。

 だが原作とは違い、ラインハルトはこの時点では三長官の地位を所持しておらず、フェザーン航路を制圧したいと考えていても、実行に移すことはできない。だからこそ「確実に」イゼルローン要塞を落とす必要があった。

 またラインハルトは、ヤンと宇宙での艦隊戦を望んでいるが、要塞攻略は彼の望むところではない。

 

 そんな状態での提案。まして相手は爵位を持っている貴族。ラインハルトの勢力基盤である平民には、何ら関係がない。

『私怨と思われはしないであろうか?』

 ラインハルトとミュッケンベルガーの確執は、隠しきれない。

「思われたほうが、賊軍に与する輩が多くなるのでよろしいかと」

『……』

「第四次ティアマト会戦で、当時大将であらせられた元帥閣下にした仕打ち、多くの兵士たちは覚えていることでしょう。そんな彼らにとっては、当然の報いと映るでしょう」

 単独突出を命じられ、囮にされかけたことがあった。ラインハルトが機転を利かせて立場を逆転させ、結果多くの兵士の命を救った会戦。

『分かった。ケスラーに命じよう』

「御意」

 オーベルシュタインはこの時点では、実際の狙いはシェーンコップであることは説明しなかった。彼としてはシェーンコップとローゼンリッターは、ヤンと共に同盟政府が処分してくれるであろうと考えていたのだが ―― 

『ところで、その……伯爵夫人の容態は……』

「分かりません。失礼いたします」

 あまりにも露骨なオーベルシュタインの態度であったが、ラインハルトには珍しく怒りを覚えることはなく、肩を落としてため息を吐き、ケスラーに逮捕に向かうようケスラーの命じた。

 命令を受け取ったケスラーは敬礼し、

『ケスラー』

「はっ」

『伯爵夫人の様子は……分かるか?』

「意識はまだ戻られていないと聞いております。詳しいことは」

『そうか』

 

 帝都の治安をミュラーに任せて、ケスラーはミュッケンベルガーの逮捕へと向かった。

 

**********

 

 ファーレンハイトが彼らが宿泊所にしている病室で、彼女の主治医から、日に二度行われる経過報告を聞いていた。

 治療そのものは終わり、三日ほどかけて体温を元に戻すと。

「十七日には意識が戻り、その後の検査で問題がなければ、二十四日には退院の運びに」

 カレンダーを指さしながら、退院日を語る主治医と、

「あと十日か……」

 意識が戻ると聞いても喜べず、退院までの日数を数えて、猶予時間の少なさにファーレンハイトは焦った。

「はい」

「ご家族のことは、こちらで説明する。医師や看護師には絶対に喋らないよう、重々言い聞かせておくように」

 誰も告げたくはないのだが、だからといって医師や看護師などの口から聞かせる訳にもいかない。

「はい。それに関しては徹底させますので、ご安心ください」

 主治医が部屋から去ってから、説明の少し前に運び込まれた樫材の箱を開ける。

 中身は彼女のネグリジェなど、入院中に着用する衣類。

 ネグリジェはコットン製で、襟ぐりに袖口、裾などに優美なカットワークが施されている前開きのもの。

 色はクリームや白が多く、濃い色や鮮やかな色は入ってはいない。

 また灰色や黒など、喪を連想させる可能性のあるものも避けた色が選ばれている。

 入院期間は一週間の予定だが、予備や入院が長引くことを考慮し、三十着ほど用意されていた。

 他には下着類やガウンなど。新調したものではなく、シュワルツェンの邸から運び出されたものである。

 実はこれらだけではなく、彼女の私物は全て邸から運び出され、退院後の住居である「ラインハルトの元帥府の一角」に移動が終わっていた。

 ラインハルトの元帥府を住居に選定した理由は、警備のしやすさと、彼女に取りなしてもらおうと考える門閥貴族がいたとしても、容易には通ることができない場所であることからである。

 ファーレンハイトは一番上にあったネグリジェの袖口のカットワークを人差し指と親指で挟み、感触を確かめて、彼女が入院する特別室へと持ち込んだ。

 部屋にはすでにベルタが泊まり込んで待機してるので、荷物の整理は任せ早々に退出する。

 

 彼女の治療室へと向かおうとしたファーレンハイトだが、

「提督。フェルナー准将の意識が戻ったそうです」

「面会できるのか?」

「はい。喋ることはできないそうですが」

 フェルナーの治療室へと進路を変えた。

 

 フェルナーがいる火傷治療に特化した治療室は、感染症を防ぐために治療室は無菌状態が保たれており、集中治療室に立ち入るためには、雑菌を持ち込まないよう、消毒、殺菌する必要がある。

 殺菌室を通り、空気が冷たい治療室へ。

 

 フェルナーは意識があり目も開かれていた ―― ただし右目だけ。左目は熱によりまぶたがくっついてしまい、開けることが出来ない状態となっており、包帯が巻かれている。

 ひどい状態だが、眼球に深刻なダメージはなかったことが、不幸中の幸い……とも言えた。

 看護師が「手短にお願いします」と注意している、その脇を通り抜け、

「お前が意識を失った襲撃から四日経っている。それで、お前が大けがをした日、ジークリンデさまも襲われ、未だ意識不明の状態だ。回復だけを優先させ治療を行っている。あと二日か、三日で意識が戻る予定だ」

 看護師の指示通り、要点だけを告げた。

 フェルナーの安定していた血圧と呼吸は乱れたが、

「心配するな、警備は万全だ」

 それを聞いて、徐々に安定を取り戻した。

 

 フェルナーは皮膚が焼けたのはもちろんだが、呼吸により鼻孔に口腔、気道から肺まで火傷を負っているため、喋ることはできないので、文字を打ち込んで画面に映し出して、会話し、意思の疎通を図る。

 薬剤が含まれた包帯を巻いた利き腕で、専用のキーボードで問いかけに答える。

 彼女が意識を取り戻すまでの四日間、ファーレンハイトは事情聴取をかねて頻繁にフェルナーの治療室を訪れた。

 かなりの外的ショックを受けたフェルナーだが、事件当夜の出来事に関しては、はっきりと覚えており、映像と差異のない返答が返ってくる。

 映像では分からないことをいくつか尋ね、記録を届けるためにザンデルスが席を外し ―― ファーレンハイトは伯爵たちを射殺したことに関して、フェルナーに課せられたことを教えると、取り乱しはしなかったが、呼吸器と包帯でほとんど表情が分からない状態ながら、はっきりと”嫌そう”と判断できる表情を浮かべた。

[回避は不可能ですか?]

 モニターに表示される文字を読み、

「無理だな」

 口頭で答える。

[けが人を労ろうという気持ちはないのですか?]

 人差し指と中指だけを使い、動かしづらい指でキーに触れフェルナーは言葉を綴る。

「ないな。お前がリューネブルク夫人に刺された時だって、俺は労らなかっただろうが」

[そうですがね。でも代わりに伝えてきてくださいよ]

「代わりを務めてやらないこともない。ただし、条件がある」

[なんですか?]

「ご家族が亡くなられたことを伝えてこい。理由は告げずともいい」

[それも嫌です。むしろ、そっちのほうが嫌です]

 ”往生際の悪い人だ”と、自分のことを棚に上げている自覚を持ちながら、フェルナーはそう思った。

「わがままな怪我人だな……どいつも……」

 やや前傾姿勢になり、視線を画面から床に落とす。

 目の端でぎこちなく動く指が止まるまで、その体勢のまま待った。

 指が止まり少ししてから、顔を上げて画面を見る。

[旦那さまを撃ったとき、真実を語っても、ジークリンデさまなら赦してくださるだろうという考えが頭を過ぎりました。それに気付いて、自分は最低な人間だなと思いましたね]

 彼女ならば赦してくれるであろうと、フェルナーは確信を持って撃っていた。フライリヒラート伯爵が崩れおちてゆく時、そう考えている自分に気付き愕然とした。

「俺もきっと、そう思いながら撃つだろう」

[そうですが。ジークリンデさまに、合わせる顔がないのです]

 ファーレンハイトはフェルナーの顔をのぞき込む。

[実際に顔が焼けて、お見せできない状態ですけれども。ジークリンデさまには、移植が終わるまで誤魔化してください。こんな姿、見せたくないので]

「分かった……なんだ、その目は」

 ひどく充血している白目が目立つ瞳は、疑いがこもっていた。

[信用ならないんですよね、あなた。過去の悪い実績が]

「じゃあ、信用しないで構わん」

[けが人を少しは労ってください]

「お前の記憶が明瞭で、安心したぞ」

[ジークリンデさま、以前のように元気になられると良いのですが]

 以前とは彼女がまだ男爵夫人であった頃。約一年で彼女の人生は随分と変わった。

 

 そして主治医の見立て通り、二月十七日。彼女は意識を取り戻す ――

 


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