こうして彼女の生命を最優先する方向で、治療が進められることになった。
書類を受け取った軍医は、すぐに彼女の治療に取りかかると、ファーレンハイトに告げた。
言われたファーレンハイトは、すぐに椅子から立ち上がり、割いて床に捨てた書類を踏みつけて部屋を出た。
「ブラウンシュヴァイク公のところへ」
廊下で待機していたザンデルスに伝えると、ブラウンシュヴァイク邸に到着するまで無言のまま。渡された書類に目を通すわけでもなく、彼女の状況をオーベルシュタインたちに伝えるでもなく。
視線が虚ろということはないのだが、外を眺めているのだが、全く見えていないよう雰囲気のまま。
ブラウンシュヴァイク邸に到着したのは、季節は冬のため、夜明けは訪れていないが、早朝といってよい時間。
普段であれば、ブラウンシュヴァイク公はまだ寝室にいる時間だが、昨晩から今朝にかけての騒ぎで、眠ってはいられず、濃い隈が浮かび疲れた表情で、薪が爆ぜ、炎が揺らめいている煖炉前のソファーに腰を下ろしていた。
「ジークリンデが?」
「はい」
報告することは他にもあったが、ファーレンハイトは最初に彼女が危篤状態で入院したことを伝えた。
疲労の浮いていたブラウンシュヴァイク公の顔に怒りが浮かび、立ち上がって、報告したファーレンハイトを怒鳴りつける。
彼女が重篤な状態になったとき、ファーレンハイトはオーディンにすらいなかったので、怒鳴られる筋合いはないのだが、赤茶色の髪を揺らして怒りをあらわにするブラウンシュヴァイク公に対して ―― なにも感じることはなかった。
アンスバッハが間に入り、公を必死に宥める。公の怒りは、怒りを収めようとしたアンスバッハに向かった。
部屋にいる他の軍人たちは、全員、腕を後ろに組んで、公の怒りが収まるのを待つ。
無意味な怒りがしばし続いたものの、大きな音を立てて煖炉の薪が割れ、そちらに一瞬気を取られ、火の粉が舞うのを見て、わずかに冷静さを取り戻した。
だが戻ったのは、わずかだけ。
アンスバッハを手で押しのけて、ファーレンハイトに近づき、今すぐ彼女を連れて来いと言い出した。
「こんな危険なところに、置いておけぬ。あの子は連れてゆく」
領地に帰る用意をしていた公は、彼女を連れてオーディンを発つと言い出した。
早く連れて来いと、ファーレンハイトの両腕を力任せに掴み、命じる公に、
「かしこまりました。ただ、連れ出しますと死んでしまいますが、構いませんね」
いつもと変わらぬ口調で、表情で、いつもと変わらぬ態度で、はっきりと言い返した。
なにを言われたのか、最初分からなかった公だが、徐々に脳に届き、先ほどまでの理不尽な怒りとは別の怒りをファーレンハイトにぶつけたが、ぶつけられた側は、全く気にせず。
今度はアンスバッハが公を羽交い締めにして引き離し、ファーレンハイトに別室で待機するよう言い、必死に公の説得に当たった。
廊下を挟んだ向かい側の部屋へと通された。大理石と黒曜石が交互に敷き詰められた床。部屋の中心にはグランドピアノが一台。
今は亡き、ブラウンシュヴァイク公の一人娘エリザベートが弾いていたピアノ。
―― クロプシュトック侯が起こした爆破事件で、エリザベートさまではなく……
全室暖房が効いており、寒さなど感じないはずの部屋だが、かつてここでピアノを弾いていた少女が死亡して以来、掃除以外で人が居ることがなくなったため、しんしんと行きが降り積もったかのような静けさが満ちていた。
グランドピアノを避けるようにして窓側に近づき、落ち着いた茶色のベルベット地のカーテンを開ける。
冬の遅い朝が訪れ、手が込んだ庭に光りが差し込む。日の光を浴びた噴水がきらめき ―― アンスバッハがやってきた。
ブラウンシュヴァイク公の代わりに謝罪され、また公に悪気はなかったことも言われたが、この状況では、誰にとっても、どうでもよいことであった。
「ジークリンデさまが退院したら、お連れしてくれぬか」
「分かった。ザンデルス、病院に戻るぞ」
ザンデルスはアンスバッハにコルプト子爵に関する書類を渡し、すでに遠ざかっているファーレンハイトの後を追った。
ファーレンハイトが軍病院へと引き返すと、彼女は専用の機械治療に必要な投薬がやっと終わったところで、
「治療そのものは三日ほどで完了する予定です。それから三日ほどかけて徐々に体温を戻し戻し、意識が戻ったら病室への移動になります」
医師の一人が、簡単に説明をする。
彼女は宇宙で死亡した者が収められる棺に似た治療器の中に寝かされ、次々と管を取り付けられていった。透明な蓋が閉じられ、部屋の明かりが落とされる。だが窓のない部屋は暗闇に閉ざされはせず、治療器が放つ暗い紫色の明かりが、彼女を微かに浮かび上がらせた。
ファーレンハイトは治療室を離れ、オーベルシュタインに連絡を入れ、あとは分厚いガラス越しだが、ずっと彼女に付き添った。
”私を守るのは夫の役目であって自分ではないと。だから……大丈夫、エッシェンバッハ侯は宇宙艦隊司令長官ですもの”
「あなたは人を見る目がない。あの男を信用したり、私のことを信用したりと……本当に」
**********
彼女がこうして意識を失っている間に、様々なことが起こり、処理されていった。
代理の国務尚書に任命されたランズベルク伯爵は、誰もが驚くほど、意外とまともに仕事をすることができた。
ランズベルク伯爵と二人三脚で仕事をしなくてはならないペクニッツ公爵だが、伯はリヒテンラーデ公とは違い、見下してこないので、萎縮することなく。
どちらも権門ではないが、有爵貴族の当主。帝国の国政に関し、全く学がないわけでもなければ、知識を持ち合わせていないわけでもない。
実務経験のある補佐役と共に、この難局を乗り切ろうと、必死に仕事に取り組んでいた。
この二人を監視しているのが、いまだ国璽を所持したままのカタリナ。
カタリナは南苑に住み着き、皇帝の側に付いていた。南苑の警備には当然ながらオフレッサーと、彼の直属部隊が配置された。
その装甲擲弾兵総監直属の兵士に連れられ、
「およびと」
「待ってたわ、オーベルシュタイン。忙しいでしょうから、すぐに解放してあげるけれどね」
オーベルシュタインがカタリナの元へと参じた。
「ご用件は」
大きなメディチ・カラーが目を引く、濃い紫色のドレスをまとったカタリナは、大きい背もたれが特徴的な椅子に女王のごとく座し、黒い扇を広げて自らの生死に関わる問題を解決するよう命じた。
「私、ノイエ=シュタウフェン公爵夫人になりたいの。手はず整えてちょうだい」
カタリナの生家であるグーデリアン男爵家は、説得に応じ、中立の道を選んだのだが、本家であるノイエ=シュタウフェン公爵家は、リッテンハイム侯に同調し、賊軍と呼ばれる側についてしまった。
「かしこまりました」
普通の人間であれば下手に出るところだが、そこは生まれも育ちも門閥貴族。それと命ずることになれているカタリナの口調は、自信に満ち不快さをもたらさないものであった。
「それで、ジークリンデの容態はどうなの?」
「二週間ほどで退院できる予定です。ただ、医師どもも、確実とは言いません。容態が急変する可能性はあると保険をかけてきます」
機能低下を承知で治療を行うので、確実に治るのだが、ここで「問題なく治る」と言ってしまえば、治療器の特性上、彼女の内臓がダメージを受けたことが露見してしまう恐れがあるので、あくまでも「治るか、治らないか」曖昧なラインで治療をしていると。無意味に等しい行動かもしれないし、軍医も隠しきれるとは思っていないが、彼女が家族の死から、立ち直るまでの時間が稼げれば良いと考えての行動である。
「そう。それで、あなたが送ってきた映像、私も見たわ」
オーベルシュタインが送ったのは、フェルナーが伯爵たちを射殺した映像のみ。さすがに貴族を焼き殺している映像は、送らなかった。
「さようで」
射殺の映像も刺激は強すぎるが、カタリナであれば大丈夫であろうと ―― オーベルシュタインは彼女以外の女性には、厳しいというより、男女関係なく接するタイプである。
「それで、フェルナーの罪状については、ジークリンデに決めさせましょう」
本来であれば法律で裁かれるところだが、ここは門閥貴族が己の感情で決めることが許されている銀河帝国。彼女が家族を殺害したフェルナーの罪を決めても、誰も咎めはしない。
「それはよろしいのですが。誰が伝える役を」
そして誰もが、彼女はフェルナーの罪を赦すと考えていた。
「フェルナー自身にやらせなさい。フェルナーがジークリンデに真実を告げる。これだけで、充分な罰になるでしょう」
「たしかにそうですが……」
家族の死は告げなくてはならないが、家族がどのように死んだのか? 真実を告げる必要はあるのか? カタリナは”ある”と考え、オーベルシュタインはないと考えた。
「告げたくなければ、告げないでもよし、それはフェルナーの判断に任せましょう。フライリヒラート伯もローデリヒも焼死したということで、片付けてしまえばいいわ。そうね、フェルナーが死んでしまったら、ジークリンデには真実を告げず、焼死したことにしましょう。あとは……フェルナーが助かって、ジークリンデの容態が急変してしまったら、フェルナーは死刑でどうかしら?」
だがカタリナの提案を聞いて、
「お優しいですね」
それで良いのではないかと考えて、同意の意を込めて頭を下げた。
「あら、あなた、知らなかったの」
「まことに、申し訳ございません」
「特別に許してあげるわ。優しいのは当たり前よ。私、結構気に入ってるのよ、フェルナーのこと」
「僭越ながら、私もです」
「そうなの。今のところはこれだけね、また何かあったら呼ぶし、何かあったら来なさい。もう下がっていいわ」
「御意」
この時期、オーディンで最も仕事が多かったのは、オーベルシュタインである。
急遽軍務尚書代理に立てられたメルカッツの元で、軍務省の事務につき、国務尚書にまつり上げたランズベルク伯爵を補佐して、ミュラーやケスラーと共に治安回復に努め、憲兵隊を逮捕させ ―― 当初の予定よりも、リッテンハイム侯側に与した門閥貴族が少ないため、彼らを愚かな行動に走らせるための、用意にも取りかかっていた。
そんな忙しいオーベルシュタインは、カタリナの前を辞し端末を確認すると、
「……」
今度はロイエンタールから呼び出しがあり、急ぎ行政府へと引き返した。
ロイエンタールは現時点では表には出ず、ひたすら門閥貴族たちの目を逃れ、地球教のド・ヴィリエと連絡を取り合っていた。
こちら側の情報を流し、等価の地球教の情報を得る。そうしてここまで来たのだが、彼女が地球教徒のせいで、瀕死になったことで、均衡が崩れた。
「失礼します」
ロイエンタールが陣取っている司法尚書の執務室に、オーベルシュタインは礼儀正しく入室した。
待っていたとばかりに、ロイエンタールが画面を見せる。
「ド・ヴィリエから新しい情報だ」
「…………オーディンの教徒を、保身のために売ったか」
オーディンにある、地球教全ての隠れ家情報を手に入れることに成功した。
「そのようだ。あの大主教らしい、やり口だ」
一度拠点を失っても、また復活させることができるとド・ヴィリエは考えてのことである。
「信用できるのか? その情報」
どちらが悪いとも、どちらも悪いとも言いがたい、己の利害最優先で、欺しあってばかりの関係。この関係が終わるとしたら、少なくともどちらかが、相手に消されて終わるしかない。共倒れになる可能性も低くはない。
だが末端はそんなことは知らず。指示通りに動いた結果、私怨上等とされる怒りを買い、果ては見捨てられることになった。
「それを、これから確かめようと、部隊の編成は終わっている」
「そうか。では投入してくれ」
「俺の権限では不可能だ。お前が編成した部隊ということで、治安回復のために走り回っている、エッシェンバッハの部下に預けてくれ」
「了承した」
オーベルシュタインは即座に必要な情報と部隊をケスラーに預け、聞かれる前に彼女の容態はいまだ変わらないことを教えて、通信を切る。
それらの連絡を終えると、
「座らんか?」
テーブルにグラスが二つ置かれ、コルクを抜いた白ワインのボトルを持ったロイエンタールが、話がしたいと酒を勧めてきた。
オーベルシュタインは向かい側に座り、ワインが注がれたグラスを持ち、静かに、だがすぐにグラスを空けた。
「意外といけるのだな」
「それで、なんだ」
「ジークリンデの容態は?」
ケスラーへの説明を近くで聞いていたので、分かってはいるのだが、ロイエンタールはどうしても聞きたくて仕方なかった。だが軍病院にいるファーレンハイトに直接聞くほどの勇気はなかった。
間に人を挟んで、衝撃を避ける。
ロイエンタールは臆病な男ではないが、弱いところもあった。誰しも、そうなのかも知れないが。
「二週間もすれば退院できるそうだ。生命を優先する治療を優先したので、内臓に大きなダメージを負われるとのこと。こと生殖機能は……だそうだ」
オーベルシュタインにしては珍しく言葉を濁す。ロイエンタールは白ワインが入っているグラスを置き、
「そうか。人の親になるつもりはないから、俺としては願ったりだ。ジークリンデは辛いだろうな」
「卿は皇帝になりたいのではなかったのか?」
「皇帝の座は欲しているが、それを我が子に継がせようという気持ちはなかったな。まあ、ジークリンデが産んだ子ならば、父親が誰であろうと、無条件で愛せる自信はあるが」
「そうか。ゴールデンバウム王朝も、半数以上は兄弟や伯父や甥、従兄弟などが帝位を継いでいるのだから、そのような選択肢があっても良いだろう」
十代目までは親から子へと引き渡されていたゴールデンバウムの帝位だが、後半は入り乱れている。
「ああ。宇宙に逃げたジークリンデの夫も、そのように考えているとしたら厄介だが」
「確かにあの人ならば、マケドニアのアレクサンドロス大王のように、もっとも強き者が継げば良いとでも言いそうだな。国を取れればの話だが」
「となると、ジークリンデが子どもを産めないことを理由に、離婚を勧めても拒否される可能性が高いということか」
「立派なお人ですから」
「慇懃無礼きわまれり」
ロイエンタールは新たにワインを注いだグラスを掲げて、乾杯でもするかのようにグラスを少し傾けた。
「お褒めにあずかり、光栄です」
オーベルシュタインは表情を変えず、つがれたワインを飲み干した。
「ところで、ジークリンデの意識が戻ったら、誰が一族の死を告げるのだ?」
彼女の意識が戻った際、誰もが避けたいのが”これ”である。
「私は辞退させていただく」
オーベルシュタインは早々に離脱。
「卿ならば、表情一つ変えずに告げられるのではないかと思ったが」
「例えばの話だが、キルヒアイス提督やエッシェンバッハ侯が死亡したことを、グリューネワルト伯爵夫人に告げるのは、別に何とも思わんが、ジークリンデさまにそのようなことを告げるのは、御免こうむる。そもそも卿は、私が人を慰められるような男だと思っているのか?」
告げるだけで、泣き崩れようが、悲しみにうちひしがれていようが、事務的にその場を立ち去れるのであればオーベルシュタインとしても出来そうな気はするのだが、ショックを受けている彼女を放置して去ることは到底できない。
かといって、側にいて慰められるかというと、それも出来ない ―― オーベルシュタインはそのように結論を出していた。
「では誰が告げるのだ」
「卿が告げるのであろう?」
「俺が? いや、俺も御免だ」
「どうしてだ」
「心の間隙に忍び込むのは好きではない……というのは、言い訳だ。これはもう、理屈抜きでやりたくないのだ」
基本彼らは、公的な仕事はそつなくこなすが、私事となると人並み以下のことも多い。原作でキルヒアイスの死亡を、アンネローゼに伝えることができなかった辺りからも、それがうかがえる。
「そうか。本来であれば、夫であるエッシェンバッハ侯の仕事だが、だがあの人が帰還するまで、お教えしないわけにもいくまい。もっとも、あの人がまともに報告できるかどうか怪しいが」
「超高速通信を入れさせたらどうだ?」
「キルヒアイス提督に任せて終わりであろう。話はもう良いな。私は仕事に戻らせてもらう」
オーベルシュタインは立ち上がり、
「ああ、そうだ。ロイエンタール閣下。私は白ワインが嫌いでな」
平然とグラス三杯空けておきながら、そう言い残して部屋を出ていった。
「嫌いだから勧めたに、決まっているではないか」