黒絹の皇妃   作:朱緒

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第77話

「裏切ったのか! マールバッハ伯爵」

「ロイエンタールと呼んでいただきたいものだ、オッペンハイマー”元”憲兵総監」

 

 ロイエンタールが、生け贄の羊役となる憲兵総監を捕らえた頃、新無憂宮にメルカッツが到着した。

 

 カタリナはメルカッツに辞令を渡すと、

「眠いから、もう帰ってもいいかしら」

 ”くたびれた”とばかりに、わざとらしい欠伸をする。

「お手数をおかけいたしました」

 オーベルシュタインは深々と頭を下げた。

「ジークリンデのフェルデベルト、あれはまだ借りておくわ。書類作成させるのに、最適なんですもの。まあ、なにかあったらすぐに連絡を入れなさい」

 カタリナはそう言って、リューネブルクに護衛され、南苑へと戻っていった。

 その後、オーベルシュタインはメルカッツに状況と、これからの策を説明する。

 頷きながら聞いていたメルカッツは、オーベルシュタインたちに任せた方が良いと判断を下した。

「地球教徒が関係しているのであれば、故人となられたリヒテンラーデ公閣下より命じられていた卿らが担当するのが良かろう」

 以前、地球教徒について聞いていたメルカッツは、畑違いの自分が首を突っ込んで命令を出すより、適任者に任せることにした。

「それと、オーベルシュタイン中佐」

「はい。なんでございましょう、メルカッツ提督」

「卿を准将に昇進させる。この混乱を収めるには、その程度の地位は必要であろう」

 それと中佐では動き辛かろうと、元帥の権限で二階級昇進させ、オーベルシュタインを准将の座につけた。

「謹んで」

「それと、伯爵夫人の身の回りのもは女性が必要であろう。よかったら、家内と娘を使ってくれ」

「助かります」

「儂にできることは、このくらいだ」

 

 ロイエンタールよりオッペンハイマーを収監したという知らせが届き、オーベルシュタインはファーレンハイトに連絡を入れて、新無憂宮を後にした。

 

 こうして帝国歴四八八年二月九日が終わり、二月十日となり ――

 

 ラインハルトと入れ違いにオーディンへと戻ってきたファーレンハイトは、本来であればブラウンシュヴァイク公の元へ帰参し、コルプト子爵のことなどを報告しなければならないのだが、彼はオーベルシュタインが指定した、行政府へ副官のザンデルスと護衛を五名ほど伴い、用意されていた装甲車隊が守る地上車と直行した。

 装甲車に護衛されての移動は、ザンデルスはもどかしいほど遅く感じられたが、ファーレンハイトはいらつく素振りを見せることもなく、沈黙を保ったまま。

 むしろ表情だけ見れば、とても穏やかそうだが、その内心は副官のザンデルスにも分からない。

 通常であれば闇夜が辺りを覆い尽くし、多くの者は安らかな眠りについている時間だが、オーディンの至る所が爆破され、火の手が上がりと ―― それは終夜、収まることはなかった。

 

 緊急事態に行政府も明かりが灯っていたが、蜂の巣をつついたかのような、騒ぎになってはいなかった。

 各所で起きた爆破行為を警戒し、人の出入りが極端に制限され、入庁できない者のほうが多かったためである。

 行政府の警備を担当しているのは、リッテンハイム侯にくれてやった、地球教徒兵士ではなく、ロイエンタール子飼いの部下たち。宗教には一切興味を持っていない帝国軍人。

「お待ちしておりました」

 その一人が案内役として一歩前へと出た。

「……」

 階級は服装で分かるが、それ以外のことはなにも分からない。

 にも関わらず相手の姓名を尋ねることなく、ひんやりとした廊下をやや早足で進み、司法尚書の執務室へと通された。

「こちらです」

 この部屋の主、司法尚書はおらず、ロイエンタールとオーベルシュタインだけがいた。

 ファーレンハイトは付いてきたザンデルスに廊下で待つよう、指示を出す。優美な曲線が目をひく執務机の前で、三人は僅かながら互いを見る。

「これを受け取れ」

 最初の動いたのはロイエンタールで、執務机に乗っていた封筒をファーレンハイトに差し出した。

 普段、辞令交付に使用されるものより上質な紙の感触に、嫌なものを感じながら中身を取り出し、三つ折りにされていた紙を開き目を通す。

 長い睫を瞬かせ、透き通るような水色の瞳に怒りあらわにして、書類の意味を問いただした。

「俺がジークリンデさまの後見人とは、どういうことだ?」

「そのままだ。リヒテンラーデ一族は、ほぼ死に絶えた。グントラムとローデリヒの死亡は確認されている。血縁ではなく身分的も足りないが、かろうじて大将の地位にあるからな」

「グントラムさまとローデリヒさまも亡くなられたのか……だが、ならば尚更、然るべき後見人を用意すべきであろう。俺のような下級貴族と名乗るのもおこがまし男に、つとまる筈がない。ブラウンシュヴァイク公に依頼しろ」

「ブラウンシュヴァイク公は、すぐにオーディンを出てしまいますので」

 中立を明言しているブラウンシュヴァイク公は、本来であれば騒ぎが起こる前に、領地に戻る予定であった。決行が早まり、このような状態になったため、大急ぎでオーディンを離れる準備に取りかかっていた。

「だが……お前でもいいだろう、ロイエン……」

「ジークリンデの後見人になったお前の最初の仕事は、軍病院へ行き、ジークリンデの生死を決めることだ」

「治療を続けるか、止めるかの判断、お願いします」

 

 誰かが判断を下さなくてはならない。そのような状況にまでなっていた。

 

 平時であれば喜んで彼女の後見人になる者はいるであろうが、生死を決めるとなれば、誰も進んで務めようとはしないであろうと、ファーレンハイトは書類を折り目にそって折り直し、封筒に戻して、

「ジークリンデさまの夫は、エッシェンバッハ侯はどうした?」

 彼女の治療について、決定権を持つ男の所在を尋ねた。

「リッテンハイム侯の討伐に出ました。急いでいたので、入院手続きなどはしておりません」

 ファーレンハイトはその答えを聞いて発作的に怒鳴りつけたくなったが、決して激高しない冷静な部分が、目の前の二人はなんの関係もないと、当たり前のことを告げ ―― 理性が上回り、意味をなさない、それらを飲み込んだ。

「……そうか。手続きをする際、俺の身分証明書は必要か」

「こちらに用意しておきました」

 オーベルシュタインは現時点で手に入っている、全ての情報をまとめた金属製の書類ケースを開いて見せる。

 書類ケースの中には身分証明書の他に、大型のタブレット端末、あちらこちらから入った情報を書き留めたメモのコピー、フェルナーやユンゲルスが撮影した映像のコピーなどが、少々乱雑にまとめられていた。

「分かった。では行ってくる」

 ファーレンハイトは書類ケースに後見人証書を放り込みロックして、無造作に掴んで執務室を出ようとした。

「ついでにフェルナーの処遇と手続きも頼む。”01”と書かれた映像を車中で絶対に確認しろよ」

 ロイエンタールの問いかけに答えることはなく、待機していたザンデルスに声をかけることもなく、行政府を後にした。

 

「……では、俺は俺の仕事をするとしようか」

 司法尚書の執務室に残った二人のうち、ロイエンタールが尚書が座る机の椅子を引き、腰を下ろした。

「なかなか、似合っていますよ。それでは」

 一人になったロイエンタールは、机に肘をのせて指を組む。

 

 オーベルシュタインは行政府の一室、以前リヒテンラーデ公が国務尚書であった頃に使用していた部屋を借り、様々な作業に取りかかっていた。

 かつて帝国の権力者たる主がいた頃は、ひっきりなしに人が訪れたであろう部屋は、すっかりと色褪せ、朽ちかけてすらいた。

 備え付けの書棚は空で、家具はみな白い布で覆われ、閉じられたままのカーテンに触れるとほこりが舞う。

 机にかけられていた白布を掴み、はぎ取る。

 慣例や伝統を重んじ、紙の書類ばかりが乗せられていたマホガニーの机に、軍用端末を四台ほど置き、オーベルシュタインは作業に取りかかる。

 

 その一つとして、空が白み始める前、オーディン残留組のケスラーとミュラーと直接会って、事態の収拾について基本的な方針を説明をすることになった。

「今回の騒ぎは、全て門閥貴族が行ったことにする」

「地球教の存在は隠すのか」

 伯爵邸の炎はまだ消えていないが、一度報告するために、ケスラーは現場をブレンターノに預け呼び出しに応じた。

「今回に限っては……だがな。ケスラー中将」

 ラインハルトは出陣前に、首都防衛を任せるには、准将では足りないであろうと、ケスラーの階級を引き上げていった。

 階級が上がったというのに、喜びもせず、受けた辞令を乱暴にポケットに押し込み、階級章を急いで付け替えて。ただ自分の出世は喜ばなかったケスラーだが、オーベルシュタインが准将になったことは、気付いてすぐに祝辞を述べた。

 そしてまた当然と言うべきか、オーベルシュタイン自身も喜ばず、それでもケスラーには感謝の言葉を返した。

「軍法会議所の爆破、リヒテンラーデ、エーレンベルク両名の殺害を指示したのは、憲兵総監オッペンハイマー大将」

「実際は違うのですよね」

「ジークリンデさまを誘拐しようとした地球教徒が犯人です、ミュラー中将」

「だが、オッペンハイマー憲兵総監を、犯人にするということだな」

「そうです。ことが公になりますと、魔女狩りが起きます。帰還兵だけではなく、その家族も巻き添えになることでしょう。被害を大きくしないためにも、オッペンハイマーの逮捕は必要なのです」

 至る所で起こった爆破、怒号と銃声。軍人に埋め尽くされた道路。

 民間人の恐怖は相当なものである。ここに帰還兵の中に宗教テロリストが紛れ込んでいるなどと知らされれば、我が身を守るため密告を行ったり、徒党を組み自分たちの手で殺害したりしかねない。

 そうなってしまえば、被害は拡大の一途をたどり、民間人も逮捕者が多数でることは、避けられない。

「分かった」

「ですが、憲兵総監の地位はどうします? 誰かを就けなければ、憲兵隊の統制がとれなくなります」

「現憲兵隊員、全てを捕らえる。憲兵総監に従い、軍法会議所を爆破したという名目で」

「それは……」

「憲兵隊は必要だが、現在の憲兵隊は害をなすだけ。捕らえてしまっても、問題はない。そのほうが、卿らの部隊も動きやすいはずだ」

 新しい憲兵隊を作る計画はあった。それが少々早まっただけのこと ―― 無論、ミュラーは知らないが。

「たしかにそうですが。……分かりました」

 ケスラーには話があったので、オーベルシュタインの意見に口を挟まなかった。

 たとえそうでなくとも、ミュラーよりも九歳も年長で、地上勤務の多かったケスラーは、オーベルシュタインの意図をすぐに理解して、同意したであろう。

「それと、卿らに頼みがあるのだが」

「なんでしょう」

「お前が頼みごととは、珍しいなオーベルシュタイン」

「今回のリヒテンラーデ一族襲撃は、ジークリンデさまの誘拐が原因だ。だがとても御本人には伝えられない。なので、リッテンハイム侯によるリヒテンラーデ一族排除が目的で、ジークリンデさまは巻き込まれた……公式記録はこのようにするつもりだ。よって、口裏を合わせて欲しい。もちろん部下たちにも、そのように誘導し、思い込ませて欲しい。ジークリンデさまには、地球教徒の大規模テロであることはお教えするが、御身が目的であったとは言わない。これで統一したい」

 

 原作のおぼろな知識が及ばぬこの事件に関し、彼女は生涯、真実を知ることはなかった。

 

「了承した。もっともお前に言われんでも、俺もそのようにするが。お嬢さまにそんなこと、言えるわけがない」

 ケスラーは当然のことだと同意し、ミュラーも意見に従った。

「私も異存はありません。ところで、オーベルシュタイン准将。ジークリンデさまのご容態は?」

「まだ分かりません」

「入院などの手続きは、誰が?」

 そのミュラーだが、彼女の入院や治療の手続きを誰が行ったのか? 非常に気になっていた。身の程知らずと分かっていても、自分がそれらの責任を負いたいと考えてもいた。

 それが生死に関わる決断であっても。

 だが残念ながら、ミュラーの身分と地位では、彼女の処遇を決める後見人にはなり得ない。

「ファーレンハイト提督を後見人に選出して、お任せしました」

 二十六歳の平民としては、破格の出世だが、門閥貴族の後見人になることは不可能。

「そうですか。容態が好転したら、知らせて欲しいのですが」

 この時点で彼女の容態は最悪、これより悪化した場合は即、死亡という状態。

 また悪化せずとも、ファーレンハイトが治療を拒めば、彼女は死亡する。

 そんな最中の、ミュラーの正直な一言。それはケスラーも同じ意見であった。

「そのように、いたします。では仕事の話に戻る。ケスラー中将」

「なんだ?」

「伯爵邸の遺体についてだが、検視後、遺体は全て、幼年学校の第一体育館に運んでくれ。安置所の警備はミュラー中将にお任せしてもよろしいか」

「もちろんです」

「遺体の確認は誰が?」

「私がする。必要な情報は、いま集めているところだ」

 一族の遺体は一カ所に集められ、リヒテンラーデ公の国葬と一緒に葬儀を営むことを、すでにオーベルシュタインが決定し、準備に取りかかっていた。

 

**********

 

 ファーレンハイトは病院に向かう車中、伯爵邸の惨状を見た。

 惨劇に目を背けることもなければ、表情をゆがめることもなく。映像を停止し、ロックをかけてケースに乱暴に戻す。

 革張りの背もたれに体を預けず、窓際に肘を置き、外の景色を眺めだす。

 ファーレンハイトがなにを考えているのか、同乗者たちには分かるようで、分からない。

 誰も一言も発することなく、地上車は軍病院へと到着し、事前に連絡を受けていた職員が出迎え、彼女が治療を受けている部屋へ案内した。

 首都の混乱同様、院内も騒がしいが、彼女が治療を受けている部屋の辺りは人気がなく、静かなものであった。

 治療用機材の音が響き、その静けさを強調すらしていた。

 治療室と廊下を隔てる分厚い窓。

「申し訳ございません」

 警護していたキスリングが、ファーレンハイトに詫びるものの、詫びられた当人は口元に微笑を浮かべ、目を閉じて首をゆったりと、力なく振り否定する。

「俺に謝る必要などない。誰か罪を負うべき者がいるとしたら、それは俺だろう」

 

”急いで戻ってきて、助けてね”

”なにを仰るかと思えば。男爵夫人のような高貴な方を守るのは、俺の仕事ではありませんよ……まあ、急いで帰ってはきますので、期待しないで待っていてください。なんで、そんなに嬉しそうな顔なさるんですか”

”信じてる! ……小指だして、指切りっていってね”

 

「役立たずにも、ほどがある」

 窓ガラス越しに彼女の顔に触れ、昔々の約束めいたものを思い出し自嘲する。

「閣下」

 声をかけられ、振り返ると、そこにはキスリングに似た髪の色を持った、軍医が立っていた。

「なんだ」

「伯爵夫人の主治医を賜りました、フォン・ゼッレと申します。治療についてのご説明を」

 もう一度、彼女の穏やかに眠っているかのような表情を見つめ一礼し、必要書類にサインすべく別室へと移動した。

 入院案内に使われる部屋ではなく、貴賓室へと案内された。室内には事務担当の佐官が二名ほど控えており、ファーレンハイトはザンデルスと護衛一人を室内に伴う。

 大理石のテーブルをはさみ、軍医と向かい合って座る。テーブルにはすでに書類が用意されており、一連の手続きが始まった。

「決まりですので、お手数ですが、身分証明書と後見人証書をお願いします」

 必要書類を渡し、事務担当者の一人が照会する。

 もう一人は薄胎の型抜き成形で、深く蹴り込まれた金のハンドルと、カップの下部にフルートが施されているのが特徴のカップにコーヒーを容れて運んできた。

 ファーレンハイトはコーヒーには目もくれず、結局手つかずのまま ――

 

 軍医もコーヒーを無理に勧めはせず、事務担当者は書類を確認し、問題なく手続き可能な人間であることが証明された。

「閣下とお二人で話したいのですが、よろしいでしょうか?」

 すると、軍医は人払いを求めてきた。

「構わん」

 四名が退出すると、軍医は書類を並べて、彼女を治すためには副作用の大きい治療方法をとるしかないと、単刀直入に告げた。

 軍医が彼女に施そうとしているのは、冷凍睡眠に似た治療方法なのだが、症状を改善するためには、大量の薬剤を投与して体を凍らせなくてはならない。

 理論的にはどのような状態でも回復できるとされる機器だが、人間の体が持たない。薬物と冷凍温度と時間により、回復すれど避けることができない副作用が出る。

「はい。生殖機能に支障が出る可能性が……いいえ、確実に出ます。平民ならば治療を強くお勧めしますし、拒否されたとしても説得させていただきますが、伯爵夫人となりますと、わたくしとしても」

 貴族女性の仕事は、跡取りを生むこと。極論でもなんでもなく、それしかない。

 無論、命を助けるのが仕事であり、最優先事項だが、軍医も貴族の地位を持つ者。身ごもることができない女性が、どのような道を歩むかを知っているため、単純に「治療しましょう」とは言えなかった。

「一生望めないほどか?」

 テーブルを人差し指で叩きながら、 

「希望は持たないほうがよろしいでしょう」

 なぜ自分がこのようなことを聞いているのか? ファーレンハイトはひどく不思議に感じられ、現実味がなかった。

「そうか」

 だが現実なのだ。

 

 演習前に、子どもが欲しいと言っていた彼女の表情がよみがえる。

 

 新無憂宮で遠目に見ることができた、皇帝カザリン・ケートヘン一世に抱きつかれて、花の顔(かんばせ)を綻ばせ、細い腕で柔らかく抱きしめ返している姿。

 彼女は子どもが欲しいのだと、ファーレンハイトは理解している。

 彼女の希望を叶えるのであれば、ここで治療を止める書類にサインをするべきだが、

 

”私としては、もう充分だと思うのですけれど、そこまで言うのでしたら。でも何かあったら、あなたの思うがままに決めてね”

 

―― ジークリンデさまが悪いのですよ

 その言葉を思い出し、治療中止の書類を掴んで縦に裂き、両手でねじり床に投げ捨てる。吸音性の高い床に落ちた紙くずは、ほとんど音を立てず。

「治療を優先しろ。機能の低下もやむを得ん」

 彼女の生命のみを優先する書類を、手元に引き寄せた。

 

 


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