黒絹の皇妃   作:朱緒

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第76話

「ギレスベルガー子爵夫人がお待ちだ」

 新無憂宮でオーベルシュタインを出迎えたのは、武装したオフレッサーと、その部下たち。

 痩せているオーベルシュタインよりも、一回り以上大きく見える体躯の持ち主は、豪奢な建物とは相反してはいたが、滑稽ではなかった。

「ではこれを」

 オーベルシュタインは、白地にダークローズの糸で小花が刺繍されている布で包んだリヒテンラーデ公の首を掲げる。

 心臓が停止し、しばらくしてから切断したため、血のしたたりはさほどではないが、それでも白い布に痕跡ははっきりと現れていた。

 オフレッサーが受け取ろうとすると、部下が警戒して手を伸ばした。

 だが装甲擲弾兵総監はそれを無視し、包みを開く。中から現れた、皺が多く痩せこけた土気色の顔を見て、驚くようなことはなかった。

「お前が切り落としたのか?」

 リヒテンラーデ公は好かれるような男ではなかったが、国家の重鎮であることは誰もが認めるところ。その彼の首を持ってきた相手に、装甲擲弾兵たちは殺気だったものの、オーベルシュタインは怯えることもなく、表情一つ動かさず事実を述べた。

「違います。殺してもおりません」

「この首をどうしろと?」

 オフレッサーは生首を部下に渡し、首の処遇について尋ねる。

「検視をお願いしたい。それと死亡認定も」

「分かった。おい」

 部下数名がリヒテンラーデ公の首を持ち、走り出す。

「では行くぞ」

「はい……失礼してもよろしいでしょうか?」

 歩き出してすぐに端末が鳴った。

「構わん」

 天井の高い廊下に、装甲服がすれる音が反響する中、オーベルシュタインは端末を取り出し、画面を見た。

 相手はキスリング。

 彼女に何かあったのか? オーベルシュタインの足が止まる。

「どうした?」

「お待ちください。もしかしたら……」

 通話の内容は、フェルナーが重体で軍病院に運ばれてきたというもの。それと例の映像も送ったので、見て欲しいとも。

『ジークリンデさまは、運ばれてきた時と変わらず。あと医師が、施術の許可が欲しいので、その権限がある人物に病院まで来て欲しいそうです』

 彼女は重篤な状態が続いており、残された治療方法はわずかで、それは副作用を伴うものばかり。

 これらの治療を行うとなると、親族や後見人に説明し、許可を取る必要がある。

「分かった……それでは、また後で。お待たせしました」

 ラインハルトを早急に軍病院に向かわせて、様々な手続きをさせるべきなのだが ―― 彼にその決断ができるかどうかが問題であった。

 通話を終え、再び歩き出す。

 オーベルシュタインにとって初めて訪れる場所だが、その豪華絢爛さに一切興味を持つことなく。

「この部屋で待っていろ」

「はい」

 部屋にはバロック調の椅子が五つあるものの、腰を下ろしはせず、立ったまま北欧神話が描かれている新無憂宮の天井を、感情が映らぬ凍えた無機物と言われる義眼で眺めていた。

 しばらくすると、ラインハルトがミュラーを伴いやってきた。

「オーベルシュタイン中佐」

 ミュラーに声をかけられて、オーベルシュタインは軽く会釈する。

「卿がオーベルシュタインか」

「はい。初めてお目にかかります、元帥閣下」

 なんということはない言葉だが、音は攻撃そのものであった。特に声を荒げているわけではない、大声というわけでもない。凍えているとされる義眼の眼差しよりも、はるかに冷たさを感じさせる、大量の棘が含まれている口調。

「伯爵夫人のことを聞きたいのだが」

「少々お待ちください。人が揃いましたら、説明いたしますので」

 生来の顔色の悪さ、そして素っ気ない態度。それら全てがラインハルトを拒絶し、側にいたミュラーのほうが心配になる程であった。

 オーベルシュタインは中佐、対するラインハルトは元帥。おおよそ中佐が、このような口を利いて良い相手ではない。

 だがミュラーの心配を余所に、ラインハルトはなにも言わなかった。

 

 無音で今回の失態を責められていることを感じ取ったためだ。

 彼女の実家であるフライリヒラート伯爵邸に、警備を付けなかったのは、ラインハルトなりの考えがあったからに他ならない。ただ結果として最悪の事態になってしまったため、それを声高に語るわけにはいかないが。

 ラインハルトとしては、門閥貴族に嫌われている自分が、下手に出しゃばり伯爵が他の貴族たちから不興を買わぬよう配慮したつもりであった。リッテンハイム侯に従う者たちを、下手に刺激しないよう。

 

 門閥貴族とラインハルトの争いだけであれば、それで良かったのだが、その諍いが陽動で、真の目的は彼女の誘拐であったことが、彼女の家族の死につながった ―― 未だラインハルトは知らない。

 

 ラインハルトを補佐するキルヒアイスは、別口で警備を用意しようとしたのだが、部下が足りなかった。

 ここでは原作のラインハルトよりも、主立った将兵が三名ほど(ロイエンタール、ビッテンフェルト、オーベルシュタイン)少ない状態。辺境を平定するシュタインメッツやアイゼナッハを合わせると五名も少ないことになる。

 それに伴い兵士の数も必然的に少ないため、貴族をオーディンで捕らえるには、どうしても手薄になる場所があった。

 それが、比較的安全と考えられていた、彼女の実家であったということ。

 

 またラインハルトは、彼女の実家が襲われたことに関して、無意識ながら僅かとは言えない程に、幸運を感じていた。

 ラインハルトの覇業の大前提は門閥貴族を排除すること。彼の根幹にして志からすると、彼女の実家が襲われたのは、ある種、僥倖ともいえる。

 ヒルダの実家マリーンドルフ伯爵家に比べて、彼女の実家であるフライリヒラート伯爵家はかなりの権門寄り。

 フライリヒラート伯爵家を残しておくと、後々厄介ごとになると ―― 無論口に出して言えることではなく、ラインハルトも思ってはいないと”思っている”が、そんな気持ちがないと言い切ることはできない。

 

 そしてなにより、好意を持っている彼女ですら、家族の域には入っていない。ラインハルトにとって家族はアンネローゼとキルヒアイスのみ。

 そのことは彼女は重々承知しており、無理矢理、そこに踏み込もうとは考えなかった。

 ラインハルトの家族になるためには時間が必要だと言われるが、まずはラインハルトがその入り口を開いてくれないことには、どうすることもできない。

 入り口をこじ開けて入るには、死を恐れる彼女には出来ないことであった。

 だが彼女がラインハルトの心の回廊に踏み込むのではなく、ラインハルトが彼女の心の庭園を訪れても良かったのだ。彼女のほうは、その庭園の門を開いてずっと待っていた。

 

 だがその庭園は閉ざされ、門には武装した兵士が控える。

 

 オーベルシュタインは伯爵邸で指揮を執っているケスラーや、病院関係者に口止めをしており ―― いまだ彼女の状況を知らぬラインハルトを無視し、端末を操作し映像を見始めた。

 伯爵の一家が自害する音に、ラインハルトはオーベルシュタインの背後に回り、のぞき込む。そして、

 

『娘を返せ、金髪の孺子』

 

 伯爵の最後の台詞は、ラインハルトの心をひどく揺さぶった。いままで言われてきた、金髪の孺子という台詞とはまるで違う、伯爵最後の言葉。

 「娘を返せ」

 それは忌み嫌っていた父親に言って欲しかった言葉であり、自分が忌み嫌うゴールデンバウムの皇帝になってしまったかのような、恐怖に襲われた。

 

「お待たせ」

 カタリナが部屋を訪れたのは、映像が終了してからすぐ。

 彼女は椅子に腰を下ろして、勢いよくドレスを蹴り上げて足を組んだ。ワインレッドのドレス裾から、引き締まった白い足首がわずかに覗く。

 カタリナは他の者たちに着席を勧めはせず、オーベルシュタインに説明するよう、扇を広げて口元を隠し、挑戦的な笑みを浮かべて促す。

 オーベルシュタインは一礼し”こちら側が”優位になるよう、所々を伏せて ―― だが事実だけを語る。

「本日の襲撃は異なる目的を持った、二つの勢力が、同時に起こしたものです。元帥閣下を襲ったのは、リッテンハイム侯に与する貴族。リヒテンラーデ公とその一族を襲ったのは地球教。この二者は全く別の者ですが、実行部隊レベルのでは共通項があります。それは、多くが帰還兵だということ」

「帰還兵?」

「帰還兵に大量の思想犯が含まれていたのです、ミュラー中将」

「共和主義者が?」

「全くいないとは言いませんが、今回の事件を起こした主な者たちは、地球教の信者です。ここで詳しく彼らの思想を説明している時間はないので省きますが、彼らにとって聖地であり信仰対象は地球という惑星そのもの。反乱軍に所属する地球教徒は、聖地奪還のために帝国と戦い、帝国の地球教徒は地球の正当な地位を取り戻すために帝国打倒を目指しています。よって今回の権力闘争に乗じて、帝国を混乱に陥れるべく、凶行に走りました」

「目的が一致しているということですか」

「そうです。元帥閣下の指示により、帰還兵の思想調査が行われなかったことも、今回の事件の原因の一つです」

 地球教の信徒による暴動は、予定されていたものであった。ここまで大きなものにする予定はなく、彼女の実家が襲われるような話はなかった。だが、起きてしまった以上、オーベルシュタインは事件を最大限に利用する。

「……」

 帰還兵に帰国後の身の安全、社会秩序維持局から追求されないことを約束したのは、ラインハルト本人である。

 だが大量のテロリストがその中に含まれていた。

 これに関して、誰かしらが責任を取る必要がある。

「元帥の地位にある者は、国家反逆罪以外では罰せられませんので、今回の事件の責任は捕虜交換の代表者であった、キルヒアイス大将が負うべきかと」

 だが元帥である以上、罰せられることはない。

 ラインハルトも地球教徒で、国家転覆を狙っているとねつ造すれば出来なくもないが ―― 今のラインハルトには、まだやってもらわなければならない戦争がいくつかあるので、オーベルシュタインはその策を用いなかった。

「キルヒアイスを罰しろというのか?」

 怒気を含んだラインハルトの声は、

「言ってはおりませんが」

 オーベルシュタインにあっさりと受け流された。

「……」

「一般論を述べたまでです。元帥閣下がキルヒアイス大将を罰しようが罰しまいが、小官にはなんら関係はございません。元帥閣下のお好きになさってください」

 ラインハルトはキルヒアイスを、他の部下たちと同じように扱うことはできない。それを止めるよう、正否は別として進言するような者もここには居ない。

「だが、どのようにして地球教とやらに感化されたのだ」

「強制収容所にやってきて、ボランティアという名の布教活動を行っているようです。教義という宗教の説明を聞けば、慰問の品をもらえるので、かなり人気のようです」

 地球教だけではなく、多くの宗教団体が同じことを行っている。

 これらのボランティア活動には、政府からの補助金もわずかながらだが出る ―― その資金の元は、当然ながらフェザーンという仕組みだ。

「反乱軍がどうかは分からないが、帝国で宗教というのはあまり馴染みがない。それほど簡単に、宗教に走るものなのか?」

 ラインハルトの問いに、オーベルシュタインは露骨に悪意ある冷笑を浮かべ、

「敵地で不自由な生活を送りながら、いつ帰れるかも分からぬ日々を過ごすのです。何かにすがっても、不思議ではないでしょう……元帥閣下ほどお強い方ならば、捕虜生活も平気で耐えることができるでしょうが、多くの兵士はそうではありません。まさか元帥閣下は、帰還兵が全て精神的になんら問題ない状態で帰ってきたとでもお思いですか?」

 これぞオーベルシュタインと思わせる態度で返した。

「精神的に衰弱し、宗教に走った……卿は言うのか?」

「多くの者は酒に逃げるようです。人というものは、それほど強いものではありません。元帥閣下のような方からすれば、酒に逃げる人間など、見下げた生きる価値のない、死んで当然の汚物にしか見えないかもしれませんが。多くの人とは、そういうものです」

 酒に逃げて死んだ父親のことと、自分のを言われていることに気付いたラインハルトは、白磁の頬が紅潮し、アイスブルーの瞳に怒りをあらわにする。

 握り拳が震え、今にも殴りかかりそうなラインハルト。

「少々言葉を謹んでいただきたい、中佐」

 ミュラーが間に入り、必死に怒りを鎮めようとする。

 そのミュラーの行動を無視し、オーベルシュタインは、前置き一つなく告げた。

「ジークリンデさまがゼッフル粒子を吸い、心肺停止状態になった。犯人は地球教の帰還兵だ」

 唐突な言葉に、誰もが驚いた。

「伯爵夫人が……」

「地球教徒どもが、誘拐する途中、知らずにゼッフル粒子を使い、このような事態となった。軍病院で治療をしているが、危険な状態が続いている」

 ミュラーは以前彼女が倒れた現場に居合わせ、ラインハルトは”これ”に関して報告は受けていた。

「なぜそのようなことを?」

「彼らの狙いはローエングラム伯爵夫人。元帥閣下の姉君を人質にしようと狙った貴族とは違い、伯爵夫人そのものが狙い。痕跡を消すために、誘拐現場の隠滅をはかった。誘拐現場は軍法会議所だ」

「あの爆破が……貴族の身柄を押さえるのを優先していたので、そちらは後回しにしていたが」

「軍務省の警備は、宇宙艦隊司令長官の元帥閣下の管轄外であるから、特に問題はなかろう。ましてその部下ともなれば仕方ないのではないか? ミュラー中将」

 ラインハルトは振り上げた拳の処遇を考える余裕もないほど、動揺していた。

「たしかにそうですが。軍法会議所の爆破は、さすがにやり過ぎに思えるのですが」

「軍法会議所ではリヒテンラーデ公も殺害されました。首だけは確保しました」

「だから、なぜ? そのような派手なことをしたら、誘拐したとばれてしまう」

 誘拐というものは、派手にやるものではないと、ミュラーは考える。それはオーベルシュタインも同意するところだが、

「誘拐を成功させるためではなく、誘拐した後のことを考えてのことだ」

 派手にやるからには、理由があった。

「誘拐した後のこと?」

「こちらの映像をご覧ください」

 オーベルシュタインは音声を消し、ユンゲルスがメルカッツに援軍を要請するために撮影した、邸内の様子を二人に見せた。

 一般人ならば目を背けたくなるような光景だが、前線に立っている二人にとっては、悲惨とは思えど直視できないものではなかった。

 オーベルシュタインは、焼かれた人間が炭化し、動かなくなったところで静止する。

「ここに撮影機材が映っています」

 そこには三脚に固定されたカメラがあり、画面を拡大すると、レンズに炭化した物体が映り込んでいるのがはっきりと確認できた。

「これは!」

「まさか奴らは、この場面を撮影していたというのか?」

「はい」

「何のために、このようなことを」

「見せるためかと」

 映像を消し、端末を持ったままオーベルシュタインは、それ以外無いでしょうと。感情がこもらぬその言葉は、馬鹿にされるよりも相手の精神を傷つける。

「まさか奴らは、これを伯爵夫人に見せるつもりだったのか?」

「そうすることで、ローエングラム伯爵夫人の気持ちを砕くことができます。あの方の性格からして、自分が逃げたことで、知人が殺されると言われたら、逃げようとはしないでしょう。まして元帥閣下や姉君に害が及ぶと言われたら。この映像を見せられたら尚更です」

 地球教徒の作戦そのものは正しい。

 誘拐され、逃げようとしたらラインハルトを狙うと言われようものならば、彼女は全てを諦める。彼女の存在があろうが、なかろうが、ラインハルトは狙われる存在になるのだが、それとは話は別である。

「ローエングラム伯爵夫人を捜そうとする身内を殺害する。ローエングラム伯爵夫人が逃げようとする気持ちを折る。こうすることで、地球教はローエングラム伯爵夫人を監禁し続けることができるのです」

 まして家族も自分のせいで死んだ聞かされれば、自責の念で動けなくなるであろうと。人の心の襞に、弱っている精神に入り込むのが得意な地球教徒の一部の工作員にとって、彼女はとても分かりやすい思考であり性格。

 単純と言えば単純な性格なのだが、それが複雑多岐に入り組み、自分でも自分が分からないオーベルシュタインには、とても好ましかった。

「襲撃の日時を元帥閣下の襲撃と遭わせたのは、ローエングラム伯爵夫人を手に入れるためです。貴族側には協力すると申し出たのでしょう。そこは調査せねば分かりませんが」

 ”そこは調査せねば分かりませんが”

 これは完全に嘘。貴族の暴動とリヒテンラーデ公の襲撃が同じ日に起こるのは、前もって決まっており、オーベルシュタインは襲撃のタイムテーブルも組んでいた。

 

「ねえ、パウル」

 話から外されているような状態であったカタリナが扇を閉じ、妖艶な口元をゆったりと動かす。

「はい、ギレスベルガー子爵夫人。なんでございましょう」

「話を進めてもいいかしら?」

「はい」

 彼女は一枚の書類を取り出し、ラインハルトに見せた。

「リッテンハイム侯の討伐の指揮を執りたければ今すぐ、帝国歴四八八年二月九日中に出撃する。一分でも過ぎたら、あなたに討伐権限は与えない」

 国璽を持っている彼女は、オーベルシュタインに言われてこの書類を作成し、皇帝の代行者であるペクニッツ公爵にサインさせて、この場に持ってきた。

「……それは」

「宇宙艦隊司令長官自ら、宇宙に出る必要はないんじゃないの? 討伐権限はなくても、地位は剥奪されるわけじゃないんだから」

 彼の人気であり、土台が民衆である以上、貴族との戦いはラインハルト自ら陣頭に立って勝たねばならない。

「よろしいでしょうか?」

「良いわよ、フェザーンの中尉くん」

「では……ギレスベルガー子爵夫人は、もしもエッシェンバッハ元帥が討伐を諦めた場合、誰をリッテンハイム侯の討伐に向かわせるおつもりですか?」

 ラインハルトが討伐に向かうことができないとなれば、彼の麾下の将兵も出撃することはできない。だがリッテンハイム侯と彼に与した者たちは、討伐する必要がある。

「私は軍人について詳しくはないけれど、これから元帥に任命して、軍務尚書代理の地位を与えるメルカッツ上級大将はどうかしら。ねえ、パウル」

 だがそれには適任者がいた。

 ラインハルトのように野心なく、皇帝に絶対の忠誠を誓う宿将が。

「問題はございません」

「メルカッツ提督ですか……」

 これほど適した人物もいないであろう。

「リッテンハイムを討伐したら、文句なしに代理の文字が取れるでしょうから……で、決まった? 行くのかしら?」

「ギレスベルガー子爵夫人」

 ラインハルトはキルヒアイスの死を、アンネローゼに直接伝えることができなかった。それは彼の弱さであり、愛情であり、無責任であり、後悔であり、特別であり。

 彼にとって大切な存在である程に、死と正面から向かい合うことができず。討伐に出なければ、彼女に家族の死を告げる役割を負うのはラインハルトであり、もしかしたら彼女の死と向き合うことになるかも知れない。

 

 彼は彼女を愛している。それ以上に宇宙を欲している。だから ―― ラインハルトは討伐を選んだ。

 

「分かったわ。行ってらっしゃい」

 カタリナは書類をラインハルトに手渡した。

「では、ローエングラム伯爵夫人の入院、その他のことについては、こちらで対処いたします」

 ラインハルトはオーディンの治安回復、維持のために、大まかな事情を知っているケスラーとミュラーを残して、宇宙へと飛び立った。

 

 身重の新妻を残して戦いに赴いた、己が死ぬ間際まで戦い続けた男、ラインハルト。たとえキルヒアイスがいようとも、戦いを選ばぬ筈はない。ここで残らなかったのは卑怯ではあるが、ラインハルトがラインハルトであるとも言えよう。

 ラインハルトは戦陣にあってこそ。

 妻の側に寄り添う姿が似合う男ではない。

 ヒルダはそれを受け入れたが、彼女がそれを受け入れるかとなると別である ―― 彼女の意識が戻ればの話ではあるが。

 


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