ユンゲルスを連れて彼女の実家である、フライリヒラート邸へと向かったフェルナーは、最初から正面や裏口は避け、ぱっと見は分からない、薔薇で覆われている塀の抜け穴から侵入した。
「ここは?」
棘が多くはない品種の薔薇だが、全くないわけでもなく、内部にいる者たちに気付かれないよう、最小限の明かりしかないため、軍服が引っかかり裂け、頬に軽い擦過傷を負うことは避けられない。
だが二人とも傷などものともせず、注意深く薔薇の茂みを抜けた。
「犬舎に繋がっている」
邸内の使用人たちの中でも、わずかな者しか知らない。
この入り口は誰でも入れるが、抜けた先が犬舎で、そこには常時、猟犬がたむろしているため、ここを通れるのは、犬舎に住む猟犬たちに、敵ではないと認識されている者だけ。
フェルナーもその一人に数えられていた。
「……殺されてますね」
「そうだな」
ユンゲルスは襲われる恐れがあったのだが、その心配は無用であった。
猟犬たちは全て殺害されており ―― 邸から獣の咆吼に似た叫びが聞こえてくる。
二人はブラスターを握り直して、邸に詳しいフェルナーが先頭で、邸内に侵入した。廊下に飾られていた花瓶が床に落ちて砕け、活けられていた花は踏みにじられ散り、いつも歩く人の姿が映るほど磨かれている廊下は、ひどく汚れている。
静まりかえった邸と、相反する人間のものとは思えない叫び。
鼻をつく燃料のにおいと、それに混じる脂肪が焦げたにおい。
「このにおいって、人が……」
人が焼けたにおいは、軍人である彼らにはなじみ深いとは言わないが、一度や二度は経験したことがある。同時に、咆吼が生きたまま焼かれた時に人間が上げる断末魔であることも、思い出した。
「そうだな……誰か来る」
フェルナー近くの部屋のドアを開け、身を隠してやり過ごす。
カーテンが引かれた部屋で、明かりを灯すこともなく、二人ともドアに耳をつけ足音がいくつあるかを数えた。
「フライリヒラート伯爵を見つけたか?」
「いや、居ない」
「早く見つけろ。あいつらを処刑して……」
足音が遠ざかり、廊下が静けさを取り戻したところで、
「数が多すぎるな」
二人で対応できる数ではないと、フェルナーは軽く頭を振った。
「そうですね。ですが、奴らが言っていたことが本当だとすると、まだ伯爵はご無事のようですが」
フェルナーは賊の数の多さに、派遣する部隊の数を増やしてもらおうと、端末を取り出したのだが、外部と連絡が取れないよう妨害波が出ていることを確認することしかできなかった。
「当然か」
この状況で救助を求めた形跡がないことから、予想しておくべきことであった。もっとも予測できても、状況を確認するために潜入するしかないのだが。
「賊は地球教徒になった、帰還兵でしょうか」
相手は素人の狂信者ではなく、訓練を受けた狂信者。
軍用端末の通信妨害は、それなりの知識が必要 ―― 軍で工兵や通信兵であった者が捕虜となり、収容所で地球教徒となり、テロリストとなり帰還し、いま伯爵邸を襲っている。
ますますフェルナーたちは分が悪い。
「そうだろう。あいつらの目的は、旦那さまとローデリヒさまを殺害することだ……ユンゲルス、お前の端末を貸せ」
フェルナーはユンゲルスに、自分の端末を渡し、ユンゲルスのものと交換する。
「はい」
「いいか、ユンゲルス。お前は邸内に侵入したルートで脱出し、メルカッツ提督の自宅に行って増援を頼め。小隊は私の端末に連絡してくるから、彼らも一度メルカッツ邸に集めて数をそろえてから来い」
「ですが」
「この状況に小隊一つでは、焼け石に水だ。急げ時間がない。……これでも、旦那さまに軍人を辞めて、この邸の家令にならないかとスカウトされるくらいには、邸には詳しい。私一人ならば、奴らに見つからない。急げ」
この状態の邸内に二人が居ては、やってくる筈の小隊も連絡が取れず、邸近くで待機するしかない。
「分かりました」
ここで二人で、賊の数の多さに倦ねていては、来た意味がない。
「頼んだぞ」
ユンゲルスは端末の録画機能を立ち上げ、来た道を注意深く引き返しながら、邸内の状況を撮影し、現状を信じてもらう情報を入手してから、急ぎメルカッツ邸を目指した。
「……そう言ってはみたものの、どうなることやら」
ユンゲルスが部隊を率いて戻ってくるまで、フェルナーが一人で、持ちこたえられる可能性は低い。むろんフェルナーも、そのことは自覚していた。
邸内のいたるところに転がっている焼死体。
赤黒いそれのいくつかにフェルナーは見覚えがあったが、あえてそれ以上思い出そうとはしなかった。
賊である地球教徒よりも、邸内に詳しく、邸の主たちの行動に詳しいフェルナーは、彼らの足音を聞いては物陰に隠れては、伯爵たちが逃げ込みそうな部屋を一つ一つあたった。
数の上では優位な賊が伯爵たちを見つけられない理由は、部屋のいくつかは、廊下側には扉がなく、部屋から部屋へと続く造りになっているためである。
「旦那さま」
フェルナーはその中でも、もっとも続き部屋の扉が分かりづらい部屋に当たりをつけ、壁にしか見えないのドアをノックし、中に居るであろう人物に声をかけた。
「アントンか」
この造りの邸では珍しい引き戸を開る。室内は明かりを灯していないため、伯爵以外誰がいるのか分からなかったが、
「部屋には私と、ローデリヒ、エルフリーデとオルトヴィーンが居るよ」
伯爵の説明で四人居ることが確認できた。
フェルナーは胸元から懐中電灯を取り出し、明かりの強さを最小限にしぼり、手で覆い隠しながら電源を入れた。
「ご無事でなによりです、旦那さま」
暗がりに浮かび上がった彼らの顔は、当然ながら強ばっていた。
「邸の状況は分かっているかい?」
伯爵はフェルナーがもたらした明かりを頼りに、椅子に腰を下ろして足を組む。
「大体は」
「では話は早い。アントン、私を撃ち殺せ」
「旦那さま!」
「炙り殺されるのは、嫌だが怖いわけではない。だが私も貴族。あのような下卑た輩に殺されるのは耐えがたい。自裁したいところだが、オルトヴィーンが毒薬を持っていなくてね。おまけにこの部屋には、死ぬための道具もない」
「役立たずで申し訳ございません、旦那さま」
伯爵の言葉に執事が膝を折り頭を下げて詫びる。
「だから私に撃てと?」
助けが来るまで立て籠もり、耐えましょう ―― そう提案するには、何もかもが足りなかった。
「そうだ。ローデリヒ、エルフリーデ、お前たちはどうしたい?」
伯爵はというと、すっかり死ぬつもりで、表情にも余裕が現れるほど。
「そうですね……」
頼りない白い明かりを受けたローデリヒの表情も、父である伯爵と似たようなものであった。ただ違うのは隣に明後日の花嫁・エルフリーデに向ける視線。
二人がしばし見つめ合っている間、伯爵はフェルナーに別のことを命じた。
「アントン。軍用の端末を出しなさい」
「はい。ですが、敷地内では使用できません」
「それは通信であろう? 録画はどうだ?」
伯爵たちも通信を試みたのだが、妨害され助けを求められないでいた。そんな中、現れたフェルナーは伯爵たちにとって、救いであった。希望に満ちたものではなく、終わるための。
「それは可能です」
「では録画しなさい」
「なにを?」
「私が君に”私のことを殺せ”と命じたこと、そして殺されるところも。悪趣味だとは思うが、必要なことだ」
フェルナーはユンゲルスの端末を取り出し、録画を開始する。
「録画されているのかね?」
「はい」
伯爵はカメラをまっすぐ見つめ、フェルナーに自分を殺すよう命じたことを語る。
その語りが終わると、ローデリヒも話が付いたと ―― 手を伸ばしてきた。
「フェルナー。私もエルフリーデもここで命を絶つ。そのブラスターを貸してくれ」
「どうぞ」
ブラスターを握ったローデリヒは”軽いな”と呟いてから、エルフリーデにキスをした。
「言いたいことはたくさんあるのだが、時間がない。巻き込んでしまって悪かったね、エルフリーデ」
「いいえ、ローデリヒさま。私もリヒテンラーデの女です。このような事態に遭遇する覚悟はできておりました。フェルナーとやら」
「はい」
「ジークリンデさまに伝えて。サムシングブルーありがとうございましたと、エルフリーデが言っていたと。あれを身につけて嫁ぐのを、本当に楽しみにしていましたと。いいわね」
彼女もエルフリーデと兄の結婚式は楽しみにしていた。
”義理姉さまとドレスの色が被らないようにしたの”と、ピンクのシフォンで彩られた、鮮やかな檸檬色のドレスを着て、おかしくないか? なにか足りないかと何度も確認していたほど。
「かしこまりました」
「それではお先に失礼いたします、フライリヒラート伯爵。いいえ、義理父さま」
「ああ、少しだけ先にいっていなさい」
逃げ回り乱れてしまったエルフリーデのクリーム色の髪を、ローデリヒが手で二度ほど梳き、こめかみに銃口をあてて額にキスをしながら引き金を引いた。
ローデリヒの胸に倒れ込んだエルフリーデの表情は、フェルナーには見えなかった。事切れた体を一本の腕で抱き、ローデリヒは今度は自分のこめかみに銃口をあてた。
「フェルナー」
「はい、ローデリヒさま」
「ジークリンデは大丈夫かい?」
「確認できていないので”はい”と答えられないのが心苦しいのですが、オーベルシュタイン中佐が向かったので、おそらく大丈夫でしょう」
「キスリングが言っていた、老ダルマチアンに好かれている彼のことかい?」
「はい」
「そうか。後は任せた。それでは父上」
目を閉じ、ためらいを見せずローデリヒは引き金を引いた。弱い光は床に倒れた二人の姿を追うことはできなかった。
フェルナーはしゃがみ込み、ローデリヒからブラスターを回収する。
「オルトヴィーンはどうする?」
「私も生きたまま焼き殺されるのは、遠慮いたしとうございます」
「そうかね」
「お先に、お暇してよろしいのでしたら」
「構わんよ。アントン」
フェルナーは執事の後ろに立ち、ブラスターを構える。
「よろしいですか?」
「はい。それでは、旦那さま」
後頭部から斜め上方に向けて熱線が突き抜け、崩れ落ちた。
「救助部隊を用意したのですが、間に合わず。全く以て申し訳ございません」
カーテンの隙間から強い光が室内に差し込み、銃撃音が聞こえてくる。残り時間が少なくなった賊たちは、伯爵たちを生きたまま焼き殺すのを諦め、殺すことに目標を変え、手当たり次第、銃撃し始めたのだ。
「構わない」
「ですが、本当に私でよろしいのですか? 私はまさに、ただの平民ですよ」
「そうだな」
「エッシェンバッハ侯と連絡を取り合わなかった、私たちの落ち度です」
「アントン」
「はい」
「ラインハルト・フォン・ミューゼルであった男に助けられるくらいなら、私は生きたまま焼かれることを選ぶ。あの男が私たちの一族を助けたら、ジークリンデはあの男に頭を下げ、どんなことをされようとも、一生尽くすであろう。だから、むしろ現状が愉快なのだよ」
彼女は門閥貴族には珍しく”尽くして当然”という考えの持ち主ではなく、そのことは伯爵もよく分かっていた。
「旦那さま」
「あの男に生かされるくらいならば、死んだほうがよい。ただあの男に殺されるのも嫌だ。そんなことになったら、ジークリンデの心にあの男が一生残る。そうだろう?」
近づいてくる銃撃。フェルナーは端末を持ち、伯爵の心臓の上に銃口をあてる。
「そんなにエッシェンバッハ侯のこと、お嫌いでしたか」
「好きそうに見えたかね?」
「全然。でも旦那さまが、エッシェンバッハ侯のことを、金髪の……と言っているのは聞いたことがなかったので」
「では最後に聞かせてやろう」
伯爵はラインハルトに対する、全ての憎悪を込めて最後の言葉にした。
「娘を返せ、金髪の孺子」
貴族社会のあちらこちらで、幾度となく言われてきた蔑称「金髪の孺子」
その中でも伯爵のそれは、一番と言ってよいほど、ありとあらゆる負の感情が渦巻いていた。
「それでは、旦那さま」
恨みを全てはき出した伯爵の表情は、いつも通り穏やかになり目を閉じた。
フェルナーは引き金を引き、右手は吹き出した血でどす黒く染まる。
血で濡れていない方の手で、伯爵の脈を取り、完全に停止していることを確認し、端末を持ち部屋を出ようとした時、窓からの銃撃で腕を撃たれ、手に力が入らなくなりブラスターを落とした。
傷口の上を手で押さえ、脱出経路である犬舎を目指す途中、出血により意識を失う。
そして邸は火の手に包まれ ――
**********
「……ということだ、キスリング」
大火傷を負い、出血多量で危険な状態ながら、まだ息があったフェルナーは最優先で軍病院に運ばれてきた。
フェルナーの搬送に付き添ったのはユンゲルスと、
「まさか、そんな事態になっていたとはな……シュナイダー」
メルカッツの副官のシュナイダー。
使用人や貴族が焼き殺される映像と共に、ユンゲルスから増援を求められたメルカッツは、部隊を用意し ―― ただ途中で、オーベルシュタインが派遣したシューマッハ率いる部隊と、異変に気付いたケスラーが派遣したブレンターノが率いる部隊が少々諍いを起こし、そこにシュナイダーが率いた部隊がかち合い、更に混乱が起こった。所属が全く違う部隊が、互いに全く情報がない状況での遭遇、そして小競り合い。帝国軍では珍しくないことだが、
「フェルナー准将の大火傷は阻止できただろうと思うと……情けない」
その混乱があっても、なくても邸内の人々は救えなかったであろうが、フェルナーの重傷は避けられた可能性は高かった。
混乱をおさめたメルカッツは、命令系統が異なる部隊を従え伯爵邸へ。賊の討伐と救助活動の指揮を取る。邸が炎に包まれると通信の妨害波もなくなり、ユンゲルスは自分の端末の位置情報を確認し、シューマッハと共にフェルナーの救助に向かった。
フェルナーは火の手が上がった邸内ではなく、邸近くの庭で意識を失っていたため、焼死を免れていた。
だが危険な状態には変わりなく、搬送の際に諸手続もあるので、シュナイダーとユンゲルスが軍病院へ付き添った。
シュナイダーはとりあえず誰にこのことを連絡すべきか? 考えて、同期のキスリングに連絡を入れたのだが、なかなか通じず。
やっと通じた時、両者とも集中治療室が両脇に並ぶ通路で、互いが目視で確認できる状態。
『なんで、お前がここに』
『フェルナー准将が火傷と出血で危険な状態なのだ。キスリングこそ』
『ジークリンデさまが……ゼッフル粒子の呼吸障害で』
『そうか……では、少し考える時間があるな』
『なんのことだ?』
シュナイダーはユンゲルスの端末を差し出す。
搬送の最中、ユンゲルスは自分の端末の中身を確認し、伯爵がフェルナーに自分を撃ち殺すよう命じている映像の存在を知り、オーベルシュタインに転送した。
そしてキスリングとリュッケも、その映像を観る。
「誰も助からなかったのか?」
「召使いたちは数名助かったと、ケスラー准将から報告が来た」
オーベルシュタインからの出頭要請を受けたメルカッツは、自らの仕事を終え急いでやってきたケスラーに、その場を一任した。
「ケスラー准将か……」
彼女が助かるかどうか、まだ分からない危険な状態だが、助かった時、フライリヒラート伯爵家を含む、ほぼ全てのリヒテンラーデ一族が殺害されたことを誰が告げるのか。
普通に考えれば、夫であるラインハルトの役目なのだが、
”娘を返せ、金髪の孺子”
彼が正面からそれらを受け止め、彼女に真実を告げることができるのか。それは誰にも分からなかった。