第71話
”キリエ”について聞くことはないと思っておりましたが……聞いてもよく分かりませんでした。そちらで再度、詳しく聞かせてください、ジークリンデさま。今すぐそちらへゆきますので ――
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オーディンを発って五日目、ファーレンハイトの元に高速通信が入った。
「フェルナーから?」
提督席に座ったまま、ザンデルスにメインモニターに、つなげるよう指示を出す。
『やあ』
スクリーンに映し出されたフェルナーは、画面の荒さを差し引いても、やや疲れたような顔をしていた。
「どうした?」
『演習を中止して、大至急、シャイド男爵が治めているヴェスターラント星へ向かってください。コルプト子爵がヴェスターラントに、熱核兵器を投下する可能性があります』
この世界も原作同様、人間が住んでいる惑星に対して熱核兵器の使用は禁止されている。
「ザンデルス」
「はっ!」
変更された目的地へ、最短で向かうべく、ザンデルスが次々と指示を出す。
その指示を聞きながら、ファーレンハイトはフェルナーに、一応の許可を取ることにした。
「阻止するためには、コルプト殺害もやむを得ない……と、なっても構わんか?」
『構いません。ブラウンシュヴァイク公も見限りました。マールバッハ伯からの連絡なので、リッテンハイム侯の方も大丈夫です。それで、ヴェスターラントに核が投下されると、二百万人ちかい人が死んでしまいます。まあ、軍隊の仕事じゃありませんが、ここは一つ頑張ってください』
帝国軍は皇帝に従う軍。そのため、民衆を助けるなどというのは、基本的に彼らの仕事ではない。
「数はともかく、確実に阻止はする。ヴェスターラントは元フレーゲル男爵領に近い。失敗したら、ジークリンデさまの耳にも入ってしまう」
自制心がなく、門閥貴族以外は人と思っていない貴族たちは、今回の核攻撃は極端だが、大なり小なり、そういうことをしており、それらの多くはもみ消されているような状態。
『ですよねー。大雑把な理由などは、後で説明します』
だが、さすがに核兵器が使われたとなると、隠しきることはできない。
それほどの大事になると、ジークリンデにも届いてしまうので ―― コルプトの名誉のためではなく、ジークリンデの精神衛生上、阻止する必要があった。
「もったいぶるな」
『違う、違う。私とパウルさんとキスリングの優しさですよ。ジークリンデさま、通信室の扉の向こう側で待ってるんですよ。”会ってやってください”と言ったら、快諾してくださったので。会いたくないというなら、お断りしますが』
ジークリンデが来ると聞いたファーレンハイトは提督席から立ち、軍服を払い袖口や襟を直して姿勢をただす。
「お待たせするな」
『言うと思ったし、そう動くと思った。待っててください』
画面からフェルナーが消え、少し間を置いて、髪をきっちりと結い上げたジークリンデが現れた。
『ファーレンハイト、元気?』
コルプト子爵側に察知されないよう、妨害電波込みのため、やや荒い画面なのだが、それでもジークリンデの美しさは損なわれていない。
「はい。ジークリンデさまも、お変わりありませんか?」
色鮮やかさなどは格段に劣っているのだが、美しさそのものは変わらず。
『ええ、かわりはないわ。ねえねえ、ファーレンハイト。今日、陛下が初めて歩かれたの。こう言っては失礼かもしれないですけれど、とても可愛らしかったわ』
顔の前で手のひらを合わせ、表情を綻ばせる。
「それは、喜ばしいことですね」
ファーレンハイトは皇帝の成長に、なんら興味はない。だが皇帝が歩いたり笑ったりすると、ジークリンデが喜ぶので、そう言った意味で興味はあった。
『そうでした。先ほどフェルナーから聞いたのですが、演習が長引き、お兄さまの結婚式に間に合わないかもしれないとか』
元々は間に合う予定だったのだが、演習から一転、馬鹿貴族の暴走を止めに、予定よりも遠くへ出向かなければならくなった。
「はい。招待してされておきながら、申し訳ございません」
絶対に出席できない距離ではないが、確実でもない。
『それは良いのよ、演習のほうが大切ですから。それはそうと、お父さまがファーレンハイトに、花嫁の父の代理をさせようと目論んでいると。お兄さまから連絡がありました』
「それは……グントラムさまの、ご冗談では?」
ジークリンデの後ろに移ったフェルナーとおぼしき手が、親指を立てているのを見て”本気……か”と。
『やはり、そうかしら?』
「冗談であって欲しい限りです」
できる限り、間に合うように帰還するつもりだったファーレンハイトだが、それを聞いて帰りたくなくなった。
『本当に怪我などしないで帰ってきてね。ザンデルス、ブクステフーデ、そしてブロン。ファーレンハイトのこと頼むわ』
ザンデルスは副官、ブクステフーデは参謀長、ブロンは艦長。彼らにはジークリンデもよく声をかけていた。
「お任せください」
代表して副官のザンデルスが答える。
『あなたたちも怪我などしないように。ファーレンハイト』
「はい」
『パスピエ練習して、かなり巧くなったわよ。帰ってきたら、ベルガマスク組曲全曲弾くから、聴いてね』
「楽しみにしております」
ジークリンデが画面から消え、しばらくしてフェルナーが戻ってくる。
「それで。なぜコルプトがシャイドを攻撃するんだ?」
ファーレンハイトはすでに着席し、聞いたところで、この状況が変わるわけでもないのだが、一応事情を聞いた。
『コルプト子爵に弟がいたでしょう』
「いたな。似たもの兄弟」
『シャイド男爵に処刑されちゃった』
「シャイド男爵の領内で、犯罪行為でも働いたのか」
『あたり。罪状が領民に対する暴行だったんで”下民を害した程度で、処刑されるのは不当だ!”言い出して……うん、そんなところ。理由を口頭で説明していると、自分がものすごい馬鹿になったような気がするから、そっちで書類読んで理解してあげて』
「目は通すが、頭痛薬が効かない頭痛がしそうだな。それにしても、弟の敵討ちか。そんなに兄弟、仲が良かったようには見えなかったが」
『仲は良くなかったようですが、貴族のプライドとか、そういう物なのでは?』
「何年仕えても、門閥貴族の思考は分からんな」
『ジークリンデさまに仕えている限り、分からないでしょうね。オイゲンには私から連絡しておきますので。それでは、気をつけて。そしてすぐに仕事を終えて、二月十日までにオーディンに帰還してください。ローデリヒさまがウェディングケーキの隣に、誕生日ケーキ用意して待ってるとおっしゃってましたから』
「止めろ」
『良いじゃないですか、ついでにお祝いしてもらえば。誕生日当日じゃないですけど、三十二歳にもなって、そこまでこだわらないでしょう?』
「阻止しろ」
『無理に決まっているでしょう。伯爵閣下のお達しですよ。進んで阻止する気は、毛頭ありませんが』
通信は終わり、ファーレンハイトが全艦隊に指示を出し、あとは目標を捕捉して撃ち落とすだけ。
「ザンデルス」
「はい」
「ローデリヒさまの結婚式は、標準時二月十一日……で、良かったか」
ファーレンハイトは予定日を副官に問う。その表情は、完全に”忘れた”と物語っていたが、部下としてそれに触れることはなく、端末で調べ、画面を差し出して当人に確認してもらった。
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コルプト子爵が彼らの予想以上に兵士に人気がなく、士気が低すぎて、最後には乗組員に射殺され ―― 兵士たちが罪に問われるのを避けるため、遺体を脱出シャトルに乗せて発射、のち艦隊の主砲斉射でコルプト子爵の遺体を消し去った。
「結婚式には、充分間に合います」
このような形でファーレンハイトの艦隊は、コルプト子爵を討ち、持ち出した熱核兵器を回収し、念のために警備隊を残して帰還の途についた。
「そうだな」
結局急いで行軍し、気づけば二月九日の深夜あたりには、オーディンに到着できることになった。
”結婚式に間に合いそうですね。旦那さまにお伝えしておきますよ”フェルナーに言われて、少々気どころではなく気が重いのだが、”ファーレンハイト、間に合いそうなんですって。嬉しいわ”……とジークリンデに言われた以上、間に合わせなくてはならない気持ちも大きい。
「到着まで、あと半日弱といったところか」
「はい。到着まで、お休みになられますか?」
ザンデルスに言われ、特に問題もなかったので、ファーレンハイトは休憩を取ることにした。
「そうするか」
椅子から立ち上がり、艦橋からさほど離れていない私室へとファーレンハイトは向かう。
途中、あげていた前髪がはらりと落ちてきた。その前髪をつまみ、
「髪は切っていったほうがいいか」
伸びすぎというわけではないが、今ひとつはっきりとしない、中途半端な長さ。
「手配してくださっていると思いますが。確認してみます」
髪くらい自分で切れ……と言いたくなるが、ファーレンハイトに言うと本当に自分で切ってしまうので、無責任に言うわけにもいかない。
「ああ」
部屋に戻ったファーレンハイトは、一人になりプレイヤーの電源を入れて、立ったまま目を閉じ、プレイヤーを握った手の甲を額に当てて、ジークリンデが弾いた曲を聴く。
脳裏にはグランドピアノで練習しているジークリンデの姿が現れる。
”今のは巧く弾けたと思うのですけれど。どうでした?”
練習曲を弾き終えファーレンハイトの方を向き、尋ねるジークリンデに、
”お上手です”
嘘をついてはいなかったものの、ジークリンデが言う差異が分からず、ある種の嘘をつき続け ―― 成功していようが、失敗していようが、ジークリンデが弾く曲が好きだった。
特に問題なく、艦隊がもうすぐオーディンに到着となった頃、
「オーベルシュタイン中佐から連絡が」
そのオーディンにいるオーベルシュタインから連絡が入った。
「どうした? パウル」
表情から、良い知らせではないことは明らか。一瞬にして重苦しい空気に包まれ、通信を取り次ぎ、背後に立っているザンデルスは、無意識のうちに歯をかみしめる。
深々と頭を下げ、数秒後に顔を上げてオーベルシュタインは、オーディンの現状を報告した。
『申し訳ございません。ジークリンデさまがリヒテンラーデ公を狙ったテロに巻き込まれ、心肺停止に。現在軍病院で蘇生治療中ですが、予断を許さない状況が続いております。またフェルナー准将はテロリストと交戦中に大やけどを負い、こちらも意識不明の重体となっております。提督には至急オーディンに帰還を。ああ、それと、リヒテンラーデ公は死にました』
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黄色い薔薇は違う人の物なのにと、ジークリンデは言った
違う人とは誰ですか? ファーレンハイトは尋ねたが、答えはない
黄色い薔薇の花言葉には”友情”もあるの。薄れゆく愛や嫉妬、不貞が有名ですけれど。ジークリンデは答えの代わりにそう言った
”美”が最も有名だと思いますが? ファーレンハイトは答える
そうなの。美しいという意味はないと思っていましたと。ジークリンデは手に持っていた、一輪の黄色い薔薇を差し出した
どうしてですか? ファーレンハイトは薔薇を受け取る
私が私になる前に、それしか知らなかったから。ジークリンデはそう言った
なにをおっしゃっているのか、私には分かりかねます。ファーレンハイトは突き放す
そうね。黄色い薔薇は好き? ジークリンデは尋ねた
嫌いではありませんが、好きというほどでもありません。ファーレンハイトは正直に答えた
七月二十一日の誕生花は黄色い薔薇なのよ、ジークリンデは言った
「男爵夫人のお誕生日は、七月二十一日で?」
「ええ、そうなのよ。ファーレンハイトの誕生日は?
艶やかな黒髪と、まろやかな輝きを持つ象牙の肌を持つジークリンデは、光を思わせる鮮やか色がよく似合う。檸檬色、山吹色、そして黄金色
Kyrie【起】・終