黒絹の皇妃   作:朱緒

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第69話

 禁じられると好きではなくとも、欲しくなる ――

「チシャサラダですか?」

 彼女はある朝、突如、無性にチシャサラダ……要するにレタスサラダが食べたくなり、我慢がきなくなりケスラーに頼んだ。実家に帰って食べることも可能だが、いまは時期が悪い。

 実家は兄の結婚式の準備に追われており、召使いたちはもれなく忙しい。

 そのような実家に「ちしゃ……」と言えるような彼女ではない。もちろん自宅の料理人にも言いづらいので、

「忙しいのは分かっているのですけれど、頼めるのはウルリッヒしかいないの。内緒でお願い」

 口が堅いケスラーに頼んだ。

「急いで用意いたします」

 事情はさっぱり分からないケスラーだが、望みを叶えるのは簡単なので請け負った。

「嬉しい! では、仕事に行ってきます。昼には帰ってきますので」

「はい、お嬢さま」

 

 こうして彼女は出仕し、カザリン・ケートヘン一世に報告後、積み木遊びを一緒にし”帰ってはならぬー! ジークリンデェー。離せ! 逆臣たちめー!”と叫んでいるようにしか聞こえない泣き声を背に、皇帝の元を去り、リヒテンラーデ公に報告し ―― 大急ぎで帰宅すると、ケスラーがすでに用意を調えており、彼女は軍服のまま、警備担当者の詰め所の休憩室へと案内された。

 

 警備担当者たちの詰め所は、使用人の住居用の別棟の一つが使用されている。

 どの貴族の屋敷でもそうだが、使用人用の別棟は、敷地内にあるため景観の兼ね合いで、みすぼらしいものはない。

 たまに外側だけを繕うような貴族もいるが、シュワルツェン邸の使用人棟は外側だけではなく、内側も本邸相応の造りとなっていた。むろん本邸よりずっと質素だが、裕福な平民の自宅と同程度はある。

 もっとも警備に使われているため、バロック様式の部屋にモニターがずらりと並び、年季が入ったオーク材のテーブルの上に、連絡を取るための端末が並べておかれていたりしている状態だが。

 休憩室は白い壁紙に、三人用の長テーブルが三つに、椅子が十二脚。椅子に腰をかけて、足をもう一つの椅子に乗せるような、少々行儀の悪いのもいる。

 もちろん休憩室なので、許されている行為であり、執務中にそんな姿勢を取るのは、当然許されない。

「秘密ということでしたので、椅子もテーブルもここにあるものですが」

 彼女が座るような椅子ではないことに恐縮しつつ、ケスラーは丹念に拭いた椅子を勧めた。

「気にしないでちょうだい。私のわがままですもの」

 席についた彼女の前に、レタスが入った小ぶりな木製のボウルが置かれた。

 オリーブオイルと数種類のハーブがミックスされた岩塩がかかっている。

 彼女は器よりも色が薄い木製のフォークを手に取り、口に運ぶ。

「美味しいわ、ウルリッヒ」

 こうして彼女は切望していたレタスを食べることに成功した

「嬉しい限りでございます」

「そういえばウルリッヒ。警備から外れるんですって」

 ケスラーは明後日には邸の警備から外れ、本来の人物が担当することになる。

「はい。私は途中から、キルヒアイス提督の代理でしたので」

 ケスラーはラインハルトが彼女の警備のため用意した人員だが、その当時アンネローゼはまだフリードリヒ四世の寵姫であり、一緒に住んではいなかった。

 だがアンネローゼが自由になりラインハルトたちと住むことになったので、警備責任者がキルヒアイスに変わったのだ。

 家族水入らずの時間を邪魔されないようにするために。

「簡単に会えなくなってしまうのね」

「お声をかけていただければ、いつでも、何を差し置いてもはせ参じますので。お気軽にお呼びください」

「私は額面通り受け取って、本当に呼び出すわよ」

 そう言って、再びフォークでレタスを軽く刺し口に運ぶ。

「光栄にございます」

 小さく盛られたレタスをすぐに彼女は食べ終え、自ら持ってきたバックを開けてケスラーに向かって手を伸ばす。

「チシャサラダを作ってくれたお礼に、これを」

 彼女は執務室に届けられていた、実家からの品を差し出した。

「これは?」

 両手を合わせて差し出したケスラーは、手の上に乗せられた、カフスに首をかしげる。

「カフスよ」

 フルール・ド・リス型のカフスなのは、ケスラーにも分かった。

 問題はその中心に、素人目でも高価と分かる宝石が埋め込まれており、ケスラーはそれが気になった。

「この石は、なんでしょう?」

「ブラウンダイヤモンドよ」

 ケスラーは宝石の価値など分からないが、彼女が持っていたという時点で、高額であることだけは、はっきりとしているので、失礼にならないよう返そうとする。

「このようなもの、いただくわけには参りません」

 チシャサラダを作ったお礼にしては高価過ぎる。

 ましてケスラーはお礼をもらうつもりなどなく ―― むしろ、作ったなどと言うと、大げさ過ぎるサラダを”美味しい”と言い、食べてもらっただけで充分な礼だが、

「これは、あなたのために用意したものなの、ウルリッヒ」

 返そうとしたケスラーの手に彼女は手を乗せて、いきさつを説明した。

「私のために、ですか?」

「これを用意したのは、十五年近くも昔のことよ。初めて会った次の年、ウルリッヒに会えると信じて疑っていなかったから、プレゼント用意したのよ。それが、これ」

 初めて会った年は、突然の出会いだったため、彼女は男性に似合うような品を一つも持っていなかったので、翌年こそは……と思い、用意をしたのだ。

「申し訳ございません」

 だが翌年、ケスラーは別の任地へ。

 そしてフルール・ド・リスのカフスは、幼い彼女の手に残った。

「謝る必要などありません。移動や配置換えに対し、ウルリッヒはどうすることもできないことでしょう」

「……ええ、そうです。本当に歯痒く」

 邸の警備であって彼女の警備ではないのだが、彼女を一人、邸に残すのはとても不安であった。だがケスラーにはどうすることもできない。

「でも、こうして会えて良かった」

「はい……本当にいつでも呼んでください。困ったことがあろうとも、なかろうとも」

「そんなにウルリッヒのこと、困らせていいの?」

「お呼び出し、期待しております……ところで、私は宝石の価値など分からない男ですが、これは高価な物なのでは?」

「高価だとは思いますが、それほど気にしないでください。それは、ウルリッヒにプレゼンとしようと、私が家捜しをして見つけ、お父さまから許可をもらったものです。結局ウルリッヒに会えなくて、その後の行方は覚えていなかったのです。私は薄情ですっかりと忘れておりましたが、お兄さまは覚えていました。なんでも、お兄さまが本邸の元の場所に返していてくれたそうです。それで、先日実家に帰ったとき”ケスラーに再会できたのだから、プレゼントしておいで”と。本邸から送らせ、今日私の執務室に届いたのです。是非受け取って、ウルリッヒ」

 

 ケスラーと再会できなかった後の行動を彼女は覚えていなかったのだが、父親について狩猟をしていた兄のローデリヒが、手のひらに乗っているカフスを悲しそうに見つめている彼女を見つけて事情を聞き、ケスラーを呼び出そうとした。

 だがその時ケスラーは、遙か遠くビルロスト星系方面に赴任していたため、断念せざるを得なかった。

 その後、ローデリヒはカフスを隠し、彼女の注意を別のものに向けるようにし、成功する。

 

 それから十五年の歳月を経て、彼女から「ウルリッヒと再会できたの」聞かされた父親と兄は、あの頃のことを思い出し、酒を片手に語らった。

『喜んでいましたね、父上』

『ジークリンデの初恋は、ケスラーだったものな。喜んで当然か』

 父親もローデリヒも、彼女がケスラーに淡い思いを抱いていたのは気づいていた。

 だがそれに対し、咎めるようなことはしなかった。

 五歳の少女が”ふんわり”と大人に憧れるのは、とくに珍しいことではない。それを引きずるようならば問題視したであろうが、生来の忘れやすさからそんなこともなかったので、父親と兄にとっては、娘(妹)の可愛らしい思い出として好意的にとらえられていた。

『弁護士のような風貌が気に入ったのでは? 女の子は父親に似たような人を好きになる傾向があるとも言いますし。父上は弁護士というよりは法学者ですが、法律関係者っぽい容貌でしたから』

 とくにケスラーは軍人らしからぬ容貌と雰囲気が ―― それを言ったら、ラインハルトのほうが遙かにらしからぬ容貌だが、彼の場合は覇気があふれ出しているのが問題 ―― 彼らには好評であった。

『弁護士風なのはともかく、ジークリンデの夫は穏やかな学者肌の男がいいと、常々思っているのだが』

 そんな父親の希望とは裏腹に、彼女は初婚相手は大名門貴族の跡取り、再婚相手は宇宙でもっとも野心家の天才軍人という、まるで反対の男の元に嫁いだ。

『父上、それは無理というものでしょう。実の兄である私が、実の父に向かっていう言葉ではありませんが、ジークリンデはまさに”北方に佳人あり 世に絶して独り立つ 一顧すれば人をして城を傾けしめ 再顧すれば人をして国を傾けしむ 寧んぞ傾城と傾国とを知らざらんや 佳人はふたたびは得がたし”。普通の幸せを得られるような容姿ではありません』

『私もそうは思うが、親としては……娘婿は、もう少し付き合いやすい相手が良かった』

『帝国宰相の姪を妻にもらった時点で、それは諦めるべきかと。そうだ、父上。話をケスラーに戻しますが、本邸に保管しているブライトクロイツ公爵家のフルール・ド・リスのカフスを……』

 

 本人の預かり知らぬところで話題にされていたケスラーは、こうして十五年の時を経て、彼女からフルール・ド・リス型のカフスを手渡されることになった。

「そうでしたか。しかし、家捜しとは」

「領地の本邸を、探検がてらに。本邸は結構広いのですよ」

 領地を持っている貴族は、オーディンの邸よりも格段に広く豪華な本邸を所持している。オーディンでは建てられないような、高層建築も”一応”は建てられるが、皇帝の気分次第で刑罰の対象になりかねないような真似をする貴族は”ほとんど”いない。―― まったく存在しないわけでもないが。

「私などから見ますと、オーディンのお屋敷も広大ですが」

 オーディンのフライリヒラート邸は、ほぼベルヴュー宮殿で、本邸はフレデリクスボー城そのもの。

 正式な大きさや、性格な部屋数などは、彼女も詳しく覚えていないので、住んでいた邸や城が、過去の完全再現かどうかは分からないが、どちらの建物も外側から離れて見た時”観光客を呼べそう……”彼女は妙に感動した。

 ちなみにフレデリクスボー城はデンマーク王家のものだが、建設した王がドイツのオルテンブルク家出身であったことから、ドイツの建築物の一つに加えられた……と彼女は解釈している。

 由来や解釈はともかく、フレデリクスボー城を模した本邸は大きく、当時の彼女は適切なプレゼントを捜すのに非常に苦労した。

「あの頃は自由に使えるお金なんて持ってませんから、家捜しするしかなかったのですよ。それをウルリッヒにあげたいと言った時、お父さまは”なかなか目利きだね”とおっしゃった……そうです。私は覚えておりませんが」

 彼女は記憶していないのだが、父親に「迷惑にならないくらいの大きさの贈り物を」頼み、宝飾品の部屋へと連れていかれた ―― プレスブルクが訪れた翌日、彼女は父親と兄と共に競馬を観に行き、その当時のことを聞かされた。

「目利き……というと、かなりの品なのでは?」

 父親は娘が宝飾品に興味を持ったことを喜び、そのきっかけとなったケスラーに、一個くらい与えても良いだろうと考えてのこと。

「それは父方の曾祖母が、曾祖母の祖父に結婚祝いとして、もらったものだそうです」

 フライリヒラート伯爵家は、堅実であり、社交的であったこともあり、結婚相手にも恵まれていた。

「恥ずかしながら、私は伯爵閣下の高祖父殿が何者なのか存じ上げません。よろしければ、お教えねがえませんでしょうか?」

「ブライトクロイツ公爵です」

「それは……逸品でしょうな。よろしいのですか?」

 ブライトクロイツ公爵家は大帝ルドルフの后、エリザベートの実家。

 帝国では知らぬ者はいない公爵家。

 ただし彼女が言っている公爵以降、うだつが上がらない当主が続き、権力闘争に負け、表舞台にあまり出てこなくなっている。

「お父さまが良いと言ったのですから、気にしないで。お兄さまも気にしなくていいと」

「ですが」

「子どもなりに、ウルリッヒに似合いそうなものを捜した結果なので、気にしないで受け取ってくれる?」

「気にするなと言われると少々困りますが……では、ありがたく」

 

―― 後日、フライリヒラート伯爵閣下にお返ししよう

 

 彼女の気持ちは嬉しく、自分に似合うと考えてこれほどの品を選んでくれたことは幸せだが、身の丈に合った物かどうかを考えると、返品するのが妥当であろうとケスラーは判断した。

「それとね。今日、写したの」

 彼女はバックから、赤い本革のカバーが掛けられた、少々色あせた風合いの紙が特徴の小さなノートを取り出し、挟んでいた写真を取り出す。

 写真には四人の高貴な女性が写っていた。

 撮影された場所は新無憂宮の南苑の一角。

 クラック・デ・シュヴァリエ城のアーチ天井の廊下を模した、新無憂宮内では地味も見えるな場所で撮影された。

 ワイン色の椅子に座る、イミテーションの軽いティアラを頭に乗せているカザリン・ケートヘン一世。

「陛下とご一緒に?」

 その両脇に立っている、軍服姿の彼女と、濃い紫に金糸の刺繍が鮮やかなドレスを着ているカタリナ。

「ええ。でもこちらは、私がここでサラダを食べたことよりも、秘密にしておいてくださいね」

 そして金髪が映える水色のドレスを着て、彼女と腕を組み顔を綻ばせているサビーネ。

「はい」

 

 このようなやり取りを経てから二日後、ケスラーは邸の警備から外れるのだが、去る前に彼女のところに寄るよう命じられた。

「失礼いたします」

 彼女は数ある部屋の一つで、アンネローゼと共にケスラーを待っていた。

 室内には菓子特有の甘い香りが漂っているのだが、彼女たちの前にそれらしいものはない。あるのは飴色のバスケットだけ。

「ケスラー。これ」

 彼女がそのバスケットをケスラーに渡す。

「これは?」

「私が作った焼き菓子よ。アンネローゼさまに教えていただいて、初めて作ったの」

 門閥貴族の女性は料理など作らないのだが、アンネローゼと仲良くなるための近道は、一緒に菓子作りをすることではないかと彼女は考え、門閥貴族の子女らしからぬ行動ではあるが、菓子作りを教えてもらうことにした。

 

 生き残るためというよりは、弟が私人として夫としてあまりにも……で、落ち込んでいるアンネローゼの気を紛らわすために。アンネローゼの弟ことラインハルトが……な主な原因は彼女自身なので、感じなくてもよい責任すら彼女は感じていた。

 

 中身は一口サイズのアップルパイとマロンパイ、それにマドレーヌを焼き、種類ごとに袋に入れ、このために編んだレースのリボンで口を閉じバスケットに入れて、警備中に色々と迷惑をかけたケスラーに渡すことに。

「私からもお礼を言いたくて、ジークリンデさまに頼んで同席させていただきました。本当にありがとうございます、ケスラー准将」

 アンネローゼからの礼に、ケスラーはバスケットを小脇に抱えて敬礼をする。

「仕事をしたまでのことです。お気になさらないでください、グリューネワルト伯爵夫人」

「ケスラー、ありがとう」

「お久しぶりにお仕えできて、楽しゅうございました、ローエングラム伯爵夫人」

 

 こうしてケスラーは邸を辞した。

 


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