黒絹の皇妃   作:朱緒

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第68話

「はい? 旦那さま。今なんとおっしゃいました?」

 公休日、カフェテラスで早い昼食をとっていたフェルナーに、一つの連絡が届き ―― 

「そいつは、身辺調査が終わるまで犬舎の中にでも突っ込んでおいてください! お屋敷に……もう入れちゃったんですか! 旦那さま」

 

 休日返上で身辺調査を行うはめになった。

 

 フェルナーが言う”旦那さま”こと、彼女の父親フライリヒラート伯爵の元に、帰還兵の一人が力を貸して欲しいとやってきた。

 八年ちかく捕虜として過ごし、帰還したはいいが、親兄弟はすでになく。

 縁戚が家督を継いでいたため、彼の帰還は喜ばれず、それどころか一族として認めないと追い出され、困った彼は記憶を頼りに、貴族間の揉めごとを収拾させるのが得意と言われている彼女の父親を頼った。

 最初は門前払いされかけたが、必死に訴え ―― 執事が彼の父親を覚えており、面立ちが似ている彼の話を聞いてやることにした。

 話を聞いた執事は彼女の父親に事情を説明し「本当か、確認してみよう」と、フェルナーに連絡を入れた。

 帰還兵に地球教徒のテロリストが含まれていることを知っているフェルナーは、大いに焦った。以前結婚していた時とは違い。彼女はよく実家に帰るので ―― 地球教徒が放った刺客という可能性も多いにあった。

「パウルさん。フークバルト・フォン・プレスブルクについて調べてください。私もこれから行きますので」

 

 フークバルト・フォン・プレスブルクとは、エコニアの収容所で騒ぎを起こした青年である。

 もともと子爵家の三男だった彼は、子爵家を継ぐつもりなどなく、三男らしく軍人として身を立てようとして ―― 黙って後方勤務に就いていれば良かったものの、華々し前線を求めて捕虜となり、あの暴動を起こすにいたった。

 別の収容所に移されたあとは、おとなしく過ごし ―― 今回の大規模な捕虜交換で無事にオーディンへと帰国したのだが、家族がすでにいなかった。

 

 プレスブルクが言っていることは本当かどうか? 裏をとり、地球教徒かどうか? 確認するために、伯爵邸へとやってきたフェルナーは”とりあえず”プレスブルクが言っていることに間違いはないと報告した。

 

「どうして実家に手紙の一つも出さなかったのですか。だから、こじれてしまったのですよ」

 

 プレスブルクはあれほど帰国したがっていたにも関わらず、俘虜となったことを恥じて、実家に一度も手紙を送らなかった。

 だが軍での彼の扱いは戦死であったため、彼の家族は死んだものとして葬儀を執り行い、死亡届も出しており ―― 子爵家を継いだ遠縁は爵位を奪われることを恐れ、彼を前の子爵の息子だとは認めないことにした。

「その……申し訳ない」

 プレスブルクとフェルナーは同い年。片や平民出ながら三十前にして准将。方や帰還の際に一階級上がったとはいえ大尉。貴族がこの年齢で大尉というのは、少々どころではなく気恥ずかしい。

「旦那さま、こんな厄介ごと、なんで引き受けるんですか。門前払いにしてくださいよ」

 プレスブルク子爵家とフライリヒラート伯爵家は、近いところで親戚関係はない。手繰ればもちろん血のつながりはあるのだが、面倒ごとを引き受けてやるような間柄ではなかった。

「普通ならば門前払いだが、彼の俘虜期間の経歴に興味があったので、こうして招いたのだよ」

「俘虜期間……どういうことです? 旦那さま」

「プレスブルクは帝国歴四七九年に捕虜となり、そのままエコニアの収容所に送られたのだそうだ。それに相違はないか? アントン」

「そのようです」

 フェルナーとオーベルシュタインとシューマッハは、膨大な量の帰還兵関連の書類から、プレスブルクと同時期に捕まり、同じ収容所に送られた者たちを探し出し事情を聞いて裏をとった。量が量なので、多少不本意ながらも、ラインハルトとキルヒアイスにも協力を依頼することになったが、半日足らずでプレスブルクの八年間は、ほぼ明らかになっている。

「帝国歴四七九年は、宇宙歴では何年だね? アントン」

「七八八年になりますね」

「オルトヴィーンにケーフェンヒラーが死去したという手紙が届いたのが、宇宙歴七八八年の終わりだ」

 原作でケーフェンヒラーが死亡したのは年が明けてすぐ、宇宙歴七八九年の一月。だがここでは一年早く、宇宙歴七八八年にケーフェンヒラーは死亡していた。

「ケーフェンヒラー! あの、エコニアにいた老人? ですか、閣下」

 青い目を大きく開き、プレスブルクが声を上げる。彼にとってケーフェンヒラーは、あのエコニアの老人。

「その通りだよ、プレスブルク」

「死んで……」

 彼が独房から出た頃、すでにケーフェンヒラーは収容所から去っていたので ―― 彼の年齢を考えれば死亡していてもおかしくはないが、あの矍鑠とし飄々と、憎たらしいくらいにふてぶてしい姿しか覚えていないプレスブルクにとっては、驚きに値するものであった。

「なので、彼から面白そうな話しが聞けそうだと思ってね。ジークリンデも呼んで、夕食の際に話しをしてもらおうと思っているのだ」

「それはよろしいのですが」

「アントンもいいね」

「旦那さま」

「一緒に楽しく話を聞こうじゃないか」

「……かしこまりました」

―― なにを企んでいらっしゃるのやら

 ケーフェンヒラーは捕虜生活が長いため、故人となった彼と会ったことのある帰還兵は大勢いる。その中で、なぜプレスブルクが選ばれたのか? この時点でフェルナーは分からなかった。

 

**********

 

「感覚だよ、感覚。すべては直感だ」

 フェルナーと彼女の父親が話をしていたころ、彼女がなにをしていたかというと、艦隊戦の基礎について質問し、返ってきたのが上記の台詞である。

 

 彼女は午前中の大切な仕事を終え、シュトライトに以前頼んだ、将校専用の施設を見学していた。 

 案内役に選ばれたのはミュラー。

 命じられたミュラーは噂を耳にして複雑な気持ちにとらわれており、辞退しようとしたのだが「ミュラーに案内してもらえるなんて、嬉しいわ」と……彼女の一言により、はせ参じるに至った。

 こうしてミュラーの案内で見学していたところ、彼女の顔見知りの貴族に呼び止められて、半ば強引に喫茶スペースへと案内され、メニューを勧められた。

「なにを注文するかね?」

 人の話を全く聞いていないような男だが、一応父親の知り合いなので、彼女としては無下に扱うわけにもいかず、革張りのメニューに目を通して、

「ではカフェ・ロワイヤルにします」

―― お酒入りのコーヒーしかないのは何故なの?

 なんとも言えない気持ちになった。

 だが帝国というのは、酒が出されるパーティーで国の方針が決まったり、朝食が白ワインにチーズだけでも問題なく、提督席に座って指を鳴らすとウィスキーが出てくるような国である。

 職務中の休憩にカクテルの一杯や二杯は、問題視されるはずもない。

「カフェ・ロワイヤルを二つ」

 彼はにこやかに注文した。注文を受けた給仕は……見てはならないものを見てしまったような気持ちになりつつ下がった。

―― せっかくなので、艦隊戦の初歩的な理論について聞いてみましょう

 注文した品が運ばれてくるまでの待ち時間、彼女は有意義に使おうと、尋ねたところ、

 

「感覚だよ、感覚。すべては直感だ」

「そうなのですか」

 適当にもほどがある答えが返ってきた。

 

 彼女に自慢げに語る中年貴族の大将。

 細身で鋭利な雰囲気が漂う彼の話を、彼女の背後で聞く形となっているキスリングとミュラーが、死にそうな表情を浮かべ、語る男を胡乱に見つめる。

 背を向けている彼女は背後の二人のことが分からないのは当然だが、語っている大将の背後に立っている彼の副官は、ミュラーとキスリングの表情がはっきりと見えている ―― だが副官も同意見であった。

 周囲にいる軍人たちも、そちらを見ないようにして耳を澄ます。

「理論など、実戦ではなんの役にも立たん」

「そういうものなのですか? シュターデンのおじさま」

 

―― 理屈倒れのシュターデンから理屈がなくなったら、ただのエロ親父じゃねえか(キスリング)

―― 大将と呼ばせず、いつも通りおじさま呼びを強要した上に……間違いなくエロ親父だ! 理屈倒れのシュターデン(ミュラー)

 

 軍の施設見学ゆえ、彼女は軍服を着用してやってきた。そのため、シュターデンと会った時には、前回のファーレンハイト見送りの件もあったので「シュターデン大将」と呼びかけたのだが「そんな、他人行儀に呼ばんでくれ、ジークリンデ。私とジークリンデの仲ではないか」と言い出した。

 それだけでもミュラーとキスリングは”理屈倒れ、壊れた?”と顔を見合わせたが ―― 喫茶スペースでは更に上を行った。

 ちなみに、その申し出に対して彼女は素直に「階級が上の人の意見は聞くべきですよね」と、深刻にとらえず従った。

「理論と事実が対立した時は事実に従う。それが鉄則だ。分かるかい? ジークリンデ」

「私は理論そのものを知りませんので、分かるとは言えませんが……でもシュターデンのおじさまが言わんとしていることは、なんとなく分かるような気がします」

「”なんとなく”でいいのだよ、それで充分だ。それでこそ、私のかわいい伯姫だ」

 

―― 理屈倒れ、死ぬのか? いや、むしろ死ね(キスリング)

―― かわいい伯姫は認める。それには大賛成だ。だが”私の”は不要だ! ジークリンデさまは、お前のものではない、理屈倒れ!(ミュラー)

 

「伯姫ではありませんわ。これでも結婚して、侯爵夫人になりましたのよ」

 女伯と名乗らず、ラインハルトの妻だと名乗った。

 これに関して深い意味はないのだが ―― あまり自分に対する好意に対して、勘が鋭くない彼女だが、シュターデンに関しては、好意の種類に違和感を覚えている証でもあった。

 彼女にとってシュターデンはあくまでも父親の知り合い。

「私にとっては、いつまでも伯姫だな」

 だがシュターデンにとって彼女は恋愛対象。

 

―― フェルナーさんがお姫さまって言うのと、全然違う。理屈倒れ、狙ってるよな。殺すかー。この程度の貴族大将なら、殺害後、帝国宰相に言えば簡単に収まるよな。収まらないなら、収まらなくてもいいけどさ(キスリング)

―― …………宇宙の藻屑にする機会があったら、決して逃さんぞ(ミュラー)

 

 彼女が気づくほどなのだから、周囲の者たちは当然気づき ―― 悪魔のような形相な二人に睨まれたシュターデンの副官は、連絡など届いていない端末を取り出し、

「提督。次の予定が」

「だが、まだ……」

 ”これ以上ここにいたら、殺される”とシュターデンを引っ張って去っていった。

「……ご注文の品になります」

 給仕は彼女の前に、白地で黒でストライプ柄をつくり、所々に鮮やかな赤や橙などの色を散らしているカップを置き、ロワイヤル・スプーンを渡し、所定の手順で青い炎を灯して彼女の目を楽しませる。

「座って。ミュラーはカフェ・アレキサンダーが好きでしたよね。嗜好に変わりはありませんか?」

「変わっておりません」

「では、カフェ・アレキサンダーを一つ。こっちのカフェ・ロワイヤルは下げて」

 彼が座っていた椅子にミュラーを座らせて、シュターデンが注文した分を下げさせ、記憶を頼りにミュラーが好きな品を注文した。

 彼女が自分の嗜好を覚えていてくれたことに幸せをかみしめつつ、ミュラーは席に着く。

「先にお飲みになってください」

 彼女がカップに手を伸ばさないので、ミュラーは勧めるが、

「熱いから、もう少し時間が経ってから飲みますよ」

 もう一品届くまで待つと、笑顔で返した。

 

 この後、案内してくれたお礼にミュラーを食事に誘う予定だったのだが、父親から連絡が届き”今日は礼として食事にお誘いしたい人が”告げると、素性を問われ、彼女は正直に答えた。父親は脇に控えているフェルナーに尋ね、

「彼は邸に招いても大丈夫かね? アントン」

「フェザーンの駐在武官の中尉さんですよ」

 巻き添えを手に入れることに成功した。

 こうしてミュラーは初めて彼女の実家に足を運ぶこととなり、彼女の父親と兄、そして近い将来義理姉となるエルフリーデに、子爵家に帰れなくなったプレスブルク、休暇返上調査の褒美という名の罰ゲーム状態のフェルナー、そして彼女と共に夕食を取ることになった。

―― わあ、みゅらーちゅうじょう、たいへん。きぞくさまと、おしょくじ

 本来ならば彼女を送り届け帰宅するキスリングだが、プレスブルクという異分子の存在を警戒して、邸に残るようフェルナーがら言われて、食堂の壁際からプレスブルクを見張っており……ミュラーの隣がプレスブルクなので、緊張している姿が目に入ってきたので、棒読みで同期を応援していた。

 

 伯爵はミュラーの緊張をほぐしてやろうかと、

「理屈倒れのシュターデンと呼ばれているのだそうだね、ミュラー」

 彼女から”会ったのです”と聞かされたシュターデンについて尋ねた。

「一部ではそのように……」

 普段は散々に言っている相手だが、この場ではそれに同意するのもはばかられ、声が小さくなる。

「え? シュターデンのおじさまが?」

「ごく稀にですよ、ジーク……伯爵夫人」

 五年以上仕え、伯爵の覚えも良いフェルナーならば家族の前で「ジークリンデさま」と呼びかけるのも許されるが、ミュラーは身の程知らずに近いと言えよう。

「……知りませんでした」

「ジークリンデさまはご存じなくとも、いいかと。ところで旦那さま、話を聞きたいのですが」

 肉料理を切り分けたフェルナーが、早く言ってくださいと急かす。

「そこまで言うのなら。プレスブルク、君はエコニアでヤン・ウェンリーという叛徒と会わなかったかね?」

 八年ぶりになるシャトーブリアンのステーキに舌鼓を打っていたプレスブルクは、伯爵が出した名前に驚き喉をつまらせた。

「伯爵? その男のこと……ご存じなのです、か?」

「帝国軍では有名だろうな。なあ、アントン」

「プレスブルク卿が会ったヤン・ウェンリーと、旦那さまがおっしゃっているヤン・ウェンリーが同一人物であれば」

「確認できるかね」

「お待ちください」

 フェルナーはナイフとフォークを置き、端末を取り出してアムリッツァ会戦後、式典でヨブ・トリューニヒトと握手しているヤンの映像を隣に座っているプレスブルクに見せた。

「……間違いないです」

「エコニアにいた時期は……念のために、八年前の映像も」

 エル・ファシルの英雄ともてはやされた時期の映像も、念のために見せる。映し出されたヤンは、八年前も今もあまり容姿に変わりはなかったので、プレスブルクは確信を持った。

「間違いありません」

「そうかね。ではオルトヴィーン」

 

 執事のオルトヴィーンは”座興にどうぞ”と、彼の人生と、生涯、直接会うことのなかった先代ケーフェンヒラー男爵の関係について説明をした。

―― エコニアの老人の浮気した奥さんの息子……だったのですか

 ざっくりと外伝を覚えていた彼女は、料理を口に運ぶのも忘れて、オルトヴィーンの話に聞き入る。

「……で、へたくそな帝国語でしたためられた手紙が届きました。そこにケーフェンヒラー氏が惑星マスジットに立ち寄った際に急死し、その地に葬ったと、書かれておりました。医師が作成した死亡報告書と顔写真、遺伝子サンプルも同封されておりました」

 そして執事が語り終え一礼をした。

「それで、プレスブルク」

 彼女以外の者たちは肉料理を食べ終え ―― 彼女は急いで料理を口に運び出す。

「はい、閣下」

「オルトヴィーンが受け取った手紙には、エコニアでの長年の功労により、より良い待遇を与えられた……書かれているのだが、この功労とは具体的になにか分かるかね?」

「それは、収容所内での……」

 自分が暴動を起こしたことを知られたくはなかったプレスブルクは、必死に言葉を選んで説明したものの、フェルナーがほつれた部分を指摘し、結局自分がしでかしたことを語るはめになった。

―― いつもながら、マチェドニア美味しい

 このあたりは覚えているので、彼女はさほど必死に聞かず。

 ちなみに今彼女が堪能しているのは、ブルーベリーにラズベリー、クランベリーにブラックベリー、メロンにオレンジにイチジクが入った、ガラスの器に丁寧に飾られたマチェドニア。

 伯爵家では白ワインにレモン汁と砂糖を混ぜた液に浸して作るのだが、この果物の種類や味によって、ワインの種類を変え、レモンの種類を変え、砂糖共々量を調整し ―― これが非常に彼女の口に合っていた。

「相変わらず、美味しそうに食べますね」

 コーヒーを飲んでいたフェルナーが、彼女の頬張る姿に思わず声をかけた。

「マルセルのマチェドニア、好きなんですもの」

 マルセルとは伯爵家の料理人。もともとは彼女の母親の実家クルーグハルト侯爵家に仕えていた若い料理人で、彼女の母親もマルセルが作るマチェドニアを気に入っており、伯爵と結婚する際に嫁入り道具の一つとして連れてきたほど。

「良かったですね。ところでジークリンデさま、プレスブルク卿のお話、面白かったですか?」

「ええ、とても興味深かったわ。ヤン・ウェンリーという男が変わり者であることも分かったし、お手柄よね」

「それは良かった」

 

―― プレスブルクがね

 

 こうして彼は彼女の父親の協力により、プレスブルク家に戻ることはできなかったが、帝国騎士の地位を得て軍に復帰した。

 

 話が終わり彼女は部屋へと戻る途中、

「お嬢さま」

「なにオルトヴィーン」

「もしもよろしければ」

 白い素っ気ない封筒を手渡された。

「……ヤン・ウェンリー!」

 差出人は確かに「Yang Wen-li」

「私にはもう必要のない物ですので」

「くれるの?」

「はい」

 こうして彼女はヤン直筆の手紙を手に入れた ―― それは良いのだが、彼女は読めるが文字の判別がつかない。それを他人に知られると厄介なので、

「フェルナー、部屋に来て」

「なんですか?」

 伯爵に許可をもらい、彼女にもプレスブルクが本当に無害かどうか分からないのでと事情を説明し、部屋の前で警備についていたフェルナーを部屋に招き入れた。

 ちなみにプレスブルクと地球教のつながりは、彼女もはっきりとは分からない ―― 彼が帰国できたのかどうかすら分からないのだから、当然のことだが ―― そのため、フェルナーの意見に黙って従った。

「これ、オルトヴィーンからもらったの。ヤン・ウェンリー直筆の手紙」

 マスジット空港と隅に印刷されている用箋を開いて見せる。

「ひどい折り目ですね」

 ヤンにしては丁寧に折ったつもりだが、生来のずぼらさは隠しきれず、折り目は曲がっていた。

「オルトヴィーンは悪筆といっていましたけれど、やはり悪筆ですか?」

「折り目の曲がり具合がかわいく見えるくらいには。これは……ちょっと厄介ですね」

「ところで、これは本当にイゼルローン要塞を落としたヤン・ウェンリーが書いたものなの?」

「サインは本物ですよ。捕虜交換時のサインと全く同じです」

 ずいぶんと癖があり崩れている ―― ように見える文字だが、会うこともないが敵国の遺族への死亡報告や、国家を代表して重要書類にサインをした際の文字なので、ヤンにとっては丁重に書いた方だが……整った文字とは言いがたい。

「そうでしたか」

 彼女はフェルナーに手渡した手紙をのぞき込もうと、手紙を持っているフェルナーの腕に軽く寄りかかる。身長差に無防備が加わり、腕に弾力があり柔らかい胸が触れる。

「ジークリンデさま」

「なに? フェルナー」

「……なんでありません。この文字ですが……これは少しばかり、特徴を覚えておいたほうがよろしいかと」

 

 特徴的な部分は覚えておかないと、万が一話題に上った際に彼女が困るので、フェルナーは廊下に置かれたカウチに座り、警備をしながら特徴的過ぎる文字を抜き出して、注釈を加えたメモを作った。

 


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